景観と参道のお店が人気のフランス西部の観光地、モンサン・ミッシェル。
パリから西へ350㎞、(東京-名古屋間位)高速道路を4時間も走るこの観光地は、遠いのであまり乗り気ではなかった。
家族の計画で強く望まれ、天使の山も一度は良いかと参加した。
2月上旬朝早くパリを出発
この時期パリの日の出は遅い、左はセーヌ川、エッフェル塔を左に見て西へ向かう。
反対車線は、市内に向かう通勤の車で渋滞している。天候は変わりやすく曇り時々小雨。
そして走ること3時間強・・・ノルマンディー半島の西側サン・マロ湾に近づくと、高速道路の左側の高台に・・・・・高い城壁に囲まれている古い街並みが現われた。
ここが、アヴランシュの街・・・これから行くモンサン・ミッシェル誕生に貢献された人が住んでいたという街
間もなく、高速を降りる。曲がりくねった道、のどかな農村地帯、羊が群れる牧草地を横に見て進む・・・前方に見えてきました。
モンサン・ミッシェルは河口の先に突き出た小島で、この一帯はヨーロッパで最も潮の干満の差が大きく最大では15m以上にもなり、大潮では沖合18kmまで潮が引くそうです。
巡礼者は引き潮の時に島と行き来していたが、満ち潮になると潮の押し寄せるのが速く、溺れる事故も多かったそうです。
そこで1877年、島との間に巡礼者や観光客の利便性のために道路が造られた。
・・・すると海流の流れが変わり、その結果最近では2m以上も砂が堆積し、海に浮かぶ要塞とも言われたかつての小島の景観を見ることが少なくなってしまった。
この島は、フランス有数の観光資産です。今ある道路を撤去し、橋を架ける工事が進んでいます。
山頂の修道院テラスからの写真を後ほど。
そこで車は以前のように島まで進めず、手前の地区で駐車。
ここからシャトルバスで(徒歩も可能)の島見学となる。
1979年にユネスコの世界遺産に登録され、年間300万人以上の観光客が訪れる。
島の西端、このように堆積物が増えている。
人の住まない小島に、天使ミカエル(仏語:ミッシェル)を祀る小さな聖堂が建てられる。
その後バイキングにたびたび襲われるが守り抜き、やがて大きな修道院に改築され、英仏100年戦争もあり、このような城壁で囲まれた。
さてシャトルバスを降り、少し歩くと島の南西に城壁の入口があり、この門(前哨門)から中へと入ります。
入って右に折れ、城壁に沿って英仏戦争時代の大砲を横目に進むと二つ目の門(大通り門)があります。
この門の先、左にマスコミが盛んに宣伝する店が見えてきた。
その先には、比較的大きな三つ目の門が見えている。
名物オムレツの店、メール・プラール(プラールおばさんの店)が参道脇で大きなスペースを占めていた。
メニューは、・・・高い、 ・・・観光地ですから、一元客相手に稼がなくちゃ?。
先程、シャトルバス発着所近くのホテル・レストラン街で、ふわふわオムレツを味わってきた。
十分に泡立てた卵の外側をしっかり焼いて、色も見た目のボリュームも満点だが、中はあっさり泡・空気・泡・・・特徴があり話題になる料理ですが、・・・想像がつきますネ、
今ではどこの店でも提供している。
さて城壁と反対側、ホテル横の狭い階段を登る。
斜面に小さなホテルや住居が点在し間を縫うように階段が続く。
プラールおばさんの墓もあり、その階段の先には、かつて村の小学校だった建物などもある。
この付近は山麓の中段、斜面のすぐ上に修道院の建物が築かれている。
上の写真で、中央やや右に階段があり建物内部に続いています。階段中程で右側の修道院の一角で入場券を購入し先に進むことになる。
城壁の右側は修道院です。
中央階段の左横、建物との間の通路を奥の方から進んできました。通路下の壁面に・・・、坂道を少し下ってみよう。
大きな磔刑像
ここは広場になっている。その横は坂道で、参道になっている。
少し下ると土産物屋・宿家が立ち並んでいる。
そして平地まで下ってきた。
南斜面に建つ民家の間の階段を、修道院入口まで登り、周回して参道の坂道を下りてきた。
正面が渡り廊下を持つ三つ目の門(王の門)。
左右は、日本人観光客がたくさん購入する有名なクッキーの店
もう少し戻ると、ふわふわオムレツ発祥の店
さて、これから修道院の内部見学に再度参道を登ろう。
参道途中にある教会? サン・ピエール教会、気がつかなかった。
参道中程の左横、斜め横の高台に、小さな教会がありました。
入り口横の銅像は?剣を持った大天使ミッシェルでもなく・・・、壁の左端の像は教会と違和感が無いが・・・
優しい聖母子像
剣と鎧に身を包んだ乙女、ジャンヌ・ダルク・・・なぜここにあるのでしょう。
この教会は、11世紀頃から岩山を掘り下げ、洞窟を利用し・・・完成したのは17世紀。
この銅像の乙女は、暗黒の時代とも言われる中世に生を受けた。当然のように熱心なカトリック教信者になる。
13歳のある日、光の中から神の声を聞く、・・・時は後に英仏100年戦争と言われた時代。
何度となく、神の声を聞いた。大天使ミカエルの声も聞いた。
17歳ジャンヌは、天の光の中から啓示の声を聞いた。「・・・シャルル王子を戴冠させ、フランス王にせよ」と。
神の声に洗脳されたジャンヌは旅立つ、そして、途中サンカトリーヌ・ドゥ・フィエルボワの教会で、初代フランス王が使ったとされる幻の剣を神の声で発見する。
残るは身を守る鎧が必要だった。職人の街トゥールで鎧を特注させ身に着けた。
歴史に残る最初の記録があるという。
「オルレアンの囲みを解いて王太子をランスで戴冠させるために王太子のもとに行く、と語る乙女がシアンの町を通過した・・・」
この噂は町々に広まった。仏軍の士気が上がり・・・ご承知の通り、英仏100年戦争にフランスが勝利し、ジャンヌ・ダルクはヒロインに・・・
そんなフランスの守り神、ジャンヌ・ダルクにこの山の守護を願うのか。
それとも英国軍に売り渡され魔女と判決され、火炙りの刑にされた・・・炎の中で「イエズス様」と叫んだ19歳の無念の霊を祀るのか。
磔刑よりも残酷な火炙り、公衆の面前で生きた生身の人間を火炙りにする、カトリックの信者としては辛い、焼かれて灰になることは最後の審判で復活できる身体が無くなってしまうこと。
魔女を多く輩出したイギリス・・・、イギリス軍の連中は、公衆の面前でジャンヌが確かに灰になるのを見届け、その灰をセーヌ川に流したという。・・・復活・生存説を恐れ完全に抹消した。
大天使ミカエル(仏語:サン・ミッシェル)の銅像も教会内にある。
ミカエル繋がりで、ジャンヌ・ダルク像が建てられたとしましょう。
あまり興味のない空想の大天使よりは、実在したジャンヌの像を見ると、考えてしまう。
…処刑を想像してみるが・・・平和ボケした頭では、残酷さに怒りが沸く。・・・しかし当時の尺度で推測する・・・、無実の魔女の火炙りや18世紀のマリーアントワネットのギロチン刑など残酷なことはショーとしてよくあったのでしょう。
為政者が民衆に対する見せしめに効果のある演出を考える、為政者に対して不満が多い民衆にとっては、罪人の悪行と処刑の日時・場所を公開すれば、赤の他人の処刑はストレス発散・祭事となったのでしょう。
パリ市内にジャンヌ像は数か所、
これはルーブル美術館横のピラミッド広場、黄金のジャンヌ・ダルク像
この向いている方向は、ライン川の先南西約130㎞オルレアンと言われている。
1431年5月30日処刑、それから25年後母親の訴えで裁判はやり直され、ジャンヌの名誉は回復された。
1803年ナポレオンが忘れられていたジャンヌ・ダルクの英雄伝説を話題にし、・・・ジャンヌはフランスの英雄となった。
1919年ローマ教皇庁がジャンヌを「聖女」と認めた。
ジャンヌの像は、パリ市外にも数多くありベルサイユ宮殿にも置かれている。
ジャンヌ?、本人が裁判で名前はそう呼ばれていたと証言している。他には、ラ・ピュセル(乙女)、ジャネットとも呼ばれていた。
父親はジャック・ダルクだったので、死後「ジャンヌ・ダルク」と呼ばれるようになったそうです。
・・・
サァ、修道院の入口へと急ごう。