昨日は、ほたると一緒に暮らしていたノエルの弔いの日でした。
おとといの夜、ノエホタ母から電話があり、「今日、ノエルが死んじゃった」と、もう感情もどこかに行ってしまったような乾いた声が告げてきた。泣き尽くしたあとの心が空っぽになったときの声だった。
うそ! だって、あんなに元気だったじゃない! なんでノエル? あと少しで16歳、残された犬たちの希望の星だったのに!
おとといの朝、久しぶりにてんかんの発作を起こし、それがその後、治まるどころかひどくなる一方で、急きょかかりつけの獣医に連れて行き、安定剤を投与してもらったのだという。
自宅に連れ帰って、少し落ち着いた様子だったのだけど、高齢のノエルの体は持ち堪えることができなかったのでしょう。ノエホタ母、ノエホタ父が在宅している日に、ノエルは逝ってしまいました。
気が動転してしまった。計画停電は中止されることが決まり、武蔵野線も通常運行ということだったので、とにかくノエホタ母の家へ急いだ。駅の花屋さんに数本の桜の花を一緒に束ねた小さなは花束があったので、買い求めて電車に乗った。
ノエルが見るはずだった桜の花。「今年も見ることができたね」って、歳を重ね、新春の寿ぎを祝うシンボルだった桜の花。花束を握り締めるととめどなく涙がこぼれた。
本当なら獣医さんも往診をしてくれるであろうに、ガソリン不足でままならなかったのだと思う。
少しだけ給油してもらえたガソリンを使って、ノエホタ両親、ほたると一緒に近くのペット霊園に行った。本当は気が進まない霊園だとノエホタ母は言った。行きたかったところは混み合っていて、火葬が先延ばしになってしまうという。きっと燃料不足の折から、件数を限っていたのかもしれない。
ノエルを火葬してくれたペット霊園の担当者は口数の多い人で、厳粛な弔いの時間に水を差す形になり、ちょっと不愉快だった。
ノエルがイギリスタイプだろうが、アメリカタイプだろうが、遺骨から判断することでもなかろうし、年上だったノエルが居なくなったら、上がいて我慢していたほたるの本性が現れるかもしれませんなんて話は、大きなお世話なのだ。
ほたるはノエルが居たときだって、のびのびと甘え、臆病でやさしい「ほたる」そのものだった。おじさんに何が分かるか。
ノエルの遺骨を拾う際、ほたるは遺骨も口数の多いおじさんの方も、一切見ようとしなかった。別の形になってしまった物体をノエルだと認めようとしなかったほたるの、遠くを見つめる瞳を思い出すと、今も泣けてくる。
ノエル、濃密な時間をどうもありがとう。ノエルが居たから、トチの娘がノエホタ家にもらわれていき、長いステキな交流ができたのだもの。ノエル、もうトチと会えた?