その昔、関東以北にはエミシ(蝦夷)が住んでいた。大和朝廷は、そのエミシに対して差別意識を込めて“蝦夷(エミシ)”と呼んでいた。しかし、そのエミシの実体は我々と同じく日本人であり、人種が違うわけではない。司馬遼太郎著、“街道を行く(オホーツク街道より)”には、その後、14世紀前後になってアイヌ文化が作られたと書かれていた。
私は北海道人であるが、仕事の関係で3年間、青森市に住んだことがあり、青森市から約30キロ程度の平内町には、下北アイヌコタンがあった。平内という名前の由来は、アイヌ語の“ピラ・ナイ”に由来しており、ピラは崖を意味しナイは川を意味する。
東北地方にはアイヌ語の地名が多いが、その理由は、津軽アイヌコタンや下北アイヌコタンでも分かるとおり、アイヌが多く住んでいたことによるものである。もっとも、九州の隼人や熊襲もエミシ族(アイヌ)なので、作家の司馬遼太郎氏が言うように、エミシは全国に住んでいたかもしれない。
私は単なる日本人として思うのだが、日本人は一体、どこから来たのだろう。このことについては、季刊「生命誌」(2015年)に載っている国立科学博物館研究員である神澤秀明氏のレポートが分かりやすいので、その一部を載せる。
『現在の日本列島に住む人々は、形態や遺伝的性質から大きく3つの集団、アイヌ、本土日本人、琉球人に分かれる。この3集団にはどのような成立ちがあるのだろう。数千年、土に埋もれていた縄文人のDNA配列解析から現代へとつながる歴史が見えてきた。 (中略)
現代日本列島人の成立ちを説明する学説として、1991年に形態研究に基づいて提唱された「二重構造説」がある。これは、縄文人と渡来民が徐々に混血していくことで現代の日本列島人が形成されたという説で、列島の端に住むアイヌと琉球の集団は、縄文人の遺伝要素を多く残すとしている。近年、行なわれた日本列島人の大規模なDNA解析からも、基本的にはこの説を支持する結果が得られている。』
日本列島のうち少なくとも本州は、ユーラシア大陸と陸続きで、多くの人たちが徒歩で日本にやってきた。その中にあって、初めて来たのが縄文人、その後に弥生人が来て、弥生文化を作ったとされている。
弥生時代は、日本列島における時代区分の一つで、紀元前10世紀頃から紀元後の3世紀中頃までにあたる時代区分の名称。採集経済の縄文時代の後、稲作農業を主とした生産経済の時代になる。弥生時代後期の紀元1世紀頃、東海・北陸を含む西日本各地で勢力が形成され、2世紀末に畿内に倭国が成立、日本は3世紀中頃の古墳時代に移行した。
弥生人は、中国大陸や朝鮮半島等から日本列島に渡来してきた“大陸系弥生人”、縄文人が新しい文化を受け入れて生まれた“縄文系弥生人”、および両者の混血である“混血系弥生人”に分けられる。いずれにせよ、縄文人と弥生人が日本民族を作ったと思われる。
その後、冒頭のエミシが登場してきたのであるが、エミシやアイヌの歴史を遡ることによって、日本の歴史の一端が分かってくる。学者にはエミシはアイヌ説と非アイヌ説があって見解が分かれているが、いずれにせよ我々は、縄文人と弥生人の混血によって生まれたのである。
「十勝の活性化を考える会」会員T