十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

アイヌ神謡集:蛙が自らを歌った謡

2021-12-21 05:00:00 | 投稿

蛙が自らを歌った謡
「トーロロ ハンロク ハンロク!」

Terkepi yaieyukar,
“Tororo hanrok hanrok !”

トーロロ ハンロク ハンロク!
「ある日に,草原を飛び廻って遊んでいるうちに見ると,
一軒の家があるので戸口へ行って見ると,

家の内に宝の積んである側に
高床がある.その高床の上に
一人の若者が鞘を刻んでうつむいて
いたので,私は悪戯をしかけようと思って敷居の上に坐って,
「トーロロ ハンロク ハンロク!」と鳴いた,

ところが,彼の若者は刀持つ手を上げ
私を見ると,ニツコリ笑って,
「それはお前の謡かえ?お前の喜びの歌かえ?
もっと聞きたいね.」というので
私はよろこんで「トーロロ ハンロク ハンロク!」と鳴くと,
彼の若者のいう事には,
「それはお前のユーカラかえ?サケハウかえ?
もっと近くで聞きたいね.」
私はそれをきいて嬉しく思い下座の方の
炉縁の上ヘピョンと飛んで
「トーロロ ハンロク ハンロク!」と鳴くと
彼の若者のいうことには,
「それはお前のユーカラかえ?サケハウかえ?
もっと近くで聞きたいね.」それを聞くと私は,
本当に嬉しくなって,上座の方の炉縁の
隅のところヘピョンと飛んで
「トーロロ ハンロク ハンロク!」と鳴いたら


突然!彼の若者がパツと起ち上ったかと思うと,
大きな薪の燃えさしを取り上げて私の上へ投げつけた音は
体の前がふさがったように思われて,
それっきりどうなったかわからなくなってしまった.
ふと気がついて見たら
芥捨場(あくすてば)の末に,一つの腹のふくれた蛙が
死んでいて,その耳と耳との間に私はすわっていた.
よく見ると,ただの人間の家だと思ったのは,オキキリムイ,神の様に
強い方の家なのであった,そして
オキキリムイだという事も知らずに
私が悪戯をしたのであった.
私はもう今この様につまらない死方,悪い死方
をするのだから,これからの
蛙たちよ,決して,人間たちに悪戯をするのではないよ.
と,ふくれた蛙が云いながら死んでしまった.

terkepiutar itekki ainuutar otta irara yan.
  ari piseneterkepi hawean kor raiwa isam.

 

「十勝の活性化を考える会」会員 K

写真提供:「十勝の活性化を考える会」会員 S

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多様性

2021-12-20 05:00:00 | 投稿

多様性とは、いろいろな種類や傾向のものがあること、変化に富むことである。更に、生物の多様性などもある。先日、「LGBT」に関する講演を聞いてきたが、その当事者の一人は、LGBTが野菜に使われている農薬もトランスジェンダーの原因のひとつと思われると語っていた。十勝は日本の食糧基地であり、農薬と切っても切れない関係にあるので、それが本当であれば大変なことになる恐れがある。

1965年(昭和40)に開始されたアメリカ軍による北ベトナムへの「北爆」で始まったベトナム戦争。その戦争はアメリカの敗戦により終わったが、その際に使われた枯葉剤の影響で奇形児である双子のべトちゃんやドクちゃんが生まれた。枯葉剤は今、私の家の周りでも庭を綺麗にするために頻繁に使われている。蚊がいなくなった理由がその影響ではないと思うが、人体に影響がなければと思っている。 

 私たちが食べる食品の中には、遺伝子組み換えの農産物があるが、人体に影響がないという保証はない。最近、LGBTの人が増えていると思うが、遺伝子組み換えの影響を心配している。

 ところで、今年開催された2020東京オリンピックの基本コンセプトのひとつに“多様性と調和”が掲げられ、アイヌ踊りが新国立競技場で披露される予定であったが、いろいろな事情で中止された。

しかしアイヌ踊りは、マラソン競技会場などの札幌大通り公園で5日間にわたって演じられ、世界に向けて発信されたようだ。日本にもいろいろな多様性を持つ人や文化があるが、そのひとつにアイヌ踊りがあると思っている。

また、既述の「LGBT」講演の翌々日、十勝プラザで行われた京都生まれの在日朝鮮人の講演を聞いてきた。講師は日本名が金英鉉氏で36歳。近年は南北朝鮮の対話と和解が進みつつある一方で、日本社会における一部の露骨な朝鮮民族に対するヘイトスピーチなどがあると講師の方が語っていた。

日朝の歴史を紐解くと、渡来系弥生人が朝鮮半島から日本列島にたどりつき、弥生文化を作った。その後、古墳時代~飛鳥時代~奈良時代と続くのであるが、朝鮮半島では、新羅、高句麗、百済などの三国時代があり争いが絶えることはなかった。三国時代とは、朝鮮半島および満州にあった高句麗百済新羅時代を示しており、紀元前1世紀から紀元後7世紀の時代をいう。

朝鮮半島では、663年の白村江の戦や13世紀に元寇、1592年の豊臣秀吉の朝鮮出兵などがあった。その際に、九州の有田焼や伊万里焼の陶工や鋳工(鋳物師)が連れてこられ、色々な陶器や鋳物を作っている。また、法隆寺にある百済観音像も朝鮮から連れてこられた彫刻師が作ったものであろう。さらに、金とつく名前の人は、在日韓国人や在日朝鮮人に多いように思う。例えば、プロ野球投手であった金田正一氏は在日韓国人2世であった。

このように日本と朝鮮とは密接な関係にあったが、現在は既述のようにぎくしゃくしているようだ。2002年の日韓ワールドカップサッカーを行なった時のように、日本と朝鮮は良い関係を作ってもらいたいと思っている。

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アイヌ神謡集:梟の神が自ら歌った謡 「コンクワ」

2021-12-19 05:00:00 | 投稿

 

梟の神が自ら歌った謡
「コンクワ」

「コンクワ
昔私の物言う時は桜皮を巻いた弓の
弓把(きゅうは)の央を鳴り渡らす如くに
言ったのであったが,今は衰え年老いてしまった事よ.
けれども誰か雄弁で使者としての自信を持ってる者があったら,
天国へ五ッ半の談判を言いつけてやりたいものだ.」と
たがつきのシントコの蓋の上をたたきながら
私は言った,ところが入口で誰かが
「私をおいて誰が使者として雄弁で自信のあるものがあるでしょう・」というので
見ると鴉(からす)の若者であった.

私は家に入れて,それから,たがつきのシントコの蓋の上をたたきながら
鴉の若者を使者にたてる為その談判を云いきかせて三日たって
三つ目の談判を話しながら見ると
鴉の若者は炉縁の後で居眠りをしている,
それを見ると,癪にさわったので鴉の若者を
羽ぐるみ引っぱたいて殺してしまった.


それから又たがつきのシントコの蓋の上を
たたきながら
「誰か使者として自信のある者が
あれば天国へ五ツ半の談判を言いつけてやりたい.」と
言うと,誰かがまた入口へ
「誰が私をおいて,雄弁で天国へ使者に立つほどの者がありましょう.」
と言うので見ると山のかけすであった.
家へ入れてそれからまた,たがつきのシントコの蓋の上をたたきながら
五ツ半の談判を話して
四日たって,四つの用向を言っているうちに
山のかけすは炉縁の後で居眠りをしている.
私は腹が立って山のかけすを羽ぐるみひっぱたいて殺してしまった.


それからまた,たがつきのシントコの蓋の上を
たたきながら,
「誰か雄弁で使者として
自信のある者があれば,天国へ五ツ半の談判を持たせてやりたい.」
と言うと,誰かが慎深い態度ではいって来たので見ると
川ガラスの若者,美しい様子で
左の座に坐った.それで私は
たがつきのシントコの蓋の上をたたきながら五ツ半の用件を夜でも
昼でも言い続けた.見れば
川ガラスの若者,何も疲れた様子もなく
聞いていて昼と夜を数えて六日目に
私が言い終ると直ぐに天蓋から
出て天国へ行ってしまった.

その談判の大むねは,人間の世界に
饌饉があって人問たちは今にも
餓死しようとしている.どういう訳かと
見ると天国に
鹿を司る神様と魚を司る神様とが
相談をして鹿も出さず魚も出さぬことにしたからであったので,神様たちから
どんなに言われても知らぬ顔をしているので人間たちは猟に
山へ行っても鹿も無い,魚漁に
川へ行っても魚も無い.
私はそれを見て腹が立ったので鹿の神,魚の神へ使者をたてた
のである.

それから幾日もたって
空の方に微かな音がきこえていたが
誰かがはいって来た.見ると
川ガラスの若者,今は前よりも美しさを増し勇ましい気品をそなえて
返し談判を述べはじめた.
天国の鹿の神や魚の神が
今日まで鹿を出さず魚を出さなかった
理由は,人間たちが鹿を捕る時に
木で鹿の頭をたたき,皮を剥ぐと
鹿の頭をそのまま山の木原に
捨ておき,魚をとると
腐れ木で魚の頭をたたいて殺すので,
鹿どもは,裸で泣きながら
鹿の神の許へ帰り,魚どもは
腐れ木をくわえて魚の神の許へ帰る.
鹿の神,魚の神は怒って相談をし,
鹿を出さず魚を出さなかったのであった.
がこののち人間たちが鹿でも魚でも
ていねいに取扱うという事なら鹿も出す
魚も出すであろう,と鹿の神と魚の神が言った
という事を詳しく申し立てた.
私はそれを聞いてから川ガラスの若者に
讃辞を呈して,見ると本当に人間たちは鹿や魚を
粗末に取扱ったのであった.

それから,以後は,決してそんな事をしない様に
人間たちに,眠りの時,夢の中に教えてやったら,
人間たちも悪かったという事に気が付き,それからは
幣(ぬさ)の様に魚をとる道具を美しく作り
それで魚をとる.
鹿をとったときは,鹿の頭もきれいに飾って祭る,
それで魚たちは,よろこんで美しい御幣(ごへい)をくわえて
魚の神のもとに行き,鹿たちは
よろこんで新しく月代(さかやき)をして
鹿の神のもとに立ち帰る.
それを鹿の神や魚の神はよろこんで
沢山,魚を出し,沢山,鹿を出した.
人間たちは,今はもうなんの困る事も
ひもじい事もなく暮している,
私はそれを見て安心をした.


私は,もう年老い,衰え弱ったので,
天国へ行こうと思っていたのだけれども,
私が守護している人間の国に飢饉があって人間たちが餓死しようとしているのに
構わずに行く事が出来ないので,
これまで居たのだけれども,今はもう
なんの気がかりも無いから,最も強い者若い勇者を私のあとにおき
人間の世を守護させて,今天国へ行く所なのだ.

と,国の守護神なる翁神〔梟〕が物語って天国へ行きました.と.

ari Kotankor Kamui Kamui ekashi
isoitak orowa kanto orun oman ari.

 

§

カムイ=神=大自然の摂理としてその中で共に生きる。
人の糧となるものは全てカムイからの預かり物で、その命はカムイの元へ丁重に送り返さなければならない。そうすることで、自然との共存が図られてきた。
はるか昔からアイヌはそのことを知っていて、代々子孫に口伝えで継承してきた。
和人に支配され、生活を破壊されるまでは・・・・。

いま私たちは、災害の多発や、魚が獲れなくなってきていることを、気象変動とか地球温暖化とか偉い学者様にお伺いを立てて、いいかげんな説明で安心を得ようとしている。

さて、誰が鴉で、誰がカケスで、誰が川ガラスなのか。
もう一度立ち止まって考えるときかもしれない。

「十勝の活性化を考える会」会員 K

 

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俳句と短歌

2021-12-18 10:46:56 | 投稿

 

先日、プロフェッショナル仕事の流儀夏井いつきを放映していた。俳人 夏井いつき氏は、テレビ「プレバト」で俳句ブームの火付け役である。“俳句は、17文字でつくられるが、彼女に言わせると俳句は病気を治す薬で、他人には関係なく自分が満足すれば良いのだという。

また、人間同士には“阿吽の呼吸”というものがあるが、言葉でつながる部分が多く、日本の文化のひとである俳句は大切にすべきだであるといっている。アイヌの三大俳人の一人“違星北斗氏”のように有名ではないが、十勝の俳人“井浦徹人氏”の歌碑が緑丘公園にある。彼は、地主と小作人の争議で有名な音幌農場の争議にも参加していた。

音幌農場は、日本の首相であった斉藤実が農場主に替わってからは、その名称が仁礼農場から「音幌農場」に変わっている。斉藤実は岩手県出身で、首相を辞めたあとに音更に住むことにしていたが、昭和11年に起こった二・二六事件で殺され、音更に住むことはなかった。

俳句は認知症の予防に良いと思って、知人が主催している俳句会に入った。俳句は、日本の政治家のようにウソをつかない。日本の政治はバラマキ財政で三流であるが、友人によると国力も二流になってきたらしい。

一方、短歌は31文字で作られるので、その情景が短歌に比べて分かりやすいような気がする。短歌の起源は飛鳥時代といわれ、特に有名なのが日本最古の歌集「万葉集」である。

短歌の中城ふみ子は、1922年(大正11)生まれの日本の歌人で、戦後の代表的な女性歌人の一人である。帯広女学校(現在の帯広三条高校)出身で、若くしてガンを患いながら歌集「乳房喪失」を出版している。参考までに、彼女の短歌は次のとおり。享年32歳。

「母を軸に 子の駆けめる 原の昼 木の芽は近き 林より匂ふ」

「冬の皺 よせいる海よ いま少し 生きて己の 無残を見るか」

「離婚の印 押したるのちに 自信なく 立てり我は 悪妻なりしか」

「十勝の活性化を考える会」会員

 

 

 


アイヌ神謡集:知里幸恵

2021-12-17 05:00:00 | 投稿

 


 その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.
天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせす山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久に囀る小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬(よもぎ)摘み,紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて,宵まで鮭とる篝も消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,円かな月に夢を結ぶ.
嗚呼なんという楽しい生活でしょう.
平和の境,それも今は昔,夢は破れて幾十年,この地は急速な変転をなし,山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく.
太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて,野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ.
僅かに残る私たち同族は,進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり.
しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて,不安に充ち不平に燃え,鈍りくらんで行手も見わかず,よその御慈悲にすがらねばならぬ,あさましい姿,

おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名
なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう.

 その昔,幸福な私たちの先祖は,自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは,露ほども想像し得なかったのでありましょう.
 時は絶えず流れる,世は限りなく進展してゆく.激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも,いつかは,二人三人でも強いものが出て来たら,進みゆく世と歩をならべる日も,やがては来ましょう.それはほんとうに私たちの切なる望み,明暮祈っている事で御座います.
 けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通する為に用いた多くの言語,言い古し,残し伝えた多くの美しい言葉,それらのものもみんな果敢なく,亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか.

おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います.

 アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は,雨の宵,雪の夜,暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました.
 私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば,私は,私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び,無上の幸福に存じます.


  大正十一年三月一日
知里幸恵

 




知里幸恵。この写真は、彼女が死去する2ヶ月前、大正11年7月に滞在先の東京の金田一京助の自宅庭で撮影された。

『知里 幸恵(ちり ゆきえ、1903年(明治36年)6月8日 - 1922年(大正11年)9月18日)は、北海道登別市出身のアイヌ女性。19年という短い生涯ではあったが、その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらしたことで知られる。

生誕100年を迎える2003年前後あたりから、マスコミや各地のセミナー等でその再評価の声が高まり、また幸恵への感謝から「知里幸恵」記念館の建設運動が活発化した。2008年10月には、NHKの『その時歴史が動いた』で幸恵が詳細に取り上げられ、インターネット書店「アマゾン」の「本のベストセラー」トップ10に『アイヌ神謡集』が入った[要出典]。また、『アイヌ神謡集』は、フランス語・英語・エスペラントにも翻訳されており、2006年1月には、フランス人作家ル・クレジオが、そのフランス語版の出版報告に幸恵の墓を訪れている。

なお、弟に言語学者でアイヌ初の北海道大学教授となった知里真志保がおり、幸恵の『アイヌ神謡集』の出版以降、大正末期から昭和にかけて、新聞・雑誌などからはこの姉弟を世俗的表現ながらも「アイヌの天才姉弟」と評された[要出典]。他の弟の知里高央(ちり たかなか、真志保の長兄)も、教師をつとめながらアイヌ語の語彙研究に従事した。

生涯
1903年(明治36年)6月8日、北海道幌別郡(現・登別市、札幌市から南へ約100キロ)に生まれた(父・高吉、母・ナミ)。6歳で近文コタン(現旭川市内)の伯母金成マツのもとに引き取られて尋常小学校に通学した。最初は和人の子どもと同じ学校だがアイヌのみの学校設置がされて学業優等でアイヌの尋常小学校を卒業した。
旭川で実業学校(旭川区立女子職業学校)にまで進学している。アイヌ語も日本語も堪能で、アイヌの子女で初めて北海道庁立の女学校に受験するが不合格になった。『優秀なのになぜ』『クリスチャンだから不合格となったのでは』と言う噂が町中に飛び交った。幸恵の祖母・モナシノウクはユーカラクルであった。すなわちアイヌの口承の叙事詩“カムイユカラ”の謡い手だった。カムイユカラは、文字を持たなかったアイヌにとって、その価値観・道徳観・伝統文化等を子孫に継承していく上で重要なものであり、幸恵はこのカムイユカラを身近に聞くことができる環境で育った。
幸恵の生まれた頃は、ロシアによる領土侵略を防ぐため、明治政府が北海道を開拓し始め30年以上たっていた。この幸恵の家を言語学者の金田一京助が訪れたのは、幸恵が15歳の時であった。金田一京助の目的はアイヌの伝統文化を記録することであった。幸恵は、金田一が幸恵の祖母たちからアイヌ伝統のカムイユカラを熱心に聞き記録に取る姿を見て、金田一のアイヌ伝統文化への尊敬の念、カムイユカラ研究への熱意を感じた。幸恵はカムイユカラをアイヌ語から日本語に翻訳する作業を始めた。やがて、カムイユカラを「文字」にして後世に残そうという金田一からの要請を受け、東京・本郷の金田一宅に身を寄せて翻訳作業を続けた。

幸恵は重度の心臓病を患っていた(当時は慢性の気管支カタルと診断されていた)が、翻訳・編集・推敲作業を続けた。『アイヌ神謡集』は1922年(大正11年)9月18日に完成した。しかしその日の夜、心臓発作のため死去。19歳没。
幸恵が完成させた『アイヌ神謡集』は翌1923年(大正12年)8月10日に、柳田國男の編集による『炉辺叢書』の一冊として、郷土研究社から出版された。

後世への影響
明治時代に入り絶滅の危機に瀕していたアイヌ文化アイヌ民族に自信と光を与え、重大な復権・復活の転機となった幸恵の『アイヌ神謡集』の出版は、当時新聞にも大きく取り上げられ、多くの人が知里幸恵を、そしてアイヌの伝統・文化・言語・風習を知ることとなった。また幸恵が以前、金田一から諭され目覚めたように多くのアイヌ人に自信と誇りを与えた。幸恵の弟、知里真志保は言語学・アイヌ語学の分野で業績を上げ、アイヌ人初の北海道大学教授となった。また歌人として活躍したアイヌ人、森竹竹市・違星北斗らも知里真志保と同様、公にアイヌ人の社会的地位向上を訴えるようになった。幸恵はまさに事態を改善する重要なきっかけをもたらした。

幸恵の『アイヌ神謡集』により、アイヌ人にとって身近な“動物の神々”が、アイヌ人の日々の幸せを願って物語るカムイユカラが文字として遂に後世に残された。文字を持たないアイヌ民族にとって画期的な業績であった。かつて幸恵が祖母から謡ってもらったように、母親が読み聞かせ子供が容易に理解できる程に平易な文章でつづられた13編からなる物語。アイヌ語から日本語に翻訳されたその文章には、幸恵のアイヌ語・日本語双方を深く自在に操る非凡な才能が遺憾なく発揮されている。また、文字を持たないアイヌ語の原文を、日本人が誰でも気軽に口にだして読めるようにその音をローマ字で表し、日本語訳と併記している。』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』