十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

人とのつながり

2023-03-26 05:00:00 | 投稿

  

日本は、人とのつながりが強い国だと思っていた。それが、コロナ禍などによる貧富の拡大や会の減少などで、失ってきたといえよう。

その原因は、個人主義化、価値観の多様化、人間関係の希薄化などにも関係があろう。 どんな会にも目的があり、志を同じくする者同志が組織化されたもので、会が減少していくということは、日本社会の崩壊が進んでいることを意味している。

日本国憲法は国民の生存権があり、国家には生活保障の義務があると説いている。しかし、老いや困窮して困っている人間を前にして、非効率だからこれを排除せよという発想の残酷さや空気にあきれている。

資本主義社会の特徴は、コストパーフォマンス重視で、労働生産性の低い私のような老人が不必要になる社会では、人間の営みすべてが、コストパーフォマンスに還元してしまう弱肉強食の空気が漂っている。

老齢化社会、都市と地方の格差、差別などの問題は、社会的弱者の気持ちに寄り添うことにしか、解決の糸口は見いだせないのだ。私も身障者になって初めて、弱者の立場からしか見えないものがたくさんあった。

政治家も評論家も、資本主義社会における競争社会の勝利者である場合がほとんどである。従って日本では、自分が社会で成功したのは自分の才能と努力によるものだと考えているのだろう。

しかし、この社会を支えているのは、ボランティアを含めて多くの人々の支えがあるからだと思っている。この世界を意味のある、生きていく価値のある社会を作っているのは、社会を支えていこうとする無名の人々がいるからだと、私はいつも思っている。

「十勝の活性化を考える会」会員


カムイエクウチカウシ山

2023-03-25 05:00:00 | 投稿

 

日本百名山は深谷久弥氏が自ら登った山で、品格・個性・歴史を選定基準にしている。ただ、登山愛好家の誰しもカムイエクウチカウシ山が、日本百名山に入っていないのを不思議に思っている。登山家の間では、“カムエク”と言われる。下図の真ん中に見える山がカムエクで、私が1999年11月11日、十勝幌尻岳(1,846M)の頂上から撮った写真である。

カムエクは、北海道日高山脈に属するで、名称はアイヌ語の「熊の転げ落ちる山」に由来する。幌尻岳に次ぐ日高山脈で第二の高峰であり、標高1,979mである。日高山脈は、2024年に日高十勝国立公園化される予定であるが、その中にある山である。 

アイヌ語の名称の通り急峻な山であり、日高山脈の高峰に特徴的なカールが見られ、この山に登るための整備された一般登山道はない。標識があるわけではないので、ルートファインディング能力が不可欠。難度の高い滝の登攀はないが、へつりや徒渉箇所があり、水温、水量、流れの速さを考えると、沢歩きの総合的な力は、中級以上あった方が良いそうだ。

ところで、1965年(昭和40年)3月14日未明、日高山脈縦走中の北大山岳部の登山隊6人が十ノ沢での露営中に大規模な雪崩に巻き込まれ、全員が死亡する事件が発生した。6人は決して危険な場所に雪洞を掘っていたわけではなかったが、国内最大級の雪崩に巻き込まれたのである。

初期捜索は困難を極め、雪融けを待って再開された捜索でようやく全員の遺体を発見、奇跡的に即死を免れていたリーダー澤田義一が4日間にわたった雪の中で地図の裏にしたためた遺書がポケットから発見され、大きな話題を呼んだのを覚えている。なお、十ノ沢近くには、今でもダビに付した多くの登山家の骨があるそうである。

国内にある日本百名山を23座登ったが、カールがきれいに見える山はそんなに多くはなく、十勝からは各所で見ることが出来るので、本州の登山家は是非とも来てほしい。

「十勝の活性化を考える会」会員


いつかのために

2023-03-24 05:00:00 | 投稿

 

先日、アルバイトで豚丼屋の自動車誘導係をしていたら、札幌ナンバーのマレーシア人がいろいろと質問してきた。簡単な英語で答えたところ、運転手に通じたらしい。私はほとんど英語を話したことはないが、英語は世界共通語だから少しは役に立ったらしい。

ところで先日、地元新聞の編集余禄を読んでいたら、“いつかのために”と題して、元帯広図書館の館長が、「人生に無駄なことなんてないと思っている。どんな経験でもいつか役に立つ。『それはいつ?』」なんて気にすることはない」と書いていた。

私もそのとおりだと思っている。人生にとってすぐに役に立つことはあまりないが、果報は寝て待てといわれるように幸運が必ずやってくるのである。今回の英語スピーチのケースも、その一つと言えよう。

確かに私たちは、自分が持っている技量や才能を活かしたいと誰しも思っているが、私のような中途身体障害者が活かせる能力にもおのずと限界があるのは事実である。 しかし、経験したことやこれから経験することで、残りの人生を味わい深いものにしてくれるのは確かである。だから、現場に赴き、現物をとって、現実を知ることが大切だと思っている。

何でも、経験して初めて分かることが多い。百聞は一見に如かずと言われるゆえんだろう。経験することで、違う世界を見ることができる。そして、見たことによって自分の考えが変わってくるのである。例えば、戦場に身を置くことにより命の大切さを知るであろうし、平和の尊さや戦争の悲惨さを一層知るであろう。だから、一刻も早くウクライナ戦争は終了しなければいけないのである。

話は変わるが、宇宙航空研究機構(JAXA)の「H3」号の打ち上げが失敗した。約2,800億円が泡となって消えたそうである。民間であれば、厳しい経営環境にあるので即時倒産であろう。JAXAの人には申し訳ないが、国がやっているから失敗できたのだろう。それが、官と民との違いである。

私の生まれた十勝の大樹町には民間ロケット基地があり、いま各方面から注目を浴びている。雑草のごとく打たれ強い人たちが、いつかのために採算重視で民間ロケットを打ち上げ続けているからである。

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人口減少と企業格差

2023-03-23 05:00:00 | 投稿

 

国立人口問題研究所の統計では、今後の20年間で約2割の人口減少が予想され、2059年(36年後)には、1億人割れが予想されている。十勝でも、2045年に7万人減少して約27万人の人口が見込まれているので、各企業の売上減少も必至であろう。

大手企業シャープ㈱の外国企業への身売りを考えると、大手企業も大変であることは言うまでもない。ましてや、中小・零細企業は政府からの賃上げ要請もあり、従わざるを得ない企業も多いのが実情だろう。 政府の方針を受けて、賃金4割アップの上場企業もあったが、それをできるのは一部の企業であろう。

しかし、日本の99.7%を占めているといわれる中小企業が賃上げしなければ、ますます世界から遅れをとっていく日本だろう。それでは、何をすべきだろうか?

私は、中小企業同友会が進めるSWOT分析が、経営改善にとって有効だと思っている。SWOT分析とは、経営戦略等を検討するための分析手法で、自社などの内部環境と外部環境におけるプラス面(強み、機会)とマイナス面(弱み、脅威)から分析し、強みを活用し、弱みを克服する戦術や対策を検討するものである。

SWOT分析の活用としては、計画の策定が考えられる。将来にわたる問題を捉えて、それに基づく戦略を立てて具体策を作るのである。これを考えるにあたっては、次の項目を押さえておく必要がある。

国内外の社会、経済動向

・市場や業界動向(需要と供給)、法律や規制

・ユーザーニーズ(嗜好)

・環境の変化 (例えば、東京圏一極集中の解消など)

・環境変化に対する他地域、他国の動きなど (COP21

以上で分かるように、全ての項目がお互いに関連していることで、これを踏まえて具体策を策定していこう。SWOT分析は、十勝の活性化を考えるうえでもヒントになるので、以下のとおり考えてみた。

<強み>

主要産業である農、畜産業の競争力

・国内食料自給率薬40%弱に対し十勝は1,000%超

・「十勝ブランド」の確立、乳製品(チーズ・バターなど)や豚丼等の知名度

・豊かな自然

・豊富な温泉

・開拓者精神

<弱み>

農畜産業分野での後継者不足、離農が多いこと

・人手不足の深刻化

・若者を引き付ける産業が少ないこと

・JRやバス等の公共交通網が不十分

・冬期期間が長い

・農薬などによる土壌汚染

 

<機会>(追い風)

農畜業が見直されていること

・外国人観光客の増加

・連続テレビ小説なつぞらの舞台などにより、な観光客が絶えないこと

・東京一極集中の是正

・リモートワークの進展で十勝への移住者が多い

<脅威>

道内の札幌圏への一極集中

・円安による飼料・肥料の値上がり

・TPP11

独断の思いつきで羅列してみたが、大切なことは将来に向けて社員一人ひとりが知恵を出し合い、具体的な手段を検討し実行に移すこと、すなわち、plan・do・check・actionを限りなく実行していくことである。

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和人とは何ぞや・・・

2023-03-22 05:00:00 | 投稿

 

和人とは、江戸幕府がアイヌと区別するために、自分たちの呼称として使った言葉である。古くは、大和民族が自分たちをエミシ(アイヌ)と区別するために用いた自称とされている。文献史料による「和人」の初出は定かではないが、江戸時代後期には、江戸幕府が当時のアイヌに対する日本人の自称として広くもちいている。

幕末に、ロシア帝国の南下に対して領土的危機感を抱いた幕府は、松前藩領であった蝦夷地公議御料としていた。アイヌ民族がロシアに懐柔されるのではないかという危惧のもと、アイヌを国内の文化・習俗の異なる集団と捉えて、政治的・文化的にも同化を推し進め、蝦夷地の領有を確固たるものにしようとした。

すなわち和人とは、このような文脈の中で使用されはじめた用語であり、歴史的には道南の幕藩体制からの移住・渡来者が、その主たる人々をさしていた。現在では、主に北海道において、アイヌやアイヌに接する日本人、アイヌ研究者の間で用いられていると言えよう。

アイヌと呼ばれる人々は、縄文人系の人々の遺伝子をより濃く引き継いだ人々の末裔である。つまり、アイヌと呼ばれている人々も、江戸時代に和人と呼ばれた狭義の日本人も、生物学的意味での人種は同じモンゴロイドで、アイヌも和人もルーツは同じで、広義の日本人であることに変わりはない。

両者に差を見つけるとすれば、一つは先住系縄文人と渡来系弥生人の混血度合の差であり、もう一つは水田稲作をベースとした農耕文化と縄文系の狩猟採集文化の中で、どちらを選択したかという文化の差に過ぎないということである。

アイヌと言われ始めたのは18世紀前後で、古くは“エミシ”、その後にエビス、エゾ、アイノ、カイノ、エンチュウなどと呼ばれていた。エミシとは荒ぶる人の意味で、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、現在の関東地方東北地方や、北海道樺太などに住んでいた人々の呼称である。本州では、弥生文化が定着したあとも従来の縄文文化を守りつづけ、弥生文化に同化しなかった人々、それが北海道に住んでいるエミシ(アイヌ)だったのである。

大和政権の支配地域が広がるにつれて、エミシの人々が住む範囲は変化していった。近代以降は、北海道樺太千島列島カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族で、アイヌ語母語とするアイヌを指している学者も多い。

つまり、縄文系の狩猟採集の生活・習慣・文化を最後まで守った人々が、アイヌと呼ばれる人々といえる。私たちがこうした事実を正しく理解することが、アイヌと呼ばれる人々に対する差別の解消の第一歩になるのではと思う。

アイヌ民族がいつから北海道に住み始めたことについては諸説があり定かではありませんが、13~14世紀頃に、アイヌ「文化」が生まれたといわれている。アイヌには、エミシ=アイヌ説とエミシ=アイヌ辺民説がある。いずれにしても日本人にとっては、祖先がアイヌ(エミシ)の血が流れているとは思いたくないという意識があるのではないだろうか。

私たちは、縄文人の末裔のひとつとも言われるアイヌのことを、よく分かっていないと言える。事実として分かっていることは、縄文人から渡来系弥生人を経て現代の日本人まで、様々な混血を経て現代に至っているということである。

エミシはのちにエビスエゾなどと呼ばれていた。エゾが使われ始めたのは11世紀か12世紀である。エミシ・エゾ・毛人の語源については様々な説があるが、いずれも確たる証拠はありません。エミシの初出は神武東征記であり、神武天皇によって滅ぼされた畿内の先住勢力ともされている。

神武天皇とは初代天皇とされる日本神話上の人物である。大和政権の支配に服した東国(現在の関東以北)のエミシは俘囚とも呼ばれ、本来は大和政権の人々と、人種的な区別をもたない著しく生活・文化様式が異なる人々のことである。

ただ、「エミシそれ自身がアイヌ」、あるいは「エミシのすべてがアイヌの祖先である」と断定できるだけの証拠はない。やがて、エミシの中でも律令国家の支配がおよばなかった北東北から北海道にかけてのエミシが、北方のエミシとして特別視されるようになる。

現在では、エミシがエゾとよばれるようになったころから、エミシがアイヌを指すようになったと見るのが通説のようで、アイヌと思われる「エミシ(蝦夷)」を記した初出は、1356年成立の『諏訪大明神絵詞』にあるとされている。

『アイヌ語から分かる日本史物語』を書いた菅原進氏によると、九州にもアイヌ語地名があるそうで、熊襲や薩摩隼人もアイヌ語族で、彼はエミシ=アイヌ説を唱えている。

なお、北東北にはアイヌ語地名がたくさんあり、青森県の夏泊半島に位置する平内町はアイヌ語でピラ・ナイ(崖・川)と言い、平内町の人口の約5%の名前が蝦名で、青森県に多い名前である。もちろん、平内町では一番多い名前である。

北東北地方の人々はアイヌのDNAが濃い人たちで、NHKテレビの大河ドラマの“鎌倉殿の13人”で、たびたび「毛人」という言葉が出てくるが、これもエミシ(アイヌ)のことである。

アイヌという言葉は差別用語でしたから、東北人は言われたくないそうで、“三内丸山遺跡”などの北東北や北海道の遺跡が、世界文化遺産に指定された時も、アイヌという言葉は一切使われていなかった。日本人は、アイヌの人たちが北海道のみに住んでいたと思われがちであるが、全国に住んでいたのである。

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