昆布が美味い

羅臼の昆布漁を見た時にスタートしたblogです。昆布のダシのように、人生の旅にも味付けをしたい。旅を中心に纏めています。

仁徳天皇御陵造成(近つ…)

2014-03-22 | 歴史・文化遺産
近つ飛鳥博物館のメインホールを占めるのは、この仁徳天皇御陵のモデルである。
 堺市にある御陵は敷地面積では、エジプトのピラミッドよりもかなり大きい。墳の長径は500mを超す。
秀吉がこの頂上で、酒宴を開いたそうです。




点在する古墳はそれぞれが御陵である。周辺に、パノラマで、当時の人々の暮らしを再現している。



この円形の展示台の直径は、実際の長さでは約1km以上になる。




古墳の造成の最初は円形の高台を作ることである。蟻んこのような大きさの人が働く。
測量をする人、土を運ぶ人、二人で棒で石を運ぶ人。





大王のの石棺の搬入。修羅が使われている。





前方後円墳の形が見えてきた。





部分拡大。土を背負って運び、棒に通して運ぶ石材。それらを見ている監督らしき人。





人海戦術で完成していった古代人の権力は、その徳を慕う人々であったかも知れない。





中央の丘は、周縁部を円筒埴輪で装飾されている。砦の意味かも。




石が積み上げられていたのも、今では識別も難しいほど樹木が茂っている。





当寺の家族の生活する家も周囲が高い塀に囲まれている。




見晴らしの櫓に囲まれ、庭では賓客を迎えているようである。
濠に囲まれた権力者の館であろうか。




一般の集落での生活がありそう。



古代からの便り(近つ飛鳥)

2014-03-18 | 歴史・文化遺産
今でいう古墳時代は記号はあっても、文字はなかったと思う。
土中から出土する過去の遺跡は、いろんな情報を伝えてくれる。

鳥の持つ力への憧れか、鳥が眼に見えぬ、天空に上がっていく神の象徴であるようで…。
     



左:古墳の石棺は、姿かたちもいろいろ。   
右:海老の尻尾のような飾りのある墳丘の装飾。鰭付円筒古墳   
  




左:家畜であったろうか、動物もともに葬る。
右:鎧甲冑は、従者の身代わりとして葬られたか。
 




鉄兜と鎧の埋葬は、臣下の兵士の身代わりとなって、埋められる。
 




巨大な墳墓の造営の時に、ピラミッドもそうであったように、巨大な岩石を運搬する必要がある。
「修羅」は石材運搬の時に橇となって使用されるものである。

この「修羅」の発見は当時大きく新聞に取り上げられた。




レプリカでやや小型のものが、絵画などで知られていた。




実物が発見された。8.8m、3.2トン。



解説用のモデルがある。
③は動かす時のてこになる棒。上にあるYの字状の滑らし板。すべりが良くするための材木。


   

近つ飛鳥博物館

2014-03-17 | 歴史・文化遺産
ここにも梅林があると聞いた。「修羅」が発見され、展示された時以来である。




こんな標識も立っている。企画が実行されて4-5年らしい。



山の傾斜の低い所ではすでに花が終わっていたが、品種によっては紅梅が色付く。




白梅はすこし終わりかけている。



多くが咲き終わっているので、つい、咲いているだけでシャッターを押してしまう。




博物館の建物の上まで登って来ると、少し気候が違うようで、満開である。




館内のパノラマの地図でここの位置が判る。この一帯が近つ飛鳥と呼ばれる。




展示館の入口にあった埴輪の模型。




展示室の壁面にあった大阪平野の文化とか歴史とか、人々の暮らしなどが描かれている。




古墳に埋葬されている馬の埴輪と、実際の想像図。
 



古代の兵士と酒などを供する女性。




1Fのフロアーには前方後円墳の解説モデルの全体が見える。



近つ飛鳥を訪ねる

2014-03-16 | 歴史・文化遺産
早春と言うか、肌寒い春と言うか、大阪府にある古代のふるさと「近つ飛鳥」を訪ねる。
大阪府と奈良県の府県境の大阪側、河内の国に通じる峠道が竹之内街道と呼ばれる。

手前から南に折れて近つ飛鳥博物館に向かう。(梅林もある)



途中たまたま見つけた推古天皇御陵であった。「シナガノヤマダノミササギ」と読む。




梅が満開である。3段に盛り上げられた古墳で、羨道とか棺の部屋を2つ持つという。




白梅を通してみると、どこかまた、恭しいような…。




この辺り一帯を「近つ飛鳥」(ちかつあすか)と言い、奈良の飛鳥を「遠つ飛鳥」(とおつあすか)と言う。
棚田の様子とか景色も似ている。

「遠江」が浜名湖で、「近江」が琵琶湖。古代の人達は極めて単純に、地名を付ける。


三段になっているという。




正面から。




推古天皇の摂政としての聖徳太子の活躍は、言うべくもない。




この谷は奈良の飛鳥の谷よりも広い。



遠望を見渡せば、西に立つのはPL教団のモニュメントである。花火で知られている。



春の海辺(垂水漁港)

2014-03-15 | 旅の風物
春の青空らしく、どこか薄く靄がかかっている。
神戸市須磨の西隣りの垂水漁港。




船台がある。2基並んでいる。




船を係留する岸壁が続く。西方には世界一の長さを誇る明石大橋の橋脚が見える。





沖合で収穫されるワカメを干している。



洗濯バサミでぶら下がるワカメ。漁師が自分の家で食べる分だろうか。





港の構内も穏やかに、ヒドリガモが水に浮かぶ。♀もいる。




いつも昆陽池で見ている♂の姿である。




港の岸壁の真下が透けて見える。ワカメがよく成長しているのが見える。




漁港の売店で、イカナゴの「くぎ煮」を作っている。



倭建(ヤマトタケル)御陵

2014-03-14 | 歴史・文化遺産
神話に出てくるヤマトタケル(倭建=日本武尊))は、国造りの数奇な役割を演じます。

父景行天皇の皇子として生まれ、九州、出雲、関東、信州、名古屋、伊吹山
そして、ここ能褒野(のぼの)の里で命を落とします。

彼の御陵がここにあります。

公園でヤマトタケルを偲びます。
小さな円墳ともいわれる。全体の案内板では下が北に、上が南になる。
 



能褒野神社は南向きに建っている。




拝殿から向こうは見えない。

右上の額の写真は、九州のクマソタケルを討った時のものである。女装していた。

この時に断末魔のクマソタケルから、彼はヤマトタケルの名を貰った。



拝殿の横に連理の榊があって大事にされている。




2本の榊の枝が結び合っている。人知を持って測り知れないものだという。

手を結ぶところを拡大します。

金具で止めてある?




神社を後にして、御陵の方に行く。



横30mほどの可愛い御陵である。「墓」とある。
 



古墳の解説板が建っている。祭事が村おこしにも使われているようだ。


オトタチバナヒメも出てくる。




古墳全体の入口の石碑


小高い辺りに、出土した朝顔型円筒埴輪のモデルがある。雪です!




当古墳のある亀山市教育委員会の文化財の解説がある。




雪がひどくなってきた。



バス停も雪の中で頑張る。



結城神社枝垂れ梅再び(2)

2014-03-13 | 動植物
見事な枝垂れ梅、もう一度。



天空が梅の冠りを乗せてくる




これも蘖(ひこばえ)と言うのかも。
大樹の幹から幼木の花が付いたのである。桜ではよく見るが、生命力が強い。





日影げの鳥居から梅園を望む。まるで楽屋裏から舞台を見ているようで。




白梅のメジロが数羽やってきた。
 




メジロの白い隈取りは何とか見える?
 




少しは姿が見えてきた。二羽いる。1/2秒もじっとしていない。S120を持ってくるのだったか。





幟が3種類。





茶店にnikkeiの記事で、全国の梅林の順位を調べたのが出ていた。
ここ結城神社は第八位である。全国で十指に入る名園でもある。





結城神社枝垂れ梅再び(1)

2014-03-12 | 動植物
結城神社の枝垂れ梅からなかなか別れられない。
見事な生命力と梅の花のしっとりした感触から、ハートが抜け切れない。

目白押しに並ぶ緑の花冠。他のものが入る余地がないほど密に咲く。




蝋梅もぽったりと咲く。




造花のように花開く。





枝先に群がり下がる梅の花。





桜の真似をして頑張る枝垂れ梅の白梅。




交錯する紅梅たち。





ヤナギも逃げ出しそうな樹相の枝垂れ梅の白。この紅梅は枝垂れていないが濃厚な赤。





西洋人にもこの枝垂れ梅は理解できるはず。仲のいいカップルだった。





花の優美さの中に、鋭いオーラを発する神社の棟の千木。





ツバキの葉隠れに霞む枝垂れ梅たち。



蜜柑と庭の花

2014-03-11 | 話題
蜜柑の持つビタミンCを狙い目に、スーパーの棚を覗いた。
昔からかも知れないが、値札の横に「糖度」の数値があった。

その数値を信じて買ってみる。例えば、


とか



とかである。糖度はデコポンが最大のようである。今年はこの甘さを求めてあちこちと回った。





真イワシとスルメイカが旨そう。




庭の草花が、毎年新芽を出し花を付ける。最初に買ってきた一鉢から10年以上経っている。




昨年買ってきたジャスミンが花を付けた。



鉢植えを気紛れで買って来るが、それが溜まって、多様な花園を作る。



西国札所十九番(革堂さん)

2014-03-10 | 札所巡り
寺町通りを北へ約1.5km離れた次の札所通称「革堂さん」に回る。
御所のすぐ南にある「霊鹿山行願寺」は町中の寺である。
霊鹿山が読みにくいのか、通称名で呼ばれることが多い。




かつて、母の鹿を射止めてしまったことで、その毛皮を身にまとって悔いたというのが由来である。




何の飾り気もない、古刹である。




300余年前に、この地を得て、建立した歴史が刻みこまれているようである。




御詠歌にあるように、庭の千草の盛りなるらん、だが、早春の境内には咲く花も輝きませんね。




革堂観音の名の赤提灯である。




弁天堂の七福神を初め釣鐘堂、地蔵堂、観音堂、愛染堂、稲荷堂などの社が並ぶ。



開基は行円上人である。
彼はたけだけしい性格で、野山で鳥や獣を獲っていたが、雌の大鹿を射止めたが、
その腹の中に小鹿がいて、憐憫を感じ、出家したという。
その鹿の革で法衣を作り、修行に励んだという。

何度も火災に見舞われ、今の本堂は1816年に再建されたという。