鹿児島ラ・サールは昭和25年に発足した。それから十年ばかりは殆ど鹿児島県内からの生徒だった。先生方は大学教授クラスの先生方ばかりだった。校舎は松林の中にあり、校庭のすぐ近くまで錦江湾が波を寄せていた。始業、終業は洋式の鐘を生徒が鳴らした。試験に監督は居なかった・・・『済んだら君、集めて職員室迄持って来てね』と、最前列端の生徒に言って先生は出て行った。
向うの方で中学生が騒ぐ・・・うるさくて問題を解くのに邪魔になるなあ、と思っていると一人が立ち上がって廊下に出る、『コラッ!せからしか!試験中やったっど!』。舎監は大柄なフランス人で時々茶色のスエードの革ジャンを来てベレー帽を被り、大型バイクで出かけていた、カッコ良かった。労働修士と悪童どもは陰口をたたいた。五月になって夜間、食堂でみんなが家から持って来た【灰汁巻(あくまき)】を喰っていると『舎監にも下さい』とやって来た。
先生方に教わったことは殆ど忘れた。だが、【火を点けられた】ことは間違いない。教える側の火力が強くて初めて教えられる側に点火される。英語の先生は三年になると、サマセット・モームやリンド、その他の作品からいい文章を抜粋、プリントして講義、自ら読んで翻訳し、味わって、まるで授業を忘れたかのようだった。その時、私は英語と言う言語の美しさを知った。
国語の先生は『いい文章を読ませよう』と教科書を厳選された。失ったことが今でも惜しい教科書ばかりだった。
哀れむべし 糊口に穢れたれば 一さんはまず我がはらわたに注ぐべし
よき友ら多く地下にあり 時に彼等を思う また一さんをそそぐべし
我が庭に この朝来りて水浴びるは 黄金褐のこさめびたき
小さき虹も立つならん
信あるかな汝 十歳我が寒窓を訪うを変えず・・・・
試験問題でもこのように初めて目にする詩などを出された。私は見惚れてしばし問題を忘れた。
しかし思い出してみると、小学校では鹿児島女子師範新卒の先生方に、中学でも鹿児島師範卒の先生方の薫陶を受けた。職業家庭科の先生に使ったノコギリを手渡す際、柄を持って刃の方を差し出したら先生は黙って首を振られた。ハッと気が着いて持ち替え、柄の方を差し出したら微笑んで受け取られた。こんな些細な事が人生に大きく影響する。刃を持って柄の方を差し出す、人生の色々の場面でこれを想い出す。
三歩下がって師の影を踏まず!