松本博文著『ルポ 電王戦人間 vs. コンピュータの真実』(NHK出版新書、2014年)
プロ棋士と将棋ソフトとの真剣勝負、電王戦。書名の通り、本書はその電王戦のルポルタージュということはできる。しかし、一読しての感想は「看板に偽りあり」である。現在のプロ棋士と将棋ソフトの闘いだけではなく、コンピュータ将棋の発達の歴史やプロ棋界の400年以上にもわたる歴史を織り交ぜることによって、プロ棋士と将棋ソフト、双方の来歴と現在地を描き出し、両者が何を背負って闘い、その闘いがどのような意味を持つものであったかがそこには描かれている。その意味で本書は、(偏見をあえて言わせもらえれば)電王戦というちゃちなショーのルポルタージュにとどまるものではない。
ところで、本書の特徴のひとつは将棋の局面図がひとつも出てこないことである。そのためtwitterなどでは「将棋を知らない人にも分かりやすい」という評をしばしば目にした。しかし、本当にそうだろうか。例えば、駒の動きなどは将棋を知らない人には図があった方がわかりやすいところもあろう。それらをすべて言葉で説明するということは、将棋を知らない人が理解することを妨げてしまわないだろうか。その意味では、本書は将棋をある程度理解できる人、もっといえば電王戦を実際に観戦していた人向けになっているところがある。にもかかわらず、そのことは本書の価値を減じていない。というのもそれは、電王戦を見ていた人が感じたことを著者が深く理解したうえで、それを言葉として表現しその人たちと共有する力を持っているということであるからだ。いわば、それは著者の表現力を表すものであると同時に、それを表現することを可能にしている言葉というものの奥深さでもあるように思われる。
先日、ある編集者の人と酒を飲んでいたときに、本が売れるかどうかの決め手のひとつは著者紹介の欄であるという話を聞いた。なるほど、本書の著者紹介には本書のエッセンスが詰め込まれているように思う。そこにはこうある。
「1973年、山口県生まれ。将棋観戦記者。東京大学将棋部OB。在学中より将棋書籍の編集に従事。同大学法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力し、「青葉」の名で中継記者を務める。日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継にも携わる。本書が初の単著となる。」
著者が「将棋観戦記者」という将棋を「観て」「伝える」という立場から本書を書いていることがわかる。また、後段からは著者が将棋を多くの人に中継するということにもっぱら意を注いできたこともわかる。「東京大学将棋部OB」という点も興味深い。棋力を示す段位が示されていない点、「OB」という表記は、どことなく純粋に将棋を指して楽しむことに、現在の著者はそれほど重きを置いていないように感じさせる。つまり、このプロフィールは将棋を指すことから観ることへの誘いを表しているように読める。また、東大将棋部というプロ棋士の世界とは違う、しかし将棋に常に関わっている人たちの通常あまり注目されることのない人間模様を描き出した点が本書の白眉と言えるが、その点をもこの短い一文は見事に表している。「本書が初の単著となる」の一文も意味なしとは言えない。ややサービス過剰ともいえそうな将棋の知識が披露されているのは、著者の知識量と同時に本書が初の単著であるが故でもあろう。今後の著者の著作にも注目したくなる。
本書のtwitter上での評に、将棋ソフトponanzaの作者「山本一成物語」であるとのものがあった。それが本書のひとつの筋をなしていることは確かであり、それがまた本書の特徴でもあろう。しかし、本書を読んでいて気付くのは電王戦にいたるあらゆる場面に時折顔を出す著者の姿である。著者の取材に基づく作品である以上当然と言えば当然なのだが、それは、本書のひとつの底流をなしているように思われる。しかし、それは「ルポ」という体裁のためか、著者の奥床しさのためか前面に出てくることはない。しかし、本書を読んでいて気付くのは、「将棋を観る」ということに関して、著者が現代におけるキーマンのひとりであるということである。その意味で私は「松本博文物語」を読んでみたい(それは著者による「ちょっと早い自叙伝」でもよいと思う)。
いずれにせよ、本書の主人公はプロ棋士たちとソフト開発者たちである。彼らは言うまでもなく天才だ。しかし、(私のような凡人が言うことではないかもしれないが)天才は決して天賦の才能に満足する人たちではなく、日々の研鑽によってそれを結実させられる人たちのことであろう。芥川龍之介は「天才とはわずかに我々と一歩を隔てたもののことである。ただこの一歩を理解するためには百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ」と述べている。本書はまさにこの超数学の一端を垣間見せてくれるものである。
プロ棋士と将棋ソフトとの真剣勝負、電王戦。書名の通り、本書はその電王戦のルポルタージュということはできる。しかし、一読しての感想は「看板に偽りあり」である。現在のプロ棋士と将棋ソフトの闘いだけではなく、コンピュータ将棋の発達の歴史やプロ棋界の400年以上にもわたる歴史を織り交ぜることによって、プロ棋士と将棋ソフト、双方の来歴と現在地を描き出し、両者が何を背負って闘い、その闘いがどのような意味を持つものであったかがそこには描かれている。その意味で本書は、(偏見をあえて言わせもらえれば)電王戦というちゃちなショーのルポルタージュにとどまるものではない。
ところで、本書の特徴のひとつは将棋の局面図がひとつも出てこないことである。そのためtwitterなどでは「将棋を知らない人にも分かりやすい」という評をしばしば目にした。しかし、本当にそうだろうか。例えば、駒の動きなどは将棋を知らない人には図があった方がわかりやすいところもあろう。それらをすべて言葉で説明するということは、将棋を知らない人が理解することを妨げてしまわないだろうか。その意味では、本書は将棋をある程度理解できる人、もっといえば電王戦を実際に観戦していた人向けになっているところがある。にもかかわらず、そのことは本書の価値を減じていない。というのもそれは、電王戦を見ていた人が感じたことを著者が深く理解したうえで、それを言葉として表現しその人たちと共有する力を持っているということであるからだ。いわば、それは著者の表現力を表すものであると同時に、それを表現することを可能にしている言葉というものの奥深さでもあるように思われる。
先日、ある編集者の人と酒を飲んでいたときに、本が売れるかどうかの決め手のひとつは著者紹介の欄であるという話を聞いた。なるほど、本書の著者紹介には本書のエッセンスが詰め込まれているように思う。そこにはこうある。
「1973年、山口県生まれ。将棋観戦記者。東京大学将棋部OB。在学中より将棋書籍の編集に従事。同大学法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力し、「青葉」の名で中継記者を務める。日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継にも携わる。本書が初の単著となる。」
著者が「将棋観戦記者」という将棋を「観て」「伝える」という立場から本書を書いていることがわかる。また、後段からは著者が将棋を多くの人に中継するということにもっぱら意を注いできたこともわかる。「東京大学将棋部OB」という点も興味深い。棋力を示す段位が示されていない点、「OB」という表記は、どことなく純粋に将棋を指して楽しむことに、現在の著者はそれほど重きを置いていないように感じさせる。つまり、このプロフィールは将棋を指すことから観ることへの誘いを表しているように読める。また、東大将棋部というプロ棋士の世界とは違う、しかし将棋に常に関わっている人たちの通常あまり注目されることのない人間模様を描き出した点が本書の白眉と言えるが、その点をもこの短い一文は見事に表している。「本書が初の単著となる」の一文も意味なしとは言えない。ややサービス過剰ともいえそうな将棋の知識が披露されているのは、著者の知識量と同時に本書が初の単著であるが故でもあろう。今後の著者の著作にも注目したくなる。
本書のtwitter上での評に、将棋ソフトponanzaの作者「山本一成物語」であるとのものがあった。それが本書のひとつの筋をなしていることは確かであり、それがまた本書の特徴でもあろう。しかし、本書を読んでいて気付くのは電王戦にいたるあらゆる場面に時折顔を出す著者の姿である。著者の取材に基づく作品である以上当然と言えば当然なのだが、それは、本書のひとつの底流をなしているように思われる。しかし、それは「ルポ」という体裁のためか、著者の奥床しさのためか前面に出てくることはない。しかし、本書を読んでいて気付くのは、「将棋を観る」ということに関して、著者が現代におけるキーマンのひとりであるということである。その意味で私は「松本博文物語」を読んでみたい(それは著者による「ちょっと早い自叙伝」でもよいと思う)。
いずれにせよ、本書の主人公はプロ棋士たちとソフト開発者たちである。彼らは言うまでもなく天才だ。しかし、(私のような凡人が言うことではないかもしれないが)天才は決して天賦の才能に満足する人たちではなく、日々の研鑽によってそれを結実させられる人たちのことであろう。芥川龍之介は「天才とはわずかに我々と一歩を隔てたもののことである。ただこの一歩を理解するためには百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ」と述べている。本書はまさにこの超数学の一端を垣間見せてくれるものである。
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