小笠原信之『ペンの自由を貫いて―伝説の記者・須田禎一』(緑風出版、2009年)を読む。
須田禎一は1909年茨城県の牛堀の生まれ。地元の名家に生まれ、佐原中学、弘前高校を経て東京帝国大学文学部独文科へ入学。学生運動での逮捕などをはさみ東京帝大を卒業後、風見章の紹介で朝日新聞へ入社。浜松支局や上海支局で記者として活動する傍ら、風見や細川嘉六、尾崎秀実らのグループにも参加している。
上海で終戦を迎え、戦後は木村禧八郎の後を襲って北海道新聞の東京駐在論説委員に就任。中立を志向する全国紙をしり目にリベラルで明快な論調で社説やコラムを執筆。昭和の時代を駆け抜けた、ジャーナリストである。
本書はその須田禎一の伝記である。
本書を通じて気づかされるのは、須田の時代と現代が驚くほど通底しているという点だ。須田は破防法の制定に「言論の委縮」「思想警察の復活」「『国権の最高機関たる国会』が行政権の前に蒼ざめて」いく可能性を見て取り、そうなれば「民主日本の墓場である」と警告する(本書152-153頁)。
また、「金嬉老事件」を論じた文章では「朝鮮人には乱暴者が多い、犯罪者が多い、オレたちの税金を食う被保護世帯が多い、そのうえ自分たちの学校では日本人の悪口を教えている、けしからん」という「“素朴な”感情が」「広く日本人の社会に流れているのは、残念ながら否定できない」と事件の背後にぬきがたい「朝鮮人・韓国人蔑視」がったことを喝破する(本書283-285頁)。
昨今のこの国の政治や社会の情勢となんと重なることだろうか。
1965年の須田の退社にあたっての一文にある「権力の座にあるものが、おのれに対する批判を好まないのは、通例でしょう。言論人が権力の座にあるものから憎まれるのも通例でしょう。もし権力者から愛される言論人があったとすれば、権力者か言論人か、そのいずれかが異常な場合でしょう」という一節は当時においても痛烈な現状批判であったろうが、現代においてますますその重要性を増している警句であろう(本書284-285頁)。
60年安保の際に須田が書いたという「あの人々のいう民主主義は、私たちの民主主義ではない。あの人々のいう自由と繁栄には墓場のにおいがする」という言葉も、その言葉が向けられた人物の孫が首相官邸の主になっても、そのまま通じる言葉だ(本書206-208頁)。
しかし、須田は続ける。「すべては終わった、のではない。すべては、これからはじまるのだ」と。戦争の記憶も生々しいこの時代、市民社会にかかる圧力は今と変わらなくとも、守るべきを守り、主張するべきを主張した、須田のような言論人たちによって戦後民主主義はまだ、その生命力を保っていたのである。
ところで、本書で個人的に注目するのは須田の上海時代である。上海ではあまり記事を書かなかった須田だが、様々な人物と接触していて、そのなかに当時、「須田が同業者の中で最も親しくしていた」という「『大陸新報』の小森武」なる人物が出てくる(本書91-92頁)。のちに小森らが設立し美濃部亮吉革新都政のけん引役となった東京都政調査会での活動をきっかけに、日本の市民運動をリードしていく人物こそ須田禎一の次男、須田春海であった。
※東京都政調査会と小森武については鳴海正泰関東学院大学名誉教授による「覚書 戦時中革新と戦後革新自治体の連続性をめぐって-都政調査会の設立から美濃部都政の成立まで-」『自治研かながわ月報』2013.6.No.141(通算205号)に詳しい。
須田禎一は1909年茨城県の牛堀の生まれ。地元の名家に生まれ、佐原中学、弘前高校を経て東京帝国大学文学部独文科へ入学。学生運動での逮捕などをはさみ東京帝大を卒業後、風見章の紹介で朝日新聞へ入社。浜松支局や上海支局で記者として活動する傍ら、風見や細川嘉六、尾崎秀実らのグループにも参加している。
上海で終戦を迎え、戦後は木村禧八郎の後を襲って北海道新聞の東京駐在論説委員に就任。中立を志向する全国紙をしり目にリベラルで明快な論調で社説やコラムを執筆。昭和の時代を駆け抜けた、ジャーナリストである。
本書はその須田禎一の伝記である。
本書を通じて気づかされるのは、須田の時代と現代が驚くほど通底しているという点だ。須田は破防法の制定に「言論の委縮」「思想警察の復活」「『国権の最高機関たる国会』が行政権の前に蒼ざめて」いく可能性を見て取り、そうなれば「民主日本の墓場である」と警告する(本書152-153頁)。
また、「金嬉老事件」を論じた文章では「朝鮮人には乱暴者が多い、犯罪者が多い、オレたちの税金を食う被保護世帯が多い、そのうえ自分たちの学校では日本人の悪口を教えている、けしからん」という「“素朴な”感情が」「広く日本人の社会に流れているのは、残念ながら否定できない」と事件の背後にぬきがたい「朝鮮人・韓国人蔑視」がったことを喝破する(本書283-285頁)。
昨今のこの国の政治や社会の情勢となんと重なることだろうか。
1965年の須田の退社にあたっての一文にある「権力の座にあるものが、おのれに対する批判を好まないのは、通例でしょう。言論人が権力の座にあるものから憎まれるのも通例でしょう。もし権力者から愛される言論人があったとすれば、権力者か言論人か、そのいずれかが異常な場合でしょう」という一節は当時においても痛烈な現状批判であったろうが、現代においてますますその重要性を増している警句であろう(本書284-285頁)。
60年安保の際に須田が書いたという「あの人々のいう民主主義は、私たちの民主主義ではない。あの人々のいう自由と繁栄には墓場のにおいがする」という言葉も、その言葉が向けられた人物の孫が首相官邸の主になっても、そのまま通じる言葉だ(本書206-208頁)。
しかし、須田は続ける。「すべては終わった、のではない。すべては、これからはじまるのだ」と。戦争の記憶も生々しいこの時代、市民社会にかかる圧力は今と変わらなくとも、守るべきを守り、主張するべきを主張した、須田のような言論人たちによって戦後民主主義はまだ、その生命力を保っていたのである。
ところで、本書で個人的に注目するのは須田の上海時代である。上海ではあまり記事を書かなかった須田だが、様々な人物と接触していて、そのなかに当時、「須田が同業者の中で最も親しくしていた」という「『大陸新報』の小森武」なる人物が出てくる(本書91-92頁)。のちに小森らが設立し美濃部亮吉革新都政のけん引役となった東京都政調査会での活動をきっかけに、日本の市民運動をリードしていく人物こそ須田禎一の次男、須田春海であった。
※東京都政調査会と小森武については鳴海正泰関東学院大学名誉教授による「覚書 戦時中革新と戦後革新自治体の連続性をめぐって-都政調査会の設立から美濃部都政の成立まで-」『自治研かながわ月報』2013.6.No.141(通算205号)に詳しい。
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