ピアニスラー

ゴールド・フィンガー、ハイパー・ピアニスト矢沢朋子のブログ

結局・人生50年残りは余生

2025年02月16日 | 日常

油抜きの食事。どうです!不味そう

 

友人で若い頃から膵炎のため、ずーーーーーーーっと油抜き食生活をしてる人がいます。ヴィーガンではないので和食と和菓子、居酒屋系なら外食もオッケー

これが

「油抜きでヴィーガン」しかもグルテンフリーとなると本当に外食が出来ないという事態になってます。

「菜種油は免疫にダメージを与える」ということは最近になって知られてきてますが(自分もごく最近、知った)、マクロビオティックの店は基本・菜種油。それ以外のヴィーガンのお店もやはり菜種油を使うことが多い。オリーブオイルも加熱しなければまあ、という程度で油と砂糖は健康には良くないようです

 

と言うと;「果物も摂りすぎは良くない。糖分多いし」とか言い出す人がいるんですが、面倒臭いので無視してます。その人は食べなきゃいい。そしてシミシミでシワシワになればよいと思います

朝食。この前にニンジンとかセロリジュースを飲んでます。

昼食。米粉パンが付くときもあります。

夕食。当然・油抜きグルテンフリー

どうしてこの手の料理に油が使われるのか逆に不思議に思う。もう洗脳に近い。「料理とは炒めるものだ」という。油を使わない方が美味しい。

 

自分がヴィーガンになったのは46歳の時でした。

とても調子が良いし食料の見直しをして危険と思われる生産過程を経ているものは排除するようになり、友人にも盛んに勧めましたが、結局・自分の周りでヴィーガンになった人はいませんでした。「少し肉は控えるようになった」という人は3、4人はいるけど。

そして時は流れ、10年以上の歳月が経ち、友人・知人はさまざまな不調や疾患を抱えている人が多い。逆に・膵炎で油抜きやアトピーで食事制限をせざるを得ない友人の方が「何でも好き嫌いなく食べる」人より元気なんです。

 

何ヶ月か前に

「46歳で筋力の低下、60歳で免疫の低下で突然・老化する」という記事を読みました。

なんとなく周りを見ていると、50歳ではもはや新しい習慣を身に付けるのは無理なのだなということが分かります。

食事を菜食にするのはもちろん、新しい技術や知識も吸収出来ない。本も色んなジャンルを読みたいとは思わない。似たような系列やジャンルの本を読むようになってます。なので同じような話題をその時の自分の心象で選んで一方的に語るという「老人化」が始まるのです。他人の意見は理解出来ないので受け入れられません。頑固なのではなく脳に入らないのです。

自分が食生活を変え、それに伴う価値観も変わったのは年齢的にもギリギリだったのだと今は分かる。

 

私は20歳前後から意識的に10歳近く年上の友人を持つようにしてました。

 

同学年とか同年齢の友人達はまだ「成人式に着る着物」とか「ボーイフレンドと結婚相手」とか「コンクール(音大だから)」「腕の脱力とタッチ(ピアノ科だから)」というのが話題の中心で人生の一大事だったから、どれも興味がなかった自分は冷めた感じで付き合っていました。

10歳ほど年上の友人は:「どのようにキャリアを築くか」「どのように経済的自立をするか」ということを考えていて、それこそがまさに!自分の興味のあることだったので、本音で色々と語り仲良くなれたんだと思う。「今後、何年かしてこのような局面に立つのだな」というシュミレーションにもなった。

 

そして今

年上の友人達は退職したり定年も間近になり、老後を迎えています。私の母より年上になっていく友人・知人を見て、ようやく母の状況とか状態が分かったという。

私の友人達は知的で勉強も出来るタイプがほとんどなんですが、母は真面目だけどさほど勉強は出来ない、本も読むのが遅いタイプでした。

それでも両タイプに共通してるのは「50歳までに身につけた習慣で余生は決まる」ということだと思う。もう新しい習慣やジャンルは頭が良くても悪くても受け付けないんです。

だから「果物は糖分が多いから体に悪い」と50歳までに何かを読んでそう信じたら、それとは逆のエビデンスのある文献を読んでも忘れてしまうか頭に入らない。

「肉と卵を食べないとタンパク質不足になる」「牛乳を飲まないと骨粗鬆症になる」というのも信仰のように信じているので、畜産物は高齢者が買い支えることになるんでしょう。

真実は逆、特に「牛乳を飲むと逆に骨粗鬆症になる」は中高年以下に広く知られるようにはなってきたけど、20代以下で家に「牛乳飲みなさい」というお母さんがいたりするとコロナの枠珍も2~4回と打ってたりするのです。子宮頸癌枠も打ってるかも。親ガチャってやつです。どうぞご無事で。

 

まあそれで

老齢になった友人を見ていると、今の時期は単純に「後期高齢者に向かっている」だけ。の時期のようです。体力はまだ残ってるけど知力の進歩はない。知的活動を継続している人は以前からの仕事を継続して習慣も保ってる状況。

しかしもう、仕事で招聘でもされない限り、自力での海外旅行は難しいだろうなとは思う。老人化の特徴、「おっくう」なんです。どこかに行ってはみたいけど自分で手配は面倒臭い。ツアーで日程が全て決まっている団体旅行ならともかく。それで豪華クルーズ船旅行というのが流行るわけだ。

 

そう思うと、基本・海外旅行は60歳までなのかもしれません。還暦を過ぎたら仕事で相手が空港まで送り迎えしてくれるほどのVIPになってない限り、引退だと思いました。

 

知的面でも

私の祖母はかなりインテリではあったんですが、70歳で読書は卒業していました。父はインテリではなかったけど好奇心旺盛なタイプで85歳までは読書をして日記も付けてましたが、86あたりから日記も飛び飛びになり、本も読めなくなってきました。それでも85歳までは読んでいたので、脳のアップデートはされていた。90歳で亡くなる2ヶ月前まで新聞を斜めに読んだり週刊誌も斜めには読んでいたので、話題が昔話だけということもなく、私の振る話題にもついてきてました。コロナ枠も打ちませんでしたしね。そのせいで老人ホームに入居出来なかったということはあるんですが。

 

そう思うと、読書も75歳でほぼ卒業なのでしょう。その後はどんなに長生きしても50歳までに読んだ本のことしか思い出せないかもしれません。50歳以降に読んだ本はインプットはされないかもしれないけど、本棚にあれば牛のように反芻して読み、「ほお」と毎回、感心してその時の話題にはなるかもしれない。

 

これは自分でも実感してる 何度読んでも「ミックスのやり方」を忘れるので、毎回・読みながらやってるから。目次にアンダーラインを引いてあるからすぐ見つけられるのだけが進歩と言えば進歩なのかも「そうだった」と脳に微かに残ってる記憶に火が灯れば作業自体は早くなってるんだけどね。

 

50歳までに身につけた技術と知識でその後の人生を歩む。進歩はないが後退はある。と思うと老後は過酷に長いですよ〜

 

80歳の父の「婆〜るふれんど」(と父が言っていた)が、父の亡くなる1ヶ月ほど前から急にボケが始まりました。

キャリアウーマンで定年退職した後は悠々自適で1人暮らしをしているのですが、いかんせん話題が「あれ」だけで20分は続くんです。

 

「あなた今、こちら?」「いえ、沖縄です」「あらそう。気をつけてね。そちらは雨ばかりでしょう?」「晴れてますよ」「そうね、沖縄だからね。あなたあれ、あれはどうなさったの?」「あれって?」「ほら、あれよ。どうしたの?」「あれって何ですか?」「そうね、もういいのよ。ところであれはほら・・なんだっけ、えーとあれはあれよね。あなたも気をつけてね」「はい」「やっぱりあれだからね。それで、ほら、あれは・・えーと・あれよ。だからあれね」

 

という電話が10日に1回くらいだったのが、だんだん3日に1回、1日に1回、出ないと5分刻みで朝8時からかけてくるようになり生活に支障をきたすようになって

ついにブロックしました かわいそうだけどしょうがない。

「あの人もこういうホームに入るしかないよ」と父が亡くなる1ヶ月切った頃に言ってました。「でも自分で何でも出来ると思ってるし」と言うと「ちょっと前の俺みたいなもんだな」とため息をついてました。父を訪ねてホームに来て、父の具合が悪い時だったようでパニックになって救急車を呼んでしまったんです。「矢沢さんが死んじゃう!」と 。ホームの人も驚いてました。

 

この状態でも、簡単な自炊をしたり美容院に行ったり部屋を片付けたりということは出来ているので「私はホームになんか入らないわ」と思うわけだけど、いかんせん友達がいなくなるわけですよ。話題が「あれ」オンリーなので。

 

この婆〜るふれんど。のおかげで父は「女でも頭がいい人はいる」ということを80歳を過ぎて知ったんですがね。しみじみと「ママは頭悪かったなあ。真面目だったけどな」と言ってました。それまでは「ママは女だから頭が悪い」だったんですよ。女はみんなバカなので当たり前だと思ってたんですね。キャリアウーマンの友達なんていなかったし。婆〜るふれんどとはずいぶんビールを飲みながら政治や経済について話したそうです。そんな話題が成り立つ女友達も父には初めてでした。

 

ただ、婆〜るふれんどは、男のように働いていたので、小綺麗に暮らしてオシャレはしていても簡単な料理しか出来ない、趣味もない、引退した男と変わらないお婆さんです。味噌を作ったり漬物の秘訣を知ってるわけでもない。さりとて絵を描くわけでも何か楽器を弾くわけでもなければ短歌を作るわけでもない。読書も卒業。新聞も読まないしテレビだけ。そうなると話題は「あれ」だけになるんだなーこの先、何年生きても。

ホームに入れば「あなたあれは」「そうそうあれね」で話し相手もいっぱいいると思うんですけどね。

そう思うと、都市住人は読書卒業のタイミングがホーム入居のタイミングなのかなと。

 

沖縄で農家のお婆さんに味噌作りや麹作り、野草料理など習いに通ってたことがあります。こういうことが出来るお婆さんには若い友人もけっこういて慕われてましたね。

芸は身を助ける。とはいえ孤独死する芸術家は古今東西、多いので、「この道ひと筋」ではなく、ルネサンス期、レオナルド・ダ・ヴィンチのように「何でも出来るのが人としてあるべき姿」なのだと分かります。

 

もう50歳を越えたら老後。些細なことに喜び、手広く浅く何でもやる。それまでに極められなかった芸はほどほどに。

 

それでDJもやってるんですよ トルコ行進曲なんて極めませんて

 

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藤井一興先生没に思うこと

2025年02月14日 | 音楽

久しぶりの投稿。色々あって色々と思うこともあり、色々な映画を観て本も読み、多量のインプットに溺れかけてました

 

まずはメインの写真。このCDは9月に新宿のタワレコで見つけて買ったんだと思う。Amazonの履歴になかったから笑

いまだに・たまーに・CDも買います

ノスタルジーというのもあるけど、ハイレゾ未満MP3以上というCDの音質は、聴き慣れてるせいもあるけど元の録音さえ良ければ全然・悪くないと思う。

このエルフェのCDを見つけた時の衝撃はMobyのグラモフォンのアルバムとか久石譲氏のグラモフォンのアルバムを見た時以上のインパクトがありました。

 

感涙エルフェ先生、良かったね 

2004年に亡くなって20年後に手に取ることになるとは。

 

この録音は長らくずーーーーっとお蔵入りで、もう世に出ることもないだろうと思われていた幻の録音と言われていたもの。

 

エルフェがグラモフォンのために録音してリリースされる予定だったのが、ポリーニが「ブーレーズの2番のソナタを録音する」という事態になり、しかもベルクのソナタも録音することで完全に被ってしまい、グラモフォンとしてはポリーニを優先せざるを得なくなってエルフェの録音はお蔵入りとなったという経緯だったんです。

 

それが

ポリーニも死んで、グラモフォンとしても気兼ねなくリリース出来ることになったわけだ(か?)。ブーレーズが亡くなった(ポリーニ大嫌いなんでタヒ)直後もグラモフォンはポスト・クラシカルをけっこうリリースしだしたので、巨匠の死というのは寂しいながらも遅きに失する面も多々あるという。

 

カティア&マリエル・ラベックが、ダックワースのタイム・カーヴ・プレリュードを2曲、グラモフォンからのアルバムに入れているのを知った時以来の感動

 

年始にはこんなものを「マンガ倉庫」で見つけて買いました。未開封品

デジタル化が目的という訳でもないんですが(しますけどね)LPを聴いてみようかと思ったわけです。プレーヤーは何年か前に故障してHard offに(ジャンク扱いで)引き取ってもらった後は持ってなくて。別に機材を探してた訳ではないんですが、たまたま年始にマンガ倉庫に行ったら目に付いたという。たまたまとはいえHard off とか2nd Streetはけっこう使える機材があるので目的なくぶらっと寄るんですけどね。Book offでは帯を買ったな着付けも格闘中

LPはCDになっているものはほぼ手放したんですが、CDになってないものとか、捨てがたいものは残してたんです。

こんなものとか。エルフェはカサドゥシュの弟子です。つまりヤザワは孫弟子。奥様のギャビーさんはエルフェの自宅でのマスタークラスに何度かいらして半分・居眠りをされていたのを目撃してます 病院とか公園に行くよりは良い老後だと思う。お洒落もしてて、「カサドュシュ婦人だ」とすぐ分かりました。ジャッキー・ケネディ・オナシスみたく年取っただけで変わらなかったですね。

 

他、去年の12月に95歳で大往生された(とはつい最近知った。大学時代は「マミコン(間宮コンプレックス」と影で呼ばれてたから)間宮芳生先生(ピアノの名手)ご自身で演奏されている自作曲のLPやらラヴェルの自作自演(ド下手)という酷いものとか

ちなみに間宮先生の著書「野のうた氷の音楽」はヤザワの音楽人生の扉を開けた本です。この本に書かれている何行かが、私の音楽人生を決定的に導きました。本当に若い時期に出会って良かったと思う本。先生にサインもらったしね

マミコンだったので間宮先生とのツーショットもあるはず。どこだろう。探さなくちゃ。

 

と思ってた矢先、大恩人の藤井一興先生の訃報でもう

 

2日の桐谷斎場での葬儀・告別式に参列してきました。ものすごく寒い日だったということもあるけど、ショックで1週間ほど体調が乱れました

コロナ前の2019年に東京に行った時、先生のリサイタルが練馬文化センターであるのを見つけて行って、終演後に楽屋を訪ねたら;「あ〜た沖縄にいらしたのよねアタシまだ沖縄行ったことないのよ」「あ、じゃ今度なんか作りますね!いらして下さい!」とか言ってコロナになったわけです。

 

お葬式の引き出物の中に先生のCDが入っていて、その録音が練馬文化センターの時のものもあって泣けました

 

自分は先生の(先生活動も始めた)初期の生徒なんですが、先生が期待するような路線ではないのに、それでも真摯に導いてくれました。「あ〜た!今日はここまで弾けないとダメですよ!もうすぐ次の人が来ますから、あ〜たは地下で練習してて。終わったら見ます!」と仰られて、練習してると先生のお母様がお茶とおやつを持ってきてくれたり、ご飯をいただいたり

告別式でお会いした先生のお姉様がお母様にそっくりだったのもまた泣けました

 

レッスンに現代曲ばかり持ってくるヤザワに:「あ〜たも国際コンクール受けましょう!アタシ、コンクールの入賞者を出したいの」と言われても「めっそうもない。私なぞ」とやんわりかわすと「ちぇ」という顔をされました。

 

私は「愛の挨拶」「トルコ行進曲」「子犬のワルツ」「熱情」とかを弾くような人生は嫌だと思ってたんです。I've though ね。

 

藤井先生はフランスから帰国されて日本で演奏活動を開始して「あ〜た。日本だと静岡あたりでもまだドビュッシーとかはなかなか難しいのよ。トルコ行進曲とかでないと」と仰り、現代曲ばかり弾きたがる私を「世の中分かってないね」と思ってたようでした。

逆に私は「先生はそんな仕事はしないでフランスに戻ったほうがいい」と思ってました。先生はメシアン夫妻にも可愛がられ、ブーレーズにも紹介され、クセナキスと一緒にフランス政府から委嘱も受けて、デビューリサイタルは武満徹の主宰する「ミュージック・トゥデイ」だったのにナゼトルコ行進曲なのだしかもヤザワのレッスンまでこんなにしてくれて

と申し訳なくも貴重な時間を奪ってしまったなーと当時から思ってはいた。

今、ピエール・ローラン・エマールのCDがグラモフォンから出てるのを見ると、「先生の方がメシアンにもずっと可愛がられてたのにブーレーズだって推してくれただろうに」という気になってしまう。

忙しくもその中で楽しみを見つけて、何より音楽さえ出来ればどこでも幸せだったんだろうとは思うけど、類稀な才能を生かす土壌が日本には十分にはなかったと思えてならないんです。

 

藤井先生と一緒に撮った写真というのはないんですが、藤井レッスンを録音したカセットテープというのはけっこうあるはず。自力デジタル化しよう。と思って見てみれば・・・

間宮レッスンも三善晃レッスンもシュトックハウゼンのレッスンもあったのでした

もう宝 エルフェ・レッスンもずいぶんあるし。

レッスンで弾いてる自分はともかく、先生たちの声を聞いてみたい。泣くかな

私のクセナキスまでのレパートリーは藤井先生とエルフェに鍛えてもらいました。作曲家本人に聞いてもらえる場合は本人にレッスンしてもらって。こうして見ると、レパートリーで生きてた作曲家にはほぼ全員、聞いてもらえてるんですね。ベリオのレッスンというテープもある

 

自分の演奏スタイルが確立したのは30歳前後だったと思う。徐々にレッスンも必要ではなくなっていたけど(先生に聞いてもらって褒めてもらうだけで安心して本番に挑めるという精神的な面も含めて)、「もう今後はどんな曲でも譜読みから仕上げまで自力でやる」と思ったのは1998年。初演とかで作曲家に聞いてもらうのも「打ち合わせ」というスタンスになりました。聞いてもらわなくても別にいい。作曲家の頭の中で鳴ってる音を(良い意味で)裏切るような演奏をしたいと思うようになって。NYに住む前かな。

 

98年に演奏した矢代秋雄のピアノソナタは初演者にも誰にも何も聞かずに弾いた初めての曲だったと思う。先入観とか他人の解釈をなぞるような演奏はしたくないと強く思うようになった頃。近代音楽資料館に録音が残ってるけど、当時・矢代ソナタの定型的弾き方とはだいぶ違ったので、終演後に未亡人にシカトされたのを覚えてます「全く新しい矢代秋雄像を描いて欲しい」と仰った三善晃先生も困惑されてました。三善奥様と新実徳英先生は褒めてくれたなあ。平石博一さんも。

 

最初は、三善先生から頼まれた時に丁重に断ったんです。自分には向いてなさげな曲だし1ヶ月後はNYだし1週間前とか(4日前とかだったかも)はリサイタルだしで練習する時間もあまりないから暗譜も出来ないし。と言ったら「譜面見て弾いていいです、もちろん。ゼヒ新しい矢代秋雄像を」と押し切られたんですね。

連弾の相手を頼んだ矢代秋雄の生徒だったマブダチ蛭多令子氏には「ソナタはアタシがやりたかったなんでヤザワなの」と未亡人に根回ししてたのも三善先生に却下されて妬まれて。だからヤだったんだよオレだって三善先生に推薦してたんだから

 

だいたい(連弾とはいえ)仕事振って恨まれるとはなとこの件では後々までしこったんだよね。今も仲いいけど。その後、2年くらい経って三善先生から突然、「(私の東京新聞に書いた)エッセイを読んだ。スバラシ演奏に通じる明晰さがある」みたいなハガキを頂いたんですよ。終演後の態度を気にして反省してたのかな

 

ヤザワを導いてくれた人たちが鬼籍に入られるというのは本当に寂しいことです。

自分のことをよく知っている人というのは自分の1部でもあるので、肉体の1部がもぎ取られていくような感じがします。

親というのは確実に自分の中で生きている。良きにつけ悪しきにつけ。好みの味噌汁の具とか。

先生達の教えが自分の中で生きるように、存在を感じられるように過ごしたいと強く思いました。

 

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