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memories & ... そこはかとなく書きつくれば

和泉式部と児島高徳って?

2011年05月03日 | うろうろシテ(国内編)います。


和泉式部は紫式部、清少納言とともに平安時代(400年近く続いた)の三才女と言われています。
それにしても、100年に一人の女性が同時期に3人も。
その中でも美人だったのは和泉式部ではないでしょうか。
元祖プレイガール(当時の呼び名は浮かれ女)と言ってもいいくらい恋愛遍歴が華麗(皇子兄弟とか)だったようで、紫式部も「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と日記に書き残しました。
晩年の歌で百人一首の56番でも「あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな」と、とことん。
時代を下って南北朝時代(鎌倉~室町時代)の「太平記」の登場人物、児島高徳。
隠岐島に流される後醍醐天皇の救出に向かって果たせなかったけど、美作守護館の天皇宿舎付近の桜の木に「天莫空勾践(てんこうせんをむなしゅうするなかれ)時非無范蠡(ときにはんれいのなきにしもあらず)」(意味は、天は古代中国の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)
この美談(逸話)だけで、戦前教育のヒーローだったようです。
このお二人のお墓(いずれも全国に多数存在しますけど)が、ここ田舎にもありました。
余談ですけど、范蠡とその彼女西施が晩年を暮らした地、無錫の蠡園の写真はカテゴリー「中国旅行ですけど」にアップしています。

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