やわらかな午後の光が、
部屋の白さの中に溶け込んでいた。
こまやかな光の粒子が、
病室の窓際に揺れるカーテンをくぐり抜け、
清潔に整えられたベッドのシーツの上に
静かに舞い降りている。
俗世に支配された空気の濁りは日差しの中で浄化され、
ここでは全てが穢れのない光に包まれている。
そんな光の波に溶け込みながら、
吉岡は静かにベットの上で眠っていた。
微かに繰り返される呼吸がシーツを動かす以外は、
ひっそりと物静かに横たわったまま、彼は光の中で透き通っている。
誰も、何も、触れてはいけないと感じさせる
森の奥深くにひっそりと佇む湖のような清澄さが、
その寝顔には宿っていた。
窓のすぐ外にある欅の木の枝葉が、穏やかな木漏れ日を部屋へと運んで、
微かに蒼く透明がかった吉岡の白い皮膚の上に葉影を落としている。
それはゆらゆらと揺らめきながら、光の孤独をそこに映し出していた。
静かな午後の日だった。
流れを止めたような時の中に埋もれながら、
吉岡はただ静かに深い眠りに落ちていた。
僅かに開いた窓から忍び込んできた初秋の風が、
いたずらに吉岡の髪をそっと揺らしていく。
風が頬を撫でていくのを感じて、
ふっと吉岡は目を覚ました。
微熱をまとったその瞳は、少しだけ物憂げに、
風に揺れるカーテンをとらえた後、
ゆっくりと窓の外へと視線を移していった。
9月の冴えきった青空が、枝葉の隙間の中に
ちりじりに散らばっている。
吉岡は暫くその切り取られた空の破片を見つめていた。
なんて窮屈そうな空なんだろう・・・。
遮るもののない空が見たい、と吉岡は思った。
屋上に出よう。
午後の回診の時間までにはまだ間がある。
今なら病室を抜け出しても差し支えないだろう。
そう思って上半身をベットの上に起こそうとした途端、
右肩に激痛が走って、吉岡は思わず眉をしかめた。
情けないな・・・。
軽くため息をもらしながら、
吉岡は自嘲気味に再びベッドに体を横たえた。
集中治療室からこの個室病棟に移って一週間が過ぎたというのに、
療養しているという状況に未だに気持ちが付いていかない。
吉岡は白い天井をじっと見据えた。
焦っているのか?
落ち着けよ。
そう自分を戒めながら、吉岡はそっと瞳を閉じた。
傷に響かないように、深く息を吸ってみる。
そうすることで靄がかった焦燥感が、
少しだけだが晴れていくような気がした。
その晴れ間から、はるか昔に見た風景が心に浮かんできた。
それは子供の頃の吉岡が当時よく遊びに行った原っぱだ。
その風景の中で、小学生の自分がその当時仲の良かった
近所の友達たちとかくれんぼをして遊んでいる。
吉岡はうち捨てられたトタン板を盾にして、その裏に隠れていた。
もういいかーい?
と、鬼の役の子の声が遠くで聞こえる。
もういいよー!
それぞれの場所に隠れた友達の声がそこかしこから
聞こえてくる。
もういいよ!
吉岡も大きな声で言い返す。
みーっけ!
みーつけた!
一人、二人、三人と、
隠れた子らが次々に見つけ出されていく。
吉岡はまだみつからない。
みーっけ!
みーつけた!
最初は得意気に隠れていた吉岡だが、四人、五人、と
さらに他の友達が見つけだされていくうちに
だんだんと心細くなっていった。
夕焼け空は次第に暗さを帯び、最後に残ったひと塗りの赤色を、
かろうじてその一隅に残しているだけだ。
僕はここにいるよ!
寂しさに耐え切れなくなった吉岡がトタン板から身を出すと、
原っぱには誰もいない。
枯れた雑草だけが物寂く風に揺れているだけだった。
突然笑い声が遠くで聞こえてその方向へ目線を移すと、
原っぱから出た道を、今まで一緒に遊んでいた友達たちが
家路についている姿が見える。
みんな待って!
吉岡は皆に追いつこうと走り出すが、足がもつれて
うまく走れない。
みんな待って!
すると遠くの方から友達たちの会話が耳に入ってきた。
「ヒデちゃん、帰っちゃったね。」
「いつも遊んでいる途中でいなくなっちゃうね。」
「ヒデちゃんね、また遠くにいっちゃうんだって。」
「この間帰ってきたばっかりなのにね。」
そう言いながら友達の姿はどんどん吉岡から離れて
小さくなっていく。
違うよ、僕はここにいるよ!
ここにいるんだよ!
そこではっと目が開いた。
息が詰まるように苦しくて、
額にうっすらと汗が滲んでいる。
気だるかった。
あんなことを心に思い浮かべるなんて、
病み上がりのせいだ。
吉岡はまた軽く目を閉じた。
心を空にしようと、それだけに意識を集中させようとしたが、
しかし体が熱く、息苦しくて、
上手く意識を集中させることができない。
呼吸を繰り返す空気は心なしか重く、
蒸し暑いくらいだった。
人いきれするような暑さだ。
また熱が上がったのかもしれない。
だるさと体の熱に押しやられるように、
吉岡は横に寝返りを打った。
吉: うわっ?!
ゴ: ここは何処? 私はゴリ。
吉: なんで僕の真横に寝ているんですか、ゴリさん?!
ゴ: 徹夜続きの張り込みでな、ついウトウトしちまっただよ。
吉: 僕のベッドでついウトウトなんてしないで下さい。
いつの間に潜り込んだんですか?
ゴ: そんなのいつだっていいじゃんか。それよりな、
他にもっと気付くべきことがあるだろう? 周りを見ろよ。
吉: え?
一同:吉岡くんっ!!!
吉: っ?!
ゴ: とまぁ、大文字で省略しちゃったけどね、とにかく
こ~んなにたくさんの人がお前の見舞いに詰めかけて、
ここは一大事ってわけ。満員電車の中みたいじゃないですか。
息苦しいったらありゃしねぇ。
吉: あの・・
一同:きゃぁ~~っ!!
吉: ・・僕はもうだいじょ・・
一同:喋ったよっ!!!
吉: ・・・・・、
一同:・・・、らしいっ!
「いいかげんにしたまえ、君たち!」
とその時突然窓際の方から声がした。
みな驚いてその声の方向に振り向くと、そこには、
吉: マチャトンくん?!
白衣に身を纏ったマチャトンの姿が。
マ: いや僕はマチャトンではない。彼の兄だ。
吉: え、双子だったんですか、マチャトンくんは?
マ: いや、10つ子だ。
吉: は?
マ: 僕は八男のマチャハチです。君の同僚のマチャトンは
末っ子の十男でね、一番末ということで両親は彼の名の下に
「ん」をつけたんだが、それだとどうもコパトーンと間違われやすい
ということで、一般生活では略してマチャトンと呼ばれている次第なんだよ。
戸籍上での彼の正式名は「マチャトオ、ン」なんだ。
吉: ・・・そうだったんですか・・。
マ: と、こんなことを窓の外から言っていてもしょうがないな。
病室がギュウギュウ詰めで入れないから棟の壁に梯子を立てかけて
ここまで登ってきたんだが、こんな登場の仕方ですまないね。
ちょっと失敬してここから病室の中に入らせてもらうよ。
はぁ~よいしょと。それで吉岡君、傷の痛みはどうだい?
ちょっと見せてもらうよ。
マチャハチが吉岡の肩の包帯に手をかけた時、
「ちょっと待った。」
と今度は廊下の方から何者かの声が低く響いてきた。
病室のドアの方に一斉に振り返った人垣の向こうから、
その声は更に続く。
「見舞い解禁日ということで、せっかく足を運んでくれたのに
申し訳ないのですが、今日のところはお帰りいただきたい。
吉岡はまだ疲れています。廊下で見舞い日整理券を配っておりますので、
お帰りの際はお忘れなく受け取ってください。次回はその日付に従って
ここにお越し下さるように。それではみなさん、ごきげんよう。」
一同:えぇぇぇ~~?!
「お黙りなさい、駄々っ子たちよ。吉岡のことを思うなら、
ここは速やかに帰るべしなのです。わかりましたね?」
一同: しゅん。。。
となりながら肩を落とした見舞い客たちが、
ぞろぞろと病室から出て行くのと引き換えに、
ブランドものの細身のスリーピースをきっちりと着こなした
いかにもエリート風の紳士がドアの入り口に姿を現した。
カツカツカツ、と快活な靴音を響かせながら、彼はまっすぐに
吉岡のベッドまで歩いてきた。
吉: ボス・・。
ボ: 体調はどうだい、吉岡君?
ベッドの横に立ったその姿は、武道でもやっていたのだろうか、
姿勢の良さがきりっと際立っている。
吉: はい、もう大丈夫です。
ボ: そうか、良かった。顔色も幾分よくなったみたいだね。
安心したよ。
吉: ありがとうございます。
ボ: ゴリさんも徹夜明けのところごくろうさま。あ、これは失礼、
白衣を着てらっしゃるところから察すると、それではあなたが
くるまやの三平ちゃんですね?
マ: 違います。僕は吉岡君の担当医の堺マチャハチです。
ボ: そうでしたか。私は吉岡君の上司で警視庁捜査一課長、
花山院ビビンバと申します。
マ: ・・
ボ: いや、私の名前に驚かれるのも無理はない。
大丈夫ですよ、気になさらなくても。驚きのリアクションには
慣れていますからね。実は私の母親はスイス生まれのチロリアンでしてね、
父は東京と島根のハーフです。
マ: ・・・。
ボ: ちなみに妹の名は花山院ラバンバ。
マ: ・・・。
ボ: 祖母はヤマンバで、母はケロンパ、父はメルヘンです。
ま、とにかく、刑事として駆け出しの頃には、相棒だった石焼デカと一緒に、
「石焼っ!」「ビビンバっ!」「ビビンバはっ?」「石焼だっ!」
と呼び合ったお陰で、数多くのホシの心を和ませ自白に至らせました。
それで今日の私がここにいるというわけです。親には感謝しています。
ところでゴリさん、そこで何をしているのですか?
ゴ: カジキマグロをおろしているんです、三枚に。
志木那島漁連という所から今朝ここに届いたもので、
新鮮なうちにおろしておこうと思いましてね。
ボ: それは緊急なことなんですか?
ゴ: 緊急というよりなんといいますか、
早起きは三文の徳といった心境ですね。
ボ: それでは致し方ないでしょう。
マ: 何者なんですか、あなたたち?
ボ&ゴ: え?
マ: ここをどこだと思っているんです? 病院ですよ。
病室で魚をおろすなんてもってのほか、というかどうしてここに
カンガルーがいるんですか?
ゴ: ああ、こいつはラッセルーといって、吉岡が挙げた
ホシの部下だったんだが、その時吉岡が命を張って
相棒を助けた姿に心を打たれ更正してな、今では築地で
ういろう職人として立派に働いているんだ。いつか日本一の
オージーういろうを作るんだと、毎日一生懸命頑張っているんだよな、
そうだよな、ラッセルー? 俺はその話を聞いて・・くっ。。
ボ: ゴリさん、これを・・・。
ゴ: すまない、ボス。最近はすっかり涙もろくなってしまって・・。
ブビーッ!(←ハンカチで鼻をかんでいるらしい。)
マ: ・・・
ゴ: ブビーッ!
マ: ・・・・
ゴ: ブビーッ!
ボ: あ、吉岡君の顔色が。
マ: えっ?! ちょっとどいてくださいっ、ドロンパさんっ!
ボ: 失礼な。私の名前はビビンバですよ、マチャゴー先生。
マ: ふざけないでいただきたい。僕は八男のマチャハチです。
五男のマチャゴーではありませんよ。
ゴ: オレはマンゴーは好きじゃないな。
マ: 誰がマンゴーなんですっ? そういうあなたは誰なんですか?
ボ: 君たち!
マ&ボ: ?
ボ: パパイヤ、マンゴーだね?
マ: ・・・。 ハッ、吉岡君っ、大丈夫かっ?!
ゴ: キウイがどうしたって?!
マ: そんなこと誰も言ってませんよっ!
ふざけたことを言っているから、吉岡君が
貧血をおこしてしまったじゃないですかっ。
吉岡君っ、大丈夫か?! しっかりして!!
吉: 大丈夫です・・。ちょっと急に軽い目眩が。。。
マ: 外的ストレスのせいだよ。
こんなふざけた人たちに囲まれていたのでは・・・。可哀想に。
(キッ!)(←とボスとゴリさんを睨んだらしい。)
お二人とも、もう帰ってください。
せっかく順調に快復してきている吉岡君に、
マイナスな刺激を与えるのはやめていただきたい。
ボ: ・・・・・。
マ: なんですか?
ボ: ・・・・・。
マ: 何か僕に仰りたいことでも?
ボ: ゴリさん、ちょっと。。。
ゴ: はい?
ボ: ちょっとこちらへ。
ゴ: はい。
ボ: ヒソヒソヒソヒソヒソヒソヒソヒソヒソヒソ
マ: 部屋の隅でなに内緒話しているんです?
ボ: え?
マ: 言いたいことがあるなら、ヒソヒソ言ってないで
きちんと他の言葉で言ったらどうですか?
ボ: こそこそこそこそこそこそこそこそこそ
マ: コソコソだって同じことですっ!
ちゃんと面と向かって意見してください!
ボ: そんなに聞きたいと仰る?
マ: ええ。正々堂々と言ってください。
ボ: “マグロはたたきにしてください、ゴリさん。”
と言っていたんです。
マ: 出ていってください。
ボ: わかりました。そこまで言うなら、吉岡君、
出て行ってくれ。
吉: はい。
マ: 吉岡君が出て行ってどうするんですかっ?!
吉岡君、ちょっと、ちゃんとベッドに寝てて、ね?
傷口が開いちゃったらどうするの?
いいですかババンバさんたち、ここから出て行くのは
あなた達の方なんですよ!
ボ: そんなことは初耳ですね。
マ: 常識です。とにかく今すぐ退室してください。
ボ: そうは問屋が歳末セールとでも申しますかな。とにかく、
捜査の邪魔はしないで頂きたい。
マ: 捜査?
ボ: ・・・あ
マ: ちょっと待ってください。捜査とは何のことですか?
ボ: ・・・・。
マ: まさかこんな状態の吉岡君に任務命令をするとでも?
ボ: ・・・。
マ: そんな無謀なことをしようと思っているのではないでしょうね?
ボ: ・・・・。
吉: ボス?
ボ: (プイ。)
マ: 知らんぷりしても無駄ですよ。いいですか、
吉岡君はまだ回復していないんですよ。まだ十分な休養が必要なんだ。
そんな彼に新しい任務を下したらどんなことになるか・・・。
捜査への復帰は主治医の僕が許さない。帰ってください。
当分彼への面会は控えさせていただく。
ゴ: ちょっと待てよ。吉岡の意見はどうなんだい?
マ: え?
ゴ: 吉岡の気持ちも聞かずにてめぇ独りで決めることじゃねぇだろうが。
おい、吉岡、お前の気持ちはどうなんだ? 捜査に出たいのか、
ここで大人しく寝ていたいのか、どっちなんだい?
吉: ・・僕は、
マ: 吉岡君?
吉: 僕は・・
ボ: 吉岡君?
ゴ: (スパー。)
マ: 禁煙ですよ、ここは。
吉: 僕は・・・・捜査には一日も早く戻りたいです。でも、
今のこの体の状態では、それは到底出来ない事だとわかっています。
もし今仮に捜査に出ても体がついていかず、チームに迷惑を
かけてしまうことは必至です。ボスやゴリさんの期待はとても嬉しいです。
しかし、期待に応えたいという自分の欲だけを追い求めたら、
いい仕事は出来ないと思うんです。僕は・・僕は欲には負けたくない。
弱気な奴だと思われるかもしれませんが、それが今の僕の正直な
気持ちなんです。すみません、僕は今捜査には戻れません。
マ: ・・・。
ボ: わかりました。吉岡君、君の言うことはもっともだ。
優秀な君に頼って無理を押し通そうとした私が悪かった。
傷が完治するまで、ゆっくり休んでくれたまえ。
秘密捜査のほうは、君の相棒のマチャトオ、んくんに
代わりに出てもらうことにしよう。君は心配しないでいい。
ゴリさん、行きましょう。君もだよ、ラッセルー君。
二人と一匹は病室のドアへと向かっていった。
彼らの背後でドアが閉まり、
そして病室は再び元の静けさに包まれた。
マ: すまなかったね、吉岡君。無理な答えを言わせてしまって。
吉: いや、あれが正直な気持ちだったんです、本当に。
そう言って吉岡は少しだけ困ったように微笑んだ。
そんな吉岡の顔を驚いたような表情で見つめた後、
マチャハチはベッドの横にある椅子にそっと腰を掛けた。
聴診器を首から外して、それをサイドテーブルの上に置いた。
白く統一された部屋の中で、その聴診器の存在は、
マチャハチにはひどく不釣合いのように見えた。
そこから目線を吉岡に移すと、まっすぐに澄んでいる彼の瞳と目があった。
マ: そっか・・・。
吉: ?
マ: 弟のマチャトンが、君をかけがえのない大切な友人だと
言っている意味がよくわかる気がするよ。
吉: え?
マ: 弟はいい友人をもっているんだな。
吉: ・・・。
マ: 無事に退院したら、快気祝いに一杯飲みにいこうか?
今度は吉岡が驚いてマチャハチの顔を眺めた。
少し照れくさそうな表情を浮かべながらマチャハチは
窓の外に目線を移した。その彼の背後で、
僅かに色づき始めた木々の葉が光と影の中で揺れている。
その光彩に、すっと吉岡の気持ちは吸い寄せられていく。
午後の木漏れ日の中でキラキラと風に揺れながら
命の美しさを謳っている葉たち。
やがていつかは、季節と共に枯れ落ちていくという
葉たちの宿命も、いま目の前にしている
その生命の美しさを前にすれば、
それはあまり悲しいことではないことのように思えた。
大切なのは、今この瞬間を生きることなんだ。
この一瞬を感じることなく、
どうして未来へと気持ちが繋がっていく?
日差しにきらめく葉を見つめながら、
ふとそんな思いが吉岡の頭によぎっていった。
視線を病室に戻すと、同じく視線を元に戻した
マチャハチと目が合った。
吉: そうだね。全快したら一緒に飲みにいこう。
そう言った吉岡の顔は、一層澄んだ輝きを放っていた。