月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

吉岡刑事物語・その20

2009年04月22日 | 小説 吉岡刑事物語






「筒井・・・、」

前方の道を見据えながら、
萩原は助手席から筒井に呼びかけた。

「なんだ?」

ハンドルを操作しながら筒井は答える。

「道まちがってるぞ、また」

また、という部分を強調しながら言った萩原の目は、
半ば据わっている。

「どこが間違ってるんだ? ちゃんと走ってるじゃないか」

筒井の運転するボルボは、まったく人気のない山間の道を走っている。
それは百人中百人が、はて?、と首をかしげたすえ、
眉間に皺を寄せながら思わず天を仰いでしまう、
要するにそれは誰の目にも絶対的に明らかに、
迷い道であった。
萩原は前方に広がる果てしのない暗闇から運転席へと視線を移し、
あからさまな呆れ顔を筒井に向けた。
我が道を行く筒井は、全く動じる様子がない。
萩原はうんざりしながら言葉を続けた。

「アクセルを踏めば車は前に走るんだよ。そうじゃなくて、
ちゃんと目的地へ向かって走ってくれよ。っていうかいつも思うんだけどさ、
なんでお前のボルボにはナビが付いてないんだよ?」

「あんなもん信用できるか。俺は俺の直感を信じてるんだ」

「そのお前の直感で、何度も路頭に迷わされたのは
他でもない俺たちなんだぞ。なぁ、ヒデ?」

萩原は首を回して肩越しに後部座席を振り返った。
吉岡は運転席裏のシートにちょこんと座りながら、
可笑しそうに二人の会話を聞いている。

「腹減ったなぁ」

ハンドルを握り締めながら筒井は話題を替えた。

「道だけじゃなくて話もそらす気かよ、筒井? 見ろよ~周りを~。
真っ暗じゃないか。どこなんだよここ?」

「そんなこと俺に聞くなよ。ここはどこなんだ、ヒデ?」

「ヒデが知るわけないだろ?」

「うるせぇな、ハギ。だいたいお前は細かいんだよ」

「筒井が大雑把過ぎるんだろ。お前の運転のおかげで
何度窮地に立たされたことか。高校の卒業式の日だってそうだよ、
あの絶対に忘れられない不動の消えぬ思い出を作ってくれたのは、
何を隠すでもなくそれはずばり君だよ」

「今頃感謝なんてするなよ」

「誰が感謝するんだよ。あの日だって式のあと、
大磯の海に行こうって車を出発させたのに、
着いたら秩父の山奥だったじゃないか。
どこをどうやったら大磯と正反対の秩父に着くんだよ?」

「その秩父の山奥で鮎の塩焼きをうめぇって涙流しながら
16本も食った挙句に腹こわしたのは誰だよ? それにな、
お前だって助手席に乗ってたんだから、
あの時に道に迷ったのは何も俺だけのせいじゃないぞ」

「お前が絶対に横から口出しさせなかったから迷っちゃったんだろう。
ちなみに訂正しておくけどさ、あの時に、じゃなくて、あの時も、だろ。
いい加減その怒涛を極める方向音痴ぶりを認めろよ」

「誰が方向音痴なんだ?」

「お前がだよ。 知ってるんだぞ、この前、秀人から聞いたんだ。
パパの車でずっと行きたかったディズニーシーに行ったら、
そこは鴨川シーワールドだったって。泣かせるなよ、子供を」

吉岡は堪えていた笑いを溜まらずに噴きだした。

「同じシーじゃないか。大して変わりないだろ、同じ千葉県内だし。
笑いすぎだぞ、ヒデ」

萩原は視線を車窓に戻し、後方に流れ飛んでいくうら寂しい景色を見て、
絶望的なため息を漏らした。

「筒井、やっぱり海じゃなくて山奥に行こうぜ。
そうすれば逆に海に辿り着けるかもしれない」

プッ、とその時オナラの出る音がした。

「うわっ、何だよ筒井っ、屁こくなよっ! くっせぇーな!」

萩原は急いで助手席のパワーウィンドーを下ろした。瞬間、
ビュ~っと凍てついた風が猛烈な勢いで車内に入り込んできて、
萩原は即効で窓を閉めた。

「確信犯だね、筒井くん?」

据わった目で筒井の横顔を睨んだ萩原の髪は爆発している。

「お前が理屈ばっかりこいているから、その上に屁を付け足してやったんだ。
男は言葉ではなく態度で示せと親父から常々言い聞かされている。
筒井家の家訓だ」

「窮地に立ったら屁をこけって? スカンク一族かよ、お前んちは」

筒井はヒーターの温度をぐいっと上げた。

「うわ、匂いが発酵するだろうっ、ふざけんなよ、筒井!」

萩原は出来るだけ体を助手席の窓に寄せて匂いから離れた。
吉岡は後部座席に横になって笑いころげている。

いつ聞いても心地良い笑い声だな・・・。

逆立った髪を手で直しながら萩原はふと思った。
人の気持ちにふっと羽をつけてしまうような笑い声を
ヒデは持っている。
草原の緑をやさしく吹いて揺らしていく
そよ風ような感覚にも似ている。
思わずもらい笑みを顔に浮かべながら、
萩原は車窓に目線を移した。
信号さえない暗い田舎道を、ボルボはひたすら突っ走っている。
不意にカーステレオから聴きなれた歌声が流れてきて、
自動的に伸びた萩原の手がステレオのスイッチを消した。

「やめてくれ、筒井。お前、いい加減、堀ちえみなんか卒業しろよ」

筒井は横目で萩原を睨んだ。

「ちえみちゃんをバカにするような言い方はよせ。女神なんだぞ、
ちえみちゃんは」

「へぇ~」

「なんだよ、へぇ~とは?」

萩原はCDをカーステレオから取り出して目の前にかざした。

「堀ちえみベストって・・・なんですか?」

「女神の最高傑作集じゃないか」

「ふざけるのは方向感覚だけにしてくれよ」

萩原は持っていたCDをポンとダッシュボードの上に投げ置いた。

「おいっ、傷がついたらどうするんだっ? 限定版なんだぞっ!」

吉岡は後部座席に横たわりながら、
二人のやりとりを黙って楽しそうに見つめている。
その眺めはいつものように、
吉岡の心をほぐすように和ませた。
約束をとりつけるでもなく、
誰かが集合の合図をかけるでもなく、
当たり前のように三人自然と集まって、
特別なことは何もせず、たださりげなく傍らにいる。
いつも三人はそうしてきた。
吉岡の母親が勝手に家を出たときも、
好きになった年上の女性がニューハーフだったと
放課後の教室で萩原が泣き崩れた時も、
可南子が結婚すると聞いて打ちひしがれた筒井が
居酒屋で酔っ払って障子を頭突きしてぶち壊した時も、
その壊した障子を直しに次の日その店に戻った時も、
萩原の妻が十歳も年下の男と突然駆け落ちした時も、
19歳の時から長年付き合って婚約した恋人と
吉岡が別れなければならなかった時も、
みんな自然とその場に一緒にいた。
三人の奏でる風景は、
昔と少しも変わらない。
変わらずに、
今この時も、
そこにいてくれる。
午後のやわらかな日差しに包まれていくような感覚に、
吉岡はそっと瞳を閉じた。
目の奥に、思い出の一風景が鮮明に浮かび上がってくる。

逃げ水の浮かんだ田舎道と、
パンクした筒井のポンコツ車。
道端に座り込んで三人で眺めた、
夏草の緑とぬけるような青空。

そうだ、あの時も、
道に迷っちゃったんだっけ・・。

「それにしても腹へったな」

目を閉じた吉岡の耳もとへと、
運転席から筒井の声が届いてきた。

「こんな田舎、コンビニだって探してもどこにもないぜ。
クマぐらいしか生息してないよ、こんなところ」

ため息をついて言った萩原の声がつづいて耳に入ってくる。

「クマが生きているのなら、人間にだって食うものはあるさ」

瞳をやわらかに閉じたまま、
吉岡は二人の会話にそっと微笑んだ。

「野生のおぼっちゃまと威名を馳せたお前ならクマ食だってなんだって
食えるだろうけどな、文明人の俺とヒデは心も胃腸も繊細なんだ。
そうだよなぁ、ヒデ?」

萩原は同意を求めるように後部座席に振り返って、そこで
地蔵のように固まった。

「寝てるよ・・」

キィーッとタイヤが路面に軋む音と共にボルボが急停止し、
筒井は後部座席に振り返った。
ころん、と子犬のようにシートに横たわって、
吉岡はすやすやと安らかな寝息をたてている。

「三秒前まで笑ってたよな、ヒデ・・」

萩原は半ば感心したように吉岡の寝顔に見入っている。

「子供みたいな顔して眠ってるよ・・」

「疲れているんだろ」

フロントガラスに顔を戻してそう言うと、
筒井は運転席のドアを開けて表に出た。
ハッチバックを開けて中から毛布を取り出し、
それから後部座席のドアを静かに開けて、
眠っている吉岡の体をそっと毛布でくるんだ。
コホコホ、と吉岡が軽く咳き込む。
筒井は毛布を掛けなおすふりをしながら、
さりげなく吉岡の首に手を当てて体温をチェックし、
そのほんの微かに赤みをおびている顔色を
確かめるように見つめた後、無言で運転席に戻り、
黙りこんだまま再び車を発進させた。

「昔からヒデの特技だったよな・・・」

シートに身を沈めながら萩原は口を開いた。

「気付くといつのまにか寝ちゃってるって」

「学生の頃はいつも夜遅くまでバイトしてたからな、ヒデは。
しんどかったんだろう、すごく。そんなこと絶対口には出さなかったけどさ。
今だって・・、」

と言った言葉を一旦切って、筒井はハンドルを握りなおした。

「いつもこうして眠れているわけじゃないんだろうけどさ・・・」

ボルボの放つベッドライドが、漆黒の夜道を前方に白く照らし出していく。
暫くの間、二人は互いに黙りこんでいた。

「どうしてヒデは刑事なんかになったんだろうな・・・」

しばらくして萩原が呟くようにポツリと言った。
筒井は黙って前方の道を見つめている。
萩原は遠くを見つめるような目を車窓へ向けた。

「どんなときだって、ヒデは人を一方的に裁量したことなんて
絶対になかったのに・・・。刑事になるなんて思いもしなかったよ・・。
変わってないけどさ、ヒデの無色透明な公正さは今も・・」

車窓の景色は、闇が何処までも真っ黒な墨を周囲に落とし、
前方へと続く道は、何処までいっても先が見えない。
萩原は視線をぼんやりと中空に漂わせた。

もし・・・・
もしヒデが別の道を進んでいたら・・・
もしヒデが刑事にさえなっていなかったら・・・
もしヒデが別の女性を愛していたら・・・
もし・・・

そこまで考えて、萩原はかぶりを振った。
そんなこと考えたって・・・仕方がない。
仕方がないくらいに、人生は、現実を曝け出す。
人生に、「もし」、なんて、ない。
そこにあるのは、
選ぶ人生と、
選ばない人生と、
選べない人生と、
選ばざるをえない人生だ。
ヒデは・・・

選んだんだ。

「変わらないさ、ヒデは」

筒井の声に萩原はふっと我に返った。

「常に自分に疑問を投げかけられるのがヒデじゃないか。
変わらないさ、ヒデの芯はこれから先もずっと」

遥か彼方に、人家らしい明かりが見え隠れし出した。
チラチラと星屑のように瞬いているその光を、
じっと見据えるように眺めながら筒井はそう言った。

「・・・ずっとって・・・ずっとなんだよな?」

隣でぽつりと萩原が問いかけてくる。

「・・・そうなんだよな、筒井?」

筒井の眉根が前方を睨むようにぐっと寄った。
道端にポツンと取り残されたように立っていた電灯が、
近づいてきたかと思うとまたすぐに後方に流れ去っていった。

「・・・そうだよ、これから先もずっとだ」

静まりきった車内に、筒井の声が錘のように沈んでいった。
後部座席に、二人のかけがえのない安らぎが
そっと静かに横たわっている。



助手席のシートの中で萩原は目を覚ますと、
辺りは濃い朝霧の中に包まれていた。
隣を見ると、両腕を胸の前に組んだ筒井が、
運転席の背にもたれて目を閉じている。
萩原は顔だけを動かして、そっと後部座席を見た。
いつの間に起きていたのか、シートに座って、
窓に頭をもたれかからせながら、吉岡はそっと静かに外の景色を眺めていた。
たらりとすべり落ちたように力なくシートの上に置かれた吉岡の掌には、
包装紙に包まれた小さな飴玉が一つ乗っている。
朝霧を見つめている吉岡の目は切ないくらいに儚げで、
声をかけたら簡単に砕けてしまいそうなガラス細工のようだった。
繊細なその姿は、手を伸ばせばすぐ近くの距離にいるのに、
しかし何故かとても遠く決して手の届かない場所にいるような感覚がして、
萩原は急に不安な気持ちに包まれた。

ヒデ、

呼びかけようとした気配に気付いた吉岡が、
すっと萩原に顔を向けた。
涼しげな目元に、やわらかな笑みがふわっと浮かぶ。

「おはよう」

穏やかなその声と一緒に、ふいに吉岡が近くに戻ってきたような気がして、
萩原は無意識のうちに安堵のため息をもらしていた。

「着いたぞ」

つづいて聞こえてきた筒井の声に、萩原は運転席を振り返った。

「よく寝たなぁ」

シートの中で大きく伸びをした筒井の目は、しかし真っ赤に充血している。
萩原は助手席のシートに体を戻して落ち着けながら、

「着いたんじゃなくて、行き止まりだったんだろう?」

と言いながら足元に置いてあるコンビニの袋の中から
缶コーヒーを一缶取り出して筒井に軽く投げた。
結局昨夜は、道中やっと一軒だけ見つけたコンビニで
大量に食べものを買い込んだ後、一晩中車を走らせた先に行きついた、
この閉鎖中のキャンプ場の駐車場で車中泊をした。
車のデジタル時計は今、朝の6時を表示している。
山の尾根から舞い降りてくる朝霧が、
周囲を白く染めながらゆっくりとした速度で谷間へと流れていった。

「寒そうだよな、外・・・」

フロントガラスの向こうに流れる霧を眺めながら萩原は言った。

「そりゃ寒かろうよ」

缶コーヒーを一気飲みした筒井が平然と答える。

「寒いと思うな」

さりげなく言う吉岡の言葉がそれにつづき、
三人三様の面持ちで車窓を見つめていた三人は、
一呼吸おいた後一斉に車外へ飛び出した。

「さびぃ~~~~~~~~」

その場で三人同時に縮みあがりながら、
しかし誰も車の中に戻ろうとはしない。

「さびぃ~な、ちきしょう!」

叫びながら筒井がコートの襟を立てる。
そんな筒井に笑いかけながら、吉岡はその肩越しにふと目を止めた。
目を凝らしながら、まるで何かの力に手引きされるように
吉岡はそのまま前方へと歩いていき、そして暫く進んでからふと足を止めた。
天を見上げる吉岡の前方に、霧のカーテンに見え隠れしながら、
峻険な岩壁が聳え立っている。
どっしりと構えたその姿は揺らぎなく、
まるで大きく無条件に懐を包み込んでくる
父性のよう威厳さを感じさせた。
畏敬の眼差しで、吉岡はその威容を暫く黙って仰ぎ見ていた。

「山は戻ってくるために登るんだ、って誰かが言ってたよな」

いつの間にか隣に並んでいた筒井が静かに話しかけてきた。
聳え立つ岩肌の果てを見上げている吉岡の瞳に切なげな色が浮かんでいく。

「うん・・・」

「もっともな言葉だよな」

「・・・・そうだね」

二人はそのまま黙って、目の前に立ち聳える山の姿を眺め続けた。

「下山祝いしておこうぜ」

ふいに聞こえてきた声に二人は同時に振り返ると、
両手にコーラの缶を持った萩原が背後に立っていた。

「お前、登りもしないのに・・・」

と言いかけた言葉をふと筒井は止めて、

「こんなさみぃのにコーラかよ?」

と言い直した。ほがらかに笑う吉岡の笑い声が不意に咳へと変わっていく。
萩原は手に持ったコーラの缶を思いっきり振ったあと、ほら、と言いながら
吉岡に向かって一缶投げた。

「うわっ」

すぐに缶を開けた吉岡に向かってコーラが勢いよく噴きだし、

「なにやってんだよ、ヒデ!」

思わず横に逃げた筒井が大笑いした。
びっくりした~と言いながら、
右手に持った缶を体から遠ざけた吉岡の姿に萩原も大笑いしている。

「お前、今なにも考えずに缶の蓋あけただろ?」

「うん・・」

萩原の言葉にちょっと困ったような笑みを浮かべながら、
吉岡はコートの袖で顔を拭った。

「今さっき目の前でハギが、マラカス振るみたいに
缶を勢いよく振っていたの見てただろう?」

「ヒデ、髪。髪ぬれてるぞ」

え? と応えながら前髪を拭こうとして、
額に傾けた右手がコーラの缶を持っていることに気付いたときには、
滝のように流れ落ちたコーラが吉岡の靴をぬらしていた。

「あ、」

筒井は更に爆笑した。

「ばっかだな、お前。なにやってんだよ」

吉岡は更に困ったような顔をしながら、

「間違っちゃったよ」

と言って笑った。

「何度やってもひっかかるんだよな~。素直すぎるんだよ、ヒデ」

可笑しそうに笑いながら言った萩原の合い向かいで、
筒井がまだ大笑いしている。

「なにやってんだよ、ヒデ」

そう繰り返し言いながら笑い過ぎて笑いが止まらなくなった顔を、
筒井はつと横に逸らした。
萩原はふと真顔に戻って筒井の顔を見た。
笑っている筒井の瞳に、涙が滲んでいる。

「なにやってんだよ・・ヒデ・・・」

筒井は顔を見られないように、二人から顔を背けるようにして言った。

「ばかだな・・・」

「・・・・うん」

頷いて、ハーフコートに飛んだコーラの水滴を手で払いながら、
吉岡はそっと静かに筒井に答えた。

「そうなんだ・・・」

ヒデ・・・、

筒井はぎゅっと拳を固く握り締めた。

「何やってんだ・・・」

何をやっているんだよ、ヒデ・・・・。

「春になったら海に行こうぜ」

思いがけず落ち着いた萩原の声に、
筒井と吉岡は同時に顔を上げた。

「今度こそ海に行くんだ、三人で」

萩原は二人に向かってはっきりそう言うと、

「道に迷うなよ、筒井」

と言って、大きく振ったもう一本のコーラの缶を二人に向けて開け放った。

「うわっ、やめろよ、ハギ!」

缶からほどばしり出るコーラから逃げるように、
筒井と吉岡はボルボに向かって走っていった。
その後を萩原が追いかけていく。
山頂からひっそりと舞い降りてくる朝霧の隙間から、
金色の朝日が差し込んでいた。
霧と光が揺れ流れる中を、
三人の姿が真っ直ぐに駆けていく。






つづく

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吉岡刑事物語・その19

2009年04月17日 | 小説 吉岡刑事物語




筒井内科医院と縦書きに印字された磨りガラスの戸を外に開けた瞬間、
目の前に立っている吉岡の姿に筒井は一瞬目を瞠った。

「ごめん、遅れちゃって・・」

すまなそうに詫びる吉岡に、

「早く上がれ」

筒井はそう短く答えて、そのまま診察室へと踵を返した。
背後でパタンとドアが静かに閉まる音がして、
スリッパを履いた足音が、素直にその後についてくる。
薄暗く長い板張り廊下を半分ほど進んだところで、
筒井は足を止めて吉岡に振り返った。

「どれくらい吐いたんだ?」

「え?」

筒井に合わせてその場で足を止めた吉岡は、
唐突なその質問の意味がすぐに飲み込めずに、
驚いた顔を浮かべたまま筒井の顔を眺めた。

「喀血したんだろう?」

吉岡の顔からすっと表情が消えていった。
長年見慣れている筒井の力強い視線が、
まっすぐに吉岡の目を見捉えてくる。

「一升瓶一本分くらい吐いたのか?」

低くトーンを落とした筒井の声が、暗い廊下にくぐもっていく。
吉岡は言葉を失ったまま、視線を宙へと動かした。

「どれくらい血を吐いたんだと聞いているんだ」

「・・・どして・・」

「分かるに決まっているだろう」

やっと出てきた吉岡の言葉を筒井はかき消した。

「長い付き合いだ。顔を見れば分かる」

吉岡は開きかけた口を再び閉じて、筒井の顔を見つめ直した。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、と
待合室の壁に掛かった柱時計の秒針音が、
静まり返った廊下に立つ二人の空間に時を刻んでいく。
吉岡の真向かいに立っている筒井の顔には、
怒りと焦慮感が入り混じったかの表情が
その皮膚の奥深くに沈殿していた。

「よく・・覚えていないんだ・・」

やがて吉岡は静かに答えた。

「いつ吐いた?」

「ここに来る・・・ちょっと前かな・・」

筒井は押し黙ったまま暫くじっと吉岡の顔を見据えていたが、
しかしそれ以上は何も言わず、再び踵を返して廊下を歩き出した。
数歩遅れて、吉岡もその後に続いていく。
廊下との仕切りカーテンを開いて、明るく照明灯のともった
診察室の入り口を跨いだ吉岡の歩みが、ぱたりと止まった。
萩原が診察椅子に座って雑誌を読んでいる。

「よう」

驚いてその場に立ちつくした吉岡に、
萩原は雑誌から顔を上げずに声をかけた。
問いかけながら横へ動いた吉岡の視線が、
黙り込んだまま点滴の準備をしている筒井の姿を捉えていく。
静まり返った診察室の中には、
雑誌のページを捲る音と、
点滴の準備音だけが、
その場を取り仕切るかのごとくに聞こえていた。
吉岡は診察台へと静かに歩いていき、ハーフコートと、
ダークグレーのスーツの上着を脱いで脱衣籠の中に入れ、
左腕のシャツの袖を二の腕半分まで捲り上げてから診察台の上に横になった。
点滴スタンドを持ってきた筒井がその横に立ち、
手馴れた手つきで吉岡の肘内に点滴針を刺し込んでいく。
吉岡はまるで他人事のように、その様子をぼんやりと眺めていた。

「点滴が終わるまで、ちゃんと横になっていろよな」

肌に差し込まれた点滴針をテープで固定し終えると、
筒井はそう言い残してから診察室を出て行った。
廊下を歩く筒井の足音がだんだんと遠くなっていき、
入り口のガラス戸が開閉する音がした。
中庭の砂利道を母屋の方へ向かっていったその足音は、
やがて夜のしじまの中へと埋もれていった。
吉岡は天井に向けていた顔を横に向けて萩原を見た。
何食わぬ顔をして萩原は、普段は決して読むことのない、
自分の勤める新聞社のライバル社が発行している
大衆向け娯楽情報雑誌に目を通している。

「ハギ・・・、」

呼びかけた吉岡の声に、
相変わらず開いた雑誌の頁に顔を向けたまま、

「お前がこの前挙げた元裁判長拉致事件、あれ不起訴になるぞ」

と萩原は口を開いた。

「せっかく白星をあげたお前には気の毒だけど」

「白星をあげたわけじゃないよ」

萩原は雑誌から顔を上げて吉岡の顔を見た。

「お前の手柄だろ。みんなそう思ってるさ」

そうじゃないんだ、と言いかけた口をそっと噤んで、
吉岡は静かに天井を見上げた。萩原の言葉が耳に続く。

「起訴して裁判になれば、元裁判長がやらかした過去の誤審のことは、
新聞雑誌の格好の餌食になることは火を見るより明らかだからな。
護衛手段の不起訴だよ。ああいったお偉いさんらの考えそうなことさ」

萩原は読んでいた雑誌を診療机の上に放り投げ、

「腐っていやがる」

と吐き捨てるように言って椅子から立ち上がった。
それから診察台の横にある回転椅子に腰を掛けて、
そうするのがいつもの癖であるように、
スーツのポケットから取り出した煙草箱から一本引き抜いて口にくわえ、
内ポケットのライターに手を伸ばしかけたところで、
ふと動きを止めた。わずかな角度で動いた視線が、
診察台に横たえられた吉岡の腕の点滴針で止まった瞬間、
萩原の瞳にさっと暗い翳が走っていった。
辺りを押し包むような沈黙が部屋に舞い降り、
乾いた音を立てた木枯らしが窓の外を吹き抜けていった。
萩原は口にくわえたタバコを箱に戻し、吉岡の顔を見た。
いつもと変わらない穏やかな瞳が、萩原の顔をすっと見つめ返している。
萩原は視線を手前に戻し、
眠たげな速度で吉岡の身体の中へと落ちている点滴の雫を
言葉もなくじっと見つめた。

「ごめん、これちょっと時間がかかるんだ」

明るく放たれた吉岡の声が耳に聞こえてくる。

「なに言ってんだバカ・・」

萩原はそう応えて、それから沈黙の中に身を沈ませた。
吉岡は萩原からそっと視線を逸らし、
再び見上げた天井を見るともなしに見つめていた。
形にならない思いの破片が、
砂時計から落ちていくような速度と重さで、
部屋の底へと降り積もっていく。

「ヒデ・・・、」

どれくらい時間が経ったのか、萩原が口を開いた。
吉岡はそっと萩原に顔を向ける。

「お前なら、もう知っているんだろ?」

しまい忘れていた煙草の箱を上着のポケットの中に押し戻しながら、
萩原は訊いた。

「さっちゃんの親父さんの事件には、総会屋も絡んでいること」

黙ったまま答えないでいる吉岡の顔を、
萩原は確かめるようにじっと見つめ直す。

「お前の思惑通りだよ、ヒデ。あの事件には警察庁のお偉いさんが絡んでる」

萩原を見つめていた吉岡の口が微かに開いた。

「この前、賄賂疑惑をかけられた責任をとるといって自殺した
代議士の秘書がいただろう?その秘書の、ないといわれていたはずの
遺書が出てきたんだ」

萩原は両肘下を腿のうえに乗せて、
身を乗り出すような姿勢で言葉を続けた。

「その遺書の中に、あの事件にかかわった黒幕達の名前が羅列してあった。
遺書を極秘に入手した俺の先輩の口から直接聞いたことだから間違いない。
そのことを記事にしてデスクに出したその先輩は速攻で地方に飛ばされたんだ。
どうしてだかわかるだろう? 図星だったからだよ」

「ハギ、それを知ったことが周りに洩れたらハギだって・・」

「そんなことはお前が心配することじゃないだろう。
俺が勝手にやっていることなんだ。そんなことより、
桜田門にお勤めのお前がこれを嗅ぎ回っていることが奴らに知れたら、
只じゃすまないことくらいお前ならとっくにわかっているんだろ?
第一お前、こんな身体でどうやって・・・」

萩原はそこで言葉を飲み込んだ。
微かな通電音をたてている蛍光灯が、蒼白く仄かな光を
吉岡の薄い皮膚に染み透らせるように照らしている。
遠くの方から、中庭を渡って診察所に戻ってくる筒井の足音が、
静寂を揺らしながら聞こえてきた。

「ヒデ・・・、」

萩原は顔を上げて吉岡に呼びかけた。

「約束してくれ・・・」

「・・・・何を?」

「戻って来るって」

萩原の顔を見つめていた吉岡の眼差しが、
一瞬霞んでいく。

「俺も筒井も、この事件に対するお前の行動に関しては何も言わない。
言えないさ。だけどこの事件が終わったら必ず戻って来いってことは
俺らにだって言えるだろ」

萩原はそう言って吉岡の目を見つめ直した。
吉岡は、何も言わずに黙っている。
逆らうでもなく、従うでもなく、迷うでもない、
物静かな眼差しで萩原の顔を見つめてくる。

「戻ってこいよな、ヒデ」

筒井の足音が廊下に響きながら更に近づいてくる。

「戻って来い、絶対に」

本当は行くな、と喉まででかかった言葉を萩原はかろうじて飲み込んだ。
吉岡は黙っている。

「ヒデ、聞いてんだろ?」

秒速に急き立てられながら言葉を急ぐ萩原に、
吉岡の瞳が、ふっと微笑んだ。

行ってしまう・・・。

そう観念してしまいそうになる自分の感情を、けれども萩原は全力で阻止した。
ヒデの一途さは誰にも止められない。
そう観念させてしまう一途さが、その心の奥に宿っている。
思いを遂げたいというヒデの気持ちは、
萩原も筒井もよくわかっている。
わかっているからこそ何も言えない自分たちがいる。
こうと決めたら、そこに向かって、
真一心に走りぬいてしまう。
それはヒデの宿命だ。
でも、と萩原は思う。
そこに命を渡してしまうのは、
ヒデの運命じゃない。
そんなことに、
ヒデを渡したりはしない。
宿命は変えられないかもしれないけど、
運命を変えることならできるはずだ。
きっとできる。

「ヒデ・・・」

呼びかけながら改めて吉岡の瞳を見た。穏やかな瞳の奥底に、
切実なまでに秘められた決意を萩原は否応なしに感じ取っていく。

そうだ・・・。
これがヒデなんだ・・・。
ヒデは、だからヒデは、

必ず戻ってくる。

「ちゃんと休めたのか?」

突然に聞こえてきた声に顔を上げると、
筒井が診察室の入り口に立っていた。
萩原は回転椅子から立ち上がると窓際の診察椅子に戻り、
机の上に放り出しておいた雑誌を無造作に手にとって、
それを興味もなくペラペラと捲りながらそっけなく答えた。

「休んだよ、充分」

「お前が休んでどうするんだよ」

「どうするも何も、何がだよ?」

「知るかよそんなこと」

二人の会話を、吉岡の楽しげな笑い声が包んでいく。
筒井は点滴針を吉岡の左内肘からそっと引き抜き、
針跡にのせたコットンをテープで固定して、
それからふと訝しそうに眉根を寄せた。

「おいヒデ、笑ってる場合か」

「え?」

「なんだよこれ?」

筒井の視線は、吉岡の左上腕部を険しく凝視している。
そこには、濃赤紫の痣が一面に広がっていた。

「打撲痕じゃないか?」

筒井の言葉を耳に、吉岡は咄嗟に萩原を見た。
萩原の目は依然、手元の雑誌に向けられていたが、
しかし意識は筒井の言葉に集中しているのが、
その表情からつぶさに読み取れた。

「ちょっと・・・机の角にぶつけたんだ」

視線を筒井に戻し、吉岡はさりげない口調で言った。

「ちょっとぶつけただけでこんな痣はできないぞ」

「ごめん、うんとぶつけたんだ」

吉岡は食い下がってくる筒井にほんの少しだけ微笑んだ。
筒井は無言で吉岡のシャツをズボンから引き抜いて胸元まで捲り上げ、
そこで目にしたものに絶句した。
脇腹とみぞおち全体が赤黒く内出血している。
筒井は無残に広がる打撲痕を見つめたまま立ち尽くした。
やがてその目にどうしようもない怒りが滲んでいき、
ゆっくりと上へと移っていった視線が吉岡の目を捉えた。
見つめ返してくる吉岡の瞳は、凛とした静けさを湛えている。

「シャツを脱いで、そこに座り直せ」

筒井は部屋の奥にある薬品棚へと歩いていった。
吉岡は素直に診察台の上へ座り直し、ネクタイを取ってから、
ワイシャツと、その下に着ていた無地の白いTシャツを脱いだ。
赤紫色の痣が広がる上半身が痛々しく露になって、その瞬間、
バサッと前方の床に何かが落ちる音がした。擡げた吉岡の視界の中に、
落とした雑誌を床から拾い上げている萩原の姿が入ってきた。
吉岡は、やるせなく自分の足元に視線を落とした。
診察台に筒井が戻ってきて、憮然とした表情のまま、
冷却湿布を吉岡の内出血部分に当てていく。

「机の角にぶつけて、どうやったらこんな痣ができるんだ?」

患部に当てた湿布を固定する為の包帯を吉岡の上半身に巻きつけながら、
筒井は詰問してきた。
吉岡は、言葉を探しあぐねながら、そっと口を開いた。

「ごめん・・・あともう少しなんだ・・・」

「どうやったらこんな痣ができるんだ?」

筒井は詰問を繰り返す。

「説明してくれよ、ヒデ」

吉岡は口を閉じて、包帯を巻き続ける筒井を
ただ黙って見つめることしかできなかった。

「机の角にぶつけて、どうやったらこんな痣ができるんだよ?」

「そんな芸当が出来るのが刑事なんだよ、筒井」

割り込んできた萩原の言葉に、筒井は後方を振り返った。
椅子に浅く腰を掛けている萩原は、筒のように丸めた雑誌を片手に持っている。

「この前も豆腐の角にぶつけたって言って口の端に青痣作っていただろう、ヒデは。
いやだね、これだから刑事ってやつは」

萩原は椅子から立ち上がり、手にしていた雑誌をゴミ箱の中に放り投げた。
筒井は無言のまま、再び吉岡の方に向き直る。

「海に行こうぜ、今から」

黙々と包帯を巻きつづける筒井の背中に、萩原の声がかかる。
伏し目がちの吉岡の目元に、ふっとほぐれるような笑みが浮かびあがる。

「今からかよ?」

「ああ。仕事休みにしたよ明日、おれ」

「冷凍マグロになりたいのか、お前は?」

処置を終えた筒井は、そう萩原にぶっきらぼうに答えると、
点滴スタンドをぐいっと掴んで診察室の隅に寄せていった。
戸外を吹いていく風が、カタカタと小さく窓ガラスを叩いていく。
萩原は机の縁に寄りかかりながら筒井の背中を眺め、
吉岡は診察台の横で脱いだシャツを静かに着なおしている。

「極寒の真冬の夜に海に行くだと?」

二人に背中を向けたままやがて筒井は言い、

「何考えてるんだアホだお前は」

続けて一呼吸置いてから仏頂面で振り返り、

「行くぞ!」

と一気に廊下へと走り出て行った。

「なんだよフライングすんなよ、筒井!」

その後を即座に萩原が追いかける。

「なにぼーっとしてんだヒデ、早く来い!」

吉岡は脱衣籠の中からスーツの上着とハーフコートをさっと掴むと、
二人の後を追って廊下へ走り出ていった。
誰もいなくなった診察室に、三人の温もりの余韻が残っている。






つづく
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吉岡刑事物語・その18 / 後

2009年04月07日 | 小説 吉岡刑事物語
     
   

           
幸枝の息子はその後、一審で死刑判決を下され、
上告せずにそのまま刑を確定させた。
それからの日々も、幸枝は変わらずに一日中働き通した。
朝四時に起きて弁当工場で二時間働き、
その後、日雇いのビル清掃婦として
朝の九時から午後1時まで勤務し、
その足でJR線駅のKIOSKで夜の7時まで働き詰めた。
正直言ってしんどいと思うことはあったが、
考える間もなくがむしゃらに働くことで、
世間の冷たい目を撥ねつけることができた。
稼いだ給料の半分は、毎月遺族の元へと謝罪の手紙と一緒に送金しつづけ、
必要最低限の生活費を差し引いた残りの金は、遺族宛の預金通帳に貯金した。
息子への送金は一切しなかった。
してはならないと心を鬼にした。
しかし手紙は書いた。毎日毎日書き続けた。
返事は時々だがやってきた。
判決後、キリスト教に帰依したという息子は、
毎日独房の中で神に祈っているという。
しかし送られてくる手紙の内容からは、
神に対して自分の罪を懺悔しているという感が強く、
被害者に対して向けられる謝罪の気持ちは、
どこか希薄なものがあった。
神の教えの言葉ではなく、
自分の心の言葉で被害者に詫びてくれと、
幸枝は手紙に書き続けた。

歳を取ると共に、重労働はさらに辛くなっていった。
しかし息子の最期の日を見届けるまではと、
負けそうになる自分を叱咤しながら頑張って毎日働き続けた。
そんな辛苦だけに追われる幸枝の日々にも、
一つだけ楽しみができた。
息子の刑確定後間もなく、ある日ひょっこりと、
吉岡が幸枝の働くKIOSKに姿を見せたのだ。

「こんにちは」

と明るく言いながら目の前に現れた吉岡は、
スタンドで缶コーヒーを一つ買って、
とりとめのない話をしたあと、
それじゃあ、といって笑顔で帰っていった。
それだけだった。
でもただそれだけだったのに、
陽だまりのような温かい余韻を幸枝の心に残していった。

その日以来、吉岡は、不定期ではあるが
KIOSKのスタンドに姿を見せるようになった。
どうしようもなく幸枝の疲れがたまった頃合いになると、
まるでそれを見計らったかのように、
吉岡は不意に幸枝の前に姿を現した。
人を和ませるその笑顔をみるだけで、
幸枝の体の中に澱のように堆積されていた疲れは
不思議と一気に吹きとんだ。
しかしどんな理由で、刑事である吉岡が死刑囚の母を訪ねてくるのか、
最初の頃は不思議に思う部分もあった。
冷たい風にあたってばかりいた幸枝は、いつの間にか
他人に対して猜疑心が強くなってしまっていたからだ。

息子の事件の後、幸枝の事情を憐れんで同情してくれる人は多少はいた。
しかしそれは、不憫で不幸な幸枝を憐れみ同情することで、
自分たちの境遇を優位に感じようとするための、
剥げばすぐにとれるメッキのような感情なのだと
やがて幸枝はすぐに気付かされた。
その証拠に、そういった人たちは自分の気が済めば、
波が引くようにさっと幸枝のもとから離れていき、
そして二度と戻ってくることはなかった。
同情なんて、所詮は使い捨てライターみたいなものだと、
周りに寄ってきた人が去っていくたびに、
幸枝の心は根雪のように硬くなっていった。
しかし吉岡からは、そういったお仕着せの感情は全く感じられなかった。
とても純情で、そうしていることが当たり前であると相手に素直に感じさせる
吉岡の言動には全く無理がなかった。
そこにあるものは、古い言い方なのかもしれないが、
心の底から自然と湧き出ている人情なのだと幸枝は思った。
人の気持ちを汲んでくれる温もりと、
決して裏切らないだろうと心の底から信じさせてくれる真の逞しさを、
吉岡は持っていた。

やがて幸枝は、そんな吉岡の訪問を心待ちにするようになる。
日増しに捜査の内容が過酷を極めていくのか、
吉岡は何日も着込んだようなくたびれたスーツ姿で、
寝不足の目を真っ赤にしながらやってくることが次第に多くなっていった。
すらりとした華奢な印象のその体躯は、
時が経ってもやはり細い体のままだった。
刑事の仕事のことは幸枝には全くわからなかったが、
しかしいつどんな身なりで現れても、
いつものように缶コーヒーを買い、
いつものように他愛ない話をして、
いつものように、じゃあ、といって帰っていく、
その笑顔が変わることは一度もなかった。

「秀隆くん、ちゃんとご飯食べなくちゃだめよ」

それはそんな吉岡に向かって言う、
幸枝の常套句だった。



幸枝の息子はある日突然処刑された。
その日はビルの清掃の仕事が珍しくキャンセルになり、
たまたま自宅のアパートにいた幸枝は、
その時鳴った電話に出ることが出来た。
電話口の向こうから、刑務所職員の事務的な声が、
その朝、靖が処刑されたことを幸枝に淡々と告げた。
それは未来形ではなく、すでに過去形で語られた事後通知だった。
判決から八年間、いつお迎えが来てもいいようにと覚悟はしていたが、
しかしその最後は、あまりにもあっけなかった。
体の中で、今の今まで自分を支え続けていた柱が、
がらりと音をたてて崩れていくのを、幸枝ははっきりと聞いた。
無表情のまま電話のフックを押しなおし、弁当工場、ビル清掃下請け会社、
そしてKIOSK営業所の順に電話をかけて辞める由をつげ、
それから念入りにアパートの中を片付けた。それを終わらせると、
前々から認めておいた遺書を茶箪笥の抽斗からだして卓袱台の上に置き、
シャワーを浴びて体を清めてから、後生唯一大事に持っていた、
亡き夫が買ってくれた青い花柄のワンピースに着替えた。
小さな形ばかりの鏡台の前に座って、息子の事件以来、
けっして使うことのなかった口紅を乾いた唇に塗り、それから
立ち上がって台所へ行き、シンクの奥隅に隠しておいた
睡眠薬の小瓶を取り出した。
幸枝はそれら一連の動作を何も考えず無表情に黙々とこなしていった。
この日のための準備は前々からすでに整っていた。
靖の遺灰は、無縁仏に埋葬するように刑務所の方に事前に頼んである。
自分もすぐにそこに行く。
何も思い残すことはない。
睡眠薬の蓋を開けた瞬間、
しかし吉岡の顔が一瞬頭をよぎった。
息子の判決が下ってから八年間、
自分の職場に時折顔を見せつづけてくれたあの笑顔。
出来ることならきちんとさよならをして・・・
だめだ、考える暇を持っちゃいけない。
この日がくるまで生かしてもらっていた自分なんだ。
もう終わりにしなければいけない。
幸枝は手のひらいっぱいに出した睡眠薬を、
コップの水で一気に飲み下した。


朦朧とした意識で薄く目を開けると、
ベットの横に吉岡が座っていた。
幸枝の手を、両手でしっかりと祈るように握り締めている。

可哀想に・・・。
どうして泣いているの?

そう不思議に思いながら、
また深い深い眠りに落ちていった。
それ以来ずっと、
幸枝は濃い霧の中を彷徨っている。





ろうばいの花の香りが漂う養護院中庭の小道を、
吉岡は車椅子を押しながらゆっくりと歩いていた。
傾きかけた西日の光をうけた花びらが、
小道の脇で金色に透き輝いている。
車椅子の中で夢見ているような表情を浮かべながら、
小唄を口ずさんでいる女性の胸元には、
加藤幸枝、と太字のマジックで書かれた名札が
白い外出用ガウンの胸元に縫い付けられている。
中庭の外れまでゆっくりと足を運んでいった吉岡は、
そこで車椅子をそっと止めた。
町全体を見下ろせるその高台の場所は、
幸枝のお気に入りの場所だった。
小一時間以上もじっと町を見下ろしている幸枝の横に、
吉岡は静かに付き添う。
幸枝を訪ねる度に、吉岡はいつもそうしていた。
この日もいつもと変わらずに、
吉岡は幸枝の車椅子の横のベンチに腰を下ろした。

自殺を図り、奇跡的に命を取り留めた幸枝は、
体以外の殆ど全てのものを忘却の彼方に捨ててきてしまった。
抜け殻になってしまった幸枝の心は、
しかし吉岡のことだけは覚えていた。
一人息子のことも覚えているのかもしれないが、
幸枝がその名を口にしたことは一度もない。
その幸枝の息子は、吉岡が刑事になって、
初めて自らの手で検挙した男だった。

自分の経営する配線工事請負会社が経営破綻寸前にまで追い込まれ、
窮地に追い込まれた靖は社員の一人に会社名義で保険金を掛け、
交通事故に見せかけて殺害した。
捜査線上に浮かんだ靖の実家、恋人、知人の家と長い張り込み捜査を続けた後、
吉岡は逐電した靖を潜伏先の旅館先まで単独で追い詰めた。
そこで自首するように説得したが、その願いはとうてい届かず、
結局吉岡は、狂ったように殴りかかってきた靖に手錠を掛けた。
カチャっと手錠が施錠された時の無機質な金属音を、
吉岡は今でもはっきりと思い出すことができる。


「寒くないですか?」

吉岡の言葉に幸枝は首を横に振り、

「ケーキ、美味しかった。いつもありがとう」

といって笑った。

「よかった」

といって微笑み返す吉岡を顔を、
幼な子のような眼差しでまじまじと見つめていた幸枝はやがて唐突に、

「秀隆くん、ちゃんとご飯食べなくちゃだめよ」

と言った。

「はい」

吉岡は素直に返事をする。
幸枝は安心したように頷くと、その目を丘の下へと向けたが、
しかしそれから暫くするとまた突然顔を横に向け、

「秀隆くん、ちゃんとご飯食べなくちゃだめよ」

と同じ言葉を繰り返す。

「はい」

吉岡はきちんと幸枝の目を見ながら丁寧に返事を返す。
それは、吉岡が幸枝にその日の別れを告げるまで、
永遠に続く毎回の会話だった。
何度も何度も幸枝から繰り返される同じ問いに、
吉岡は一つずつはい、と誠実に答える。

秀隆くん、ちゃんとご飯食べなくちゃだめよ

はい



西日が夕日の色を濃くしていき、
風が少し冷たくなってきた。
院内には、日没前に帰らなければならない鉄則がある。

「そろそろ、戻りましょうか」

吉岡はベンチから静かに立ち上がった。

「秀隆くん、」

幸枝の呼びかけに、吉岡はやわらかな眼差しで応える。

「これあげる」

幸枝は両側のガウンのポケットに両の手を入れて、
そこからごそごそと大きく膨らんだハンカチの包みを取り出し、
それを両手一杯に吉岡の前に差し出した。
少し驚いた表情を浮かべながら幸枝の前に跪き、
吉岡はそれを両手で受け取った。そっと指でハンカチを開くと、
中から大量の飴玉が出てきた。
顔を上げて幸枝の顔を見た吉岡に、

「咳、早く良くなるように」

と言って、幸枝はにっこりと笑った。



吉岡が養護院の門を出た頃には、あたりはもうすっかり暗くなっていた。
これから筒井の実家に行って鎮痛剤の点滴を受けることになっている。
腕時計で時刻をチラと確かめ、人気のない暗い道をブロック塀に沿って
足早に歩きだした瞬間、いきなり横からみぞおちを殴られた。
吉岡はよろめきながら道端に蹲った。屈みこんだ脇腹に間髪入れずに鋭い足蹴りが飛ぶ。
両手を地面について上体を支えていた腕ががっくりと肘から折れて、
吉岡は地面に崩れ落ちた。

「これ以上探りを入れてきたら、こんなもんじゃすまないぜ」

激しく咳き込みながらも身を起こそうとしている吉岡の耳元で、
聞きなれない男の低い声が囁いた。

「誰だよ、あんた」

息も絶え絶えの顔を上げて、吉岡は男の顔を確かめようとした。
その脇腹に強烈な三発めが入る。吉岡は呻きながら、
胸の奥からこみ上げてきた生暖かいものをこらえきれずに大量に吐き出した。
地面に赤黒い染みが広がっていく。

「ただの使いのもんだよ。そう言やわかるだろ?」

「わからないね・・ちっとも」

苦しい息の下、肩で息をしている吉岡の頭上で、
男のせせら笑う声が冷たく響いた。

「さすが根性あるんだな、刑事さん。だけどさ、」

再び横腹を蹴ろうとした男の右足首を、
吉岡はぐっと掴んで止めた。

「根性だけじゃ、命は守れないんだぜ」

掴まれた手を蹴り払った膝が素早くみぞおちに飛んだ。
立ち上がりかけた膝がふわりと崩れ落ち、
吉岡は蹲りながら再び激しく咳き込んだ。
男の遠ざかっていく足音が耳の中に響いてくる。
だらりと垂れ下がった頭から目だけを上げて、
吉岡は男の後姿を射るように睨み据えた。
遠ざかっていく男の背中が、吐き出す息で白く煙っている。
吉岡はふらつく体をやっと起こして立ち上がり、
そのままブロック塀に凭れ掛かった。
口を拭った手の甲に、真っ赤な鮮血が太い線を引いていく。
指先が、凍えるように冷え切っていた。
吉岡は両手をハーフコートのポケットに入れた。
その手に何かが触れ、
吐き出す白い息がふっと止まった。
握った右手をコートからゆっくりと出して、
胸の高さで掌をそっと開いた。
幸枝から貰った飴玉が、掌の上で月明かりに照らされている。
吉岡はじっと飴玉を見つめた。
咳の波がまた押し寄せてくる。
咽るように咳き込みながら、
吉岡はぎゅっと飴玉を握り締めた。
遠くを見つめる瞳が切なく潤んでいき、やがてそれは、
ゆっくりと強い意志の光へと変わっていった。
吉岡は包みをそっとはがして、飴玉を静かに口に含んだ。
仰ぐように見上げた夜空には、
輪郭を定めない月が、
滲んだような光の中に浮かんでいた。





つづく
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吉岡刑事物語・その17 / 前

2009年04月06日 | 小説 吉岡刑事物語





その部屋に足を踏み入れた途端、
孝子は「あら」と声を出して微笑んだ。
窓から差し込んだ日の光が、
部屋の空気の中でまどろんでいる。
冬の午後の日は、やわらかな光の中に包まれていた。

「和乃さん、暖かくて気持ち良いわね」

足を運んでいくその合い向かいのベッドに横たわって、
窓の外をぼんやりと眺めている女性に明るく声をかけながら、
孝子は自分の受け持ち女性のベッドの脇へ
のしのしとふくよかな体を揺らしながら歩いていった。
よいしょ、と言いながら腕に抱えた洗濯籠をベッド脇のパイプ椅子に置き、

「今日来るのね?」

と言ってベットの主に笑いかけた。
上半身をベッドの上に起こし、腰まで伸びた白銀の髪の毛を
一心に梳かしているその初老の女性は、
孝子の言葉にはまるで反応を示さない。

「よかったわね」

孝子はそんな様子をまるで気にする様子もなく、
笑顔を崩さないまま女性の手から櫛をそっと取り、
慣れた手つきで彼女の髪を梳かしはじめた。
身体的、精神的に介護が必要な人たちの為、
国の援助を受けて経営されているこの施設に、
この女性が入所してきてから、かれこれ4年近くになる。
孝子はこの女性の入所時からの介護担当者だったが、
その当初からこの女性とは意思のやりとりが全くできなかった。
女手一つで育ててきた息子を、
ある日突然失ってしまったということ以外、
孝子の知る事実はない。
それ以上詮索する気もない。
孝子は手に持った櫛を丁寧に上下に動かし続けた。
じっと黙り込んで、
セルロイドの人形のような空洞の目を宙に浮かせながら、
真っ白な壁に囲まれた部屋の中で、
真っ白な院の指定パジャマを着て、
真っ白なシーツに包まれながら、
真っ白なカーテンが揺れる窓辺のベッドの上で、
初老の女性は髪を梳かされている。

ここは何もかもが真っ白だ。

孝子は口の中だけで愚痴りながら呟いた。
それは清潔さを第一に求める結果の院長の選択色だということは理解ができたが、
個人としての個性まで全くの白紙に戻してしまっているようで、
孝子はこの白さがどうしても好きになれなかった。
病院や施設に入院すれば、誰もが「病人」という種類の型にはめこまれてしまう。
そうじゃないのに、と孝子は思う。
「病人」である前に、「一人の人」なのに。
私だったら、ベッドも壁もパジャマの色も、
それぞれの好きな色にしてあげるのにな。
なんでも白けりゃいいってもんじゃないわ。

「おさげにする? それともシニヨンにしようかしら?」

意思をとうの昔にどこかに捨ててきてしまったような
空虚な初老の女性の瞳を覗きながら、孝子は言った。
答えは期待していない。

「この前来た時はいつだったっけ? 二週間くらい前?」

三分に分けた髪を一つのおさげに結いながら孝子は言葉を続けた。
不思議でしかたないことなのだが、
毎日世話をしている孝子にすら殆ど何の反応も示さない、
半分廃人のようになってしまった彼女が、
どう察するのかはわからないが、不定期なサイクルでやってくる
ただ一人の面会人の訪問日をピタリと当ててしまう。
自主的に何かをする意思を捨ててしまった彼女が、
朝から早々とベッドの上に半身を起こして髪を一心に梳かす。
この動作が、その面会人のやって来る前触れのサインだった。
その人物に会う時にだけ、がらんどうになってしまった彼女の体に
一時的に心が戻ってくることも孝子には不思議なことだった。

「三時のおやつのですよ」

両手に大きな菓子受けを持った同僚の介護士がベットの脇にやってきた。
シーツの上に力なく置かれていた彼女の手がすっと伸びて、
クッキーやせんべいが詰まった菓子受けの中から、
躊躇いもなく飴玉を一つとってその手に握り締める。

「あらまた飴玉なの? たまには違うお菓子食べたら?」

介護士のおせっかいな言葉に、
飴玉を持った彼女はいやいやをするように首を激しく横に振った。

「いいのよ、いいのよ。それが好きなんだから」

孝子は介護士に何も言うなと目配せをした。
食欲すら全く失ってしまった彼女が嫌がらずに食べてくれるのが
甘いものだった。幼い頃を戦時中に育った彼女にとって、
それは未だにご馳走なのだろう。
彼女は奪われないようにするかのようにしっかりと
飴玉を握った手を胸の前で握り締めている。
軽く肩をすくめるようにして部屋を後にした同僚の後姿を
孝子は半ば呆れた表情で見送ったあと、気を取り直すように、

「はい、できました」

と明るく言って、サイドテーブルの抽斗から出した手鏡を
彼女の前に差し向けた。三つ編みのおさげ髪を結った彼女の顔が
その中に映っている。気に入っているのかいないのか、
表情のないその瞳から窺い知ることは出来ない。

「こんにちは」

さっとそよ風が吹いていくような感覚がして孝子は後ろを振り向くと、
見慣れた顔が穏やかに微笑んでいた。
濃い霧が晴れていくように、初老の女性の瞳に光が差し込む。

「いらっしゃい、秀隆くん」

驚くほどはっきりと言った彼女の顔に、
満面の笑みが浮かんでいた。





加藤幸枝が初めて吉岡に出会った時のことは、
はっきりいってあまり記憶に残っていない。
ある日、勤めから帰ってテレビをつけると、
そこに自分の息子が映っていた。
手元に誰かのジャケットを掛けられた息子が、
数人のスーツ姿の男達に囲まれて、
どこか大きな建物の中に連れられていく映像が
TVの画面に映し出されていた。
あまりにも突飛で唐突なその映像に、幸枝は最初、
ただ呆然と画面を見詰めているだけだった。
すさまじい数のカメラのフラッシュにたかれた息子の顔は、
今まで見たこともないくらいに痩せ尖り、
その姿はまるで幽鬼のようだった。
TVのレポーターがカメラに向かって何かしきりに叫んでいた。

保険金目当て、容疑者、単独犯、検挙しました・・・

それらの言葉が、遠いどこかから切れ切れに幸枝の耳に飛び込んできていた。
視覚と、聴覚と、思考が、まるで繋がっていかなかった。

どうして息子がテレビに映っているんだろう?
このレポーターは何を言っているんだろう?
これは何のニュースを伝えているんだろう?
どうして息子が・・・・

容疑者の名前は、加藤靖、25歳。
加藤靖、25歳です。


奈落の底へ落ちていく感覚の中で、幸枝ははっと我に返った。
次の瞬間、幸枝は玄関へと走っていた。



人でごった返す正面玄関をやっとのことでくぐりぬけて
A署の受付へ辿り着いた幸枝は、カウンター内にいる制服警官に声をかけた。

「すみません、加藤の母です。息子に会わせてください」

互いにぶつかって罵り合いながら、狭い署内の廊下を
いきり立って走り抜けていく背広姿の男たちで、署内の中は異様に殺気立っていた。

「なんですか? 今立て込んでいるんですけどね」

振り向いた制服警官は幸枝に向かってぞんざいに言った。

「あの・・・、息子に、加藤靖に合わせてください。加藤の母です」

制服警官は取りかけた受話器の手を止めて、幸枝の顔をじろりと見た。

「一目でいいんです。この目で確かめさせてください。息子はほんとに、」

「息子の顔を間違える母親なんていないんだから、
あんたがそうだと思うならそうなんじゃないの?」

「でも、あの、」

「忙しいんだよ、こっちは」

横柄にそう言うと警官は受話器を持った背中を幸枝に向けた。

凶器は出たのか?!

ばかやろう、それより加藤の供述を今夜中にとれ!

容疑者、加藤靖は先月行方不明になった会社員の・・・


幸枝の背後で様々な会話が矢のように飛び交っていく。
膝ががくがくと震えて目の前が真っ暗になり、
幸枝は床に倒れ込みそうになった。

「大丈夫ですか?」

その時、背後から自分の体を支えてくれた手があった。

「すみません・・・ちょっと動顚してしまって・・」

「あちらに行きましょう」

真っ青に青ざめた顔でフラフラとよろめく幸枝の体を、
その手は横から労わるように抱え込んで廊下の端へと運んでいった。

「ここで休んでください」

喧騒から離れた廊下の脇に添えられたベンチに幸枝はそっと座らされた。
ひどい貧血でも起こしたかのように頭の中がじんじんと痺れていて、
幸枝は顔を上げることができなかった。

「ちょっと待っていてください」

廊下を駆ける靴音が遠ざかったかと思うとまたすぐに戻って来て、
幸枝の目の前にそっと水の入ったグラスが差し出された。

なんて綺麗な手なんだろう・・・。

混乱しきった頭の中で思わず呟いたほど、
その手はとても美しかった。
すらりとした白く繊細な指が、
透明な水の入った透明なグラスを包み込んでいた。

「ありがとうございます・・・」

俯いたまま小声で言って、幸枝はそのグラスを受け取った。
水を一口飲むと、ほんの僅だが生きた心地が戻ってきて、
幸枝は軽く息をはいた。

「これも・・・よろしかったら使ってください」

少し間を置いたあと、水でぬらしたタオルが続けて差し出された。

「すみません・・」

幸枝は素直にそれを受け取って、脂汗の浮かぶ額に当てた。

「ごめんなさい・・・」

そして項垂れたまま幸枝は再び詫びた。

「謝るのはこちらのほうです」

ふっと気持ちが包み込まれたような感覚がして、
幸枝は顔を少し上げた。
視線の先に、口角のやさしく上がった口元があった。
左側の口端に大きな絆創膏が貼ってある。
ひどく殴られでもしたのか、綿の部分が赤く滲んでいた。

「対応が悪くて、申しわけありません」

と続けて言った口元が、深く喉元へと引かれた。
頭を下げてくれたんだと理解するまで、少し時間がかかった。
そして理解した時には、

「息子が・・とんでもないことを・・・」

幸枝の口から言葉が零れ出ていた。

「人さまの命を・・・・」

茫然と呟く幸枝の言葉に驚く様子もなく、
その口元はまた静かに頷いたようだった。

「息子が取り返しのつかないことを・・・」

そう言いながら突然泣き出してしまった幸枝の背中に、
そっと手が置かれた。
それは温かくて、やわらかなやさしい手だった。





その後の幸枝に対する世間の風は、予想以上に冷たかった。
事件発覚後、20年以上毎日真面目に勤めてきた会計事務所を
あっけなくクビになり、それまで長い間培ってきた近所付き合いは、
糸が切れたように一切絶たれてしまった。
刑務所に入っている息子を除けば、もともと身寄りのなかった幸枝は、
天涯孤独の独りぼっちになった。
幸枝にたいする隣人達の悪質な噂は後を立たず、
アパートから引越ししたくとも、しかし先立つものがなかった。
もしあったとしても、幸枝はその金を迷わず遺族に支払っただろう。
息子の逮捕以来、幸枝は毎月、被害者の両親の元へ
読んでもらえるかわからない謝罪の手紙と一緒に送金していた。
週刊誌やスポーツ紙に、ありもしないことを興味本位に書きたてられる度に、
せっかく雇ってもらった仕事をクビになったが、それでも幸枝は頑張って
職を探して働き続け、そして息子の裁判には全て足を運んだ。
幸枝は、息子には極刑が下るだろうと覚悟していた。
最愛のひとり息子が刑場に消える。
それは考えるだけでも胸の裂ける思いだったが、
しかしそれは受け入れなければならない罰なのだと、
幸枝は息子のおかした罪の重さを直視した。
極刑判決が出ても、すぐに処刑されるわけではない。
その日が来るまで、奪ってしまった被害者の命と、
残された遺族に懺悔し続け、そしてお迎えの日がきたら、
自分の命をもって罪を償ってほしい。
一人じゃないよ、靖。
母さんだって、お前の後をすぐ追っていくんだから。
息子の辿り行く運命は、自分の辿っていく運命だった。



息子の公判に足を運ぶたびに、
いつも顔をあわせる若い刑事がいた。
以前どこかで会った気がするのだが、
幸枝はそれを確かな記憶として思い出すことが出来なかった。
折り目正しい品の良さを感じさせるその刑事は、
幸枝の顔を見つけると、いつも黙って深く頭を下げた。
蔑みの目と詰り、ときには罵声まで浴びせられる幸枝にとって、
その刑事はしごく異質の存在だった。
のちに幸枝は、彼の姿を証言台で目にすることになる。
ある公判で、検察側からの証人として証言台の席に座ったその刑事に、
検事は確認を取るための質問を投げかけた。

「あなたは、被告人である加藤靖に手錠を掛けた、
その本人に間違いありませんか?」

「間違いありません」

傍聴席に座っていた幸枝の頭の中に、
突然記憶が蘇った。

あの時の声だ・・・。

現場でどう手錠をかけたのかこの場で再現してくれと
検事から問われた言葉に従い、証言台から立ち上がったその刑事の姿を、
幸枝は凝視した。
靖の立場となって殴りかかろうとデモンストレーションする検事の右手を、
背後でねじ伏せるように押さえつけたその刑事の手が、
じっと見つめる幸枝の視界の中にとびこんできた。

水の入ったグラスと綺麗な手・・・。

記憶のパズルが幸枝の頭の中で合致した。

間違いない。

この人は、靖が逮捕されたあの夜、警察署の廊下で泣き崩れる自分の横に、
いつまでも黙って付き添っていてくれていた・・・
あのやさしい手の持ち主だ。

前回の公判で、逮捕時の様子を証言していた息子の言葉が
頭に中に思い返されてきた。

自分と同じ歳くらいの若い刑事が、
自首するように説得してきたので、
その顔を殴りつけて抵抗しました。


あの時の絆創膏の傷は、
息子が殴ったものだったんだ・・・。
この人が息子を・・・・。




「刑事さん、待ってください!」

正面玄関に向かって廊下を歩いていく背中に、
幸枝は走り寄りながら呼びかけた。

「あの時の・・、あの時の刑事さんですよね?」

足を止めて振り返ったその顔に向かって、幸枝はすばやく言った。
一拍呼吸を置いたあと、はい、と静かに頷いて、
その刑事はいつものように幸枝に深く頭を下げた。

「私・・あの・・あの時気が動顚していて、
よく刑事さんの顔を見てなくて、それでよく覚えていなかったんです。
お礼をいわないままで、大変な失礼をいたしました」

幸枝は頭を下げた。

「顔を上げてください。僕はただ・・・」

「ありがとうございます」

幸枝は頭を下げたまま言葉を継いだ。

「息子を捕まえてくださって・・・・ありがとうございました」

用意していた言葉ではなく、自然と口から出てきた言葉だった。
水を打ったような静けさが辺りを包み、
やがて幸枝はゆっくりと顔を上げると、
そこで驚くほど物静かな瞳と目が合った。
澄みきった秋空のような目だと、幸枝は思った。

「刑事さん、あの、ごめんなさい、お名前を覚えてなくて・・」

深く澄んだ眼差しに、ふっとやさしい笑みが浮かんだ。

「吉岡です」

その刑事は、静かに自分の名前を幸枝に告げた。





つづく
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春はそこに

2009年04月02日 | その他のドラマ



朝起きて、
朝日の光を受けている窓を大きく開けると、

あれ、新しい季節の空気になっている。

とふと気付くような、
そんな印象のする、
公式サイトNEWS頁の吉岡君の写真。

きぃやぁ~~~~~~~~~~~~んっ、
素敵すぎちゃってどうしたらええのだ、
吉岡く~~~ん!!! 
見るたびにもうすっごいドキドキしちゃって、
私としてはね、もうなんていうかね、どうにもこうにもね、あのねのね、

恋煩いでございます。

くぅ~っ、吉岡くんったら、

足が長いっ、

手も長いっ、

指も長いっ、

芸暦も長いっ、

長井くんだったのね、吉岡くんってば、細井くんでもあるんだけど、
髪は短いほうがええと思うわよ、たまらんわぁ~~~~~~、
ふきゃぁ~~~~~~~~んっ

ってなことでありまして、
気候も脳もすっかり春でございます。


しかしなんともはや、
素敵過ぎるぞな、あの写真の吉岡君。

わだかまりの膜が一切なく、
すっと自由に心が広い場所へと放たれている感じ。

空に向かって聳え立つ山のように、
ゆったりとした優しさと、凛とした強さを併せ持った包容力、
そして、
清流のように冴え澄んでいる感性を静かに漂わせているその姿。
その佇まいから漂う気格。

たまらん。

吉岡君の姿からは、いつも、
「志」という言葉が浮かんでくるですだ。

高みへと登っていく志というか、
高みへと登ろうとしていく意志としての気品というか、
そういった「品性」が、
吉岡くんには漂っていると思うわけで。

漂うものに嘘は出ないですばい。
吉岡君には嘘が感じられない。

素晴らしか。

はぁ~~~~もぉ~~~~~~~吉岡君ったら、
素敵重要噴火財って感じバリバリで、

「なぁべいべ~、俺ってバリバリか~い?」

なんてPC画面に向かってついつい言っちゃうのよっ、
古すぎるわっ、そんなの覚えている人いるのかしら?
ってそんなことを書きたいのではなくってよ、
とにかく吉岡君ったら、

美しい。

わぁ~~んだほぉ~~~~ほぉ~~ほぉ~っとらんらんら~ん♪
ベリーでグッドなのだ、吉岡くんよ、
無限大で恋煩い。

しかしたった一枚の写真で、
こうも恋煩いの病に落としてしまうなんざ、
さすがのぴったしカンカン一枚の写真技だよ、吉岡君。
でもそれは言葉を変えて言えば、

それだけ露出が少ない。

ということにもなりかねない。

 フッ、

いいんだ、いいんだよぉ~、吉岡く~ん。
さっと出てきて、
さっとハートを盗んで、
さっと立ち去ってしまう。
鞍馬天狗でしか?
いや、

出すぎない。

そりがチミの良さだ。
ツチノコだね。んふ
真面目に言うけど、贅沢は言わないよ。
だから今年は、
映画に18本くらい出てくれればそれでいい。

ってもう四月なのだった。

一年の三分の一が既に過ぎたというこの事実を考察してみるに、
ふむ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・吉岡く~ん・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・春眠暁を覚えず。

ぶひぃっ

あ、でもまだ一年の三分の二は残っているっ!
望みは維持してこそ輝くものなのだぁ~~~あっはっはっはっはっは
ははははっはははは・・・は・・・。(←しかし寂しくなってしまったらしい)

寂しくなってしまったので、
久々に民雄を観ることにしよう。

なんてったって民雄くんは、
ツボツボ大王だ。

そのツボの数ときたら、
日本野鳥の会のみなさんがカウントしても
カウントしきれないくらいの天文学的数字であります。

でも悲しい場面を観るのは嫌よね~、だからこうしよう、
春の選抜、明るく笑っている民雄で大ホームランだぁ!
た~みお~、た~みお~、た~みおく~んのえ~がおはど~こかしら~
早送り~~早送り~~早送り~~~はぁ~~~~~~~やお~くり~で
終わっちゃったわ。

そうだった・・・。
民雄はひたすら悲しい、
悲しみ本線日本海みたいな人だったのだ・・。

でも待てよ、
快速電車ですっとばされてしまう小さな駅のような瞬間映像だったが、
民雄は確かに笑っていた。
疲れきった心で、
森の中にしとやかに降り続く霧雨のような静けさで、
儚く笑っていた民雄・・・・・・・・

ぶひぃ~っ

って、も~~~~~と~~~~~~~~いっ!

私が見たいのは、明るく笑う民雄なのだぞう。
明るく笑う民雄は作中にいたのだ。
いや、明るくはなかったけど、
やわらかな笑顔を浮かべていた民雄は確かにいた。

駐在所近所の写真館で、
家族写真を撮っていた民雄の笑顔は、
とても幸せそうだった。。。。

おせち料理みたいに話が詰め込まれていたドラマだったから、
一代目と二代目の部分は、時の経過がとても早く過ぎていくのは、
しょうがないですたい。
しかしその「しょうがなさ」を埋めてしまうのが、
埋め込み職人、吉岡くん。むはーっ

「お父さん、」

と妻の順子さんに呼びかけられて、

「ん?」

と答えるその一瞬。
その一瞬の言葉から、
民雄の年輪が、
民雄の一家が過ごしてきた幸せな年月が
しっかりと含み伝わってきて、
さっすがだぞぅ~~~~っ、吉岡く~ん!!

台詞が生きている、とはこのことだ。

「え芸職人」であったのは知っていたが、
「ん芸職人」でもあったとはっ!
きっと50音職人であるに違いない。

泉のような才能だ。

民雄がその場面で「ん?」と言った、
その一瞬の言葉の中には、
確かに民雄の人生の歩みが乗っているわけで。

その言葉はほんの一瞬だったけど、
でも時の長さの余韻を流れるように残していく吉岡君は、
どうしてそんなことができてしまうのか?

以前に、何かのインタビューだかの会話の中で、
一矢を演じるにあたって、天才ギターリストと言われても、

「天才ってどういう意味なのかよくわからないんですよね」

と言っていた吉岡君だけど、
それは君のような人のことを言うのだよ。

そんなことにちっとも気付いていないチミは
天然なのかな、きっとそうなのだろう。
まったくなんてこったい、そんなとこまで、

ぶらぼ~すぎるぞうっ、吉岡くんっ!!!

なんて愛しい人なんだ。。。
べらぼうに魅力的。

やはり君に想いを馳せるだけで、
私の心は春爛漫~~~~~、んふ~


今月も頑張っていこ~っと!

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