例えば、女性の世界が円で出来ていると仮定すると、
男性の世界は並行する二重線が先へ先へと続いている世界なのかしらん?
などと、ビクターの犬の如く首をちょびんと傾けながら考えていたりする
今日この頃の私であります。
思うに、女性の世界を形作る円は、愛情=母性愛で出来ており、
その母性愛で創られた基盤○の中に、例えば家族とか、仕事とか、
友達とかという人生要素が包括されているのではないのだろうか、
などと思ったりするわけで。
しかし男性の世界は、「自分でいる(いたい)」という独立線と、
人生においての諸々の「おいどんはやりもうす」という人生運行線との、
決して交えることのない二つの線が、列車のレールのように、
永遠と平行して並んで続いているような気がするとです。
その二つの平行線の対比率がどんなものであれ、男性はその二線間を
行ったり来たり、綱引きワッショイおしくらまんじゅうになってしまって、
時には山へ芝刈りに行ったままサミットへと登りつめて
「どないせばええんじゃいっ!」
と天に向かって叫びたくなる衝動に駆られてしまうのではないのだろうか?
な~どと、おなごの私は推測するわけでありまする。
この、男性の一方の世界を創っているだろうと思われる独立線というのは、
もしかしたらおなごには決して触れることの出来ない、いや、触れては
いけない世界なのかもしれんですばい、明智君、う~む・・・・・・、と、
ついついグランドキャニオンより深い谷を眉間に寄せて考えてしまうわけで。
そしてこの触れることの出来ない世界に、男同士の友情というものが
しっかとそこに根付いてるのではなかでしょうか、角さん助さん龍角散。
その彼らの作り出す友情の絆の強弱が、同時に彼らの独立線の強弱にも
大きく作用しているように思えるのであります。
結束された男同士の友情世界というものは、女性は「お客さん」として
理解することは可能なのかもしれないけれども、
しかしその深部に触れるということは無理な世界なのかもしれないですだ、おやっさん。
これは決して「男女間に友情は存在しないのでR」などという
排他的なことを言っているわけではないのでありまして、
私自身も男女間の友情は存在するとは思っているけれども、
しかしそれは男性の世界の中では、やはり独立線上にあるのではなく、
人生運行線に属しているものなのではないのかしらん、と思うわけでありまする。
「そんじゃ~あんさん、男にとっての愛はどこにあるんだよ、愛はよ」、
ということになりますが、ある男性によっては、その平行線のどちらかの線を
常駐やどり木としてそこにずっと止まっている人もいるだろうし、
また他の男性は、その二本の平行線間を反復横とび運動ごくろうさまっす、
としている人もいるんでないかい、とこれまたそう推測するわけでありまして。
愛とは摩訶不思議なものでありまするだ、んだんだ。
って、一体何をほざいておるのかおんどりゃ~っ!
っとお思いの方が多いと思われますが、
えっとですね、要するに、男同士の「真」の友情は、
「ダイアモンドより硬い」
ということを言いたいのでありますだ、拙者としては。
(↑だったら最初からそう書けばええやんか、オバカなあたしだよ・・・)
洟垂れ小娘の頃からですね、男の子たちのもつ友情世界は
ちびっと無頼でかっこええ・・、
と憧憬にも畏敬にも似た思いを抱いてきた私でありまして、なので
バンチョウ、リクソウ、ニシキ、そしてノンポリくん
彼ら四人のぼくたちの友情が、私には、とてもとてもとて~も
とりわけ美しく思えて仕方がないのでありまする。
彼ら四人は文字通り「結束」しているわけで。
互いの存在に深く触れることで、自らも豊穣させていける
友情関係を育んでいるのだと思われますばい。
そして彼らのその結束関係は、相手の隙間にムンギュギュ~と
入り込り込むというものではなくて、あくまでも互いに呼吸をさせる
空間を分け与えているものなのだと思うであります。
祭りの後に、バンチョウとリクソウが互いに殴りあってしまう場面が
あるけれども、それを止めようとして二人の間に割り入ろうとするのは
リクソウの恋人みどりちゃんだけ。
その場にいるノンポリくんは、最初は勢いで止めようとするけれども、
しかしすぐにその殴り合いを止めることをやめてしまう。
それは誰にも止められないし、
止めてはいけないっていうことが、
彼には痛いほど分かっていることだからなのだと。
入れないんだよ、みどりちゃん。
だって、それが彼らの世界なんだ。
この場面でノンポリくんが流す涙は、多分、四人分、
彼ら全員の涙であり、それは、四人の友情の中にいる
ノンポリくんだからこそ流せる涙なのだと思う。
ただひたすらに、ただただひたすらに
自分たちが悲しいから泣いてしまっているんだと・・・。
美しいっす、ほんまに・・・。
彼らの友情が何故こうも美しいのだろうか、と問えば、
それは彼らが彼らの友情を、少しも心の重荷に感じていないから
なのかもしれないですばい。
友情だから、様々なことは起こるでがんす。
しゃらくせぇ、とか、ええかげんにせぇよ、とか
そう思うことは、日常茶飯事として、気持ちに浮かんでくることでは
あるのだろうけれども、しかし彼らにとってのそういう感情は、
浮き立ち消え去るコーヒーの湯気みたいなものであり、
決して心に沈む錘にはならないようで。
この四人が寄り添って、一つのライターにともされた小さな火を、
それぞれの両手で守るように取り囲みながら各々のタバコに火を点けるという、
とても印象的なシーンが劇中何度か出てくるけど、
その火は、四人の共有する輝かしい時であり、
固く一つに結ばれた彼らの絆の象徴なのではないのだろうか、
とあちしはそう思っちまうわけでありますだ~、うぅ。
高校の卒業式の後、その火を取り囲む手は二人だけになってしまっても、
しかしそれでもまだ、彼ら二人は、去ってしまったもう二人の手も、
確かにその火の周りに感じられるわけで。
それはひときわ純粋で、そして崇高でさえもあるですだよ~。
泣かせるでごわすよぉ、龍馬どん、うわ~んっ。
このドラマのオープニング時、渋滞にはまった密室状態の車の中で、
取り出したタバコに火を点けられなかった38歳の西脇氏は、
しかしラストでまたライターに点いた火をその手で取り囲む。
それはかつて彼の親友の一人だった、今はともに38歳になった
ニシキと一緒の行為であり、そして彼ら二人はそこに、
20年前、彼らと凝縮された時を供にした、今は去ってしまった
もう二人の親友たちの手を再び感じ取れるわけで。
西脇氏の抱えるジレンマは消え去ることはないのかもしれない。
けれども、もしかしたら、1970年のあの「時」から再び眺め見た
窓の向こう側に、何か新しい景色を見出すことは出来るのかもしれない。
生きていくってぇ~ことは、言ってみりゃ~
秒速の流れに沿って過去という地図を拡大していくような
ものなのかもしれないですばい。
しかしその過去という地図は、人は生きていれば
誰もがいつかは何度か突き当たる困難によって、
その人生の中で迷子になったり、
行き止まりに突き当たっちゃったりする時に、
現在の自分の居場所をしっかりと教えてくれ、
そしてそこから進むべき未来への行き先を、
沢山の選択道をもって指し示してくれるものであるのだ、
と蝦夷地でその昔、伊能忠敬さんもそう思っていたに違いない。(←思ってねぇべさ)
失くしてしまったものが何であれ、
そこへ寄せた思いが大きければ大きい程、
そこから得ていく力も確かに力強いものであるのだと。
始めていこうと思った瞬間から、
また一歩前へと踏み出していける歩みというパワーは
人間の持つ美しく偉大な力の一つなのだと思うですばい。
過去とはそういうものなのかもしれないよね、シェリー。
「1970 ぼくたちの青春」という作品は、
友情というものは、どんな意味をその人生に与えてくれるのか、
ということも思い出させてくれる、名作中の名作です、ほんとに。
このすんばらしい作品に色を添えている吉岡くんにも、
感謝感激雨あられですだよ~。
ファンをしててえがったよ~って、心底思わせてくれるお仕事を
いつもしていてくれてありがうございますだ!
ごっつぅかっこええんじゃ~、仕事の仕方までが、君って人はぁ。
もうほんとに・・・ええ男じゃよ~。
長々と綴ってしまった「ぼくたちの青春」の感想に
お付き合いくださいまして、ほんとうにありがとうございました。
これでほんまにHello, Goodbyeノンポリくんでありまする。