その晩は仲間の小屋に泊まっていくというノブさんに別れを告げて、
萩原は吉岡と共に祭壇場を後にした。
日付を変えたばかりの公園内は暗闇にひっそりと寝静まり、
凍てついた夜気が尖った鋭いナイフのように冴え渡っていた。
肩を並べて公園出口へと向かう二人の足音は、一歩踏み出すごとに、
舗装されていない遊歩道の湿った土の中へと吸い取られていく。
カタ、カタ、カタ、カタ、カタ、
と陶質な響きを持った接触音が、
吉岡の左肩に背負われたバッグパックの中から、
絶えず萩原の耳元に届いていた。
カタ、カタ、カタ、カタ、カタ、
とその音は、
カタ、カタ、カタ、カタ、カタ、
と吉岡の歩み一歩ごとについてきて離れない。
一定のリズムで聞こえてくるその接触音を耳に受け止めながら、
萩原はベンチに座りながら交わしたノブさんとの会話を、
頭の中でゆっくりと反芻していた。
(亡くなっちゃった徳さんはね、ここの住人になる前は、
大きな建設会社の社長さんだったのよ。
外車を何台も持っていて、豪華ヨットまで持っていたんですって。
毎晩銀座に呑みに行って、暇があれば海外旅行に遊びに行って、
使っても使い切れないほどのお金があったんだっていってたわ。
それがバブルで一気にはじけちゃってね、気がついたときには、
手元には何も残っていなかったらしいの)
そういってノブさんは顔を斜め上にかしげて遠くを見やった。
(あの向こうに見えるビルがあるでしょ? あれね、
元は徳さんの会社が所有していたビルらしいのよ)
ノブさんの視線の先には、夜天を貫くようにして聳え建つ高層ビルが、
ぬっと無機質に地上を見下ろしていた。
(ほんとなんすか? すごい話ですよね)
半信半疑で聞き返した萩原にノブさんはつと真顔を向けて、
(嘘よ)
と答えて口元だけで少し笑った。
(嘘に決まってるじゃないの)
ノブさんは着ていたジャンパーの内ポケットからごそごそと
小さな巾着袋を取り出して、それを萩原の目の前にかざした。
(これね、徳さんの遺品なのよ。死んじゃうまえに徳さんがよくいってたの。
もし自分になにかあったら、今まで世話になったお礼に、
あたしに全財産を譲り渡すって。自分のほったて小屋の床下には、
実は何千万円っていうくらいの大金を隠してあるから、それをね、
全部あげるって言ってくれててね)
ノブさんは巾着袋の口を大きく開くと、それを自分の左手の上に逆さにした。
中からチャリンと、五百円玉が一つと、十円玉が三つこぼれ落ちてきた。
袋の中身はたったそれだけだった。
(みんな最初からもちろん知ってたのよ、そんな話は全部うそっぱちだって。
でもね、いいじゃないの、別にそんなこと。誰のことも傷つけていないんだし)
ノブさんは手のひらに乗った530円を巾着袋の中に戻すと、
(こんなところに長年住んでいるとね、そんなまやかしでもないと
耐えられなくなっちゃうのよ、生きていることに)
そう言って大事そうに巾着袋を胸の内ポケットにしまい込んだ。
(酔っ払うと、っていってもいつも酔っ払ってたんだけど、
徳さんがその話をしだすとね、ああまた徳さんのホラが始まったって、
みんな適当にあしらって聞き流していたんだけど、でもヒデちゃんは
違ってたのよね。何年間もずっと、それこそ耳にタコができるほど
聞かされていた話にね、いつもちゃんと真正面から向き合って、
心の真ん中から耳を傾けてあげていたのよ)
そこでちょっと黙った後、ノブさんは再び目線を上げて、
こちらをじっと見下ろしている高層ビルを眺め上げた。
(でもね、だからといってヒデちゃんは、そんな徳さんの話を
無理矢理に信じてあげようとか、そんな陳腐なことをしていたんじゃないわよ。
そんなんじゃなくてね、その話の向こう側にある、徳さんの心の裡を
きちんと受け止めてあげてたのよね・・・・。なんていったらいいのかしらねぇ、
人って絶対的に孤独な生き物じゃないの?
互いに心底分かり合えるなんてことは幻想であって不可能なことなのよ、
そうじゃない? でもそうだからこそ人は人と寄り添い合えるのよね。
寄り添い合おうとする気持ちがその不可能なところから生まれてくるんだわ。
ヒデちゃんは、人間の中に巣食っている絶対的な孤独を、
きちんと自分の中に引き受けているんじゃないかしら。
納得して、引き受けて、そして決意してるっていうのかしらね、孤独に対して。
だからこそ心からやさしく寄り添うことが出来るんだと思うのよ、他人に対して。
でもそれは、どういったらいいのかしらねぇ、一方通行じゃないのよね。こう、
相手側に一方的に寄り添っていくんじゃなくて、相手に与えて、そして自分も
与えてもらっているっていうのかしらね、互いに寄り添い合う道すじを、
両側から開いてくれる感じなのよね)
ノブさんは思いを巡らせるような顔で、今度は夜空を高く見上げた。
(あの子は生を慈しむことが出来る子なんだと思うのよ。
それってものすごく単純なことなんだけど、でもものすごく単純なことなだけに、
日常生活の中では蔑ろにされやすいことなのよね、そうでしょう?)
そう言って問い正すような眼差しを萩原に向けた後、ノブさんはすいっと
正面に向き直ってからまた話を継いでいった。
(人間は様々な想いを抱えて一生懸命生きてるんだっていう
その思いのやさしさがね、ヒデちゃんの生活の中ではきちんと
言行一致しているっていうのかしらね、それとも心行一致してるっていったほうが
ぴったりくるかしら、とにかくそんな感じなのよね・・・。
出来ちゃった傷口にただ絆創膏をぺたって貼ってあげるだけじゃなくて、
その傷の痛みを一緒に感じ取ってくれる子なのよね。
そういうことが当たり前に出来ちゃうのよ、ヒデちゃんって子は。
徳さんだってね、自分の話を信じてくれている人なんて誰もいないってことは
最初から百も承知だったのよ。だからこそヒデちゃんの気持ちが
嬉しかったんだと思うの、すごく。唯一の気持ちの拠り所だったんだと思うわ、
徳さんにとって・・・。生き別れになった自慢の息子が、別の人の姿になって
自分のもとに帰ってきてくれたみたいだって、そうよく言ってたもの)
(生き別れの息子がいるんですか、その人?)
(さぁねぇ・・・)
ノブさんは遠くを見つめていた目線を萩原に向け直し、
(キムタクは生き別れたあたしの息子なのよ)
といってちょっと寂しそうな含み笑いを浮かべた。
(とにかくね、そんなヒデちゃんにだから頼んだのよ、徳さん。
自分が死んだら、その遺灰を故郷に持って帰って欲しいって。
遺言だったのよ。ヒデちゃんにお願いしたいって、名指しで頼んだの。
ヒデちゃんじゃなくちゃダメだって・・・)
「お前じゃなくちゃダメなのか?」
不意に萩原は思いを口に出した。
隣を歩いている吉岡が、俯いていた顔をそっと上げた気配がした。
カタ、カタ、カタ、カタ、
とその肩先からあの音がついてくる。
萩原は、吉岡の左肩に乗ったバッグパックを横目で捕えながら言葉を続けた。
「別にヒデじゃなくたっていいじゃないか。
その亡くなった徳さんって人の家族に、
ここまで遺灰を取りに来てもらえばいいだけの話だろ?」
自分の吐き出す言葉に自分の心をざらつかせながら、
しかし萩原は言い続けた。
(ヒデが長距離バスに乗って旅に出る)
と一言、筒井からの携帯留守電メッセージを聞いたのは、
昨夜遅くのことだった。
その旅が、今の吉岡の体調にどんな影響を及ぼすのかは、
筒井の怒った声音からすぐに察知することができた。
「もっとさ、自分の事をよく考えてくださいよ」
つとめて淡々とした口調で言った萩原の言葉を横顔に受け止めながら、
吉岡は少し俯いたまま、暫く黙って歩いていた。
萩原の言葉が止むたびに、あたりの静けさがしんと夜冬に増していく。
二人の向かう前方には、公園入り口の石門が、常夜灯の灯りに
ぼんやりと頼りなく照らし出されていた。
「帰りたいっていったんだよね、徳さん」
やがて吉岡がそっと口を開いた。
萩原は顔を横に向けて吉岡を見た。
「生まれた場所に帰りたいって、最期にそう言ったんだ」
まっすぐ前方を見つめている吉岡の横顔は、
森に眠る湖のようにひっそりと静まっている。
「徳さんのことをここに迎えにきてくれる人は、いないんだよ。
徳さんだけじゃなくて、ここで亡くなってしまう人の殆どは、
引き取り手もいなくて、亡くなった一年後に合同祭で追悼されたあと、
無縁仏として名前もない共同墓地に葬られてしまうんだ。
悲しいけど、それが現実なんだよ・・・」
穏やかに話していく吉岡の声に被さっていくように、
ノブさんの話し声が萩原の心に再び戻ってきた。
(入院先の病院をまた抜け出したって知らせを受けたヒデちゃんがね、
すぐ小屋に飛んできてくれたんだけど、でもヒデちゃんが着くより前に
徳さんの容態が急変しちゃってね。ヒデちゃんが着いたころはもうかなり
危ないって誰の目にも分かる状態だったのよ。
急いでヒデちゃんが救急車を呼んでくれたんだけど、でも徳さん、
そんな力がどこにまだ残ってたのか、枕元に座ったヒデちゃんの両腕を
しっかりぎゅっと掴んでね、帰りたいのは病院じゃない、故郷に帰りたい、
生まれた場所に連れて帰ってくれって、縋って泣いたのよ。
そんな徳さんに何度も何度も頷きながら、頑張って頑張ってって
ヒデちゃんは繰り返し必死に励ましてたんだけど・・・。
徳さん最期まで意識がしっかりしてたから余計につらくってねぇ・・・。
人の命ってとても力強くて、そして同時にとても脆いものなんだって、
あたしその時はっきり実感したわ・・・)
「明日発つよ。約束なんだ」
吉岡の言葉に萩原は足を止めた。二、三歩遅れて足を止めた吉岡が、
押し黙ったままじっとその場に佇んでいる萩原に振り返って、
ふっと微笑みかけた。
「旅から帰ってきたら連絡するよ」
「どうしてさ、」
吉岡の明るい声を遮るように萩原は言った。
凍りついた夜の息遣いは、吉岡の周りでふわりとその緊張感を解いている。
「どうしていつもそうなんだよ?」
いくら言っても無駄だ、ヒデは一度結んだ約束は破らない、
と頭で十分了解しながらも、しかし心は了解できずに萩原は
言葉を吐かずにはいられなかった。
「自分のことより他人のことばかり優先してんだよな。もっとさ、
他人の人生に勝手になれよ。そんな体調のまま旅に出たらどうなるか、
お前が一番よくわかってるだろ。わかってんだろ、ヒデ?」
悪いのはヒデじゃない、ヒデを攻めるのは見当違いだ。
悪いのは、攻めるべきなのは、ヒデの身に降りかかってしまった状況なんだ。
それはわかっている。わかっているけど、でも・・・
「うん、わかってる」
静かな声が波のように寄せてきて、萩原は開きかけた口を閉じて、
吉岡の顔を見つめなおした。
「わかってるよ」
ふわっと微笑んだ吉岡の肩越しに、あの大きな木の姿が見えていた。
葉を落としきった細い枝を、精一杯に天へと伸ばして立っている。
吸い込まれるように暫くその木の姿を見つめていた萩原は、
急に思い出したようにふっと吉岡へと視線を戻した。
「だから大丈夫だよ」
ふいに吹いてきた透明な夜風が、吉岡の髪をやわらかく揺らしていった。
まだ人気の少ない早朝の駅の改札口を抜けたところで、
吉岡は驚いた顔をして足を止めた。前方をまっすぐに見つめる目元は、
しかしゆっくりと親しげにほころんでいき、そして
ふっと息を吐くような仕草で少し困ったように笑うと、
左肩に背負ったバッグパックを大事そうに掛けなおしてから、
駅構内の片隅にあるバス停留場の方へと歩き出した。
「待たせるねぇ、吉岡君」
「青森方面」と書かれた長距離バス乗り場の案内ポールに寄りかかりながら、
萩原が吉岡に向かって軽く片手を上げた。
その足元には、小さな旅行鞄が置かれている。
「凍えさせた詫びにコーヒーおごってくれ」
無造作に鞄を手に取り上げて言った萩原に、
明るく笑う吉岡の笑顔が朝の空気に澄んでいく。
「うん。ごちそうするよ。デニーズでいいのかな?」
萩原は近づいてきた吉岡に肩を並べた。
二人はそのまま閑散としている駅のロータリーを大股に横切っていき、
国道を挟んだ反対側にあるデニーズへと向かっていった。
「その徳さんってじいさんさ、なにも電車が嫌いだったからって
わざわざバスを使えなんて指示が細かいよなぁ。ああさみぃ~」
萩原はダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んで首をすくめた。
「長距離バスに乗るなんて高校の修学旅行以来だよ、オレ。
でも結構楽しみだったりもするんだけどさ」
隣で微笑んでいる吉岡の笑顔をいつものように居心地よく感じ取りながら、
萩原はそこでふと何かに気付いたように歩道の上で立ち止まった。
そのまま目線を、二人の目の前に左右に横切っている国道の
左側車線の上りの方角へと遠く伸ばしていった。
吉岡も隣で同時に立ち止まって、同じ方向を同じように見つめ渡している。
まだ完全に起き出していない国道は行きかう車の数もまばらに、
眠たげな町の中で大人しく静まり返ったままでいる。
やがて二人は視線を前方に戻すと、数歩先の交差点まで歩いていって、
そこで赤信号に足を止めた。
「なんだかどうやらさ、」
青に変わった信号を立ち止まったまま眺めながら萩原が言った。
「青森へはタクシーで行くことになりそうだよ、秀隆くん」
「そうみたいだね」
横断歩道を渡り出す気配もなく吉岡がやんわりと応える。
萩原は左車線の上り方向に向かって一歩足を踏み出すと、
「タクシー!」
と叫んで大きく右手を左右に振った。
左車線を走行してきた車が急ブレーキ気味に二人の前で停車し、
その後部座席のドアを開けて素早く中に乗り込んだ萩原の後に
吉岡が続いていく。
「運転手さん、青森の佐井村までお願いします」
行き先を告げた萩原の言葉に車は無言で発進し、
「ふざけんなよ」
筒井の声が運転席から返ってきた。
つづく