時の重みを含んだ点滴の雫が、ポタリ、ポタリ、と
チャンバーの中に落ちている。
細長いチューブを通過した輸液は、
細長く横たえられた吉岡の腕の中へと注がれていた。
内視鏡室から個室部屋へと移されてきた吉岡は、
病室のベッドの純白さと、清潔さと、静寂さの中に、静かに溶け込んでいる。
窓辺にかかったレースのカーテンが
ゆるやかな陽の傾きを窓辺に受け止めていた。
レースの隙間から差し込んでくる冬の薄日は、
眠りに落ちている吉岡の睫毛にやわらかな光を落としている。
その横で、窓辺の陽光を背に受けた筒井が、
ベッドの脇に置かれたパイプ椅子に腰を下ろしていた。
膝の上で両手を組み合わせて、項垂れたように俯きながら、
じっと自分の足元に視線を落としている。
着ている半袖のTシャツは、白い布地が殆ど朱色に染まっていた。
足元に置かれた脱衣籠の中には、同じように深紅色に染まった服が
無造作に投げ入れられていた。
筒井は、じっと、脱衣籠の中に入ったその吉岡の服を、
やるせない表情で見つめていた。
救急車で総合病院に担ぎ込まれた吉岡は直ちに内視鏡室へと運ばれていった。
同年輩らしき担当の外科医が室内にすぐさま姿を現し、
意識を失った吉岡の横に付き添っていた筒井の姿を認めると、
部外者には出てもらってくれ、と看護士の一人に向かって高圧的に言い放ったが、
その人は患者の友人で東京の大学病院の医師だと看護士から説明を受けると、
担当医は一瞬苛立たしそうな視線を筒井に送ったあと、
浮かびあがった不快な表情を意識的に打ち消して、応対処置に素早くとりかかっていった。
局所麻酔された口腔から気管支鏡が差し込まれて出血部位が確認され、
機械的な正確さで止血処置が進められていった。
内視鏡台の上で青白く色を失った吉岡の意識は遠い果てへと追いやられ、
ただ為されるままに身を横たえていた。脇に追いやられた筒井は、
その様子をただ部屋の隅から眺めているだけしかなかった。
なすすべもなくその場に佇む筒井の耳に、やがて突然、
担当外科医の鋭い言葉が飛び込んできた。
(邪魔なんだよあの部外者。出て行ってもらってくれ)
筒井はふと顔を上げて吉岡の様子を確かめた。
胸の上にかかった白いリネンのシーツ下で、
穏やかな呼吸がかすかに、規則的に、ゆっくりと繰り返されている。
個室に移されてきたあと、吉岡は昏蒙とした意識の中から
幾度となく目を醒まそうとした。
(ごめん、筒井・・・)
と、意識と無意識を彷徨う不透明な波間から何度も何度も
もがき上がろうとした。
筒井は目線を上げて輸液の量をチェックし、そこから視線を
点滴チューブに伝い下げて見た吉岡の腕の白さに改めて驚き、
そしてまたゆっくりと低く俯いた。
耳の上で鳴っている壁時計の音が、残酷なほど潔癖なリズムで
一秒ごとの時を過去へと刻んでいく。
筒井は俯いたまま、ぼんやりと足元の脱衣籠を見つめつづけていた。
「やっぱり紺色がいいかな・・・」
「え?」
不意の声に顔を上げると、いつの間にか目覚めていた吉岡が瞳を向けていた。
病室内に差し込んでいる陽の光は、知らぬ間にうっすらと黄金色を帯び始めている。
「秀人君のランドセル。何色がいいかなって思って・・・」
「ばか・・・」
筒井の目元がふっと緩む。
「こういう時は開口一番、ここはどこ、わたしは誰?って訊くんだよ、普通は」
「ここは病院、わたしはヒデ」
「回答してどうすんだよ。 ・・・正解だけどさ」
吉岡はちょっと笑って、それから天井へと顔を向け直した。
窓辺の光をうけた雀茶色の瞳が、やさしく、透明に、清んでいる。
「気分は・・・どうだ?」
ボソリ、と筒井が問いかけてくる。
うん・・・、と吉岡は小さく頷いて、
「申し訳ないって、思ってる・・」
と答え、それからゆっくりと一度、瞬きをした。
「迷惑かけちゃったね・・・」
筒井は椅子から立ち上がってベットの反対脇へと周り、
枕元の横にセットされている点滴のレバーを調節した。
「そんな気分のことなんか、訊いてねぇよ」
締め切った窓ガラスの外側から、
どこか戸外ではしゃいでいる子供たちの笑う明るい声が、
二人の空間の隙間にかすかに滑り込んできた。
筒井は、点滴バッグを見つめるともなしに見つめたまま黙り込み、
吉岡は静かに天井を眺めている。
二人ともそうしてしばらく、淀みのない沈黙の中に身を委ねていた。
病室の内側はひっそりと静まり返り、下界のざわめきから遠く隔離されていた。
「ああ血ぃ吐いちゃったな、って気分なんだ、今」
しばらくして吉岡が、天井を見つめたまま何気ない調子で明るく言った。
「まいったな、きっと筒井が言うぞ、俺は怒ってるんだぞヒデ、って」
再び窓側の椅子に戻って腰を下ろした筒井に、
吉岡は少年のような瞳を向けた。
「ああ俺は怒ってるよ」
筒井がぶっきらぼうに応え、吉岡はまた少し微笑む。
「それから無性に腹がたってるんだって言うんだよな、きっと」
「そうだよ無性に腹がたってるよ」
「だけど僕が謝ると、ふざけんなよ、って更に怒るんだ」
「なら謝るなよ」
「あのさ、筒井、」
「なんだよ?」
「ごめんな」
「ふざけんなよ」
筒井はまたやおらに立ち上がって、
窓にかかったレースのカーテンをさっと開けた。
雪を頂いた山岳が、平坦に続く田舎町の果てに雄大に聳えている。
何の鳥なのか、茶の翼を大きく広げた鳥が一羽、
風切るような流線型を乾いた空に描きながら遥か彼方へと飛んでいった。
「だけどさヒデ・・・」
小さな点となって消えていく鳥の姿を見送りながら、
筒井はポツリと言った。
「・・・ん?」
「俺だって・・・お前と同じ選択をするよ」
俺がお前の立場だったら・・・と心の中で呟きながら、
筒井は、ゆるやかに夕空へと色を変えていく西の空を眺めなおした。
再検査の結果を告げた夜、延命のための化学療法は受けない、と
静かに、はっきりと伝えてきた吉岡の言葉がまた息吹のように蘇り、
筒井の心の中で反芻されていく。
癌を患った自分の父親が、治療中の入院ベッドの上で体力を奪われ、
やがては気力も失い、最期の数週間は意識もなく器械につながれたまま
死んでいってしまったこと。けれどもだからといって、
延命化学療法を頭から否定しているわけではなく、
それは自分の経験からくる一つの選択なのだと、吉岡は、
集学的治療の可能性を必死に説得しようとする筒井に静かに説明し、
そして頭を下げた。
ごめん、筒井、と、
見ている筒井が苦しくなるほどに、
吉岡は深く頭を下げて謝った。
「謝るようなこと、してねぇだろ、ヒデ」
聳え立つ山並みを遠く見つめながら、筒井はゆっくりと言った。
吉岡は、背後で静かに黙っている。
絵筆を一筆なでたような薄みどり色の雲が、
西の空に流れ込んでいた。
かすみ浮かぶ雲を眺めている筒井の耳の奥で、
いつの日か聴いた遠い記憶の中にある声風が、
近づいてくる列車の音のように徐々に響き始めていた。
それは、ブラスバンドの演奏に乗った喚声だった。
筒井は、耳を澄ます。
五感で切り取った記憶の風景が、群集の喚声の音と共に、
次々と鮮やかに蘇ってくる。
空高く澄み渡った初夏の群青と、
むせるように灼けた土の匂い。
17才の自分が、キャッチャーズボックスから
ピッチャーマウンドに立っている吉岡を見つめている。
心の映写機に映っているのは、
家庭の事情でやむなく野球部を中途退部しなければならなかった、
吉岡の最後の試合、夏の区大会の決勝戦の風景だった。
スコアは5対4の優勢で、9回裏のツーアウト、ツーストライク、ワンボール。
走者は外野と内野のエラーで運を稼いだ二塁と三塁。
打席に立っていたのは四番左の強打者だった。
一点リードしていたものの、しかしもしここで一発ヒットを打たれたら、
試合はあっけなくサヨナラ負けになってしまう。
ファアボールを出したら走者満塁。しかし続く五番の打者は、
その日ノーヒットノーランの成績だった。
迷った末に監督は安全パイである敬遠の合図を送ってきた。
筒井はそれを無視して吉岡のフォークに賭けた。
それに賭けたかった。そうするべきだと思った。
そうしてサインを出した筒井に、
しかし吉岡は首を横に振った。
何度も同じサインを送り続ける筒井に、
吉岡は頑として首を縦に振らなかった。
長年バッテリーを組んできた二人にとって、
それは最初で最後の意見のくい違いだった。
野球帽のひさしに翳った吉岡の表情は、
筒井の場所から読み取ることは出来なかったが、
けれども送るサインに首を横に振り続ける仕草は強く確かだった。
結局筒井は諦めて、吉岡に決定を託した。
ワインドアップポジションからゆっくりと大きく振りかぶり、
ズバンッ!
とストレートで三振を奪ってきたその時の吉岡の速球を、
筒井は今この瞬間も、両手にありありと感じ取ることができる。
「お前が決めたことなんだ、そうだろ?」
筒井はベッドへと向き直って言った。
薄い陽の光の中で、吉岡は静かに筒井を見つめている。
「そういうことじゃねぇか、ヒデ」
まっすぐに筒井を見つめ返している吉岡の瞳に、
ふっと穏やかな表情が深まっていく。
「まいったよ、まいったね、渋滞ですよ、渋滞」
突然廊下から声がして二人同時に振り向くと、
紙袋を提げた萩原が病室に入ってきた。
「行きに通った大通りで下水管かなんだかの修復工事しててさ、
真昼間だっていうのにノロノロの大渋滞だよ、大渋滞、信じられませんぜ、
お陰で暇つぶしに車内で堀ちえみのCDまで聴いちゃったよ、俺、
何やってんだかって話ですよ、マジで、それはそうとさヒデ、
どうなんだよ気分は?」
「うん、だいぶいいよ」
ベッドの廊下側に置かれたパイプ椅子にドカっと腰を下ろした萩原に、
吉岡は笑顔で応えた。それはよかった、と淡々と受け答えながら
紙袋の中身を覗いている萩原の目は、泣き腫らしたように赤い。
「君たち感謝したまえよ、これはボクからのプレゼントだ。
喜んで受け取るがいいさ、さあいいかい、まずは筒井から、ほれ」
そう言って萩原は紙袋からグレーのTシャツを取り出すと、
窓際側の椅子に向かって投げた。
筒井は受け取ったTシャツを広げて少し沈黙したあと、
「なんでわざわざ伴宙太のプリント柄なんだ?」
ど真ん中に大きくプリントされた伴宙太の絵柄を二人に向けながら
萩原に皿の目を据えた。ベットの上で吉岡が笑っている。
「お前にぴったりじゃないか。店で見つけたときはその場で
ガッツポーズ取っちゃったくらいさ。見ろよそれ、さあ来いっ、星君!
って感じだろう」
「それは花形の台詞だろうが。それじゃあヒデには星飛雄馬なのかよ?」
「単細胞だね、筒井君。そうじゃなくて秀隆君にはこれだよ」
萩原が広げたTシャツを見て二人とも同時に大笑いした。
アイビー色の胸元には、ガッチャマン一号の姿が一面大にプリントされている。
「ふざけんなよハギ~」
吉岡はひとしきり笑ったあと、ありがと、と言って嬉しそうに
萩原からTシャツを受け取った。
そんな吉岡の姿をそっと確かめるように見つめたあと、
萩原は椅子に深く座りなおして、
「なんとなくケンっぽいよな、ヒデってさ」
と言って笑った。吉岡もクスっとまた可笑しそうに笑って、
「そうかな・・・、ケンっていうんだっけ、一号って?」
「そうだよ。俺はさ、二号だな、青いやつ、何ていったっけ?」
「青レンジャーだろう、それは俺だな」
「お前は伴宙太だよ」
会話に入ってきた筒井にすかさず萩原が断言する。
なんだよ、それじゃあお前は、と言い返しかけた筒井の目線が
ふっと萩原を通り越して廊下へと抜けていった。
その視線につられるように背後に振り返った萩原の視界の中に、
白衣に身を包んだ同年代くらいの医師の姿が入ってきた。
吉岡の両脇に座っている萩原と筒井には一瞥もくれずに、その医師は
無表情のままベッドの脇まで歩み寄ってきて点滴のメモリをチェックをすると、
クルリとベッドに半身を回して吉岡の顔を見下ろした。それから
治療を担当した外科の辻原だと事務的に自己紹介を済ませると、
「安静にしていないと困りますよ。せっかくの治療が無駄になる。
それくらいのことは常識としてわかっていますよね?」
と顔色一つ変えずに言い加えた。その視線は吉岡に向られてはいるものの、
しかし後半に言った言葉は明らかに筒井に向けられていた。
筒井は、黙ったまま宙を見据えている。
「すみません。もう大丈夫です」
吉岡はそう言って穏やかに微笑み、そんな様子を辻原は、
少し小首をかしげるようにして見下ろし直した。
「大丈夫かどうかは君が決めることじゃない。それは医者が決めることですよ。
あなたは患者なんだから、ただここに安静にしていればそれでいい。
わかりますよね?」
むっとした視線を辻原に投げた萩原の横で、
はい、と吉岡はやはり穏やかに頷く。
辻原はベッドの横でじっと黙り込んでいる筒井をチラと一瞥したあと、
さらに言葉を続けていった。
「しばらくはここに入院してもらいますからそのつもりでいてください。
長期になってしまうかもしれませんが、落ち着いたら東京の病院に
きちんと搬送しますので。ここへの入院の手続きは明日事務のものに
病室に来てもらって済ませればいいでしょう。今後の治療は内科の担当医に
まかせておけば安心ですから、あなたは何も心配することはありませんよ」
「辻原先生、」
「なんです?」
そっと呼びかけてきた吉岡に、辻原は視線を向けなおした。
「治療してくださって、ありがとうございました」
吉岡はそう言って枕の上で丁寧に頭を下げた。
「安定したらすぐに退院します。長期の入院は、しません。
これから行かなくてはならないところがありますので」
続けて静かに自分の意志を伝えてきた吉岡の顔を、
まるでめずらしいものでも見るかのようにじっと見下ろしていた辻原は、
やがてふっと鼻から息を吐き出すように笑って、
「それがどういう意味なのか、わかって言ってらっしゃる?」
と言って口元だけに笑みを残した。
「わかっています」
詰問するような辻原の問いに受け答えた吉岡の穏やかさは微塵も変わらない。
辻原はあきれたように軽くかぶりをふり、
「わかっているとは思えないな。やるべきことの優先順位を間違えてる」
といって苦笑した。堪りかねた萩原が椅子から立ち上がる。
「ちょっとあんたさ、何様だと・・」
「すまないが君、出て行ってくれないか?」
いきり立って反論しかけた萩原を、辻原は言下に断ち切った。
萩原はさらに反論ようと挑みかけたが、しかし口先まで出かかった言葉を
ぐっと思い直して嚥下し、無言のままベッドから離れて、
そのまま大股に病室を出て行った。
廊下に遠ざかっていく萩原の足音にしばらく耳を傾けていた辻原は、
やがてその音が消えて聴こえなくなると、ドアの方へ向けていた右半身を
ゆっくりとベッドに向けなおして吉岡の顔を見下ろした。
「わがままを言ってもらっては困りますよ、吉岡さん。いいですか、
あなたはここに担ぎ込まれてきた患者なんだ。そして医者はいったん
受け持った患者の命に責任を持たなければならないんですよ。
それはもう仕事とかのレベルではなく、選ばれた者の使命です。
患者の命を救うことが医者としての尊い使命なんですよ。たとえそれが、」
と言って辻原はいったん口を噤んだが、
「それが望みの薄い患者に対しても、ですよ」
と言ってそこでまた筒井の顔を冷ややかに横目で見やり、
それからまたベッドの上の吉岡へと視線を下ろした。
「いいですか、たとえもしダメだとわかっていても、
医者なら患者の残された生存力に賭ける。賭けてやる。
その生存力と一緒に闘う、闘いぬいて、少しでもそれを延ばしてやる。
それが医者の使命なのだと僕は固く信じて疑わないし、
それが医者であるということの真実なんですよ。
そうでなかったら、一体どこに医者の価値を見出すというんです?」
吉岡は、静かに、まっすぐに、辻原の言葉に耳を傾けている。
辻原は目線だけを動かして筒井を見やった。
「筒井先生、と仰いましたよね?」
「筒井です」
先生、という部分に殊更強調して呼びかけてきた辻原に、
筒井は中空を見つめている目線を動かさずに低く答えた。
「僕はあなたのことが到底理解できない。
こんな状態の患者に、しかも友達だという彼に匙を投げ、
何もせずに、しかも一緒に旅にでているなんて、
医者としての倫理に欠けている。真の友情があるなら尚更、
友人の命の可能性に賭けるべきだ。そうは思いませんか?」
筒井は何も言い返さずに、じっと宙を見据えたままでいた。
辻原は、再び目線を落として吉岡を見た。
「僕の言っていることは理解できますよね、吉岡さん?
いいですか、よく聞いてください。あなたは状況に負けてはいけないんですよ。
状況と共に生きる、そこからの可能性に賭ける。大事なのは、
与えられた状況の中で少しでも長く生き抜いていくことなんです」
そう言って口を結んだ辻原に、吉岡は静かに微笑み返した。
「仰っていただいたことは、よくわかります」
穏やかなその笑みからふわりと放たれた言葉に、
病室の空気がやさしく揺れていった。
吉岡は、何かを思いめぐらせるような表情で一旦口を閉じたあと、
「けれども僕は・・・」
と、そっと言葉を繋いでいった。
「状況という名の川に浮かべた舟に乗って流れていくのではなく、
今現在与えられているこの瞬間のこの時を、
僕自身に与えられたこの足で歩いていきたいと思っています」
そう穏やかに言って口を閉じた吉岡の顔を、
辻原は疑義を抱いた表情で暫くじっと見下ろしていが、
「理解できないな」
とやがて一蹴するように言って視線を吉岡から逸らし、
ナースコールのボタンを押して点滴替えの指示を出した。
とにかく、と言いながら再び視線を吉岡へと下ろした辻原の瞳には、
苛立ちの色がそれとわかるくらいに滲みでていた。
「ぼくは君の命のことについて話しているんですよ。
はっきりいいますけれど、君の友人である医者は、
友情のあり方を履き違えているとしか言いようがない。
いいですか、僕は君の命を助けようと説得しているんですよ。
それがどういう意味なのかわかりますよね?こちらの決意と、
君の友人の選択と、どちらに真価を見出すのか、
そこにはもう議論の余地などないはずだ」
そうですね・・・と吉岡は少し考え込むような表情で静かに答え、
「すみません辻原先生、100円玉硬貨はお持ちですか?」
と少し間をおいてから、やんわりと尋ね返してきた。
「もしお持ちでしたら、ちょっとお借りしたいんですが」
唐突な話題転換に胡散臭そうに眉をひそめながらも、
辻原は黙ってスーツの胸ポケットからコインケースを取り出し、
その中から100円玉を拾い出して吉岡に手渡した。
ありがとうございます、と礼を言いながら、
吉岡は手にとった硬貨を人差し指と親指の間に垂直に立てて挟んだ。
「辻原先生、」
「なんです?」
「これ、100円玉ですよね」
「ええそうですけど、それが?」
笑顔で静かに問う吉岡に、辻原は面倒くさそうに答えた。
吉岡は、次にその100円玉を二つの指の間に平らに挟み変えていく。
「でもこれも100円玉ですよね」
硬く宙を見据えていた筒井の表情が、ふっとほころんでいく。
吉岡は指に挟んでいた硬貨を右の掌に乗せかえ、
それからその手をそっと辻原に差し出した。
吉岡の掌に乗った硬貨をじっと見つめる辻原の瞳が疑雲に覆われていく。
新しい点滴バッグを携えた看護士が素早い足取りで病室にやってきて、
手際よく新しいセットに差し替え、そして来た時と同様に足早に病室から出て行った。
辻原は無言のまま手を伸ばして吉岡の手の上に乗った100円硬貨を摘み取ると、
それを白衣のポケットに入れ戻し、それから懐疑的な視線を吉岡に向け落とした。
見つめ返してくる吉岡の眼差しは、驚くほど率直で物静かだった。
「僕にとって、生きているんだ、と実感できる場所にいつもいてくれる、
それが筒井であって、僕の、かけがえのない親友なんです」
静かに紡ぐようにそう言って吉岡は、そっと穏やかに微笑んだ。
その瞳の奥には、力強く確かな生命の光がしっかりと宿っている。
何か言い返そうと口を開こうとする辻原はしかし、
反駁する気持ちが言葉にならず、
苛立ちだけが虚しくその口先から煙滅していくだけだった。
いつの間にか病室の中には夕映えが舞い降りていて、
日暮れの名残をひっそりと抱擁していた。
つづく