月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

吉岡刑事物語・その43 / 窓枠の青空・15

2010年02月19日 | 小説 吉岡刑事物語




時の重みを含んだ点滴の雫が、ポタリ、ポタリ、と
チャンバーの中に落ちている。
細長いチューブを通過した輸液は、
細長く横たえられた吉岡の腕の中へと注がれていた。
内視鏡室から個室部屋へと移されてきた吉岡は、
病室のベッドの純白さと、清潔さと、静寂さの中に、静かに溶け込んでいる。
窓辺にかかったレースのカーテンが
ゆるやかな陽の傾きを窓辺に受け止めていた。
レースの隙間から差し込んでくる冬の薄日は、
眠りに落ちている吉岡の睫毛にやわらかな光を落としている。
その横で、窓辺の陽光を背に受けた筒井が、
ベッドの脇に置かれたパイプ椅子に腰を下ろしていた。
膝の上で両手を組み合わせて、項垂れたように俯きながら、
じっと自分の足元に視線を落としている。
着ている半袖のTシャツは、白い布地が殆ど朱色に染まっていた。
足元に置かれた脱衣籠の中には、同じように深紅色に染まった服が
無造作に投げ入れられていた。
筒井は、じっと、脱衣籠の中に入ったその吉岡の服を、
やるせない表情で見つめていた。
救急車で総合病院に担ぎ込まれた吉岡は直ちに内視鏡室へと運ばれていった。
同年輩らしき担当の外科医が室内にすぐさま姿を現し、
意識を失った吉岡の横に付き添っていた筒井の姿を認めると、
部外者には出てもらってくれ、と看護士の一人に向かって高圧的に言い放ったが、
その人は患者の友人で東京の大学病院の医師だと看護士から説明を受けると、
担当医は一瞬苛立たしそうな視線を筒井に送ったあと、
浮かびあがった不快な表情を意識的に打ち消して、応対処置に素早くとりかかっていった。
局所麻酔された口腔から気管支鏡が差し込まれて出血部位が確認され、
機械的な正確さで止血処置が進められていった。
内視鏡台の上で青白く色を失った吉岡の意識は遠い果てへと追いやられ、
ただ為されるままに身を横たえていた。脇に追いやられた筒井は、
その様子をただ部屋の隅から眺めているだけしかなかった。
なすすべもなくその場に佇む筒井の耳に、やがて突然、
担当外科医の鋭い言葉が飛び込んできた。

(邪魔なんだよあの部外者。出て行ってもらってくれ)


筒井はふと顔を上げて吉岡の様子を確かめた。
胸の上にかかった白いリネンのシーツ下で、
穏やかな呼吸がかすかに、規則的に、ゆっくりと繰り返されている。
個室に移されてきたあと、吉岡は昏蒙とした意識の中から
幾度となく目を醒まそうとした。

(ごめん、筒井・・・)

と、意識と無意識を彷徨う不透明な波間から何度も何度も
もがき上がろうとした。
筒井は目線を上げて輸液の量をチェックし、そこから視線を
点滴チューブに伝い下げて見た吉岡の腕の白さに改めて驚き、
そしてまたゆっくりと低く俯いた。
耳の上で鳴っている壁時計の音が、残酷なほど潔癖なリズムで
一秒ごとの時を過去へと刻んでいく。
筒井は俯いたまま、ぼんやりと足元の脱衣籠を見つめつづけていた。

「やっぱり紺色がいいかな・・・」

「え?」

不意の声に顔を上げると、いつの間にか目覚めていた吉岡が瞳を向けていた。
病室内に差し込んでいる陽の光は、知らぬ間にうっすらと黄金色を帯び始めている。

「秀人君のランドセル。何色がいいかなって思って・・・」

「ばか・・・」

筒井の目元がふっと緩む。

「こういう時は開口一番、ここはどこ、わたしは誰?って訊くんだよ、普通は」

「ここは病院、わたしはヒデ」

「回答してどうすんだよ。 ・・・正解だけどさ」

吉岡はちょっと笑って、それから天井へと顔を向け直した。
窓辺の光をうけた雀茶色の瞳が、やさしく、透明に、清んでいる。

「気分は・・・どうだ?」

ボソリ、と筒井が問いかけてくる。
うん・・・、と吉岡は小さく頷いて、

「申し訳ないって、思ってる・・」

と答え、それからゆっくりと一度、瞬きをした。

「迷惑かけちゃったね・・・」

筒井は椅子から立ち上がってベットの反対脇へと周り、
枕元の横にセットされている点滴のレバーを調節した。

「そんな気分のことなんか、訊いてねぇよ」

締め切った窓ガラスの外側から、
どこか戸外ではしゃいでいる子供たちの笑う明るい声が、
二人の空間の隙間にかすかに滑り込んできた。
筒井は、点滴バッグを見つめるともなしに見つめたまま黙り込み、
吉岡は静かに天井を眺めている。
二人ともそうしてしばらく、淀みのない沈黙の中に身を委ねていた。
病室の内側はひっそりと静まり返り、下界のざわめきから遠く隔離されていた。

「ああ血ぃ吐いちゃったな、って気分なんだ、今」

しばらくして吉岡が、天井を見つめたまま何気ない調子で明るく言った。

「まいったな、きっと筒井が言うぞ、俺は怒ってるんだぞヒデ、って」

再び窓側の椅子に戻って腰を下ろした筒井に、
吉岡は少年のような瞳を向けた。

「ああ俺は怒ってるよ」

筒井がぶっきらぼうに応え、吉岡はまた少し微笑む。

「それから無性に腹がたってるんだって言うんだよな、きっと」

「そうだよ無性に腹がたってるよ」

「だけど僕が謝ると、ふざけんなよ、って更に怒るんだ」

「なら謝るなよ」

「あのさ、筒井、」

「なんだよ?」

「ごめんな」

「ふざけんなよ」

筒井はまたやおらに立ち上がって、
窓にかかったレースのカーテンをさっと開けた。
雪を頂いた山岳が、平坦に続く田舎町の果てに雄大に聳えている。
何の鳥なのか、茶の翼を大きく広げた鳥が一羽、
風切るような流線型を乾いた空に描きながら遥か彼方へと飛んでいった。

「だけどさヒデ・・・」

小さな点となって消えていく鳥の姿を見送りながら、
筒井はポツリと言った。

「・・・ん?」

「俺だって・・・お前と同じ選択をするよ」

俺がお前の立場だったら・・・と心の中で呟きながら、
筒井は、ゆるやかに夕空へと色を変えていく西の空を眺めなおした。
再検査の結果を告げた夜、延命のための化学療法は受けない、と
静かに、はっきりと伝えてきた吉岡の言葉がまた息吹のように蘇り、
筒井の心の中で反芻されていく。
癌を患った自分の父親が、治療中の入院ベッドの上で体力を奪われ、
やがては気力も失い、最期の数週間は意識もなく器械につながれたまま
死んでいってしまったこと。けれどもだからといって、
延命化学療法を頭から否定しているわけではなく、
それは自分の経験からくる一つの選択なのだと、吉岡は、
集学的治療の可能性を必死に説得しようとする筒井に静かに説明し、
そして頭を下げた。
ごめん、筒井、と、
見ている筒井が苦しくなるほどに、
吉岡は深く頭を下げて謝った。


「謝るようなこと、してねぇだろ、ヒデ」

聳え立つ山並みを遠く見つめながら、筒井はゆっくりと言った。
吉岡は、背後で静かに黙っている。
絵筆を一筆なでたような薄みどり色の雲が、
西の空に流れ込んでいた。
かすみ浮かぶ雲を眺めている筒井の耳の奥で、
いつの日か聴いた遠い記憶の中にある声風が、
近づいてくる列車の音のように徐々に響き始めていた。
それは、ブラスバンドの演奏に乗った喚声だった。
筒井は、耳を澄ます。
五感で切り取った記憶の風景が、群集の喚声の音と共に、
次々と鮮やかに蘇ってくる。
空高く澄み渡った初夏の群青と、
むせるように灼けた土の匂い。
17才の自分が、キャッチャーズボックスから
ピッチャーマウンドに立っている吉岡を見つめている。
心の映写機に映っているのは、
家庭の事情でやむなく野球部を中途退部しなければならなかった、
吉岡の最後の試合、夏の区大会の決勝戦の風景だった。
スコアは5対4の優勢で、9回裏のツーアウト、ツーストライク、ワンボール。
走者は外野と内野のエラーで運を稼いだ二塁と三塁。
打席に立っていたのは四番左の強打者だった。
一点リードしていたものの、しかしもしここで一発ヒットを打たれたら、
試合はあっけなくサヨナラ負けになってしまう。
ファアボールを出したら走者満塁。しかし続く五番の打者は、
その日ノーヒットノーランの成績だった。
迷った末に監督は安全パイである敬遠の合図を送ってきた。
筒井はそれを無視して吉岡のフォークに賭けた。
それに賭けたかった。そうするべきだと思った。
そうしてサインを出した筒井に、
しかし吉岡は首を横に振った。
何度も同じサインを送り続ける筒井に、
吉岡は頑として首を縦に振らなかった。
長年バッテリーを組んできた二人にとって、
それは最初で最後の意見のくい違いだった。
野球帽のひさしに翳った吉岡の表情は、
筒井の場所から読み取ることは出来なかったが、
けれども送るサインに首を横に振り続ける仕草は強く確かだった。
結局筒井は諦めて、吉岡に決定を託した。
ワインドアップポジションからゆっくりと大きく振りかぶり、
ズバンッ!
とストレートで三振を奪ってきたその時の吉岡の速球を、
筒井は今この瞬間も、両手にありありと感じ取ることができる。


「お前が決めたことなんだ、そうだろ?」

筒井はベッドへと向き直って言った。
薄い陽の光の中で、吉岡は静かに筒井を見つめている。

「そういうことじゃねぇか、ヒデ」

まっすぐに筒井を見つめ返している吉岡の瞳に、
ふっと穏やかな表情が深まっていく。

「まいったよ、まいったね、渋滞ですよ、渋滞」

突然廊下から声がして二人同時に振り向くと、
紙袋を提げた萩原が病室に入ってきた。

「行きに通った大通りで下水管かなんだかの修復工事しててさ、
真昼間だっていうのにノロノロの大渋滞だよ、大渋滞、信じられませんぜ、
お陰で暇つぶしに車内で堀ちえみのCDまで聴いちゃったよ、俺、
何やってんだかって話ですよ、マジで、それはそうとさヒデ、
どうなんだよ気分は?」

「うん、だいぶいいよ」

ベッドの廊下側に置かれたパイプ椅子にドカっと腰を下ろした萩原に、
吉岡は笑顔で応えた。それはよかった、と淡々と受け答えながら
紙袋の中身を覗いている萩原の目は、泣き腫らしたように赤い。

「君たち感謝したまえよ、これはボクからのプレゼントだ。
喜んで受け取るがいいさ、さあいいかい、まずは筒井から、ほれ」

そう言って萩原は紙袋からグレーのTシャツを取り出すと、
窓際側の椅子に向かって投げた。
筒井は受け取ったTシャツを広げて少し沈黙したあと、

「なんでわざわざ伴宙太のプリント柄なんだ?」

ど真ん中に大きくプリントされた伴宙太の絵柄を二人に向けながら
萩原に皿の目を据えた。ベットの上で吉岡が笑っている。

「お前にぴったりじゃないか。店で見つけたときはその場で
ガッツポーズ取っちゃったくらいさ。見ろよそれ、さあ来いっ、星君!
って感じだろう」

「それは花形の台詞だろうが。それじゃあヒデには星飛雄馬なのかよ?」

「単細胞だね、筒井君。そうじゃなくて秀隆君にはこれだよ」

萩原が広げたTシャツを見て二人とも同時に大笑いした。
アイビー色の胸元には、ガッチャマン一号の姿が一面大にプリントされている。

「ふざけんなよハギ~」

吉岡はひとしきり笑ったあと、ありがと、と言って嬉しそうに
萩原からTシャツを受け取った。
そんな吉岡の姿をそっと確かめるように見つめたあと、
萩原は椅子に深く座りなおして、

「なんとなくケンっぽいよな、ヒデってさ」

と言って笑った。吉岡もクスっとまた可笑しそうに笑って、

「そうかな・・・、ケンっていうんだっけ、一号って?」

「そうだよ。俺はさ、二号だな、青いやつ、何ていったっけ?」

「青レンジャーだろう、それは俺だな」

「お前は伴宙太だよ」

会話に入ってきた筒井にすかさず萩原が断言する。
なんだよ、それじゃあお前は、と言い返しかけた筒井の目線が
ふっと萩原を通り越して廊下へと抜けていった。
その視線につられるように背後に振り返った萩原の視界の中に、
白衣に身を包んだ同年代くらいの医師の姿が入ってきた。
吉岡の両脇に座っている萩原と筒井には一瞥もくれずに、その医師は
無表情のままベッドの脇まで歩み寄ってきて点滴のメモリをチェックをすると、
クルリとベッドに半身を回して吉岡の顔を見下ろした。それから
治療を担当した外科の辻原だと事務的に自己紹介を済ませると、

「安静にしていないと困りますよ。せっかくの治療が無駄になる。
それくらいのことは常識としてわかっていますよね?」

と顔色一つ変えずに言い加えた。その視線は吉岡に向られてはいるものの、
しかし後半に言った言葉は明らかに筒井に向けられていた。
筒井は、黙ったまま宙を見据えている。

「すみません。もう大丈夫です」

吉岡はそう言って穏やかに微笑み、そんな様子を辻原は、
少し小首をかしげるようにして見下ろし直した。

「大丈夫かどうかは君が決めることじゃない。それは医者が決めることですよ。
あなたは患者なんだから、ただここに安静にしていればそれでいい。
わかりますよね?」

むっとした視線を辻原に投げた萩原の横で、
はい、と吉岡はやはり穏やかに頷く。
辻原はベッドの横でじっと黙り込んでいる筒井をチラと一瞥したあと、
さらに言葉を続けていった。

「しばらくはここに入院してもらいますからそのつもりでいてください。
長期になってしまうかもしれませんが、落ち着いたら東京の病院に
きちんと搬送しますので。ここへの入院の手続きは明日事務のものに
病室に来てもらって済ませればいいでしょう。今後の治療は内科の担当医に
まかせておけば安心ですから、あなたは何も心配することはありませんよ」

「辻原先生、」

「なんです?」

そっと呼びかけてきた吉岡に、辻原は視線を向けなおした。

「治療してくださって、ありがとうございました」

吉岡はそう言って枕の上で丁寧に頭を下げた。

「安定したらすぐに退院します。長期の入院は、しません。
これから行かなくてはならないところがありますので」

続けて静かに自分の意志を伝えてきた吉岡の顔を、
まるでめずらしいものでも見るかのようにじっと見下ろしていた辻原は、
やがてふっと鼻から息を吐き出すように笑って、

「それがどういう意味なのか、わかって言ってらっしゃる?」

と言って口元だけに笑みを残した。

「わかっています」

詰問するような辻原の問いに受け答えた吉岡の穏やかさは微塵も変わらない。
辻原はあきれたように軽くかぶりをふり、

「わかっているとは思えないな。やるべきことの優先順位を間違えてる」

といって苦笑した。堪りかねた萩原が椅子から立ち上がる。

「ちょっとあんたさ、何様だと・・」

「すまないが君、出て行ってくれないか?」

いきり立って反論しかけた萩原を、辻原は言下に断ち切った。
萩原はさらに反論ようと挑みかけたが、しかし口先まで出かかった言葉を
ぐっと思い直して嚥下し、無言のままベッドから離れて、
そのまま大股に病室を出て行った。
廊下に遠ざかっていく萩原の足音にしばらく耳を傾けていた辻原は、
やがてその音が消えて聴こえなくなると、ドアの方へ向けていた右半身を
ゆっくりとベッドに向けなおして吉岡の顔を見下ろした。

「わがままを言ってもらっては困りますよ、吉岡さん。いいですか、
あなたはここに担ぎ込まれてきた患者なんだ。そして医者はいったん
受け持った患者の命に責任を持たなければならないんですよ。
それはもう仕事とかのレベルではなく、選ばれた者の使命です。
患者の命を救うことが医者としての尊い使命なんですよ。たとえそれが、」

と言って辻原はいったん口を噤んだが、

「それが望みの薄い患者に対しても、ですよ」

と言ってそこでまた筒井の顔を冷ややかに横目で見やり、
それからまたベッドの上の吉岡へと視線を下ろした。

「いいですか、たとえもしダメだとわかっていても、
医者なら患者の残された生存力に賭ける。賭けてやる。
その生存力と一緒に闘う、闘いぬいて、少しでもそれを延ばしてやる。
それが医者の使命なのだと僕は固く信じて疑わないし、
それが医者であるということの真実なんですよ。
そうでなかったら、一体どこに医者の価値を見出すというんです?」

吉岡は、静かに、まっすぐに、辻原の言葉に耳を傾けている。
辻原は目線だけを動かして筒井を見やった。

「筒井先生、と仰いましたよね?」

「筒井です」

先生、という部分に殊更強調して呼びかけてきた辻原に、
筒井は中空を見つめている目線を動かさずに低く答えた。

「僕はあなたのことが到底理解できない。
こんな状態の患者に、しかも友達だという彼に匙を投げ、
何もせずに、しかも一緒に旅にでているなんて、
医者としての倫理に欠けている。真の友情があるなら尚更、
友人の命の可能性に賭けるべきだ。そうは思いませんか?」

筒井は何も言い返さずに、じっと宙を見据えたままでいた。
辻原は、再び目線を落として吉岡を見た。

「僕の言っていることは理解できますよね、吉岡さん?
いいですか、よく聞いてください。あなたは状況に負けてはいけないんですよ。
状況と共に生きる、そこからの可能性に賭ける。大事なのは、
与えられた状況の中で少しでも長く生き抜いていくことなんです」

そう言って口を結んだ辻原に、吉岡は静かに微笑み返した。

「仰っていただいたことは、よくわかります」

穏やかなその笑みからふわりと放たれた言葉に、
病室の空気がやさしく揺れていった。
吉岡は、何かを思いめぐらせるような表情で一旦口を閉じたあと、

「けれども僕は・・・」

と、そっと言葉を繋いでいった。

「状況という名の川に浮かべた舟に乗って流れていくのではなく、
今現在与えられているこの瞬間のこの時を、
僕自身に与えられたこの足で歩いていきたいと思っています」

そう穏やかに言って口を閉じた吉岡の顔を、
辻原は疑義を抱いた表情で暫くじっと見下ろしていが、

「理解できないな」

とやがて一蹴するように言って視線を吉岡から逸らし、
ナースコールのボタンを押して点滴替えの指示を出した。
とにかく、と言いながら再び視線を吉岡へと下ろした辻原の瞳には、
苛立ちの色がそれとわかるくらいに滲みでていた。

「ぼくは君の命のことについて話しているんですよ。
はっきりいいますけれど、君の友人である医者は、
友情のあり方を履き違えているとしか言いようがない。
いいですか、僕は君の命を助けようと説得しているんですよ。
それがどういう意味なのかわかりますよね?こちらの決意と、
君の友人の選択と、どちらに真価を見出すのか、
そこにはもう議論の余地などないはずだ」

そうですね・・・と吉岡は少し考え込むような表情で静かに答え、

「すみません辻原先生、100円玉硬貨はお持ちですか?」

と少し間をおいてから、やんわりと尋ね返してきた。

「もしお持ちでしたら、ちょっとお借りしたいんですが」

唐突な話題転換に胡散臭そうに眉をひそめながらも、
辻原は黙ってスーツの胸ポケットからコインケースを取り出し、
その中から100円玉を拾い出して吉岡に手渡した。
ありがとうございます、と礼を言いながら、
吉岡は手にとった硬貨を人差し指と親指の間に垂直に立てて挟んだ。

「辻原先生、」

「なんです?」

「これ、100円玉ですよね」

「ええそうですけど、それが?」

笑顔で静かに問う吉岡に、辻原は面倒くさそうに答えた。
吉岡は、次にその100円玉を二つの指の間に平らに挟み変えていく。

「でもこれも100円玉ですよね」

硬く宙を見据えていた筒井の表情が、ふっとほころんでいく。
吉岡は指に挟んでいた硬貨を右の掌に乗せかえ、
それからその手をそっと辻原に差し出した。
吉岡の掌に乗った硬貨をじっと見つめる辻原の瞳が疑雲に覆われていく。
新しい点滴バッグを携えた看護士が素早い足取りで病室にやってきて、
手際よく新しいセットに差し替え、そして来た時と同様に足早に病室から出て行った。
辻原は無言のまま手を伸ばして吉岡の手の上に乗った100円硬貨を摘み取ると、
それを白衣のポケットに入れ戻し、それから懐疑的な視線を吉岡に向け落とした。
見つめ返してくる吉岡の眼差しは、驚くほど率直で物静かだった。

「僕にとって、生きているんだ、と実感できる場所にいつもいてくれる、
それが筒井であって、僕の、かけがえのない親友なんです」

静かに紡ぐようにそう言って吉岡は、そっと穏やかに微笑んだ。
その瞳の奥には、力強く確かな生命の光がしっかりと宿っている。
何か言い返そうと口を開こうとする辻原はしかし、
反駁する気持ちが言葉にならず、
苛立ちだけが虚しくその口先から煙滅していくだけだった。
いつの間にか病室の中には夕映えが舞い降りていて、
日暮れの名残をひっそりと抱擁していた。




つづく
コメント (2)
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2010年02月10日 | 思うコト


言い訳に聴こえるかもしれないのでおそらく言い訳なのだと思うのですが、
長い間海外で暮らしておりますと、日本の四季折々の行事などには
とんと疎くなってしまうという、久保田早紀さんに歌わせるところの、
悲しみをもてあます異邦人でありまする。つい先日も、
こちらに在住の日本人の友達からの電話で、
「ねぇ、今年は節分する?」とふいに尋ねられて、
「え、セツブン? それはもしや新種のカナブン?」
と言い返してあやうく電話を切られてしまいそうになってしまった
誰にいわせることもなくあほうな異邦人であります。
いかんいかんよ、
あほうはもう治らないかもしれないけれど、
しかしやはりどこに住んでいても
大和撫子魂は持ち続けていないとね。
ということで、
友達との電話をきった後でさっそく豆撒きをすることに決定。
よぉ~しっ、気合入れて豆まくぞうっ!!!
なんてたって気合だけで今まで生きてきたあたしなのだ、
鬼だって気合で退治してくれるぅっ、さぁ~いくわよっ、
鬼は~~~~~~~~~~~~~そ、
あ、
しまったぁあああ~~~~!!!!

豆がなかったわ。

あたくしとしたことが・・・・不覚でござんす・・・・・う~~~む、
どないしよー。
まく豆がなかったら鬼退治できなくってよ、んもうっ。
まさか豆といっても丸大豆醤油の瓶を庭にぶちまけるわけにもいくまい。
というかそれはただ名前の一部が、
「やぁ大豆です!」
って出生の秘密を打ち明けているだけなのであった。
ならば納豆ではどうだろう?
ちょっと発酵しているけど大豆だし、
固形だからつかめるし、
手のひらにぴったりくっつくし、
でもいざまいた時に、
鬼は~~~~~~~~そとぅわねばり~~~~~ん・・・だろ~ん・・・
ってなって歯切れがよくなくて鬼だって出て行く張り合いに欠けちゃうと思う。
鬼くんだって別れ際くらい爽やかに去って行きたいに違いないのだ、
何事も去り際って肝心よね♪ お、そうだ、それならば(←って何が?)
M&Mのチョコレートでカラフルに見送ってあげよう。
丸くて小粒だし、見ようによっては派手な大豆くんって感じでアメリカンだし、
中には甘党の鬼だっているかもしれなくってよ、それに私だって、
年の数だけ19粒チョコが食べれるしね、うっふ~。(←時々記憶障害をおこすらしい)
ささ、チョコらしき豆(←明らかにチョコです)もあるし、
さぁ今度こそいくわよっ、いよぉ~~~~~うっ、

鬼は~~~~~そと~~~~~

福は~~~~~~~~~~~~う、

ピンポーン♪

と玄関のチャイムが。
だぁ~~~~~っ、もう誰なのぉっ、
福を呼んでいる最中に邪魔をする不届き者はっ?!
とプンスカしながら玄関の戸を開けると、
そこには日本からの宅急便が。
箱にはアマゾンJPの文字。
ふむ、はて、こりは?
って、
ひぃやぁああああああああああああっ、

キネ旬だわ。

おおっ、神よっ、
マッハの速度で福到来っ!!!
時代はどこもスピード化してるのね。
ありがたや~、待ちに待っていたキネ旬がぁ。。。。
うぅ、おいどんはなにもせんとですがなんだか気分は
やりもうしたっ!!!
いえい。

ということでありまして手に取ったキネ旬。
ドキドキしながらページを捲ってみて、おわぁっ、よ、よ、よ、よ、
吉岡くんがぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ、
いる。
ってそりゃぁ~そうなのよ、だから購入したのよっ、はいはいはいはいもう
ちゃんと落ち着いて見ないとであってよっ! ページ開いてっ、チラ、
っ、ふぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ、
いたりする。

ダメだぁ・・・・また血圧が上300下299まであがってしまった・・・。

どうしていつもこんなにドキドキしちゃうのだろう。。。
でもこれが恋心ってやつなのよね、吉岡くん・・・きゅぃ
しょうがないから気持ちが落ち着くまで部屋の掃除をして、
川に洗濯に行き、山へ芝刈りをして、鬼退治は済んだし、あとは
桃太郎の学費の準備を・・・ってそんなんじゃないのだった・・・。
きちんと吉岡君の写真と対峙しなくちゃであってよ、そうだ、
なんてたって人生は、愛と勇気と気合なのだ、それでいいのだ。
ということで再びページを開いて、おおっ、すばらしいっ、なんとも
美味しそうなカレー。印度カレーかしらん? それともジャワ?
って反対のページ見てどうすんのおっ!!!
なんてなことをほぼ半日繰り返した挙句に、やっとこさ拝見できた
吉岡くんのお姿。

なんか渋い。。。。

うっすらと伸びたお髭のせい?
いやそれだけじゃないぞう。
なんかもう全体的に、

渋いぞな、吉岡殿。

洋装だけど、
なんだか、どことなく、武士っぽい。
というか、
武士の精神の雰囲気がする。
それは吉備真備を演じていた最中だからなのかな・・・。
でももっとなんというか、
武士道の精神っぽい・・・。
身体はカメラのすぐ前に立っているのだけれど、
でも心は凛として一定の遠距離をレンズへと保っているというか・・・、
己を主張することなく己でいる、というか・・・、
かっこええ。
渋し、吉岡っ、
極上だぁ~!

今回の写真を見て、更に頭の上でファンファーレが鳴ってしまったのが、
その立ち姿・・・・。
吉岡君が両手をズボンのポケットに入れている、
という姿勢が昔からものごっつう好きでありまして、
とても細身な体躯なのだけれど、
だけど肩幅がしっかりとしていて広い、
というそりゃぁ~もうブラボーな体型が、
その立ち姿でいっそう強調されるというか、
とにかくもうその姿を文学的に表現いたしますると、
す・て・き。
んはっ となりまして大いにクラッ、
でありまする。
それに服~~~~~~~~~~っ!!!
このチョイスはもう、
ちょっと間違ったら、
紫な気分のルパン三世となりかねない。
しかしさらりんと着こなしてしまうのだ、はぁ吉岡君ったら
さすがのレインボーマン、とれびあ~~~~~んっ!!!
無敵じゃ。
紫は人を選んでそこから個別色を発光するのだ、吉岡君の紫は、
気品。
たまらんぜ、吉岡、って何度も呼び捨てにしちゃったわ、ふふ。(←なにやつ?)

しかしその姿もさることながら、
今回のインタビューでの彼の言葉を読んで、
さらに惚れ直してしまったでありもうす。
いつものことだけど。。。

吉岡君のインタビューを読んだり聴いたりするたびに思うのが、
どうしてこの人の世界はこんなにも素直なんだろう、
ということでありまするだ。

その目、眼差しが、心のまっすぐ中心から開いている、
という感想をいつも受けるとです。

そして逞しい。
その魂のありようが、
とても逞しいと思うとです。

演じるにあたって、しいては生きることに対して、
悩んで悩んで悩みまくるのだろうけれど、
けれども吉岡君はそれを試金石として
いつでも己の原点に戻れる、白紙になれる強さがある。
それはすなわち常に真新しい勝負に真っ向から立ち向かえるという
潔い逞しさがあるのだと思うです。

一つの作品に出る。
それは一つの勝負に出るということで、
まったくのゼロからの始まりであり、
例えばその前の作品でどんなに高評価をとったとしても
それはその時の勝利の喜びであり評価なのであって、
次の仕事の結果には実際には関係してこないわけで、
だからその都度やってくる好結果は、
「これからの」自分に自信を与え、後押ししてくれる力とはなっても、
それは自分のあぐらの下に積んでいく賞賛として、
山田君に座布団を重ねてもらうことではないと思うわけで。
埃と誇りは溜めすぎてはいけないものですよねい。

でも誰だって座布団を重ねてもらうのは嬉しいですだ。
ふかふかして暖かいし、重ねた上に座る座布団からの視界は高く、
そしてなにより足元がやわらかい。
だからもっともっと座布団が欲しくなる。
しかし直にあぐらをかいているのは積み重ねられた布団の上であって、
しっかりと踏み固められた大地の上に直に立っているのではないわけで。
自分は一体どこに立っているのか、
どこに立つべきなのか、
そこから何を見つめるべきなのか、
何を見出すべきなのか、
生きていく、ということは、
一体何を意味しているのか。
吉岡君は、その立ち位置を、その先に広がる視界を、
しっかりと自然に認識できる人なのかもしれないですだ。

かっこいいとか、素敵とかって、
自分の既成の理想にあてはまっているような人だからそう思うのではなくて、
生き方に触れ、その言動を見続けていくうちにこれが理想なのだと気付いていく、
その旬の瞬間に感じとる姿こそが、まさにかっこよいのだと思うわけであり、
そして素敵なのだと思うですばい。

吉岡君は、常に旬の人。

べらぼうに、
かっこええ。
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吉岡刑事物語・その42 / 窓枠の青空・14

2010年02月03日 | 小説 吉岡刑事物語




「筒井先生っ、お願いします!」

当直室から初療室に駆け込んでいった瞬間、
看護士の切羽詰った叫び声が飛んできた。さっと視線を当てた部屋の中央には、
救急隊員によって運ばれてきたストレッチャーが一台、その上には、
自殺を図って除草剤を飲んだもののあまりの苦痛に怖くなり、
「死にたくない、助けてくれ」と瀕死の状態で自ら救急車を呼んだ20代半ばの男性が、
意識のない状態で横たわっていた。筒井は瞬時の速さで時間を計っていく。
119番コールから患者が院内に搬送されるまでの時間経過は約50分。
急性毒物中毒患者に胃洗浄が効果を成すタイムリミットは一時間。
筒井は心電図のモニターをさっとチェックしたあと、

「胃洗浄します、生食!」

半ばパニック状態に陥っている新米の看護士に冷静に指示を下し、
患者の身体を左下側に向け直してから吐しゃ物のこびりついた口に
気管内チューブを経口挿管して生理食塩水で胃の内部を素早く洗浄した。

「活性炭用意して!」

続けて看護士に指示を飛ばしつつ、土気色に変色した患者の顔から
モニターへと筒井が視線を移したその瞬間、心電図の波形がフラットになった。

「カウンターショック!」

即座に心臓マッサージに切り替えた筒井は看護士に向って叫び、
慌てて除細動器を取りに走る看護士の足音が初療室内に響いていく。

死ぬなよ、まだやることが沢山あるだろう、生きたいだろう? 

心の中で患者に語りかけながら筒井は心臓マッサージを繰り返した。
全力で胸部を圧迫しながら心電図のモニターを再度チェックする。
フラットのままだ。
筒井は更に手首に力を込めながらストレッチャーの上に再び視線を戻した。
そこで、体全体の動きが止まった。
そこに横たわっているのは、吉岡だった。
吉岡がそこに眠っていた。
眠っているようにみえた。
濡れそぼった白いシャツを着て、その左肩から指先までが何故なのか、
真っ赤な紅色に染まっている。

「・・・ヒデ?」

不可思議な光景に唖然としたまま、筒井は吉岡に呼びかけた。
返事はない。

「ヒデ?」

吉岡は眠ったままでいる。

「おい、ヒデ、」

筒井は両手を伸ばして吉岡の肩を揺らした。
吉岡は瞳を開かない。

「起きろよ、ヒデ」

照明灯の光に照らされた吉岡のほの白い顔は、揺さぶられるごとに、
ゆらり、ゆらり、と左右に力なく揺れていく。

「起きろっていってるんだ」

言いようのない不安が、筒井の足元を掬うように這い上がってくる。
筒井は吉岡の両肩を更に強く揺らした。

「起きろよ、ヒデ、ふざけんなよ、起きろっていって・・」

「筒井先生!」

背後で誰かの叫び声がして、筒井は後方に振り返った。
先程とは別の看護士が悲痛な顔つきで筒井を見つめている。

「血圧測定できません」

意味が飲み込めずに筒井は再びストレッチャーの上へと視線を戻した。
吉岡が深い眠りに落ちている。
心電図のモニターがその頭の先で無機質な線を平坦に描いていた。
不可解な表情を浮かべたまま、筒井は視線を元に戻して、
吉岡の顔を見つめ直した。

眠っているんだよな、ヒデ、そうだろ?

吉岡は応えない。

眠ってるんだろ? 

子供の午睡を髣髴させるような無垢な顔で、
吉岡は安らかに目を閉じつづけている。
筒井はその顔をじっと見つめ続けた。

起きないなら俺が起こしてやるよ。もう起きろ。

筒井の両手は無意識のうちに吉岡に心臓マッサージを施し始めていた。

起きろよ、ヒデ、起きろ。

視界の端に心電図のモニターがチラついている。
筒井はありったけの力を込めて吉岡の胸部を押し続けた。

起きろって言ってるんだ、ヒデ、起きろよ。

眠ったままの吉岡に向かって、筒井は言葉を投げかけていく。

目を覚ませよ、ヒデ。

周りで看護士たちが何か叫んでいるようだった。
筒井は構わず心臓マッサージをしつづける。

起きてくれよ・・・

全力で胸部圧迫をしつづける筒井の額に、いつしか玉の汗が浮かんでいた。

覚えてるだろ、高校の野球部の合宿のとき、いつもおはようって
起こしてくれてたじゃないか、俺のこと。あの時みたいに言えばいいんだ、
おはようって。簡単なことだろう? 頼むよ、ヒデ、目を開けてくれ・・・

縋るように見つめる筒井の視線の下で、吉岡は目を瞑ったまま、
遠くやわらかな距離を静謐に保っている。

なにやってんだよ、ヒデ・・・

汗なのか涙なのかわからない玉の滴が筒井の頬に零れ落ちていった。

起きるんだ、ヒデ・・・

満身の力で心臓マッサージを繰り返している筒井の手首の下で、
ボキ、と肋骨の折れる音がした。見かねた誰かが横から止めに入り、
筒井はその手を思い切り横に振り払った。

「カウンターショック! 除細動器持ってきて!」

無我夢中で筒井は叫んだ。

「何やってるんだ、早く除細動器持ってきて!」

戻ってくるんだ、ヒデ、目を覚ませ、帰ってこい!

(もういいよ)

ふいにやわらかな声がして背後に振り返った筒井の目線の先に、
吉岡が佇んでいた。
見慣れたブルーのチェックのネルシャツとジーンズに身を包んで、
すこしとぼけたような笑顔を向けている。
ざらついていた周囲の雑景が、
すっと無音の中に立ち消えていった。
筒井は目の前に立っている吉岡の姿を茫然と眺めながら何度か瞬きをし、
ややしてから身体を向け戻して再びストレッチャーの上に視線を戻した。
そこにもやはり吉岡がいる。
深く、静かな、眠りの底に落ちている。
状況を把握できぬまま、しばらくその寝顔をぼんやりと見つめていた筒井は、
やがてゆっくりと後方に身を回した。

(もういいんだよ)

吉岡が、やさしく笑う。

(ありがとう)

やさしく笑って、

(もう充分だよ)

そしてそっと頷いた。

「・・・なにが・・・もういいんだよ・・・ヒデ?」

立ちすくんでいる筒井の喉の奥から、
言葉となった気持ちがやっと掠れ出てきた。

「充分なわけないだろう・・・」

穏やかな微笑みを浮かべた吉岡の瞳に、
ふっと切なげな翳がよぎっていく。

「そんなわけないだろう・・・ないだろう、ヒデ・・」

(筒井、)

「行かせないぞ、俺は」

筒井は我に返ったようにはっきりと吉岡の言葉を遮り、
そして両の拳を固く握り締めた。

「お前を向こう側になんて渡さないからな」

意を固めた表情でぐっと見つめ返した筒井を、
吉岡はただそっと静かに見つめているだけだった。
泉のように澄徹として、月の光のように慈悲深い眼差しを向けたその姿は、
とても静かだった。
物静かに透き通っていて、そして、
とても遠かった。

「ヒデ、俺は、」

筒井は吉岡へと一歩足を踏み出した。その瞬間、
背後からガシっと誰かに右腕を掴まれた。

「見捨てないでくれ・・・」

驚いてストレッチャーに振り返った筒井の顔を、
自殺未遂の救急患者が取りすがるような表情で見上げていた。
さっきまでそこに眠っていた吉岡の姿はいつの間にか、
また元の男性患者へとすり替わっていた。

「助けてくれよ・・・死にたくないんだよ・・・」

筒井の腕をきつく片手で握り締めながら、
自殺未遂を図ったその患者は懇願の言葉を吐き続けた。

「見捨てないでくれよ・・・あんた医者なんだろ・・・助けて・・・」

義務感と焦燥感の渦に巻き込まれながら、
筒井は後方の吉岡へと振り返った。
しかしそこにはもう、
誰の姿もなかった。
ほの暗く長い廊下がぼんやりと、
初療室のドアの向こうにひっそりと続いているだけだった。

ヒデ!

背後から患者に腕を掴まれながら筒井は暗闇に向って叫んだ。

ヒデ!!

必死の叫び声は、薄暗い廊下へと手ごたえもなく吸い込まれていく。

行かないでくれ・・・

「ヒデ!!!」

自分の叫び声とともに筒井は布団の上に撥ね起きた。
部屋の窓の障子が、真新しい朝日を白く吸い込んでいる。
朝食の準備をしているらしい食器の重ね合う音が、
古い旅館の廊下の奥から微かに流れ聞こえていた。

夢だったんだ・・・

寝汗でぐっしょりとなったTシャツの首元を片手で引き伸ばして新鮮な空気を入れながら、
筒井は左横に敷かれた布団に目を向けた。そこに眠っているはずの吉岡の姿はなく、
その一つ向こう側に敷かれた布団の上で萩原がぐっすりと眠りに入っていた。
筒井は咄嗟に布団から飛び上がって寝ている萩原を踏み越しながら
入り口のドアへとつづく仕切り襖を勢いよく開け広げた。
目線の先に吉岡が立っていた。
三和土を上がったすぐの上がり框に、まるでずっとその場にいたかのように
すくっと佇んでいる。
早朝の散歩にでも出掛けていたのか、
パーカーの上にネルシャツを重ね着したその姿からは、
うっすらと朝霧の気配が漂っていた。

「どこいってたんだよ、こんなに朝早く。驚かせるなよ」

安堵のため息をつきながら筒井は言って、
それからふと吉岡の顔をまじまじと見つめ返した。
おはよう、といつもなら笑って言い返すはずの吉岡は、
今朝に限って黙ったままその場に佇んでいる。
風のささやきに耳を傾けているかのような表情で、
ただそっと静かに筒井の顔を見つめていた。

「ヒデ、」

筒井は呼びかけた。吉岡は表情を変えない。

「寒いだろ、早く部屋に入れよ」

吉岡の顔に、ふっと何かに気付いたような表情が浮かんで、
その口がわずかに開きかけた時、ゴボっと大量の血がそこから溢れ出てきた。
慌てて口を塞いだ吉岡の指の隙間から、真っ赤な鮮血がとめどもなく零れ落ちてくる。

「ヒデ!」

ふわりと前方に倒れかかった吉岡の身体を駆け寄った筒井が抱きかかえた。

「ハギっ、救急車!!!」

筒井の叫び声に寝ていた布団から飛び起きた萩原は、
あわてふためきながら廊下へ一歩足を踏み入れた瞬間、
血まみれになった二人を目にしてその場で凍りついた。

「何やってんだよハギっ、早く救急車!!!」

筒井の怒声に萩原はハッと我に返り、
敷き散らばった布団に足元を取られながら
黒電話の置いてある枕元まで戻って大急ぎで緊急ダイヤルを回した。

「ヒデっ、しっかりしろっ、すぐに助けがくるから!」

筒井の呼びかけに、意識を失いかけながらも吉岡は必死に頷こうとする。
喀血は止まらずに、吉岡の胸元を深紅色に染め抜いていく。
    
「ヒデ、大丈夫だから、大丈夫だからな」

懸命に見つめ返してくる吉岡の体からふいに力が抜け、
抱きかかえている筒井の腕の中でぐらりと重くなった。





つづく
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