叩きつけるような乱暴なリズムで、
玄関のチャイムが鳴っていた。
泳ぎを忘れてしまった魚のように、
ベッドのシーツの深海の底に
いつのまにか横たわらせてしまっていた身体を、
両腕で支えるようにやっと持ち上げて、
高熱に磨り減ってしまった気力を引き摺るように廊下を歩き、
やっと掴んだ玄関のドアノブを押し開けると、
逆光の中に一人の少年が立っていた。
「お前だよな、吉岡って?」
光に翳った幼い顔から、射抜くような鋭い視線が
吉岡の顔をまっすぐに睨んでいた。
一瞬面食らったような顔をした吉岡は、しかしすぐに
背を正して少年ときちんと向かい合った。
「お前なんだろ、吉岡ってクソ刑事は?」
ひょろっと華奢に伸びた少年の体躯は真昼の光に縁取られて、
それはどこか秋の夕景に銀の光を放つすすきを連想させた。
吉岡はどこか懐かしむような表情を目元に浮かべながら、
ぐっと睨みつけてくる少年の目を穏やかに見つめ返した。
「そうだよ。君は?」
少年の手元をさりげなく目の端で捉えながら
吉岡はやわらかに聞き返した。少年はそれには答えず、
じっと思いつめたような表情で吉岡の顔を睨んだまま、
のどかな午後の空気を全身で跳ね除けている。
その背後に広がる渡り廊下に、同じ階に住む老夫婦が、
ゆっくりとした歩調でこちらに近づいてくる姿が見えていた。
「ごめんね、今ちょっと風邪気味なんだ。
寒いから、中に入って話ができるかな?」
吉岡は軽く微笑みながら少年を玄関の中に促し、
押し黙ったままでいる小さな背中の後ろで静かにドアを閉めた。
その瞬間、少年は固く握り締めていた自分の手が
すっとほどけて軽くなるのを感じた。
見ると、今さっきまでしっかりとナイフを握り締めていた自分の両手が
空っぽになっている。
少年はあっけに取られたような顔で吉岡を眺め上げた。
相手に向けていたはずの折りたたみナイフの刃は畳まれて、
今は吉岡のジーンズのポケットにいつの間にか差し込まれている。
あまりにもさり気なくて素早いその一連の動作に、
少年は何がどうやって起こったのか理解できなかった。
「話をしようか?」
落ち着いた笑みで、吉岡は少年を部屋の中へと促した。
陽射しの入り込むリビングは、
冬のやわらかな温もりに包まれていた。
小さな丸い白木のダイニングテーブルの上には、
コーヒーカップが二つ、
ゆったりとした煙を天井に立ち昇らせている。
少年は不貞腐れた表情を浮かべ、
テーブルの前の椅子に身を投げ出すように座っていた。
合い向かいに座っている吉岡は、
今日は一段と寒いね、とか、
コーヒーは飲めるかな?とか、
砂糖はいくついれる?とか、
どうでもいいくだらないことばかりを暢気に話しかけてくるだけで、
少年が手にしていたナイフのことは一切訊ねてこない。
いらつきながらじっとテーブルの一点を見据えている少年の胸元には、
北関東に位置する県の公立小学校の名札がついていた。
利根第二小学校 5年2組 時田昇平
遠くで、午後の始業を知らせる学校のチャイムが鳴り始めていた。
「お昼は食べたの?」
ふわり、とした明るさで尋ねてきた吉岡の言葉に、
昇平の表情が強張った。
お腹が空いているなんてことを相手に気付かれたくなかった。
「僕はまだなんだ。昼食つきあってくれるかな?」
そう言って笑顔を深めながら立ち上がった吉岡に、
「さっさと補導すればいいじゃん」
昇平は目線を上げぬまま投げやりに言葉を放った。
穏やかな吉岡の眼差しが、すっと昇平を見つめなおす。
「刑事なんだろ、お前」
「休職中だから、今は刑事じゃないよ」
「そんなこと言ったって辞めてなければ刑事じゃないか。
どうやって取ったんだよ、オレのナイフ」
「取ったんじゃないよ。君が放したんだ」
昇平はぐっと吉岡を睨み上げた。
物静かな瞳が見つめ返してくる。
昇平は何かに負けまいとするように膝の上で拳を握り締めた。
「そうやってお前はオレからみんな取り上げるんだ。
返せよ!」
吉岡は、再び静かに椅子に腰を下ろして、
ジーンズのポケットから取り出した折りたたみナイフを、
そっとテーブルの真ん中に置いた。
「君のものだから、返すよ」
すらりとした長い指が、
置き戻されたナイフから静かに離れていった。
昇平の顔が思わず上がる。
声音と同じようにやわらかく落ち着いた眼差しが、
そっと昇平を見つめ返していた。
昇平は慌ててテーブルに視線を戻した。
じっとナイフを見つめ、握り閉めている拳に力を込めた。
目線の先にある折りたたみナイフは、
無機質な光の重みを放って妙によそよそしく、
昇平は、再びそこに手を伸ばすことができなかった。
「昇平くん、って呼んでもいいのかな?」
掬われるように再び上げてしまった顔を、昇平は慌てて下げた。
気安く呼ぶな、と頭で形作った言葉が、
どうしても喉から出てこない。
違う。違う。
昇平は心の中で叫んだ。
お父さんを捕まえた奴は悪いやつなんだ。
だからこいつは・・・
「お前のせいなんだぞ・・・」
捻り出すように喉の奥から出した声は、
自分でも情けないくらいに子供っぽかった。
「全部お前のせいなんだ」
昇平は気持ちを奮い立たせるように、ぐいと顔を上げて吉岡を睨んだ。
「お前がお父さんを逮捕したせいで、お父さんとお母さんは離婚しちゃったし、
転校先の学校でも近所でもどこにいっても人殺しの子ってみんなから陰口を
言われて、週刊誌とかにだって全然でたらめなことを沢山書かれて、だから、
だからお母さんは・・・」
そこで言葉に詰まって、昇平はじっと宙を見据えた。
吉岡は、言葉の代わりに、包み込むような眼差しを昇平に向けている。
「だから・・・」
無理やりに継いだ言葉が上手く続いていかない。
昇平は唇をかんだ。
「お前のせいで・・・・」
同級生にいじめられるのはつらい。
近所の人に冷たい目でみられるのはつらい。
でも一番つらいのは、
お父さんとお母さんの悪口を言われることだった。
昇平は顔を上げた。
こいつがお父さんを捕まえたから・・・
こいつが捕まえたせいで・・・
吉岡は、黙っている。黙ったまま、全てを受け入れるような眼差しで、
そっと昇平のことを見守っている。
違う。
昇平はさらに拳をきつく固めた。
そうじゃない。
お父さんを逮捕したのは嫌な奴のはずなんだ・・・だから・・・
向けられてくる眼差しは苛立たしく昇平の気持ちを波打たせるのに、
でもそれは同時に、拒みようもないくらいに心にしみてやさしかった。
違うんだ、そうじゃない・・・・。
そうじゃなくて、オレは・・・
「憎らしかったんだ・・・・・」
意図せずの素直な気持ちが、昇平の口からポロリと落ちた。
「ずっとずっと憎らしかったんだ・・・」
またひとつ、心の石が零れ出ていく。
「どうしようもなく憎らしくて・・・」
「・・・うん」
ふいに喉元まで涙がこみ上げてきて、昇平はぐっと堪えた。
「憎らしくて仕方がなかったから・・・」
膝の上できつく握り締めた拳が小刻みに震えていた。
「そうだったんだね・・・」
涙が、昇平の目から零れ落ちてきた。
一旦出てきてしまった涙は、こらえようとしても止まらなかった。
昇平は、みんながみんな悲しかった。
お父さんに殺されてしまった男の人も、
借金のせいで罪のない人を殺してしまったお父さんも、
逃げたお父さんを追いかけて逮捕したこの人も、
電車に飛び込んで粉々になってしまったお母さんも、
お葬式の後すぐに損害賠償金の請求をしにきた鉄道会社の人も、
朝から晩まで仏壇に向かって念仏を唱えているおばあちゃんも、
黙ったまま黙々と畑を耕しているおじいちゃんも、
みんなみんな悲しかった。
悲しくて悲しくて、仕方がなかった。
「悲しいのはいやなんだ・・・。いやなのに、
でもみんな悲しくて・・・」
しゃくりあげながら泣いている昇平を、
吉岡の沈黙が、
そっと静かに抱きとめている。
何も言わずにいてくれるその温もりが、
昇平はありがたかった。素直にそう思った。
「昇平君、」
涙がようやくおさまったあと、吉岡はそっと呼びかけてきた。
泣き腫らした顔を上げると、とても優しい瞳と目が合った。
冬の窓辺の光みたいな、温かくて、やさしくて、切ない瞳の色だった。
「僕は思うんだけど・・・」
吉岡はそう言って、何かを思い辿るような表情で少し黙った後、
静かに言葉を継いでいった。
「人は、本当にその人のことを知っていれば、
悪いことなんて言えないと思うんだ。君のことを悪く言う人たちは、
君のことを知らない人たちなんだ。だから君が悪く言われるのは、
君のせいじゃなくて、その人たちの問題なんだよ。
悪く言われたからって悪く言い返したら、君もその人たちと
同じ問題を抱えてしまうことになるんだよね。大事なのは、
自分の目と耳、そして心を持つことなんじゃないかなって思うんだ」
穏やかに話し終えた吉岡の目元に、静かな温もりが深まっていく。
昇平はテーブルの上に視線を落とした。
ポツンとテーブルに置かれた折りたたみナイフは心との距離を増し、
今はもう完全に自分の手元から離れてしまった気がした。
下校の時間が始まったのか、低学年らしい子供たちの無邪気な笑い声が
窓の外から部屋の中に届いてきていた。
「オレは・・・強くなりたかった・・・」
テーブルの上に置かれたナイフに視線をあてながら、昇平は呟いた。
「なのにいつも情けなくって・・・」
乾いたはずの涙がつーっとまた零れ出てきた。
「いつも強くありたいのに・・・」
「みんな・・・情けないよね」
昇平は顔を上げた。
「いつも強くある必要は、ないんじゃないかな」
優しく、深く、心の中に染み込んできた声に、
昇平は不意打ちを食らったような顔でじっと吉岡を見つめ返した。
吉岡は、少し照れたように、けれどはっきりと頷くように笑みを深めると、
「お腹すいちゃったよね」
と屈託なく笑って言いながら椅子から立ち上がり、
そのままキッチンへと入っていった。
何がいいかなぁ、とリビングに向かって話しかけながら、
冷蔵庫の中を物色しだした吉岡の背後で、
「なにこれ?」
といきなり声がして驚いて振り返った吉岡の目線の先に、
あきれた顔をした昇平が冷蔵庫の中を覗き込んでいた。
「何食って生きてんの? 何もないじゃん」
「ほんとだね」
「ちょっとどいてよ」
昇平は吉岡を横に押しのけると代わって冷蔵庫の中を物色し始めたが、
しかしすぐに絶望的な顔を吉岡に向け直した。
「お米はあるんでしょ?」
「あったかなぁ・・・」
「パスタは?」
「あ、それならあったと思ったよ、確かここに・・」
吉岡はキッチン戸棚の引き出しを一つ開けて、
中からかざごそとパスタラベルのついた長箱を取り出した。
「・・・これいつの?」
「心配しなくても大丈夫だよ。五年くらい前のだから」
「しょうがない人だね、まったく」
昇平はシンクの下の扉を開けて深手の鍋を見つけ出すと、
「邪魔だよ。あっちいってて」
手持ち無沙汰そうにしている吉岡をキッチンから追い出し、
手際よく鍋に湯を沸かしてパスタを茹で上げ、
あっという間の手早さで二つの皿に持ったスパゲティーを
ダイニングテーブルの上に並べた。
「ありがとう。うわぁ、おいしそうだね」
「冷めないうちに食べれば?」
昇平はぶっきらぼうに言うと、いただきます、と両手を合わせてから
フォークを手にとってスパゲティーを頬張った。
「いただきます」
吉岡も両手を合わせてからスパゲティーを口に運ぶ。
その目じりに、ふわっと和やかな笑みが増していった。
「おいしいよ。昇平君、料理上手なんだね」
「上手もなにもただ醤油とバターをあえただけじゃん」
「でもすごくおいしいよ」
「・・・うん」
昇平の手から、フォークがカタ、と皿の上に落ちた。
「お母さんがいなくなってから・・・料理を作るのはいつもオレの役目だから。
ほんとにおいしい?」
「ほんとにおいしいよ」
昇平は再びフォークを手に取って勢いよくスパゲティーをかき込んだ。
そうでもしないと、また涙がこぼれ出てきてしまいそうだった。
「おじいちゃんがいつも言うんだ。人は、ものが食べれるうちは
大丈夫なんだって。どんなに辛いことや悲しいことがあっても、
ものを食べることができれば絶対に大丈夫なんだって。だから・・・」
そこで昇平は口を噤んで、遠慮がちに吉岡の顔を見た。
「だからね・・・」
次の言葉がもどかしそうに口ごもっていく。
吉岡は、ゆったりと周りの空気を寛がせながら、
昇平の気持ちの行方を見守ってくれている。
昇平は、口を開いた。
「だから吉岡・・・さんも・・・きちんと食べなくちゃだめだよ」
「うん。そうだよね」
スパゲティーを口に運ぶ吉岡の顔に、陽だまりのような笑みが浮かんでいく。
ふわっと心を開かせるようなその笑顔に、昇平の胸の底にしまいこんでいた気持ちが、
言葉となって自然とこぼれ出てきた。
「オレね、将来コックになりたいんだ。立派なコックになって、
たくさんおいしいものを作って、人を元気にさせるんだ」
そう言って昇平は、ひとつひとつの言葉を、
ひとつひとつきちんと受け止めてくれる吉岡の顔を、
改めてまじまじと眺め見た。
どうしてこんなにも自然とこの人に魅かれてしまうのか、
昇平はその理由がよくわからなかった。
でももしかしたら人の魅力は、
理由なんて飛び越えてしまうところにあるのかもしれない。
目の前で微笑んでいる吉岡の顔を見つめながら、
昇平はそう思った。
「吉岡さん、」
「ん?」
「ボクがコックになったその時は、料理を食べにきてね。
たくさんごちそうするから」
吉岡は嬉しそうににっこりと笑って、でも何故か、
うん、と約束の返事はしてくれなかった。
「昇平君、立派なコックさんになってね」
吉岡はそう言うと、
昇平の作ったスパゲティーを大事そうに口に運んだ。
つづく