月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

ノンポリくんはつづくよどこまでも

2007年05月30日 | 杉田監督作品


ノンポリくん再びネコにマタタビであります。


前々回からしつっこく書き続けている
「1970ぼくたちの青春」でありまする。

すみませんです。
よろしかったらもう暫しの間、お付き合いくださいませ。


吉岡くんがかつて演じてきた歴代人物の中で
誰を一番好いとぉ~ですか?

と聞かれれば、即座に
「満男君であります!」
とシュバッと答える私でありますが、
私にとっての満男くんは、
なんというか、いってみれば、

無人島に一つだけ何かをもっていけるとしたらそれは君だ満男君よ、

ってなまったくもってわけわからんほど好き、
という人物でありまして、
なのでメイドイン・ヒデタカの人物の中では
一線を画するお人なのであります。

一線を画しているといえば、コトー先生も少なからず同様で、
五島さんちの健助くんの場合は、こう、吉岡くんから、
ふわりん、と抜け出しちゃったような、
無所属新人独立国王みたいな人物というかですね、
これまたいわゆる一つの別格人物ということであります。

で、何が言いたいのかわれぃ、と申しますとですね、
その別格組二人を除いた中での、
役者吉岡くんのなさったお仕事としてみる好きな人物と、
ただもう全部ひっくるめて人物そのものが好きなんじゃわ、
というのは、ちと違ってくるわけで。

前者で言えば、ルート先生が筆頭でにょきん、と出てくるわけで、
後者で言えば、このノンポリくんであるのかもしれんぞなもし、
ということなのであります。



吉岡くんが同世代の役者さん達と演技をしているときって、
そのナチュラルさがグィ~ンと
光を増すような気がするのでありますね。

それはヒロスケやチンタ、
よっちんやなべと一緒にいるときの
純君、満男君にも言えることで、
私はそういう時の吉岡くんの演技が大好きなのでありますが、
この作品の1970年回想部分は、
あくまでも話の中心となる高校生四人の視点からによって、
大人は蚊帳の外だねスヌーピーな描写法で描かれており、
したがってここでの吉岡くんは、
同世代の役者さん達と、最初から最後まで
がっちり組んで演技をしてくれているという、
いや~まったくあれですな、
ハ~レル~ヤ~のオ~ソレミ~ヨ~なのでございます。

そしてここでの彼の演技も
超絶級の自然体。

とにかく自然。
ものすご~く自然。
まいっちゃうほど自然。
地団駄踏んじゃうほど自然。
自然なくらい自然で自然ってなに?、
って思っちゃうほどの自然博物展覧会。

「これには僕もまいったね~。」だでありまするよ、サリンジャー。

いや、吉岡くんは、無添加無着色無化学肥料の
自然食系役者の王道を突き進むお方であるのは
十分承知ではありますが、しかし、このノンポリくんは、
全体的に、なんか他の役とは別な色のナチュラルさを
もっているような気がしてならんとですね~。

それはもしかしたら色というべきものではなくて、
なんというべきか、こう・・・、
透明な下敷きを持って演じているのではなかろうか、ふふ~ん、
という感じなのでもありますだ。

その透明フィルターの中で、
吉岡くんはとってもキラキラしているですばい。

それはこのドラマの回想シーンの前半に出てくるような、
波光のような美しさであり。

朝日や、午後の昼下がりの日の光、
暮れ行く夕日や、月光などの様々な光に反射して
キラキラ~と光り揺れている
波の光のようでありまするよ~ん、ビュ~テホ~。

青春にキラキラあり。
キラキラに青春あり。

よってキラキラ王子ヒデタカくんは今だ青春ど真ん中に違いない。 

たまんないね、まったくもー。


吉岡くん演じる西脇ノンポリくんは、
それ以上でもなくそれ以下でもないという、
アベレージ3.5、みたいな男の子でありますが、
しかしそういった男の子を演じさせたら
天下一品極上品でへいおまちぃ!
な味を出してくれるヒデタカくんでありますので、
したがってこのノンポリくんも例に漏れず、
非常~に魅力的な「等身大」の男の子として作品の中に存在しておりまするだ。

一体なにがどうしてそんなに長々とツボであるのか?

ここは一つずつ分解して解説していこうと思うであります。
(↑要するに文章力の限界であります・・・)

まずは、ピョン吉ノンポリくん。

ノンポリくんは、
よく飛び跳ねるかたであります。

多分、感情が高揚しすぎると、このピョン吉くんシンドロームが
彼の中で発生するのだと思われ。

解説 I
① 新年明けましてバンチョウ告白海辺でびっくりピョン吉くん。
② 受験勉強どうしようええいどうでもなれやいスキーに行くぞピョン吉くん。
③ 文学ちゃんたらどう思っているのだちょっぴりルパンなピョン吉くん。
④ 卒業なんてしたくないんだ寂しいじゃんか踊ってしまえピョン吉くん。

大まかに分けるとこういったピョン吉くんたちが、
ノンポリくんの感情に合わせて登場するわけでありますね。

そしてそれらの行動は、

( ①+②+③+④ )×キラキラフィルター = UFOキャッチャーでグワシっと掴み取りしたい程の可愛さだわ、まいったね~、

な長~い解答として結果に現れるわけであります。
要約するに、たまらんぜキュ~ティ~ハニ~、ということなのでありますね。
(↑最初っから要約せい、ってかい)

そしてこの解説 Iは付箋付であり、
それは、①+コケ、②+コケ、③+コケ、という、
茶川せんせも吃驚「そのコケに歴史あり」な、
ナチュラルコケ相乗効果まであって、
さらにベリーマッチのキューティーっぷりを
発揮なさるのでありますだ、魔性だね、あんたって人は。

特に③+コケは、国の天然記念物指定間違いなしの絶品くんであります。

これは厳密に申しますと、ピョン吉くんの飛び跳ねを
横飛びルパンIII世バージョンに変形させて滑ってコケたよノンポリくん、
という変化球スライド技まで取り組ませたものでありまして、
そのあまりの自然な斜面コケ技に、
私なぞはその場面を何度もリピート上映して古いビデオテープを
更に磨耗させてしまってナミダナミダのオーマイガー
という粘着魅力をも持つスゴ技でありまする。

どうしたらあの只ならないタイミングでもってコケって滑って、
尚且つ台詞を自分の言葉として咀嚼しながら口から出せるのか、吉岡くんよ。

まはり~くまは~りたやんばらやんやんやん♪
でありますぜ、サリーちゃん。

底知れぬ才能をお持ちであるのだ、君ってば。

そして④。
これはまさにヒデタカ節の真骨頂でありまぜぃ。

親友二人が去ってしまった後の、
「卒業」という人生の大きな節目の変化に気付いているのに
それを噛み締めたくないノンポリくんが、
その寂しさやるせなさを吹き飛ばすかのように
陽気に振舞って飛び跳ねてしまうという、
人生よろしく踊って哀愁、
という二重変奏を奏でるのでありますね、とれびあ~ん。

このシーンは、回想シーン冒頭に出てくる、
木漏れ日の柔らかい光の中でキラキラ飛び跳ねている
親友四人の姿と相反するものであり、
回想シーン最後の最後で、卒業式後のノンポリくんが、
ニシキくんの肩を抱えて哀愁ダンスをしながら立ち去った後の
夕暮れの校庭には、乾いた砂埃だけが吹き去っていくという、
おみそれいたしやした杉田監督~、というあっぱれな演出効果も
味わえるのでありますね~。

この杉田伴奏ヒデタカ節は、もう、演技とかっていうのを
超越しちゃっているんじゃなかですか、って云うほどの
真情振動を持って伝わってくるものであり。

それは胸に迫ってくる、とかっていう
常套句で片付けてしまえるものではなくて、
じわ~~~~~~んとした、
非常にゆっくりとした加速度をもって、
心の奥底にまで沈水していく感情余波なのでもありますね。

笑顔で飛び跳ねながらも同時に寂寥感をも滲み出してしまう21歳ヒデタカくん。
あれ、20歳だったっけかな?

いずれにしても何者なのだ、君って人は?


そして解説 IIにつづく、
ってまだ続くのかいなっ!?
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働くモルツくん

2007年05月28日 | CM



いつの間にやら、仕事をしていたモルツくん。

ほぉ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~、
営業マンなのかえ、君ってば。

確かに、君は転勤が多そうな職業とはいえ、
とても銀行マンには見えないし、
ましてやボール曲芸のサーカス団員にも到底見えないもんね。

そっかぁ、外回りの営業さんなのですね~♪

んがしかし、
大丈夫なの、モルツく~ん。
ちゃんとお仕事できているのですか?
なんか心配しちゃうのよ、あちしとしては。

しかし転勤族というからには、
君はもしかしたら仕事となると
シャキキーンっと、
俺はやるぜな戦闘士になるお人なのかもしれん。

コトー体質ってやつですか、もしかして?


きりり~ん、とお仕事をしている君も見てみたいぞ。


いや、ええんだったわ、そんなことは。

君さえ見れれば、私の世界はバラの包みのたかしまや~♪
なのですだよ。

吉岡くんのお姿が見れれば、あちしは幸せ一杯で、
思わずビール飲みすぎて
次の日グロッキーになっちゃうのよ、
でもお構いなしよ、そんなことぉ♪

もし私が日本に住んでいたら、
毎日モルツを買い続けて、毎日二日酔いの
加トちゃんぺ、みたいになってもよくってよ!

そんでもって、君のそのなかなかとれないネクタイを、
「ほらほらぁ~、ちょっとじっとしてなさいな、もうだだっこねぇ、うふ。」
なんて言いながらほどいてあげる奥方になりたい気分なのじゃよ、
じょわ~~~~~~~~しゅっ!


酔っ払うと加トちゃんみたいになっちゃって
ジョワッシュしちゃうウルトラ星のおっかさんみたいなのだ、
あたしってば、いったい何者?

しかしなんと言われようとも、まったくもって
反論できないくらい好きなのだよ~、ヒデタカく~ん、
お元気ですかーっ、ラッシャー木村です。(←崩壊完了)



いやぁ~しかし、ええ飲みっぷりでんな、旦那ぁ。

ゴクゴクゴク~ッ、って文字が、君の頭上に
漫画の噴出しで見えるようでござるよ。

モルツビールって、
なんかまったりした切れ味、
って感じの飲み口だったような思い出があるですけど、

モルツくん、
君はまさに、「まったり切れ味人間看板」
みたいな人だ。

のほわぁ~ん、としているのに、
何気に男っぷりのいい飲み方。

ゴクゴク飲んでいる喉元が・・・・・・・・・
男の色気ってやつですね、おっかさん。




・・・・・・・たまらん。



ゴマちゃん顔を見て のほわ~ん で、
喉もとを見て どわっしゅっ! の
二段分割活用でありますな。

これは新技ですか、ヒデタカくん、いやモルツくん、いやヒデタカくん、
でもモルツくん・・・・どっちなのだ?

出来ることならあと三つ
シャツのボタンを外しておいて欲しかった・・・。

いやでもそれじゃあ、一矢フィルターになっちまって、
ビールのCMじゃなくて、

「胸もとから薫りたつアロマ、今宵あなたとサントリーリザーブ」

みたいになっちまうからだめだわ・・・。


って何を書いているのだ、あたしったら~~~~~っ!


二つの面で魅せちゃう君の魅力のせいじゃ~。
幸せバージョン・阿修羅男爵みたいじゃないか~。

そして君は、
幸せ振りまくヤングバージョン・花咲かじいさん
でもあるのだ。


なんかモルツくんってば、
のほほわ~ん、としながらも、
幸せの扉をグイっと次々と果敢に開けていける
開けゴマ~! みたいな人にも見えるだすよ。


ええですね~、ほんとに。

なんかビール飲みたくなってきちゃった~。


すみません。
ノンポリくんは一休みしましたです。
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ノンポリくんは語る

2007年05月25日 | 杉田監督作品


高校三年生の西脇ノンポリくんは、




えっらいええ感じ。




ええ感じすぎて、何から書いていいのやら、
あっちも書きたいし、こっちも書きたいしで、
おせちもいいけどカレーもね、みたいな
いつも以上にわけわからん状態になってしまうのでありまする。


このドラマは、私の第四次吉岡大噴火を起こさせた、
当時かな~りどっぷりどすこい彼の深みにはまってしまった
作品でありまして、そんでもって更になんと、
筒井君と萩原君という、ダブルちょびウフ♡俳優さんたちとの
ドリ~ム共演ときたもんだよ、ストライクゾ~ン!
って感じで、その当時の私ときたら、
博多どんたく大祭りついでにねぶた祭りもドドンパドン!
ってな制御不能のうかれっぷりでありました、困ったもんだよあたしったら。


初見当時は全く思いもしなかったけれど、
今見返してみると、学ラン着てその他大勢、
みたいな普通の学校生活を送っている吉岡君が
てんこ盛り永久保存されているなんて、こりゃ~もう、
幻のネス湖のネッシー映像より貴重な作品でございますだば。

ありがと~ごぜ~ますだ~、杉田監督。


ふつ~の高校三年生の生活模様を、
これまたふつ~にそのま~んま演じてくれた、
吉岡君がたまらんとですよ~ん。

そんでもってこのノンポリくんってば、
ニッポン全国お手上げだよ吉岡くん、の神業ナレーション付でありまするだ!


声にまで表情があるヒデタカくんならではの、
極上ナレーション・ノンポリバージョンでございますったらたまりませんわ。


なんていうんでしょ~ね~、ほんとにこの人って・・・・・
天才だと思う。

これはもう、人間国宝ものじゃよ。


この人の声色は、単独交響楽団で名曲アルバム、
ってな、哀しくも優しく調べを奏でる
それはそれは美しい旋律をもっているわけで。

それは言葉という人間のツールを、
詩情にまで昇華させながらも、同時に
人の脳裏にも根深く棲み付いてしまうという、
一種の凄みももっておられるわけであり。

彼が言葉にその声をのせる時、その声音は
ただ心情を朗読して話を進行させる、という
道具としてのナレーションであるのでは決してなく、
それはあくまでも人物として空間に存在しながら、
見る人の心に役と織り交ぜた彼の心情を響かせてしまう、
という「そこにいる息吹」の生息波動になるのだと思われ。

まったくもってお手上げさぁ、セニョ~ル~。


冒頭の風間さんのナレーションから吉岡君のナレーションに
被ってバトンタッチしていく場面での彼の声は、
低く流れるアダージョ。

彼はここで、きちんと風間さんからの感情のバトンを
受け取っているのでありますね。

ただ単にその声を風間さんのナレーションに上塗りしているのではなく、
20年後の西脇氏へと変遷していくその一番始めの黄昏バトンを
その細かな感受性の声音波動によって微妙に繊細に表現しているわけで。

その彼の短く被っていくナレーションは、なんていうか、
一面に広がり実った稲穂畑の上を、晩秋の風がソワっと
緩やかに金色に波打って吹いていくような感覚の声音であり、
それはなんともいえない郷愁と、
実りの中にある僅かな侘しさのニュアンスをもって
とても心地よく、そして微かに切なく心に響いてくるとですね。

その彼のアルファー音で、この物語は静かに幕を開けていくわけで。

くぅ~、やるねぇ、ヒデタカく~ん。


オープニングタイトルの後に続くノンポリくんの語りは、
ゆ~っくりと幕を上げていく垂れ幕調であります。

だら~んと伸びきったトーンが徐々に僅かずつ上昇していき
緩やかな曲線を描いて1970へと時が戻っていく。

その後に繰り広げられる宿敵・工業高校の皆さんとの乱闘の後、
メイン四人の登場人物を紹介するノンポリくんの語り音は、
そのBGMと相俟って、それは気だるいサンバなリオデジャネイロ。                        
                   ↑  
            ヒデタカターン・ツイストであります。

この声音リズムによって、見る側は、
スィ~ンとそこから一気に加速して、西脇氏の青春時代に
タイムトリップできるわけでありますよぉ、のびたく~ん。



この物語前半での彼の声音は、まさに青春ど真ん中であります。

「そこ」にある幸福感に包まれた
十代の躍動感、純情感、感傷感、そして倦怠感、焦燥感を
まとめて全部純粋すし詰めパックにした彼の声音は、
彼の演技と相乗する絶妙な演出効果を果たし、
西脇氏の「あの当時」を、受け手にリアルに納得させてしまうのでありますだでおっかさん! 

な~んてブリリアントなのかしらぁ~、まいっちまうわぁ、あちしは。


そして物語後半からの彼の語りは、話の推移に合わせて、
前半の暢気ともとれる屈託さはスッとなりを潜めて、
ノンポリくんの持つ走度と微熱を、徐々にゆっくりと
落としていきながら終盤へと向かっているわけで。

そうしてもっていったラストで、彼はそこから
現在の西脇氏を演じる風間さんに
その感情バトンを戻しているわけであり。


このドラマを唯の感傷物語として終わらせない話のループを、
彼の語りの速度と温度のバランス調でもって
完璧に作って結んでいるのではないのかと思うでありますだ。

すごいぜよ・・・。
杉田 & ヒデタカ コンビってば。

受け取ったバトンを持ってゆるやかに加速し続け、
そして終盤に向けてゆっくりと減速しながらバトンを戻すという、
箱根駅伝のような芸当でありますだよ、驚いちゃうね、まったくもう。



なんつーかですね、彼の声には光と翳もあるわけで。

それはもちろん光そのもの、翳そのものとして響いてくるときもあれば、
それとは逆に、光に落とされる翳としても、翳の裏側にある光としても
存在しておるわけであり。


そして、場面によってその旋律を
シャープにしたりソフトにしたり、
温めたり冷ましたり、
遠のいたり近づいたりしての
極上あっぱれなバランス感覚でもって、
映像にもう一つの色彩物語をさりげなく乗せているわけでありますね。


これが神業語り部長者ヒデタカの醍醐味なのじゃ~、
ぼうやぁ~よいこだねんねしな~♪ (←よくわからん・・・)

たまらんですよ、ほんとにもう。
ビバッってビバってビバノンノンでございますわ。


吉岡く~ん、君は、
さりげないという難技をさりげなくこなしてしまうというさりげない顔した
さりげない美形のさりげない天才なさりげ帝王なのだね。(←しつこい・・・)


まったく、お主ときたらほんとに・・・惚れるじゃないか。


つづく、であります。
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ノンポリくんは今・・・

2007年05月22日 | 杉田監督作品


1970年元旦、高校三年生の西脇ノンポリくんは18歳。

それから20年経った後、出版社に勤める西脇まこと氏は38歳。

1970年に過ごしたぼくたちの青春は、思い出の中にだけ存在する。



切なかです。



すごく、身につまされてしまう切なさであります。

「切ない」っていう気持ちを布にくるんできゅい~んと絞って
茶巾寿司にしちゃったよ、みたいなくらい切ないですばい。


「1970ぼくたちの青春」


この作品初見当時の私は、ノンポリくんと一緒に
高校生活に戻っちゃったわお久しぶり、みたいな
直球ストレートの現在形で鑑賞していたのだけれども、
昨夜すご~~~く久しぶりに再見したこの作品は、
現在完了形へと形を変えて、それはズドワ~ンと除夜の鐘のように
心に響いてしまった変化球ボールとなっておりました。

たぶんこの時空感覚が、杉田監督や、脚本家の松原さんの、
真に伝えたかったメッセージなのかな、
と今の私はそう思ってしまうわけで。


時間差攻撃ダブルパンチの名作でありますね。


青春という言葉で限定された時間は、
その言葉によって輝きを増すけれども、
同時にその言葉が過去に向かうとき、
それは人を少しだけ疲れさせてしまう。

大人になるということは、
子供でいることよりも多分容易いことであり、
しかし大人はもっともらしい言い訳たちを
ベルトコンベアーのように次から次へとえっさえっさと運び出して、
大人であるという状態を煩雑に確立させているのかもしれないのかな、
などと、この作品を見てぼやんと考えてしまったとですね。

「そこにあるだろう幸せ」ということを、
ぞんざいに、うやむやに、
そしてそれに無感覚になりがちになってしまっているのではないのかな、
なんて思ってしまう自分もいたりして・・・。

その前でもなく、その先でもない、
その瞬間をただ生きている、
というあの時確かに持っていたであろう絶対的な人生謳歌の美しさを、
今では意識的に忘れてしまっているのではないのだろうか、と。

分かっていることだからそれは失われることではない、
と高を括っておざなりにしている、
実は失速してしまっている人生に対する躍動感。

それは過去の記憶を呼び覚ましたときに、
明確に心に打ち込まれてくる現実感であり。


歳を取ることは決して悲しいことではないはずで、
しかしそこにどうしても感じ取ってしまう憂愁は、
歳をとってしまう、という現実への反射鏡の中に見出してしまう、
かつてあったであろう自分の姿を見て嘆息してしまう
というその行為自体にあることなのかもしれない。

しかし過去というものは、比較することによって現在を嘆くべきものではなく、
それは人の背中を前にそっと押し進めてくれる母の手のようなものであるべきで。

それは決して人の心を拘束すべきものではなく、
ましてやがんじがらめにしてしまうべきものではないとはわかっていても、
やはり人は時に思い出の波跡を行ったり来たり
ゆらゆらゆらりと揺られて揺れて、時には沖合いまで流されて
そこで心の遠洋漁業なぞをしてしまうわけで。


この作品の中での20年後の西脇氏は、
1970年を生きていたノンポリと呼ばれていた自分が
とてもとても輝いて生き生きとして見えてしまうから、
その反射鏡に映るかつての姿が、余計現在の彼に重く
のしかかってくるわけであり。

西脇氏は、そのことにもちろん気付いているのだけれど、
しかし気付いたからといってそのジレンマが消えるわけではなく、
だからこそそこに彼の悲しみの泉があるわけで。。。

あの当時は知る由も、知ろうともしなかった
「その後はあるんだ」
というどうしようもない現実に、
なんだかとても切なくやるせなくなってしまうわけでありますね。


その切なさやるせなさは、この物語の後半で、
地元の祭りの最中に繰り広げられる高校生四人組に起こった
出来事に身をおくノンポリ君が、
「祭り」が「終わりつつある」
と悟ってしまったと「思ってしまった」
その直覚に始りがあるのかもしれない。

祭りには終りがあるんだ、とその時に多分無自覚に
自分の人生に線引きをしてしまった彼の諦念が、
なんかひたすら悲しいし、
見につまされてしまうのでありますよ~。

それはなにも彼だけが察する諦念ではなく、
多分人には必ずそう感じる瞬間が、それぞれの人生の中で
意識無意識様々な現象をもって一度は起こるわけであり、
そこにこの作品のメッセージの奥深さがあるのではないのだろうか、
と、そう今なら思えるわけであり、
思えてしまうわけであり。


それを悲劇ととるのか、ノスタルジーととるのか、どうとるのかは、
それはもちろん人それぞれ千差万別であって、
ドラマや映画というのは、
小説を読むときに作家の内面を探って一旦そこに潜り込んでから
浮上し呼吸するというのではなく、
それは全面的に外へと向かって開放されている芸術であるから、
そこからどう発酵させていくのかは最初から
受けての気持ちに委ねられており、
そこにこそ映像芸術の醍醐味があるのだと
私なんぞは思っちまうわけで。


この作品は、そういった意味をもっていっても、
非常に完成度の高い名作なのだと思いますです。



だばぁ~、なんか現国の授業の宿題論文みたいな
まとまりのないわけわからんことをだらだら~と
書きつらねてしまいまったですば~い・・・。

はぁ~、高校生のノンポリ君のことを書きたかったのじゃなかったのかえ、
私ってばまったく・・・・・・。





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柴又発・平山涼くん

2007年05月18日 | 山田監督作品

こちらの涼くんは、平山工務店の涼くんとは別人でありまする。

この柴又発の涼くんも腰がなかなか落ち着かない方でありましてですね、
それが原因で親父さんと喧嘩してはっとばされた挙句に、
ぬわぁ~んと泣きながら線路沿いを疾走しつつ家出をしてしまうという、
疾走家出王子であります。

この映画は冒頭から、涼くんが怒ったり泣いたりついでに走ったり、
ちょっぴりウヒウヒしたりお弁当食べてモグモグしたり、
列車の発車時間にアセアセしたかと思うと、
四国お遍路さんにぎやかツアーのおば様たちにとり囲われちゃって
モミモミムギュムギュスリリンされちゃったりして
はやくもマダム悩殺四文字レーダーを遺憾なく発信しちゃったり、
そうかと思えば物憂げに人生に対して哲学しちゃったりなんかしてですね、
そりゃ~まるで「吉岡ものしり大図鑑」監修・ヨージ ヤマダ、
みたいなオープニング・ロールから始まりますです。

ごちそうさまでございます。


しかしなんてまぁ~大胆な、あの
四国お遍路その一派手派手メガネムラサキきらりんおば様っ。(←長い・・・)
あんなこと涼くんに言ってのけちゃうなんて・・・・・・・。

しゃあああああああああ~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!! 

私だったらあんな言葉を彼に向かって発した時点で、
瞬間沸点到達してのぼせ上がって鼻時ブーの高木ブーのビビデバビデブーで
錯乱状態になってしまうよ~。
はぁ~、ドッキリドキドキ㊙報告しちゃったじゃないか~。

あなどれないのでありまするよ、山田監督ってば。


ダメだ・・・、パヤパヤ状態になってしまう前に軌道修正いたします。


さて、この作品での吉岡くんは、
「ちょっとかったり~な~ダラ~」
みたいな、まるで午後の保健体育の授業のような雰囲気を醸し出しておりまする。

人生に疑問を持ちつつ、同時にその人生に対しての自分の情熱の不甲斐無さも
痛感しているという青年の抱える独特の倦怠感みたいなものを、
彼独特の空気の抜き方で表現しているのだと思いますです。

そしてそのちょっと気だるい雰囲気を醸し出す彼の演技が、
主人公のカッちゃんの映画に対するエネルギッシュな情熱を
更に惹きたて、と同時に、その熱さを沸騰させすぎないように
引き算させながらバランスをとらせる、自動サーモメーターのような
役目も果たしているのだと思われまするですね。

さすがでございますな~、山田監督。(←なにやつ?)

この涼くんの気だるさは、やがて結末に向けて潮が満ちゆくように
ゆっくりとなだらかに小さな希望へと変遷していくのだけれど、
全体的には、吉岡くんは力がまったく入っていない演技を貫いていると思われ。

それはなんていうか、ちょっと気の抜けちゃったスプライト、
みたいな感じの演技でありますだ。ふぁんたすてぃっくっ!

涼くんが初めて、オデオン座の前で、なんだかカバヤのジューシーみたいな
かわいいキャラのカッちゃんと出会う場面なんて、気だるいオーラが
だんだらだらり~んと彼の全身から放出されていて絶妙でしたでがんすよ。

しかし吉岡くん、その立ち方は左手をまっすぐ天に向かって上げれば
ナイットヒィ~バァ~ナイットヒィ~バァ~♪なトラボルタだよん。
今でも時々しますね、その立ち方、フフ。(←いや、トラボルタとは関係ないですけん)

吉岡くんは、概して言えることだけれども、特に山田監督の作品で脇を演じる時は、
何気に観客の注意をちょびっとだけ引くという、簡単そうでいて実は難易度大な演技を
してみせちゃってる神業くんであると思います。

この作品での彼も、大げさな動作や台詞で笑わすのではなくて、
その存在感から醸し出す雰囲気で観客をクスっとさせてしまうという、
何気にクスッとくんでありもうした。

芸がとてもさりげなく細かいので、見逃してしまいがちなのですが、
どの場面でもどこにいてもちゃんと役の中の人物として「さりげな~く」
存在しているという、お刺身のツマみたいなお人でありまするだ。

さりげなく存在する、という伊賀忍法演技でありますね。

そういった彼の何気くんの演技は、山田監督の吉岡くんに対する
揺るがない信頼感が基盤になってスクリーンに表われているのではないのかと、
私なんぞは思ってしまうのでありますよ、だいじゃえもん。

そだ、信頼感といえばもう一つ。
それはこの映画では映写技師を演じた田中邦衛さんとの共演であります。

田中さんと吉岡くん、この二人のツーショットを見るとですね、
それがどんな作品であっても、自動的に「黒板家再現フィルム」が
頭の中で上映されてしまう方が巷には多いですけど、
しかし山田監督はそんなこと屁にも思っちゃいないに違いないわけで。

そしてもちろんこの名優二人は、スクリーンに富良野の風は微塵も
吹かせないわけであり。おぉ、玉や~。

純粋に役者・田中邦衛と役者・吉岡を起用しているのだと思うと、
その思いには感慨深いものがありまするだ~。
うぅ、松竹ばんざ~い!


さて、その後の涼くんはといいいますとですね、
宿となった映画館の楽屋でおばけなんか見ちゃってフルフルしちゃったり、
給料提示を一向にしないカッちゃんに対してプンプンしちゃったり、
人形の久月みたいなお美しい顔の八重子さんから
ちょびっとお叱りを受けただけでショボショボしちゃったり、
早とちりの挙句に消火器ぶっぱなしてゲホゲホしちゃったりですね、
そんな彼の様子を映画の冒頭から文字にすると、
ヌオオンムギュムギュスリリンウヒウヒアセアセモグモグフルフル
プンプンショボショボゲホゲホとなるという、まさに
「擬音大感謝祭赤札大売出し市開催」なのでありまする、ふふ。(←・・・・・)


気付かなかったよ~ん、この時から君はすでに四文字大魔王だったのね~。
可愛いったらありゃしないじゃないの~、君ってばぁ♡


ん?


はて、一体この時の吉岡くんは何歳だったのだろう?
21,2歳の印象があるけど、確かこれは、学校IIの後に撮られた
作品のはずだから、当時の彼はすでに26歳にはなっていたはずですばい。


しかしちょっと待てよ、ラッシー。


今冷静に当時の自分の周りを思い出してみるとですね、
あの時分26歳くらいの男性で、かわええなぁ~、白いしぃ♡ 
などと鼻の下をだら~んと伸ばしきってですね、
「見つめちゃいたいわっ、うきゃっ♡」
な~んて、♡マークまで語尾にいちいち付けちゃう程に思える男の人は、
あっしの周りには皆無であったぞっ。

みんな早くもオヤジ街道まっしぐら~なオヤジララバイ達だったじゃよ~。
悲しいな、私ってば。

こんな全面的素敵オブラートに包まれた26歳の男の子は、
少なくとも私の周りにはいなかったでごじゃるよ~っ、吉岡く~ん。


そしてそれは今現在の彼にも同じことが言えちゃう事であるわけで。

だって、
あんなこんなそんなうふふんしゃらら~んはらり~んキリリ~ン圧縮パックな36歳は、


         「いないっ!」              



吉岡くん、君ってば、コンビニの雑誌コーナーでふと横を見ると
隣でジャンプなんか立ち読みしている兄ちゃん、
みたいな雰囲気全開バリバリそこんとこヨロシクッって感じなくせに、
実際に良く考えてみると実は伝説の雪男なみの希少価値のある人だったりするのだ。


彼のような人を奇跡の人、またはアンビリーバボーな兄ちゃん、
略してビリバボちゃんと言うのかもしれない。


やはり君は普通仮面の悩殺王子ホワイティなのだ。


んもぅ、これだから君のファンをいつまでたってもやめられな~いのじゃシャバダバダ~♪







書き忘れてしまいましたが、これは「虹をつかむ男」という映画のことでありますだ。

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理由の理由

2007年05月16日 | 思うコト

先日姉と電話で話をしていた折に、「どうして純君が好きなの?」と
聞かれて、はてふ~む、と、純じゃないよ~ヒデタカくんっていうんだよ~
と訂正するのも忘れて返答に詰まってしまったであります。

「どうして?」と聞かれても、「好きだからなの。」
とその時はそう答えるしかなかったのだけれど、
その後電話を切ってからしばし、ロダンの考える人と化してしまったですよ。

いやそもそも理由がないから「好き♡」となるのが「好き~ん!」
なのだと究極に突き詰めればそう思うけど、
しかし理由というのは心の鎮静剤でもあるわけで、
一旦考え出してしまうと、その理由が欲しくなってしまって
にっちもさっちもどうにもブルドックわぉ、な状態になってしまうのでござります。

以前に、彼の透明な存在感が好きと書いたけれども、
その理由も突き詰めて考えれば出てくる理由であり、
しかしそれならば、突き詰めなければ理由はないのかい、一休さんよ、
とついつい一人突っ込みをいれてしまうわけで。

けれども究極という言葉に拘れば、上記したように、
「好き」についてくる理由なんて影法師みたいなものであり、
好きという気持ちはもとを辿れば多分それは動物的直感によって
突き動かされている感情なのだと思うけれど、しかしまてよ、
と考え直せばやはりそこに理由はあるわけで、
そうでなければ私が書いているブログの内容は矛盾してきてしまうわけで、
いやしかし、人生は矛盾の隙間を縫いこんでいくものであり、
そう考えるとすべての理由はその意味をもってくるわけであり、
それじゃ~あんさんどっちなんだい、どりゃ~~~~っ!!
なんて考えだしちゃったら考え込みすぎて思わず冬眠したくなっちゃう
けれども季節は初夏であり、ならばこれ以上考えると思わず出家したくなるので、
家内安泰交通安全の為にも考えすぎはよくないわよ、志賀直哉もいっていたわ、
ということで思考ストップをかけましただ。


はぁ~、一体なにが書きたいのか、私ってば。



吉岡くんの魅力ってなんなのだろう?
と考えるとですね、
「あの役者さんのどこが好きなの?」と聞かれて、
「顔」とか「演技」とかの単一単語を使って単純に即答できない
ところに彼の魅力の深さがあるのだと思われ。

彼はまるごと彼である、という魅力なのかな、と。

パーツ売りされている魅力ではなくて、
もうなんてたって君なんだから好きなんじゃ、うりゃ♡
という最大公約数系の魅力を持っていると思うのでありますね。

これが彼が広く長く愛されている魅力の一つなのではないのかな、
とも思うわけで。

つかめるようでいてつかみどころのない丸ごとワンパックな魅力って
奥がふか~いでありますよ。

私なんてどんどんどんどん深みにはまっちゃって、
抜け出せなくなっちゃって、どうしたものやら底抜け大作戦脱出不能の
ミッションインポッシブルでございます。

しかしその彼の深遠さの奥の奥底には私たちと同じ地面がある、
ということを感じさせてくれる安定感のある深みでもあるのではないのかな、
とも思うわけであり。

そこが彼の演技の呼びよせる共鳴感や癒しの根源でもあるのかな~、
なんて思ってみたりもするわけで。


なんてなことを書いたら「な~に言ってんだか」ってサントリーさんちの
とっておき君の彼女にシャララ~ンと言われてしまいそうだけど、


お?


あの彼女さんは、なんだかいつも幸せそうじゃったでごじゃる。


そうだ・・・・、
そうなのじゃよ、
吉岡くんはまるごととっておき君なのだ。

遠く離れた土地からいつもいつも色々な便りを寄越してくれて、
そして私たちを至極幸せにしてくれるとっておき君であったのでありますね、
ニャンコ先生~。

そして、嬉しかったり、悲しかったり、切なかったり、憤っちゃったりっていう感情を、
彼の心の底から吐き出す感情演技で共鳴できちゃうやまびこさん便りでもあるのですね。


ありがてぇ~こってす、ほんまに。


これから先、どんな便りがくるのかな~。
楽しみでござりまするよ、吉岡君。

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雨あがって権之丞

2007年05月14日 | 小泉監督作品
なにを隠そう(って誰に?)私は馬乗りさんに弱い。
ギター野郎にも弱いが、馬乗り野郎にも滅法弱いのであります。

いや、これは決して大井競馬場の騎士に弱い、というようなその道の
プロフェッショナルを究めちゃった方々のことではなくてですね、
それ以外の、いわゆるときどき馬乗りさん、
またの名をどこでもホースライダー、ヤフ~ッ! 
ってな殿方に弱いのであります。

それは荒野の荒くれガンマン兼カウボーイであれ、
どこが素顔なんですか、とその甲冑をもぎり取りたくなる戦国武士であれ、
一旦馬上の人となりしは、その人が例え
あしたのジョーの丹下さんのような人であったとしても、
「なんかかっちょええやんか・・・・・」と思ってしまうという、
即席出前ウフフフ一丁効果をもたらすのであります。

「雨あがる」という作品。
私にとっては皐月賞なみの記念映画でありまする。

乗っちゃっているのでありますよ、馬にぃ~~~~~っ。
誰がって、あんさん、リボンの騎士じゃありやせんぜっ、
ヒデタカくんですがなっ。

馬に乗って疾走しているのですよ、奥さんっ。
ヒ~ハ~ッとか叫んではいないかもしれないけど、とにかく
馬ごとスピードレーサーなのですよっ、マッハゴーゴーなのですよっ!
ケンケン出てきてハッシッシッシッシなのですよっ!

そこの場面にくるまで、筏下りの観光客のような気分でこの作品を
鑑賞していたところにもってきてのびっくり玉手箱! 

しかも余りにも一瞬の出来事で、なにがなんだか白昼夢だったのかしら?
デイドリームビリーバーならモンキーズが歌っていたわよ、
レコード持ってたわっ! なんて頭の中はすっかりパパイヤふぇすてぃば~る。

もう一度観たいっ、と思ったものの、しかしそこは映画館であり、
まさか映写技師さんに「すんませんっ、巻き戻してくださいっ!」
と言うわけにもいかず、流し観てしまった世紀のお宝映像に、
ただただ、その場で売られていくドナドナのような顔で
画面を見つめていつしか映画はエンドロール、という悲しみまでも誘った
場面なのでありました。

反則じゃないか~、吉岡く~ん。

あなたってば、それまでの場面では、なんだか、
「ねぇ、そこの茶屋で一緒に団子しない?」
なんて思わせちゃうようなラブリー侍だったくせに~っ。
最後にきていきなりシャキキ~ンッってなっちゃったから、
こっちまでビワワ~ンッなジェイソンびっくり電撃ショックだったわよっ。(←マニアックすぎる・・・)
まったくぅ、油断もすきもありゃしないわっ、権ちゃんったらっ!

そう、この権ちゃんでありますが、馬から下りている平素はですね、
なんとも愛くるしいキャラでありまして、
それはまるで性格改善カウンセリングを無事終了したスネオくん
みたいな人物でありまする。

いつもお供に付いているジャイアンみたいなお殿様を、
時には愛嬌で口とがらせてスネスネしちゃったりしながらも、
しかししっかと陰に日向に殿を支えているという、
何気につわものな人物なのでありますね。

その権ちゃんを演じなさった吉岡くんは、たいそう初々しいでござります。
台詞まわしも、立ち振る舞いも、ういういしい。
殆ど役者は経験したことがなかったという、お殿様を演じられた三船さんより
そりゃ~もう、ういういしい。
体全体から放たれているういういしいういういオーラ。
まったくもって降参だよ、っていうくらいういういしいので、
こっちは思わず「ういういサムライくん」などと命名したくなってしまいます。

このういういしさが、権之丞というぼっちゃん侍の位置を作品の中で
確立させているのだと思うのですが、 しかしやはりそこは吉岡くんでありまして、
ただただういういサムライくんとして存在しているだけではありまっしぇん。

ストーリーにすっと重石をのせる、文鎮くんの役目もしっかと果たして
おりますぜ、旦那。あっぱれじゃ~ねぇですかい、フフ。

ジャイアン殿様を立腹させてしまった主人公を、
権ちゃんが城外まで送り出す夕暮れのシーンは、
ええ場面でしたよ~ん、ヒデタカく~ん。

こういう場面のときに彼が醸し出す、やんわりとシーン全体を
包み込んでしまう包容力は素晴らしいでがんす。
それはなかなかスクリーンに出せる代物ではないと思うですよ。
特にあの若さでは。

深いでござるのぉ~、君ってお方は。

心配なされるな、とおおらかに主人公をなだめる様子は、
まさに、一日の疲れを癒してくれる、どこか切ない暖かさを内包している
夕暮れの柔らかな光みたいやったよ、吉岡くん。

情景と絶妙なハーモニーを奏でるんじゃよ、君ってばさ~。
ブルースクリーンみたいなのですよ、あなたという人は。
風景を決して邪魔したりしないのですよん。ムエビア~ン。

なんて懐の広い存在感なのだろう、すごいじゃないか。

ヒデタカ節ってやつじゃの。
降参だよ、君には。
って、もうとっくに何度もしていることだけど。


そして、降参といえば乗馬シーンなのですよ。(←どうしてもいいたい)


私は以前乗馬レッスンを受けていたことがありまして、
なので馬上の高さ、スピード感というものがちびっとは判るつもりでありまする。

実際の馬上の高さというのは、乗ってみると結構な迫力でありますですね。
自分の体がシートベルトなどで体が固定されていない分、
その高さが自分の気持ちに不安をよんでしまったりするのですね。
そうすると、お馬さんたちはお利口さんかつ狡猾だったりもするので、
馬上の人物の気持ちをサササッと読み取るわけです。
「こいつ、びびってやがるぜ、ヒヒン」と思われたら最後、
お馬さんたちは馬上の人物に誘導権は渡さないのでありますね。

そこら辺の人と馬の気持ちのやり取りが乗馬のコツなのではないのかと
思われるですが、そのコツをつかむのは決して容易といえることではないわけで。

この映画で彼がラストに披露している乗馬スタイルは、
決してハイ・レベルといえるスタイルではないけれども、
しかし三船さんのように「馬を乗りこなす」ようになるのは、
いくら運動神経の優れた人であっても、最低半年、いや一年の
練習期間は必要だと思われ。

そして乗馬は運動神経だけあればええ、ということでは決してないわけであり、
そこには馬の心を収攬する技、スピードに対する勇猛さもないと、
上達への道は遥か彼方の水平線ほど遠のいてしまうわけでありまする。

そういったことを全て踏まえたうえで、
まったくの乗馬初心者が馬を乗りこなせるようになるのは、
そこに時間制限がある場合、かなりのドリル・レッスンが必要なわけで。

ものすごい練習量で馬に乗りこまないと、ああいった走りを短期間で
マスターすることは至難の業だったと思うぞ、ヒデタカくん。

しかしやってのけちゃったのだ、君って人は。

うぅ、なんてかっこええのだ、君ってばぁ。

突き詰めちゃうんだよ、君ってばよ~。
職人じゃね~か。

うだうだギャンギャンほざいているだけの口先案内人とはわけが違うんだぜよ、君って人は、
フフ。


吉岡くんよ、
君には疾走感があるのだ。

信じられんくらいの一意専心で物事につっぱしっていく
君のストイックな疾走っぷりに私はシビレちゃうのだよ。

そういう疾走感のある人を
「えっらいかっこええじゃんか!」
と天に向かって叫びたくなっちゃうのだよ、あちしは。

韋駄天野郎じゃなかですか。
たまらんぜよ、惚れまくりだぜ。


ヒデタカくんよ、君はギターも弾けちゃう馬乗りさんだなんて、
どこまでツボツボ星人韋駄天野郎なのですか。


シルクロードで馬に乗ってる君を再び見たときにゃ、
「今年はいい年でしたっ。神様ありがとー!」
って年明け早々狂喜乱舞しちゃった程だったでござりますよ、あっぱれくん。


白馬にのった王子さま。(←白馬でなくても可)
こんな世界共通乙女の祈りを、それを見るほうにはいかにも
シャラ~っとやってのけてしまうヒデタカくんよ、
何度も言うようだか言わせていただく。

かっちょええのだよ~、君ってばぁ~。

君ったら、椀子蕎麦のように、次から次へと新鮮な魅力をてんこ盛り
してきちゃうので、あたしゃどうすればええとですか? 

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海は見ていた房乃助

2007年05月07日 | その他の映画

前代未聞級の天然サムライくんであります。


純粋であるということは時には残酷な刃となり、人の心を切り刻んでしまう、
というお見本例でありますね。

上層社会で生まれ育った無垢で愚かな房乃助のもつ常識と、
どん底で生きていると思いながらも逞しく生きる遊女のお新ちゃんの
希望と挫折との対比を通して、階級社会の歪みと矛盾を良く表している
話だと思いますだ。

この、前に「あきれちゃう」が付くほどの純粋天然とんちんかんちん侍を
演じた吉岡くんでありますが、上手いっ! 上手すぎるっ!

ブラボ~十尺玉花火のオンパレードでたまや~ですがな、旦那はん。 
山田くんに頼んで日本中の座布団を君に差し上げたいでござる。


房乃助という人は、なんていうか、蓮の花みたいな人でありまする。
綺麗なお水だけを吸って綺麗な花を咲かせた人、という感じというかですね、
お新ちゃんがどろんこの中から一生懸命自分で栄養を吸い取っているのとは
全く世界が違うわけであります。
そして彼の根っこは水の中に浮遊している。しかしそれが彼の生まれ育った
世界であり、彼はそのことに一縷の疑問すら抱いていないのですね。

そういった、言ってみれば純白な愚昧さを、吉岡くんはその一挙手一投足
全てから放っているのであります。

ほんっとに上手い。憎いほど上手いのですよ~。

ここでの彼の演技を、馬鹿侍の凝縮版で我慢ならん、
みたいな言葉で酷評している人がいるけど、おいおいおやっさん、
そこなんですがな、それが狙いなんですがな、狙っちゃったら外さないのが
ヒデタカくんでありますのよ。名マタギなんじゃよ、このお方。

この純粋培養サムライ房乃助を演じたヒデタカくんは、
当時31歳くらいだったと思われ。

フッ。 (←でた・・・)

30過ぎた、年齢だけ聞けばおっさん枠に入る男性がですね、
房乃助という男を形成している天真爛漫な純情さと純粋さを、
圧倒的な説得力で嫌味なく演じきっちゃったのでありますよ~、このお方ってば。

濁りがまったくない清水みたいなお見事天然純粋っぷりなのでありますね~。

房乃助が爆弾発言を遊女さんたちに投下したシーンなんて、
どうしたらあんなミラクルパンチな演技ができるのだろうかと、
感服いたしましたでございます。

邪気がま~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ったく無い。
皆無であります。

こいつあきれたあほやんかっ、って本気で思わせちゃう超ど級の
まっさら演技。

おぉ、まさにミラクルでごじゃるよ、ジ~ニアス!


ドンピシャなのですよ、はまり役なのですよ、いや違うのですよ、
逆なのだよ、こまわりくん。
ドンピシャだとはまり役だと思わせちゃうのですよ、観客に、
ヒデタカくんってば。

すっとぼけた演技でごまかそうと思えばごまかせてしまえる
キャラなのだと思うのですね、この房乃助殿の役は。
しかしもちろん彼はそんなところに逃げたりしないのであります。
芯からこの天然純粋っぷりを沸き立たせているのでごじゃるよ、ワ~ンダホ~。


そしてですね、このヒデタカ侍くんは、なんといっても美しい。
所作から立ち姿から何から全てが美しいのでござります。
そして品がある。
お坊ちゃまくん侍というのが、そこから一目瞭然なのですね。

しかし美しい。(←しつこい・・・)
どのシーンをとっても美しすぎる。

うぅ、ダメだ~、好きすぎるかもしれんとですよ、この房乃助殿。

シーン毎の彼の行動が全て、ダーツの真ん中の的をシュピッシュピッと
射ぬってくるのでありますよん。

房乃助が自ら起こした刃傷沙汰現場から岡場所に逃げ込んでくる初登場の
場面からいきなり純粋ナイーブ光線を飛ばしまくっているし、
そしてその次の日の明け方にお新ちゃんに別れの礼をするシーンなんて、
その姿は朝霧の中にすっと溶け込んで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
気絶するかと思ったくらい美しかったぞな、ヒデタカくんよ。

とにかくここでのヒデタカ侍くんは、狙い撃ちしまくってきて、私なんて
もう~ど~にもとまらない~♪ のでありますよ、リンダちゃん。


お新ちゃんがお茶を溢してしまった後、サっと懐紙で畳を拭く品のある
仕草に私は崩壊開始して、
その後の「良い名だね」の色声と潔いほどの颯爽感で立ち去る仕草に
崩れきってしまい、
お新ちゃんに会えないといわれて傷つき狼狽しながらその場を立ち去った後、
追いかけてきたお新ちゃんの姿を雪のちらつく橋の上で見つけるザ・ナイーブな立ち姿に、
私はアメーバーになってしまったのでありますよ~、どうにかしてけろ。

君は天然ジゴロを演じさせたらヘビー級世界チャンピオンなのだよ、エイドリア~ン!

最後の最後になって、ようやくお新ちゃんの自分に対する気持ちを知って
うろたえ悲しむ君の演技は、ゴルゴサーティーンも舌を巻くほどの
射撃率だったでござるよ。
撃ちぬかれちゃって、こっちはそこから回復するのが大変なのじゃよ。

切なくなっちゃうんだよ~、こっちまで。うわぁ~ん。


どうしてこんなにも繊細くんなのだろうか、君って人は。


この人が放つナイーブさというのは、とても静謐としているとですね。
月明かりに青白く照らされた雪原みたいな感じかもしれんとですばい。
そこには誰も入っていけない、凛、とした厳粛さも感じられるわけで・・・。

それはくるりんと表面を覆っているだけのラッピングペーパー的なものでは
決して無いわけであり。

様々な波動でもって感情を伝えてくる人だから、
見ているこっちの心に染み入ってくるのですね、彼の演技は。


この作品での彼は、
純粋と残酷さ、優しさと卑怯さ、悲しみと滑稽さという表裏一体の演技を
見事に演じきったあっぱれ侍ヒデタカくんであります。

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その存在感

2007年05月03日 | 思うコト


私は満男くんっ子だったのでありますが、
もちろん純君も大好きであり、
コトー先生も溺愛しております。


吉岡くんファンには、多分大まかに分けて、
満男くん育ち。
純くん育ち。
そしてコトー先生育ちの、
三タイプファンに分かれるのではないでしょうか?


これってば、すごい。
スーパーバイオロジカルだってばよ、ヒデタカくん。


彼は演じたそれぞれの役の人物たちを通して、
「日本人の友達、息子、孫、医者及びご近所さんどれでもおまかせ代表部一同」
として私たちの心に存在してしまうという、
何気な顔してババンバ~ンなつわものであります。


そして、始まりが誰であれ、その人物を起点にして未来に行ったり過去に行ったり
自由自在にトリップしながら愛情循環できてしまうという、
これまた究極のリサイクラーであったりもするのだね、君って人は。


たまらんじゃないか、え、ヒデタカくんよ。


君は実はスゴイ人であるのに、しかしそんなスゴサを普段はまるで感じさせない、
という寡黙なスゴサを持っているのだ、惚れるじゃね~か、やめてくれい。



でもですね、彼のことをズンズンずずずい~と深く突きつめて考えていくと、
結局は彼の持つ存在感に想いは帰結していくのだと思うとです、おいどんの場合。



ふと夜空に浮かぶ月を見上げた時に、これは彼も見ている月なんだなぁ、とか、
波打ち際に立てば、これは彼も時々は耳にする波の音なんだなぁ、とか、
ふっと吹いていく風に、彼もいつか吹かれた風なんだろうなぁ、とか
そういったことをふと自然に感じとらせる存在感を持っている人なのだと
思うのであります。



その存在感は今も昔も変わっていないわけで。

今も昔も決して変わらない、彼が持ち続ける透明な存在感なのであります。



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五島君と鳴海君

2007年05月02日 | コトー先生

謎の多い関係であります。

この二人、研修医時代を一緒に過ごしているらしい。
しかし二人の会話から察すると、どうも親しい友人関係ではないらしい。
鳴海君は電話の切り方のマナーを知らないらしい。
そんな待遇を、五島君は特別なんとも思わないらしい。

以上挙げたうちの最後の二文、特に最後の一文から考察するとですね、
この二人は以前、少なくとも時々は電話するくらいの間柄で
あったのではないだろうか、と推測されるわけであります。

しかし電話する仲というのは、
「なんか話がしたい。」「声がなんとなく聞きたい。」
といった潜在的友情感情から生まれることが多いのではないのだろうか?
なにもわざわざ、「五島くん、明日は肉の特売日だぞ。」
とか言うためだけに電話を掛ける人もいないと思う。

鳴海君から一番最初に五島君のところに電話が掛かってくるシーンにしたって
謎が多いでございます。

自分の名前を告げた鳴海君に対して、五島君は、
「(ちょびっとスマイル)あぁ、鳴海先生、お久しぶりです。どうしたんですか?(ちょびっとスマイル継続)」
みたいな、謎の対応をするのであります。

これは一体どういう意味なのだろう? 
なぜに「ちょびっとスマイルくん」なのだろう?

普通、久々に聴く旧友の声だったら、
「おぉ、なるみっち~。久しぶりだなぁ、どう、最近調子は?」
みたいな全身慢心カジュアル周波を発信するはず。
けれどもなんか五島くんの対応は、よそよそしい。
しかしよそよそしい割には、その言葉の響きには
過ぎた時間の距離感はあまり感じられない。

う~ん・・・・・・・・、わからない。

五島君、もしかして君にとっての鳴海君は、
どうでもいい人ってことなのですか?

そうだとしたら、鳴海君は少しだけ気の毒だ~。
彼は五島君の記事をネットで見ているくらいなのに~。(←何のためにっ? どうやって見つけたのっ?!)

そして更に謎を深めるのが、
鳴海君から五島君へと流れているある種の茫洋とした感情。

鳴海君は、クールビューティーであります。
外見はもちろん、その心までお任せ冷凍されているように見えまする。

けれどもその心は決して、クール宅急便で送られてきた荷物にみられる、
「なにもこんなに根性入れて冷凍しなくても・・・」
っていうような「カチンコチンな冷たさ」はないのでありますね。
彼が五島君に発信しているある種の感情も、ちょっと解凍されている、
みたいな感じなんですな~。

それは、彩花さんのオペ室にまであきおじグッズで登場した
五島君に対する鳴海君の、「お前、ええ加減にせぇよ。」
という視線の中にでさえ見出せる、プチ解凍の感情。

う~ん、これはなんなのだろう?
哀感?

いや、それは最終回を迎えるまで、まるで情報屋のような出番しかない
鳴海君から発っせられる哀感ではなくてですね、
こう、なんともいえない「愁思」のような感情が彼の心から五島君へと
発っせられているように思うのですよ~。

まさにこれは ザ・ミステリーじゃないですか、奥さん。

二人の間に友情はない(と思う)。
しかし、そこにある「何か」。

それは鳴海君宅での二人の対峙シーンにも見れるし、
五島君が大学病院を去る時の空気感にも流れている。

外科医として背負ってしまった贖罪を五島君の中にも見出しているから?
いや、それだけではないはずだ~。
なにか他にもあるに違いないのだよ、ワトソン君。

なんなのだろう・・・・?

二人の過去に何があったのだろう?
鳴海君はきっと、五島君のことが「なんか気になるやつ」に違いないのだ。
いや、もしかしたらそれ以上なのかもしれない。
鳴海君は、本当はお友達になりたいのに素直になれなくって
やきもきしちゃうイヤミくんみたいなタイプの人なのだろうか?

ところで、鳴海君の家に連れてこられた五島君ですが、
しかしどうして二人はお揃いちっくなスーツを着ているのでしょう?
ブルースブラザーズみたいじゃないか、君たち。

ハッ、こ、これは、もしや鳴海君から五島君への精一杯な友情表示だったのではっ?

お揃いのスーツ→
㋤この件について君の意見を聞きたくてね(どうだい五島君、揃えちゃったよ、スーツ)→
㊄それは一体どして?→
㋤僕は君を同じ医師として尊重して聞いているつもりだ(しまった、こんなこと言うはずじゃ・・・)→
㊄あ、すみません急用が→
㋤そうか、タフだな、島の医者は 

ヒュルルル~、っと北風。

みたいなみたいなみたいなそんなあほなっ。

う~ん、知りたいぞ~っ、鳴海君の気持ち。

この鳴海君所有の「何か」が一番顕著に見られるのが、
大学病院の廊下で二人が最後に会話を交わすシーン。

ちなみにこの場面すっごく好きなんざますのよ~、奥様。
このシーンの吉岡くん(も)、すっごくよかったよ~。

なんか真綿みたいやったよ、ヒデタカくん。

あ、いや、今日はあくまでも、五島君と鳴海君のキャラ謎に絞って
書こうとおもったのでした・・・。

閑話休題。

静まり返った大学病院の廊下で、五島君と鳴海君はそこで始めて
会話らしい会話を交わしますが、しかしですね、その会話は、
いわばサスペンス劇場の刑事張りに、じっと辛抱強く(ドアの影に潜んで)
五島君の登場をけなげに待っていたであろう
鳴海君の切ないアクションなしには成立しないと思うのですよ。

そうなのだよ、五島君。
君は鳴海君に何の別れの言葉もなく、病院を立ち去ろうとしたのですか?

やはり・・・・・。(←なにがっ?!)

五島君と鳴海君の間には温度差がありすぎる。

切ないじゃないかぁ~、鳴海くんってばぁ。
「お友達になろうよ、五島く~ん、えへへ。」って、えへへは抜かしても
いいから素直に言えばいいのに~。

そしてなんと極め付けに別れ際、五島君は鳴海君に泣かせの言葉までを
贈ってしまうのだよ、金八っつぁんっ。

なんて無垢な罪深きお人なのだ、五島君よ。

そりゃ~、「帰るのか、島に?」って言いたくもなるわな~、鳴海君。
私だったらその場で五島君に突進して
「行かんでくり~~~~っ、うわぁ~~~~んっ」
って泣いて羽交い絞めにすること120%じゃよ。

時にはプライドを捨てることも男らしさなのだ、鳴海君よ。

そして、最後の別れ際に五島君を見つめる鳴海君の瞳は、
広辞苑よりも多様な意味がどっぷり入っていたように思えるですよ。
どないやねんな?って言われちゃうと、辞書みたいなんですがな、って
答えるしかないのだけれど、しかし一つだけ言えることは、
あの時の鳴海君は、島へ帰る五島君の身のことだけを案じていた、ということ。
しかし一方の五島君の気持ちは放射線状に拡散しており、
そしてそのどの思考光線も、彼の目の前にいる鳴海君をはらり~んと通り越して
遥かかなたへ行っちゃってるような気がするのですぜ~、あっしとしちゃあ。

究極の稀男、とは五島君のことをいうのだろうか?

五島君、君は天然バージョンのカムパネルラだ。
天然だから、余計に相手は切ないのじゃろ~な~。うんうん、切ないのぉ。

しかしもったいない本編でのこの二人の話の扱い方ってばっ!
もっともっと五島君と鳴海君の話が見たかったぁ・・・・。
いつかこの二人の物語、スピンオフで作ってくだされ~っ!

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見知らぬピースたち

2007年05月01日 | 雑記

吉岡くんの作品は、彼のちびっこ期作品群以外は
全てリアルタイムで見ているっ、と鼻の穴をサブちゃんサイズにして
むはははっ!と偉そうに仁王立ちしてみたい気分になる私ですが、
しかしそれは90年代の半ばの作品群まで、という悲しい限定バージョン付であります。

これ以降の彼の作品は、見ていない、いや見れなかったものが
少なくないのであります、ヨヨヨヨォ~。
帰国里帰りと映画の公開時期が運良く重なって鑑賞できたという映画作品も
ありましたけど、そんな幸運に恵まれたのは半分くらい・・・。
テレビドラマは見逃してしまったものが多いでがんした。

なんとですね、少年Hや、そしてあの名作誉れ高き喪服のランデブーなども
見れていないのでごじゃるよ~、か~んちゃ~ん。

神頼みするように日本にいる親に録画を頼んでおいたのに、
その後いともあっさりと「忘れちゃったわ~、ごめ~ん。あははぁ~」
などとシャラ~っと言われた時はですね、余りのショックにその場で
瞬間冷凍されたマグロみたいな顔になっちゃってですね、
そしてそんな顔のまま天に向かって、「お前の母さんでべそ~!」
とあやうく泣きながら絶叫しかけてですね、よって結果的に自分の祖母を
デベソ呼ばわりしかねなかったというアホな子状態になってしまったことは
一回や二回だけではなかったわけで。

そういった冷凍マグロ顔級のショックがその後何度も続いた結果により、
最後には私の思考回路は完全にブチっ!と音を立てて切断されてしまい、
「ええいっこれだからいつまでたっても円安ドル高なのだよまったくなんてこったいオリーブオイルはお肌にいいらしいのよちょっと奥さんお元気おほほほところでなんとか反撃せんのか日本内閣怒りのチョップでワンツーだーっ!」
と完全に理解に苦しむ思考経路でだだをこねまくった挙句に、単独日米摩擦を
起こしかけてしまったという、まったくもってオーマイガーの
トンチキ野郎な私だったのであります。


しかし何故にDVD化してくださらないのだろうか、この作品二つ。
少年Hと喪服のランデブーは諦めきれないじゃないですか~。
なぜになぜになぜなのですかっ、テレビ局さんたち。泣いちゃうぞぉ。

DVD化が難しいのであれば、せめて再放送してけろ~っ!
ごっつい観たいじゃなかですか、赤盤兄ちゃ~ん。

私はドラマ化されるのを知る前にその原作本を読んでおりまして、読中は
「なんてかっこええのだ、赤盤兄ちゃんってば・・・惚れるじゃないか・・・」
って思っていたのだよ~っ。

そんなフフフンなうどん屋赤盤兄ちゃんがヒデタカ節で見れるのだったら、
まさにドリームワールドタリラリラ~ンで世界は一つ火の用心なのであります。(※注・壊れてしまう、ということであります)

いやしかしちと待てよ、確か赤盤兄ちゃんは悲しい結末を迎えて
しまう人物ではなかっただろうか?

悲しいのはイヤダヨ~、パトラッシュ~。

でもやはり見てみたい気持ちは抑えきれないってぇ~のが
ファン心ってもんじゃ~ねぇ~ですかい、八町堀の旦那。

それともう一つ、喪服のランデブー。
作品自体も名作だと聞いておりやす。
そしてこの作品で、彼は刑事の役を演じていると・・・。

デカなヒデタカ・・・・・デカ・・・・・・・ヒデタカ・・・・デヒデタカ・・・。

デカなのだ デカであるのだ ヒデタカくん

思わずまた一句詠んでしまったではないか。

どうしよ~。
吉岡くんったら、「こういう者ですが」とか言って、
上着のポケットからチラリと斜め目線で相手に警察手帳を
見せちゃったりしているのだろうか?

そんでもって夕日をバックに容疑者を追いかけ、ぬおぉぉおぉぉ~っと
全力疾走しちゃったりしているのだろうか?

はたまた「はい、おやっさん」とか言いながら、
缶コーヒーを年配刑事に手渡しちゃったりしているのだろうか?

しまいには電柱の影に隠れてアンパン食っちゃったりとか
しているのだろうか?

アンパン&ヒデタカ。 
これは過去に何度か見られた光景でありますですね。
他の人から見ると、彼は甘党なお人に見えちゃうのだろうか?
私にとっては、君本体自体が甘党うっとりヒデタカくんじゃよ。

そうだ、アンパン論などどうでもいいのだったでごじゃる。
この作品を再度放送してほしいのだよっ、局長さんっ!
ということを言いたいのでありました。

もしこの作品二つを再放送してくれるのだったら、
私は太平洋を泳いで渡って帰国して、この名をギネスブックに載せても
かまわないわっ!(←それはそれでちょっと嬉しいかも・・・)

映画作品では、釣りバカも見れていないし、またの日の知華もしかり。

この二つの映画はいつか観れるのかな~?
と考えると、後の楽しみが増えてええのかもしれんですばい。

とりあえずは、もうすぐお届けされるコトー先生を待つばかりですだ♡

コメント (4)
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