予告もなしに、彼女は再び現れた。
その名はギャートル。
本名ではなくリング名であります。
24時間闘えるかどうかは謎なのですが、
16時間くらいは闘えるに違いない、と思わせるほどの
熱血ファイター、ギャートル・リゲイン、カンバック。
しかし彼女が闘うリングは限定されており、
それはどこかというと、
何故か私を軸にして半径163cm以内。
エコノミーファイターであります。
思えば一年前、位。コトー先生のことを、
「純がお医者さんになったんだよね、あはは~」
などという一億三千二百三十一万年前に落下した隕石のような
「吉岡=純」思考でもって、
私をアンドロメダに着陸させたギャートル嬢。
それは仁義なきハブとマングースの戦いでありました。くっ。
あの衝撃の出会いから一年、位。(←覚えていないらしい)
再び会した彼女は、
全く変わっていなかった。
「んもぉ~太陽が328m地球に接近したに違いないわっ!」
と思われる程の猛暑であった先日の日曜日。
友人宅でのバーベキューパ~テ~にお呼ばれしてもらい、
「ハッ ハッ ハ~ッ びゅりほ~ さぁ~んで~♪」
状態で友たちと話している最中に、何やら横から人影が。
ン? と思って横を向くとそこにはギャートル。
シェーーーーーーーーーーーーーーーーッ?!
とポーズを取る余裕もなく、
ササッ、と横に移動。すると彼女もササっと接近。
ササっと移動。ササっと接近。ササっと移動でササッと接近。
ササッ、ササッ、サササッ、サササササッ、
ってあたしゃやどかりかいっ?!
「そういえばコトー先生のファンだったよね~」
と逃げ切れなかった私に向かって
突然のトピック投下をするギャートル嬢。
お? ちょっと待って、プレーバック。
確かに今“コトー先生”と言ったですわよね?
ということは、
純 → コトー先生
ネアンデルタール人 → クロマニヨン人
という進化を彼女は遂げたのかもしれないっ。
おぉっ、ヨ~ロレイッヒ~!
「コトー先生って、なにを演じてもいつも同じだよね。」
どぉ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ん。
隕石投下。
ね、ミミィ~にシミーズ。
要するに「寝耳に水」なのだっ。
私 :「(こやつーっ)どうしてそう思うの?」
ギャ:「だって三丁目の夕日とかでも同じでしょ?」
私 :「(成敗してくれるっ!)そうかな~?」
ギャ:「そうだよ。」
私 :「三丁目の夕日、両方とも観たの?」
ギャ:「観てないよ。」
私 :「エ? じゃ~どうしてそう思うの?」
ギャ:「だって日本の友達の友達がそう言ってたもん。」
↑ここです。
これは試験に出すのでよぉ~く覚えておくように、ギャートルよ。
友達の友達は皆友達だから私と吉岡くんは友達なのねっ、
きゃぁああああ~~~~人類みな兄弟一日一善っ、
生きてて良かったっ、おかぁ~さぁ~んっ!!!!
とは単純にならないのが世の中なのだ。
友達の友達が言ったからなんじゃと言うのだ?
そりじゃ~なにかい、
「あの北極熊はどうやら登別出身らしいよ。」と人から聞かされれば、
そうなってああ~なってこうなって結局南極放送局でコマ~シャル♪
ってぇ~のかいっ?
ってこっちのほうがふざけてしまったでねぇですかっ、あんさんよ~。
自分の目、耳で確かめてもいないのに、吹聴だけで判断するなんて、
フッ、
ふざけるのは、やめてくれぃ。
伝言ゲームというのをご存知ですか、ギャートルよ。
最初に発っする伝言は、人から人へと伝わるごとに
それは全く別の意味へと変化していくのだ。
そこんとこヨロシク。
と矢沢の永ちゃんも口をひょっとこみたいにして言っているではないか。
吉岡君は、つくしんぼうのように、
あ、春だ、こんにちは♪
などと突然ニョキリンとどこからともなく現れたのではないのだ。
彼には万里の長城の如く、
長~くつづく歴史の壁があるのだ。うりゃ。
吉岡君が、何故これほどまでに長く
人に支持されているかというのは、
それはもう理由云々の問題じゃないのだと。
そこに確固たる何かを感じ、受け取るものがあるからこそ、
吉岡君は多くの人から支持されているのだと思う。
それはもう屁をこく理由ではなく、純粋に伝わってくる
「人としての魅力なるもの」がそこにあるからであり。
吉岡君から受け取る「確かな何か」は、
とてつもなく多くの人に伝わっているわけで、
それは即ち、確かなる「真実」であるのだと。
私はそう思うであります。
私が吉岡君に惹かれる一番の理由は、
彼は決して職業人にならない。
ということでありますです。
大人になるとどうしても、
「自分は誰であるのか。」ということより、
「自分はこれをしているのだ。」ということに
固執してしまう人が多いと思うわけで。
けれども吉岡君はあくまでも、
「自分は何なのだろう?」
という原点に帰っていける人なのだと、
そう思うわけであり。
人が人の心に惹かれるというのは、
惹かれる人の心に確かな「核」があるからであり、
沢山の人が惹かれるものだからこそ、
そこには決して偽りはないのだと。
それが即ち「核心」というものなのだと思うわけで。
「信じる」という源は一体どこからくるのか?
と思いを馳せる時、吉岡君には、
そこに絶対的な安心感が宿っているわけで。
それはずっと変わらない。
吉岡君の核は変わっていない。
だから吉岡君は、とても魅力的なのだ。
と思うわけであり。
吉岡君、好っきやで。