吉岡くんという役者さんは、
深く湧き出でる泉のよう。
と、いきなり書いてお久しぶりでございます。
昨晩真夜中、眠れぬ夜に見た一昔前の吉岡くんの映像を見ていて、
なんかそげなことをボンヤ~と思っておった私でありまするが、
みなさま、その後いかがお過ごしでございましょうか?
あっちぃ~ぜなぁ~っ。
と叫んでいるうちに、気付けばもうすぐ神無月・・・・。
残暑厳しい秋の夜長でありますが、
秋の夜長といえば、吉岡くんでございます・・・・・・・・・んふふ。
私が吉岡くんの映像を見る時は、そりゃ~もう決まって、
うふふふふふ~♡
と顔の筋肉全てが焼酎を飲みすぎたハゼドンのような
弛緩状態になるのは必須なのでありますが、
しかしそこはさすがの吉岡殿、ブラウン管を見ている私の顔を
ただの弛緩しまくった酔っ払いハゼドン状態には
止まらせないわけであり。
うふふ♡ついでにうきゃ♡、っとハゼドンにさせながらも、
同時に、うむむぅもう一丁うむ、ってな、カレーを食べる
千葉真一のような顔にさせてしまうほどの唸らせ演技で
ぐいぐい魅せてくるので、あたしゃ~それこそ
ウフうむ大魔神のごとし、さすがの百面相術・吉岡流。
シビレルゼ~。
しかし世の中、もちろんウフうむ大魔神ばかりではないらしい。
役者吉岡くんを批評する人たちの中には、
彼の滑舌のスピードや、鮮明度、及びに音量調節に対してまで
なんたらかんたらそれやっとこどっこいほいっさっさっさ~♪
と批判しまくっている人を時には目にするわけであり。
フッ。
いやいや拙者、それ自体のことに対しては、
大人げなく反論したりはせぬぞぃ。
そりゃ~人の見る目聴く耳感じる心は千差万別でありもうすので、
こういった批判に対しても、平静安泰心はニシキ、
ふふ~ん、なるほど、ほうほう、そうなのでござるか、ほっほぉ~、
さすが越後屋ぬかりはないのぉ~、いやいやお代官様には負けますよぉ、
ところで助さんと格さんは一体どっちが助さんでどっちが格さんなのじゃ?
ってそんなことはどうでもええのじゃ、とにかく8時45分までわしらは安泰じゃの、
ウワッハッハッハッハッー!
ってちょいと待たれぃそこの小僧、洟が垂れとるぞ!
聞き捨てならんのだっ、お主たち!
こんなことに「大人げ」を出しても吉岡ファンの名がすたるだけ。
見ざ~る聞かざ~る言わざ~るのレッツゴー三猿で、
じっと我慢のしとしとぴっちゃん大五郎となったまま、
お主たちを斬り捨て御免のまま立ち去らせはしないぞな、おんどりゃ~っ!
お主たち、吉岡くんの台詞の言い回しなどなどエトセトラ、
なんたらかんたらびびでばびでぶーと斬りつけているようじゃが、
そんな秋祭りの屋台で売っている「ぼくの忍者カタナ」みたいな
ちゃんちゃらおかしい名前が黄色地に赤字で書いてあるよな
おもちゃのカタナじゃ~、
斬れるもんも斬れんぜよ、そち。
チミたちぃ、よく周りを見回してごらんよぉ~。
一体全体どこに「東京特許許可局」と3・2秒以内に
三回ハッキリ明瞭に言える人がいるというのだ、え?
滑舌の良し悪しだ~の、そんなことを批判しだしたら、そりじゃ~世の中、
二億四千万日本全国NHKアナウンサー大国になってしまうでないかっ。
ヒロミ・ゴーだって「億千万」を「お~くせんめ~ん!」と、
わけらからん剣道の気合のような日本語シャウトをしながら
フリフリダンスで唄って踊っていたのだ。
ヒロミ・ゴーは許されて、吉岡くんは許されねぇとでも言うのかい、あんさんよぉ。
って話の筋がずれてきちゃったでねぇですか。
私の周りには、はっきりすっきりおはよう日本で話す友や、
親、親族、ご近所さんなど、どこを見回してもおらんぞぃ。
みんなそれぞれ癖のある話し方っつぅ~もんがあるでねぃですか。
富良野には唾をとばしながら話している人もおるのだっ。
大体ですね~、チミたちゃ~、彼の仕草や姿勢に対してまで、
まるで鬼の首をとったかようにビービーブバブバ言っておられるようだが、
そりでは君たちの周りの人は皆が皆、普段どんな時も、
日販のテレビショッピングで買ったような背筋強制ベルトを随時装着して、
土俵に上がった高見盛のように背筋まっすぐピッキリ君だとでもいうのですかい?
まったくぅ、そんなこんなのあーだーこーだのちんちくりんになっているから
総理大臣が早期辞任をしてしまうのだっ、安倍君っ、おだいじに。
人間の思考から派生する、仕草、表情などには、
「人間正統行動による正統感情表現理論マニュアル」
などというものは存在しないわけで。
そもそも人を「勝ち組」とか「負け組み」とか「チューリップ組」とか
「たぬきさんチーム」とかに型分けしてみたり、
名刺にのっかっている文字だけでその人となりのランク付けをしちゃったり、
ちびっと落ち込んだだけで「プチ鬱じゃの」とか判断しちゃったりですね、
人の生き様、行動を、一つの言葉の枠にはめ込んで事務処理をしてしまうのは
チャンチャラおかしい屁のつっぱりなのではねぇでしょうか。
と、なにやら私は思ったりするらしい。
だから余計に、吉岡くんが織り成す仕草や物言いの演技に対して
難癖をつけてくる越後屋さんたちには、ムクムクリンっと反発心が
湧き上がってくるわけであり。
だって、
そもそも、
吉岡くんは、
別に、
上手く演技をしようとしているのではないのだと思うわけで。
あくまでも「その人物」として生きている「だけ」なのだと思われ。
しかしこの「だけ」が「すっごい」のじゃ、越後屋よ。
「自」であることに
「無」になることの
難しさ哉 天高く馬肥ゆる秋
字余りすぎ。
と、また一句詠んでしまったではないか。
越後屋くんたちよ、チミたちゃ、
土産の饅頭の箱の底に詰まった
十両金にばっかり目がいっているのではないのですかい?
そんなレレレのおじさんのような思考じゃ、
いつまでたっても、越後屋は越後屋のままだじぇよぉ。
吉岡くんという役者さんは、与えられた平面見取り図を、
お手本どおりに綺麗になぞっているだけの演技をしているのでは
ないのだと思われ。
彼は、どうすればその人物の「心」に近づけるのか?
ということに全身全霊で入り込んでいく人、
なのかもしれない。
こうしたら格好よく見える、とか、
こう演じたら見栄えがいい、とか、
このキメ台詞はバシっと決めてやるぜぃ、とか、
ここでこうしたら感動的な絵になるぜぃオレってばよぉ、とか、
そんなスチャラカタンなことには全く興味がない、
のかもしれない。
自分に与えられた役は、
役者としてのステイタスを上げていくための用途ではなく、
あくまでもその作品の中で生きていく「人」を生み出すことなんだ。
ということを心にしっかと根付かせている人なのかもしれんとですばい。
と、彼の演じる姿を見ていると、
そう思わずにはいられないわけであり。
自分が演じる人物の心をまず確かに掴んで、
そしてそこから、
ぐっと深く深くその心の奥底に食い込んでいく逞しさが
吉岡くんにはあると思う。
だから彼の作り出す人物達は、とっても奥が深いし、
立体的なのだと思うわけであり。
だから彼から発せられる台詞は、
それが一つ一つ彼の心に染み込んだ時点で、
それはもう台詞ではなく、「言葉」になっているのだと思われ。
だからそういった奥深さ、多面性、言葉の響きが、
一人の人間の息吹となって、見る者の心に、
深く鮮やかな残照として、永く永く人々の心の中に
残っていくのだと。
吉岡くんという役者さんは、
型にはめていくのではなく、型を作っていく人だと思う。
こうでなければならない、とか、
こういうときに人はこうする、とか、
そんな狭っくるしい演技は絶対にしない。
感情についてくる言動じゃなかですか。
そんなものにマニュアルなんてないのだ。
吉岡くんは、その演じる人物に、自分自身の心を
解き放ってあげられる強さを持っている人なのかもしれんですばい。
吉岡くんよ・・・・・・・・なんてかっちょええのだ。
惚れちゃうのだよ、どこまでも。