「吉岡さん、何にも訊かないんだね」
車のハンドルを握っている吉岡に、
中島聡子は助手席から訊ねた。
「いいの、尋問とかしなくても?」
「苦手なんだ・・・・そういうのってどうも・・」
そう言ってちょっと微笑んだ吉岡の横顔を見つめながら、
(確かにそうなんだろうな・・)
と聡子は思っていた。
8年前に忽然と姿を消した少女失踪事件の重要参考人として、
聡子が警視庁に身柄拘束されてから3日が経つ。
自分と同い年だった少女の名前、由布絵理香と名乗って、
聡子は15歳からの8年間を生きてきた。
事が発覚したのは、“由布絵理香”の就職内定先から、
内偵調査の電話が親元に入ったことで、失踪した娘が見つかったと
喜び勇んで会いに行った娘がまるで別人だっと警察へ通報した
由布の両親の通告によってだった。
任意同行のまま警察に連れて行かれた聡子への取り調べは思いのほか厳しかった。
聡子のことを頭から少女殺害の犯人と決め付け、
自分の訊きたいことだけを聞き出そうと躍起になって、
猫なで声でなだめてきたかと思うと、その次には痺れを切らしてどなったりを繰り返す、
ご都合主義のいわゆる“ベテラン”取調官たちに、
聡子は最初から嫌気がさして何も話す気になれなかった。
口を閉ざしたままでいる聡子に、当然、捜査官たちは食い下がった。
毎日毎晩何時間も、知っていることを話せと、
執拗に同じ問いを繰り返し繰り返し投げつけてくる取調官たちに、
固くだんまりを決め込んでいた聡子もさすがに疲れ果てた。
「あの刑事さんになら話してもいい」
やがて三日目に、聡子は口を開いた。
「あの刑事さんだけに、自分の知っていることを、ある場所で話したい」
聡子はそれだけ言ってまた口を閉じた。
どうしてそう言ったのか、理由はわからなかった。
わからないけれど、自然とそう口から言葉が出ていた。
“あの刑事さん・・・”
四日前、バイト帰りの自分の目の前に突然すっと現れて、
「中島聡子さんですか?」
とやんわりと話しかけてきた、あの刑事さんになら・・・。
「ごめんね、無理いっちゃって・・・」
穏やかな表情でハンドルを握っている吉岡の横顔を見つめながら、
聡子は呟くように謝った。
「今日はお休みだったんでしょう?」
吉岡の目じりにふっと笑みが浮かぶ。
「いいんだよ、そんなことは気にしないでも」
気さくにそう言って吉岡は、
「喉は渇かない? サービスエリアに入ったほうがいい?」
と替わって聡子に訊ねてきた。
「大丈夫」
聡子は顔を前方に戻した。
雨気を含んだ雲が、低く、重たげな様子で、ゆっくりと東に流れていく。
警視庁の駐車場から吉岡の運転する車に乗り込んでから、
かれこれ小一時間がたっていた。その間、吉岡は、
事件に関することは一切訊いてこない。
「吉岡さんって、全然刑事らしくないね」
「え?」
「だって、全然えばってないし・・・」
吉岡は明るく笑った。
そのやわらかい笑い声を耳元に心地よく感じながら、
聡子は言葉を続けた。
「他の刑事さんは、みんな偉そうにしてるんだよ。
取り調べに来た刑事さん達はみんなそうだったんだから。
全人類の味方みたいな態度をしていて、何様って感じ。
市民の安全ためなら、一容疑者にはどんな態度をとっても
一向に構わないって感じで、あったまくるんだ。
あの人たちにとっては、容疑者なんて市民じゃないんだよ、きっと」
見つめた前方に見えてきた藤岡ICと書かれた標識が、
近づいてきたと思った矢先に、突風のような速さで車窓を後方に流れていった。
「あの人たちはね、千を守るなら、一を傷つけることなんて
全く厭わないんだと思う」
静かに自分の言葉に耳を傾けている吉岡の気配を真横に感じ取りながら、
聡子は更に言葉を続けた。
「一だって千の中の一つなんだって意識を無意識のゴミ箱の中に捨てちゃってるんだ。
権力のベクトルって、どんな方向にも向いてしまえるっていうこと、
警察学校できちんと教えた方がいいと思う。私はね、」
と言った言葉をそこで一旦区切って、聡子はサイドミラーに視線を移した。
警察の車がもう一台、警視庁を出たときから、吉岡の運転する車を
ピッタリと後方にマークしながら走行している様子がそこに映っている。
「あんな人たちには、話したくない」
後方から弾丸のように飛んできた黒塗りのスポーツカーが、
追い抜き斜線を物凄いスピードで走り抜けて行った。
「捕まえなくていいの? あれスピード違反だよ」
静かに黙ったままハンドルを握り続けている吉岡に、
聡子は言った。
「そうだね、追いかけなくちゃね」
そう応えた吉岡はチラとバックミラーを一瞥し、
「ちょっと飛ばすね。しっかり掴まってて」
と言ってからシフトダウンしてアクセルを踏み込んだ。
グン、と上がったスピードに、聡子の体が一瞬シートに浮かび上がる。
ちょっとどころではない加速に、聡子は助手席ドアの取っ手を
しっかりと握り締めて体を固定した。
おいっ、吉岡っ、何してんだっ?!
それまで静まり返っていた無線から、突然慌てふためいた声が聞こえてきた。
吉岡はそれをまるで気にする様子も見せず、飄然としてハンドルを握っている。
「違反車を発見したので追跡します」
バカッ、そんなのに構うな! スピードを落とせ、見失うだろうが!
聡子はサイドミラーを覗いた。追行してきた警察の車が、
ミラーの中に豆粒のようにどんどん小さくなっていく。
運転席に振り返って覗き見たスピードメーターの針は、
軽く140キロを指していた。聡子は驚いて吉岡の顔を見た。
その顔は、完全に落ち着き払っていて、凛と精悍に引き締まっている。
ふざけるなっ、吉岡っ、すぐに減速しろ!
吉岡は加速したまま泳ぐような滑らかさで車の波を走り縫いていく。
車の窓ガラス越しに、猛スピードで近づいてきては
飛ぶように後方に去っていく車の流れを、聡子は半ば唖然として眺めていた。
一台、もう一台と隣車線の車を順に追い越しながら、
すっと滑り込むようなスムーズさで車線変更していった吉岡は、
あっという間の速さで黒いスポーツカーのテールランプに追いついた。
付けられているのに気付いたのか、突然ぐいっと中央車線に移ったスポーツカーは、
そのまま左車線へと移動していき、高崎インター出口に向かって走り出て行った。
吉岡も難なくその後に続いていく。連なる二台はそのまま県道へと走り出た。
吉岡っ、何処にいるんだ?! ちゃんとこっちに、
しなやかな指がすっと伸びて無線のスイッチを消した。
前を行くスポーツカーは県道脇のコンビニ駐車場へと入って行き、
その片隅で観念したように、ブオンとエンジンを一吹きさせてから止まった。
続いて入って行った吉岡の車が、コンビニの建物の前スペースにすっと止まる。
「ちょっと待っててね」
笑顔で言ったままサイドブレーキを引き、
吉岡は身軽な動作で車の外へと出て行った。
コツコツと静かに靴音を鳴らしながら俯きがちにスポーツカーに近づいていき、
顔を出した若い運転手と窓越しに話をしはじめた吉岡の背中を、
聡子はフロントガラス越しにぼうっと眺めていた。
ほどなくして手短過ぎるくらいの早さで運転手と話を終えた吉岡は、
スポーツカーから離れたあとまるで自然な成り行きといった様子で
すらっと店内に入って行った。
重い唸りを上げた黒いスポーツカーが、
ゆっくりと駐車場から県道へと走り出て行く。
聡子は出て行く車を目で追って行った先の県道に視線を止めた。
車の行き来が少ない、遥か遠くまで見渡せるその県道の先に、
高速道路で振り切ってしまった後続の警察車は全く姿を現してこない。
聡子は店の中を振り返った。買い物カゴを抱えた吉岡の姿が、
何か買うものを探しているのか、陳列棚の向こうに見え隠れしている。
聡子は再び車のフロントへと振り直った。
無言の無線装置が目の中に止まっている。
しん、と静まり返った車内で暫く躊躇したあと、
聡子は恐る恐る右手を伸ばして無線のスイッチを入れてみた。
なにやってんだ、お前まで!
しょうがないですよ、もう消えちゃいましたから。
バカ野郎、相棒を見失ってどうする! お前も減棒だっ、堺!
バタ、と運転席の開く音がして、聡子は慌てて無線のスイッチを切った。
コンビニの袋両手一杯になにやら買い込んできた吉岡が運転席に戻ってきた。
「なにがいいのかわからなかったから、とりあえず一通り買ってきちゃった」
そう言いながら静かにドアを閉めて、
聡子に向かってにっこりと微笑んだ吉岡の笑顔は、
できたてのコットンのように真っ白でやわらかく、
そして無条件にやさしかった。
「吉岡さん」
「ん?」
コンビニの袋の中を覗いていた吉岡が顔を上げる。
聡子はその顔をじっと見つめた。
「なに?」
吉岡が微笑みながら優しく聞き返す。
「しかられちゃうよ、鬼の警部さんに」
一瞬きょとん、とした吉岡は、
しかしすぐに朗らかな笑顔で明るく笑った。
「大丈夫だよ。得意なんだ、叱られるのは」
そういって安心させるように聡子に頷いてから、
吉岡は再びコンビニの袋の中に目を落とした。
「何がいいかな? 冷たいお茶に、温かいお茶もあるけど、あとね」
「吉岡さんは、どうして刑事になったの?」
聡子の質問にふっと顔を上げた吉岡の背後に、
大きく裾を伸ばした榛名山と赤城山の姿が、
曇り空の中に墨絵のように滲み浮かんでいた。
「さっきのカーチェイスは凄いなって思ったけど、
でもこうしているとやっぱり刑事だなんて思えないよ。
らしくないもん。なんで刑事なんかになっちゃったの?」
うん・・・と答えてから、吉岡はコンビニの袋を持っていた手を膝に置いて、
きちんと助手席の方に向き直った。
和やかに涼んだ眼差しが、聡子の瞳を穏やかに見つめ返してくる。
「ほんとはね、富山県警に勤務したかったんだ」
「富山県警?」
聡子は吉岡の顔を見つめなおした。
「吉岡さん、富山出身だったの?」
「そうじゃないんだけど・・」
ふわっと陽だまりのような笑顔が吉岡の顔に浮かぶ。
「じゃぁ、どうして?」
思わずつられて微笑みそうになりながら、聡子は更に訊く。
「なんで富山なの?」
「山岳警備隊員になりたかったんだ」
「山岳警備隊員?」
「そう。富山県警にはね、とても優秀な山岳警備隊が設置されているんだよ」
「それって何をする刑事さんなの?」
吉岡はニコッと微笑んで、
「山岳警備隊員はね、山で遭難した人たちを救助する役目を担っているんだ」
と更に深めた笑顔を聡子に向けた。
あまりにも無防備に和んだその笑顔に、聡子は少しドキドキしながら
尚も聞き質した。
「それは山のお巡りさんなの?」
「そうだね、そんな感じかな」
聡子はまじまじと吉岡の顔を見た。
「・・・どうして・・・」
彫が深い顔をしてるんだな・・・、と頭の片隅で無関係に思いながら、
聡子は更に言葉を継いだ。
「どうしてその山のお巡りさんにならなかったの? 途中で諦めちゃったの?」
うん・・・、と吉岡は少し考えるような表情を浮かべたあと、
「ふられちゃったんだ」
と言って微笑みなおした。
「ふられちゃった?」
「そう。異動願いをずっと出し続けていたんだけど、ふられつづけちゃって。
そのうちに、タイム切れになっちゃったんだ」
聡子は視線を自分の膝に落とした。
「心残りはないの?」
右手の指先で、膝の上に置いた左手首を、そっと撫でながら訊いた。
「うん・・・ないっていったら嘘になるけど・・・でも、
これでよかったんだな、って思えることも、多いよ」
聡子はじっと自分の左手首を見つめていた。
県道を走りすぎて行った大型トラックの走行音が、
遠雷の響きのように車内に届いてくる。
「・・・ごめんなさい・・・。変なこと聞いちゃって・・」
「いいんだよ」
ふっと持ち上げられたように向き上がった聡子の目の先で、
吉岡の瞳が微笑んでいた。
「謝らなくていいんだよ。今の生活にも、充分感謝しているから」
そう言ってまたにっこりと微笑んだ顔を、吉岡は再びコンビニの袋へと移した。
「買いすぎちゃったかなぁ。サンドイッチも買っちゃった」
そう明るく話しかけてくる吉岡の顔を、聡子はじっと見つめていた。
「おにぎりもあるし、おでんは買わなかったんだけど、
買ったほうがよかったかな? あ、あのね、シュークリームがあったんだよ、
それからカレーまん・・・」
「カレーまんは嫌い」
不意に聡子は吉岡の言葉を遮った。
え?と顔を上げた吉岡に、
「カレーまんは嫌い」
聡子は繰り返して言った。
「カレーまんは嫌いなの、どうしても・・・」
聡子の胸に、どうしてなのか急に切なさがこみ上げてきた。
「あんまんじゃなくちゃダメ」
車の前を、若い女性の二人組みが楽しそうに話し合いながら通り過ぎていった。
その二人の明るい笑い声が、聡子の耳の中にこびりつくように残っていく。
「あんまんじゃなくちゃダメなんだから」
聡子はぎゅっと両手を握り締めた。
無性に切なくなってしまった気持ちを、聡子は言葉にして吉岡にぶつけた。
吉岡はただ黙って、俯く聡子のことを思いやるようにそっと見つめている。
その沈黙は物柔らかに、春の野原のような温かさで、
聡子をふわりと包み込んでいる。
「信じてくれる?」
聡子はポツリと俯いたまま言った。
「吉岡さんは、私の言うこと信じてくれる?」
頭の中で、もう一人の自分が、きらめき輝く光の中から笑いかけていた。
「信じるよ」
聡子は顔を上げた。
揺るぎのない優しい光に満ちた眼差しが、
静かに聡子を見守っている。
その瞳がふっと和らいだように微笑んで、
すらりと長い吉岡の手が、そっと聡子の前に差し出された。
聡子は無言で、その掌の上にのった中華饅頭を手に取って一口齧った。
餡の甘さが口に広がって、聡子はなんだかどうしようもなく
泣けてきて仕方がなかった。
(そうなんだ・・・)
涙が止まらないままに聡子は思った。
(どうしてこの人になら話したいって思ったのか、
今はっきりとわかった気がする・・・)
上げた目線の先に、春の田植えを待ちわびる田圃が、
コンクリートの駐車場の向こうに広がっていた。
羽を休めていた冬鷺が一羽、ふと思いついたように、
雲間の中へと高く飛び立っていった。
「吉岡さんって、ちらかっていないからなんだ」
そう言葉に出して言った聡子に、ちょっと驚いたような顔した吉岡の瞳を、
聡子は涙を拭いてからしっかりと見つめ返した。
そうなんだ、この人は、心の中がちらかっていない。
心がきれいに片付いているから、人の話を聞いてくれるスペースを
そこにきちんと持っている。人の気持ちを受け取ってくれる場所を
心の中にきちんと持っている。そう心の底から信じさせてくれる人だから、
だから話したいって、そう思ったんだ。
この人になら・・・。
「あのね、私、」
聡子は吉岡に向かってそう話し出していた。
つづく