月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

ミクロの敵

2008年12月13日 | 雑記



まだ日本に住んでた頃、
ひどい花粉症に悩まされていた私でありました。
花粉症といっても、
私がアレルギー反応を起こしていたのは、
その王道をいくスギの花粉ではなく、
カモガヤという謎の雑草Xのもの。

毎年初夏から梅雨明けにかけての時期は、
止まることなき、くしゃみ鼻水目のかゆみ攻撃を受けて
まるで使い古した雑巾のようになっていた私でごぜいます。

だからロスへの留学が決まった後、
「地球の歩き方」かなんかの本で、
“ロスには花粉が飛ばない”
という一文を発見した時は喜びの余りその場で、
「やったぜ武蔵!!!」
とガッツポーズをしたものでございました。
ありがとう、アメリカ。恩にきるよ。ところで
今日も私はくしゃみ鼻水目のかゆみに悩まされているのは
何故なのだ?
目が痒くって痒くってど~にも止まらなくって
リンダじゃなくても困っちゃう。
なんでなのぉ~~~?
って花粉症ですな。
えぇぇぇぇぇぇええええええええっ?!
って自分に自分で質疑応答しちゃったじゃないか。

“ロスには花粉が飛ばない”

のではなかったのか?
こりだからアメリカはよーっ! 契約違反じゃないかーっ。
ブッシュのおたんこなすーっ!
いや、でも、聞くところによると、確かに、

“ロスには花粉が飛ばない”。

スギの。

十数年前、本屋でガッツポーツをとった時の私はただ勝手に、
“スギ”の二文字を読み飛ばしていたのでありますのね、アハアハ。
泣ける。
他の花粉は飛ぶのだ・・・。
無念じゃ小次郎。。。

しかも最近、このカモガヤの花粉症にプラスして、
ブタクサというこれまた謎の雑草Zのアレルギー反応も
出ちゃったりしてそれを知った時は全力投球で泣いてしまった。

しかしこのカモガヤ、ブタクサとは、一体何やつなのだ?
姿が知れないという事実だけで、その威力が126%くらい
増強されているような気がする。
デビルビームのようだ。
よくわからないけど。
とにかく手強いやつに変わりはない。

調べてみると、カモガヤとはイネ科の植物で、その花粉は
5~七月、種類によっては8~9月に猛威を奮うものであり、
ブタクサについては北アメリカ生まれの、秋頃に花粉を飛ばす
雑草だということですので、あぁそうですか。なるほど。
そんなこと言われても困る。

そもそもこの「カモガヤ」とか「ブタクサ」という名前からして
曲者すぎると思うのだよ、ワトソン君。

「カモガヤ」なんて、
カモがガヤガヤしている場所に生息している草とか、
「カモがヤっ!」
とだだをこねる人が多い地方に生えている草とか、
そういった由縁がこの名の背後にはあるのだろうか? 
しかしなにはともあれ、このカモガヤという名の「ガ」が、
そもそもいけないのだと思うのですよ。なんか、

「ガッ!」

って自己主張しすぎているし、だから後に続く「ヤ」も、

「ヤッ!」

とついつい力んでしまっているのかもしれないよ、いかんよこれじゃ。
これがもし「カモガヤ」ではなく、
「カモリン」とか「カモどん」とか「カモピ~」とか「カモやん」
とかいう名前だったら、つらい花粉症も、
「ちょっとは許してやるよ、カモやん。」
という気をおこす人が東日本でも18万人くらいは出てくるかもしれない。
名前って意外と大切よね。

それから「ブタクサ」でありますが、これはもうどこかの学者さんが
狙って命名したとしか思えない。
だって、「クサ」という、
「あぁそんなことは百も承知だよ。」
という万人知っての事実のもと、そこに敢えて挑戦するかのように
もってきた単刀直入な名詞上に、
「ブタ」
とズバリつけてしまうなんて、その学者さんは
よっぽど機嫌が悪かったのかもしれない、その時。

もしかしたらそれを名付けた日、その学者さんは、
朝っぱらから奥さんと夫婦喧嘩をしてしまい、
機嫌の悪いまま野原調査へと出かけ、
昼食時には最後に食べようと楽しみにとっておいた
デザートのイチゴを口に運ぶ途中でポロ、と
地面に落としてしまって更にキィーーーッ!と
なりながら午後の調査で草原の中を
新種の草を探して歩いていたら途中で
草の根っこに引っかかって転んでしまったので、
もうそこで一気に堪忍袋の緒が切れてしまい、
「くぬぅ~このブタ草めがーっ!」
と思わずあくどい言葉で罵ってしまったその草が
探していた新種の草だったので、隣にいたアシスタントが
「ブタクサ」
と勘違いしてノートに記入してしまった。
という衝撃の歴史がその裏に潜んでいるのかもしれない。
んなわけないけど。

5万歩譲ってこの説がフィクションだとしても、
しかしどうしてわざわざ「ブタ」でなければいけなかったのだろうか?
ブタくんには失礼だが、でも「ブタ」ではなく、
「チワワ」とかでは問題があったのか? チワワでなくとも
「バンビ」とかだったらもう絶好調だ。(←何が?)
もしくは「モーモー」とかも結構いけると思う。

「今年も花粉の季節がやってきますですわね。」
「あら、お宅も花粉にお困りですの?」
「えぇ。モーモーに。」
「そうですの、私はカモやんですのよ。」
「まったくカモやんったら、おほほ。」
「モーモーも然りですわね、おほほほ。」

なんてな地球にも人にもやさしい会話が世界中でされて
人類みな兄弟、めでたしめでたし♪
とは決してならないかもしれないけど、でも気分的には
少しだけでも救われるかもしれないよ~。はぁ~辛いな~
この時期は~。

でも、
とたった今思ったけど、
もしゲゲゲの鬼太郎のお父上が花粉症になっちゃたら、
どうするんだろう?

「オイ、鬼太郎、頭部全体が痒くって痒くってしょうがないぞっ!」

ってな感じで茶川センセみたいに頭を掻き毟っちゃう
掻き掻き妖怪になっちゃうのかな?
ひぃゃぁーーーーーっ、 想像しただけで

「父さん、冷気がっ!」

そんな状態はとっても辛くって耐えられないカモだよ~。
目玉親父じゃなくて良かった・・・。

という風に辛さを甘受するのも一案かもしれない。
ふぃ~、てんやわんやの師走でごぜいます。
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彼女の子供たち

2008年12月02日 | 雑記


先日犬の散歩をしていた折、すぐ目の前を
ニワトリが横切っていきました。

ニワトリです。

別にニワトリだって道を横切ってもいいじゃんか。
と、私だってそう思う。
そんなの見たって、
たいしたインパクトではないかもしれない。
これがもし、

先日犬の散歩をしていた折、すぐ目の前を
ガチャピンが横切っていきました。

だったらちょっと困ってしまうかもしれないし、
さらにこれが犬の散歩ではなく、

先日エリマキトカゲの散歩をしていた折、すぐ目の前を
ウーパールーパーが横切っていきました。

だったらもうお手上げかもしれない。
それに較べたらニワトリが横切った衝撃など、
屁のようなものかもしれないぞ。
しかし屁と形容されて、なにも、
「オレもいっぱしの屁野郎だぜ。いっちょかましたろか?」
などといって喜ぶ生き物はそうそういるとは思えないので、
世界総合ニワトリ連合会の鶏さんたちの名誉の為にも
ここで思い切って書いでおきたいのですが、
その時私たちの目の前の道を横切っていったニワトリくんは、
私と愛犬をハニワ化させるほどの強力なインパクトを与えた
スーパーニワトリくんだったのでありました。何故なら、
そのニワトリくんはその時私たちの目の前でやおら、
飛んだ。
それもただ飛んだのではなく、

クワァ!

とか叫びながらいきなり3メートルくらい
垂直飛びをしたのであります。

「えぇぇ~?」

と唖然としている私と愛犬の様子を尻目に、
だったかどうだかその表情はよく見えなかったのですが、

シュタッ!

とそのままヒタ、と
高枝切りバサミでも届きそうにないほどの高さの
木の枝に着地したのですだ。

「みゃぁあ~~?」

余りの驚きに謎の名古屋人みたいな叫び声を
上げてしまった私を尻目に、
かどうかは確認できなかったのだけれど、
そんな私と愛犬を高みから暫く見下ろしていた
ジャンパートリー(←すでに命名)は、

カエェ!

とかまた叫んだかと思うとさらに上方へと飛び上がり、

「再び垂直飛びなるかっ?!」

とオリンピックの解説委員のように叫んだ私の期待に、

ドバ。

と目の前に着地して軽く裏切り、

「おぉ、6.3.惜しい。」

と思わず得点まで出してしまった私を
まるで小バカにするように一瞥したあと、

コ~コッコッコ~~~、クワァ?

などとハミングしながら近くの家の裏庭へと
悠然と入っていきそのまま姿を消したのでありましただ。

スゴイ。

柳生一族系ニワトリかもしれない。
と軽い目眩を感じながら感動さえも覚えた私。
しかし、
一体何処の誰が磯野波平さんちが三軒先にあっても
まるで不思議はないような思いっきり住宅街のど真ん中で、
ニワトリを放し飼いにするのだろう?
というか飼うのかい、ニワトリ?

そりとも彼は全ご近所認定ナチュラル目覚まし時計係なのだろうか?
早起きご近所さん集合住宅地なのですか、この一帯は?
あ、でも待てよ、そうだ~、
きっとこのジャントリーくんは、
秋祭りとかの屋台で、ぴぃ~ぴぃ~なんて小声で鳴いてて、
きゃぃ~ん、可愛い~、パパ~買って~。
う~んしょうがないな~、ははは。
なんてな経由を辿って買われていった
か弱きひよこくんだったのかもしれない。
その後家族の者たちに大切に育てられて立派な鶏となり、
今では垂直飛びまで出来るようになったのだねぇ~。
しみじ~み。
そういえばその愛情の印なのかもしれないけど、
ジャンパートリーは金チックなネックレスを首にはめていたわ・・。 
ロッカーのようだ。学校の物入れじゃなくてよ。
歌うロッカーみたいだってことよね、意外とやるよな、
ジャントリーってば。

ということで思い出した友達の話があるのですが、
ある時に、彼女がまだ小学生だった頃、やはりお祭りの屋台で、
二羽のめんこいひよこちゃんたちを親に買ってもらい、
買ってもらって「わ~~い!」と喜んでいる内に
「いきなりもうニワトリですっ!」
ってな迫力で成長してしまいちょっと悲しかった。
らしいのですが、でもまぁそれは自然の法則だからと納得し、
毎日毎日ニワトリズたちの世話をして、そうこうしているうちに
愛情もどんどん溢れる様にふくらんでいき、
彼女は彼らをとても可愛がっていたらしいのですね。
んがしかし、このニワトリズくんたちは
その愛情も大きな悩みに変えさせてしまうほどの
問題を抱えていたというのですだ。

彼女がいうには、何故か彼らは、
どうもせっかちな気性であり、
しかもえらく几帳面だった、と。

コケェーーコッココーーーーーコーーー!!

と鳴いて家族の者全員を
一斉に起こしてはくれるのだけれど、
それが真夜中の二時だったと。

毎日、きっかり、休むことなく、
NTTの時報のように
正確に鳴き出すニワトリズたち。
まさに丑三つ時の恐怖。

幸い彼女は大きい敷地をもった農家のお家に住んでおり、
周りもそういった家が殆どで真横に隣接する家もなく、
そのニワトリズの鳴き声自体は
近所迷惑にはならなかったらしいのですか、
しかし当の家族一同がひどい迷惑を被って寝不足になってしまい、
結局どうしようもなくなって、ある日、彼女のおじいちゃんが
そのニワトリくんたちを近くの川原岸にそっと
「放してやった」そうであります。

「狭い小屋の中に入れられて、彼らもずっと
精神的にまいってしまっていたんだよ。これからは
自然の中で自然に生きて自然に朝に鳴くだろう。」

とおじいちゃんは悲しんでいる彼女のことを、
その時そう優しく諭してくれたらしいですだ。

無くしてしまった愛情は大きい。
無くしたままじゃ辛すぎる・・・。

そんな人生の悲哀をおそらく生まれて初めて噛み締めながら
その夜彼女は眠りについたらしいですだ。
さよなら、ニワトリくんたち。さようなら・・・。
しかし起きてしまった。
夜中の二時に。

微かにニワトリズの鳴き声を聞いたような気がするけど、
でも長年それを習慣として聞いてきたせいで、ただ習慣として
また目が醒めてしまっただけなのかもしれない。
そう気を取り直して彼女は寝なおし、そして次の夜、
やはり起きてしまった。
夜中の二時に。

昨晩と同じくニワトリズの鳴き声を聞いたような気がして
やっぱりとても気になったのだけれど、でも気のせいだと
自分に言い聞かせて寝なおし、そして次の夜、
しかし起きてしまった。
夜中の二時に。

どうしてだろう? 
と思い悩んだ彼女は次の日の朝食の席で
家族にそのことを話そうとしたのだけれど、しかし見ると、
お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも、
寝不足っぽい。しかも、
「話しちゃいけない、“あの”ことは。」
といった暗黙の了解の雰囲気が全員の体から
発散していて、結局彼女は話を切りだせず、横を見ると
おじいちゃんが元気そうにご飯を食べていたらしい。

おじいちゃんが元気ならそれでいい。

なんだか自分でもよく理解できない結論を抱えて
その夜寝入った彼女は、
しかし起きてしまった。
気のせいじゃない。
その時そう確信した彼女はそこでじっと耳を澄ますと、

クェココッコーーーーーッ、コーーーーッ!

と、遠~~~~~~~~くの方で、
鳴いているニワトリくんたちの声が。

やっぱりそうだぁ、ニワトリたちだ。
元気なんだぁ、よかった。

と思ったら急に涙が出てきちゃったそうですだ。
そしてそのとき時計は
やっぱり夜中の二時を指していたらしく。

その日から彼女は、その川原に掛かる橋に行って、
元気そうなニワトリくんたちの姿を確かめるのが
日課になったそうなのですが、暫くすると、
最初は二羽だったニワトリくんたちは、
一羽、二羽とだんだんとその数を増していき、
気付くと彼らはいつの間にか大家族に成長していったそうですだ。
でもそんな彼らの姿を見て、
もう大丈夫だ~。
と彼女は思ったらしく、そう思えた以降は、
もうその川原に行くのはやめたそうです。

でもそれからも彼らの鳴き声は、
彼女がお嫁に行くため実家を出るその日の朝まで
ずっと聞こえつづけていたらしく。
いつの頃からか彼女の中で、
その声たちは自然の中の音の一部となり、
それを微かに聞くことで、
気持ちがとても安心するようになっていったそうでぃす。

今ではその彼女も二児のお母さん。
やがて彼女の子供達にも、あのニワトリくんたちに
会いにいく日がくるのかもしれない。
昔彼女がそうしたように。

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10,000 miles

2008年09月24日 | 雑記



突然映画の話なのでありますが、
私の大好きな映画の中の一つに、
「Fly Away Home」という作品がありますです。

これは1996年に公開された映画でありまして、
邦題は「グース」。
おおまかにさらっと主内容のあらすじを書きますと、
母を亡くした14歳のエイミーという少女が、両親の離婚以来
10年振りくらいに再会した実父のもとに引き取られて
オーストラリアからカナダへと移り住み、
そこで父との確執や新しい環境への順応に悩みながらも
ある出来事を通して大きくその世界を拓いていく。
という話でありまする。 

その「ある出来事」というのが、
ある日エイミーが野原で偶然に見つけた卵を孵化させ
自分の手で育てた16羽のカモグースくんたちを、
鳥人間コンテストに出てきそうな自家製飛行機(エンジン付き)に乗って
彼女が“ママグース”として無事に越冬地まで一緒に連れて飛んでいく。
というビックリカモ~ンな話でありまするが、
これは事実に基づいている話だそうですだ。
(*実際は少女ではなく、大人の“パパグース”が飛んだそうです。)

荒唐無稽に思えがちな話であるのでぃすが、
しかしとてもええ映画でありまして、おすぎも3回くらいは
この映画を観て感動の涙を流したと思う。

大自然を映し出す映像が、特にエイミーの飛行と共に
映し出される風景映像がこの上なく美しく、それを見ていると、
日常の区切られた生活の枠の中からすーっと
解放されていくような感覚に包まれもうして、そしてそれは
「あ、そうだ、地球に住んでいるんやな~。」という
原点に戻らさせてくれるとです。

映画は、観る人の数だけその想いの数はあるわけで、
それはそれは多様性をもっているものでぃすだ~。
私にとってのこの映画は、
「再生」であり、
「勇気」であり、そして
「信念」ですだ。

日ごろ思っていることでありまするが、
信念を貫くのは難しいことですばい。
「日常の生活」という理由をそこにこすりつけて、
それはうやむや~んにふやけてしまい、
そんな己から生み出している状況に、
歯痛を抱えたニホンザルのような顔で
ため息をついてしまうあちしでおます。

どこに信念をおくのか、
そこに何を見出せるのか、
それは追い求める価値があるのか、
なんて~なことはとてつもなく抽象的であり、
気が遠くなるほどの数の迷宮路がそこに口を開いているわけで、
それを考えだせばすぐさまその迷路に入り込んで、
ひとつ曲がり角、ひとつ間違えて、迷い道ク~ネクネ~♪ 
と渡辺真知子の曲を歌ってしまうのは私だけかもしれないけどまぁ
そういうことですだば。(←どういうこと?)
だからついつい、目に見えるもの、耳に入るものに、
すすららら~~~~、と引っ張られてしまうわけで、
なぜならそれはそれを納得するしないに関係なく、
そうすることによって自分の気持ちがとりあえず落ち着ける
ということなのであり、人間誰だって
「そわそわわわわわわあ~っ」としているよりは、
「ま、ここらへんで、按配ですな。」と
茶でも飲んで落ち着きたい生き物なのであり、
それは至極自然な行動であるのだけれど、
しかし拝啓恵子ちゃん、ほんとにそれでいいのだろうか?
富良野はすっかり秋になりました。
なんてまた考えちゃったりする私ったら
一体何を書いているのかしら?

そうだ、映画の感想のことだった。。。

話題を元に戻すと、
この映画の主人公のエイミーは、
ただ自分の育てたグースくんたちを
無事に越冬地に辿り着かせたい、
というその「一心」だけでもって彼女は「飛ぶ」わけで、
ただそれだけなんですね。

でもその一心が彼女の信念であり、
その信念がエイミーを動かしているわけで、
その「信じる」ということの根源的な純粋さが
とても崇高であり、美しく、
その姿はとても感動的なのでありますだぁ。うぅ、
ぶひっ。(←泣いているらしい。)

それからこの映画のもう一つのテーマに、
自然、動物保護のテーマがあるです。
エイミーたちが選んだ越冬地を開発事業から救う動きが
彼女たちの飛行開始と同時に始まるわけで。
一つの信念がもう一つの信念を呼び起こし、
やがてそれは大きなエネルギーとなって
物事を突き動かしていくわけでありまする。
「信念」とは意志を伝えていくバトンでもあるのだなぁ、
なんてなことも思ったですばい。

途中までは父親の“パパグース号”と一緒に
並飛行していたエイミーなのでありますが、
しかし往路で父親が怪我をしてしまい、
やむなく一人で到着地まで飛ぶことになりまする。
そこで父親が、一人で飛ぶことに躊躇している
エイミーに向かって言う言葉がとても印象的であります。

「君の母はとても勇気のある人だった。
彼女は誰の手も借りずに夢を追い続けたんだ。
その血を君も受け継いでいるんだよ。
そしていいかい、君の母さんはいつでも君の隣にいる。
君の周りのどこにでもいるんだ。
この自然の中の一部として彼女は今も生きているんだよ。」

そう静かにエイミーに語る場面が、
とても印象的でありまするだ。
その言葉はきっとそのまま彼の信念なのであり、
もちろん娘へと向けた言葉なのだけれど、
しかしそれは同時に、
訳あって別れてしまった、
以前は確かに愛した人への、
愛情の形なのだとも思うです。

終わってしまった愛情も、
終わってしまった夢も、
はかなく過ぎ去っていってしまった人も日々も、
もしかしたらそれは終わっているのではなく、
そっと背中を押してくれる勇気の微粒子となって、
今も自分の空間の中に存在し、そして自分を成長させつづけて
くれているのかもしれないですね。

物事には終わりがなく、
全てが繋がっているのかもしれなく、
その繋がりにどう関わっていくのかで、
日々を彩るモザイクはその形や色を変えていくのかな、
なんて思ったりするです。

「再生」は「勇気」であり、
「勇気」は「信念」であり、
そして「信念」はいつでも
「再生」していくものだと。


この映画の中でもう一つ強く印象に残るのが、
Mary Chapin Carpenterという歌い手さんが歌っている
「10,000miles」という挿入歌でありまする。
自己流で和訳したので、「全然違うやん。」
とツッコミをいれられてしまうかもしれないのですが、
とてもとても美しい曲なので、この歌の雰囲気だけでも
ここから感じ取っていただけたら嬉しいでぃす。




またいつの日か
僕の真に愛する人よ
しばしの間 さよならだね。
僕は旅にでるんだ。
でもいつかきっと戻ってくるよ
10,000マイルをくぐりぬけて。

10,000マイル
僕の愛する人よ
10,000マイルの道
もしかしたらそれは、
もっと遠いのかもしれない。
けれども岩は溶け、
そして海は燃えるだろう。
もし僕が
約束どおりに戻ってこなければ。

ほら見えるだろう、
あの寂しそうな小鳥のこと。
ツタの上に止まって
静かに涙を流しているんだよ、
彼女の真に愛するもののために。
僕がそうしているように。

あぁ 君よ戻ってきて
私の真に愛した人よ。
そしてほんの少しの間でもいい
私のそばにいてほしい。

もしこの地球上に
真の友達が存在するのなら、
それは君なんだ。
君はずっと私の友達だった。

       ー 10,000 miles ー
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風立ちぬ、今は秋。

2007年10月08日 | 雑記






例えば、

三角柱をまん前から見て、
それは三角形ですね。

と、言いきってしまうのと、

三角柱を見て、
それは前から見れば三角形ですが、
下から見れば底面で、
上から見れば点かもしれないですねぃ。

と思うのとでは、
その二つの間には、全く違う世界が広がっていると思うわけで。


人の心も、

上から読んでも山本山。
下から読んでも山本山。

とは、どうやらならないようであり。


人が人を想う気持というものは、
その人の心の選択というものに基づいているわけで、
そしてそこに、「好き」という「形」を決めてしまう
「定義」なんていうものは、
存在していないのだと思うわけであり。

人それぞれの「好き」があり、
人それぞれの「好き」の形があって当然でありますだ。

そしてそこに介在していく「好き」の意見も異見もあって至極当然だし、
それがあるからこそ、様々な「好き」の形へと、自分の気持ちも変えて
いけるわけで。

それが「好き」であるということの
「柔軟さ」であり「多様さ」であり「複雑さ」
であるのかもしれないですね。

しかし、そういった人の好きの選択型に、
自分の好きの形の「定義」や「規約」でバタッと上から蓋で
覆い被せてしまうのは、それは余りにも「閉塞的」であって
「排他的」なのではないのだろうか、悲しいぞ、とも思ってしまうわけで。。。


「好き」の気持ちは、もちろん「心」から派生してくるものだから、
それはやはり、あやふやでつかみにくいものでありますばい。
しかしあやふやでつかみにくいものだから「心」なのであって、
だからこそ常に、
雲みたいに、その形を変えているし、
空みたいに、その色を日々刻々と変えているわけで。

しかしそれは誰でもが持つ心の在り様だと思うし、
同じ揺らぎという共通点を持っているものだと思うからこそ、
尊重しあえるものなのではないのだろうか、
とも思ったりするわけで。。。

寅さんは、その昔、こう言っていたであります。
「いくら物知りの先生だって、
江戸川の鰻の面と、浜名湖の鰻の面と、
見分けがつく訳がねぇもんな。」と。


江戸川だろうが、浜名湖だろうが、
もとは同じ鰻なだけでありますだ、おいちゃん。


人の人生は、大河の上を流れる筏のようであり、
その大河には、流されていく途上で、
色々なものがどんぶらこと流されてきたり、流されていったり、
底に沈んでいったりするわけで。

そこから何を拾うのか、流していくのか、沈めていくのかは、
やはりそれは自分の選択なのであって、即ちそれが
現在の自分自身の在り様なのではないのかと。

人生という筏を漕ぐ竿は自分の心であり、
だからしっかりと竿を握って漕いでいかないと、
筏はどんどんと大河の上を流されて、気付いた時には、
思いもしなかった場所へと漂流していってしまうものなのかも
しれないとですね。

最後に行き着くのは一体どんな海なのか、
それは誰にもわからないことだけれど、
けれども、自分の行き着きたい先の海原を、
大きく遥かに思い描き、そしてそれを目指すことは
誰にでも出来ることだと思うし、そしてそうすることが
「生きる」ということの醍醐味の一つになるのかもしれないとですね。

「好き」という気持ちも、
「生きる」うえでの醍醐味の一つでありますですばい。

それは人生に陽だまりを作ったり、雨を降らせたり、風を吹かせたりする
一つの大きなエネルギーであって、そしてそのエネルギーは誰のものでもなく、
自分の心で感じて、自分の心で持ち続けていくものですたい。


風立ちぬ、いざ生きめやもう。


「好き」という気持ちは、
一つの大きな宇宙みたいなものなのかもしれんですね。



などと、思ったりしている今日この頃の私でありまする。
戯言であります、すんません。
秋だわ・・・。
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お休みします。

2007年09月02日 | 雑記



もう九月ですね~。
九月といえば、満男くんでございます。

と書きたいところなのですが、
今週の半ばから今月の中下旬まで日本に帰国するので、
ブログの方は、その間、お休みすることにしましたです。

いつも読んでくださって、ありがとうございます。
感謝の気持ちで一杯です。

日本から帰ってきたら、またブログを再開したいと思っています。
よろしければ、その時にまたお越しいただけると嬉しいです。


それでは、皆様、お元気でお過ごしください。


Wind-Mountain 
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お知らせです

2007年08月04日 | 雑記



突然でありますが、
ホームページを作ってみました。

ここを訪れてくださる皆様が、
気軽に意見を交換し合えるHPが
あったらいいなぁ~、と
ず~っと思っていたので、
ついに作成開始したのでありますが、
なんせ私はPCオンチ。

HP作成ソフトを使いたかったのに、
なぜか私のPCでは上手く作動してくりないっ、
んもぅっ、泣いちゃうぞぉ!

いや、実際に泣いちゃったのでありますが、
仕方ないので泣きながらの無謀のタグ打ち作戦開始っ!
んがしかし、
「タグって何? ハグならしたいわよ、吉岡くん。」
という世界から始めたので、私の脳みそは
タグタグパニック状態。

普段はマンボウのように、ぬんぼわ~ん、と
活動しているあちしの脳みそは、いきなりの活動命令に
とにかくなにがなんだかわかりませんむ~、と悲鳴を上げて、
挙句の果てはPCのスクリーンを見るだけで、
「なんか前頭葉がクラクラする・・・」となってしまった、
タグ記号のドつぼに嵌ったウツボちゃ~んでタリラリラ~ン♪
で壊れてしまいましたとです。

しかしタグと戦い続けて数週間、ついに完成!
おいどんはついにやりもうしたぁ・・・感無量でごわす・・・。
と夕日に向かってツツ~と鼻水をたらしながら、
ブラウザで確認したら、おぉっ、出来とる出来とる
いやっほぉ~っほぉ~とらんらんら~ん!
で、も一つ違うブラウザで確認したら、がっ、画像がぁ
崩れているぞぉおおおおおおおおおおおおお~まいがーーーっ!!!

おいどんは泣きもうした・・・・。

なぜなのでちゅか、モジラくんよ・・・・。
IEで見ると作った通りに表示されるのに、
Mozillaだとちゃんと表示されな~~~~~いっ!!!!!

もうそれを見たときには、思わず
宇宙の彼方イスカンダルへはるばる放浪の旅に
出たくなっちゃったのだ、スターシャ・・・・・コーヒーにはスジャ~タ・・・。
もうダミだ・・・・・。

と思わずタグ打ち放浪記を綴ってしまいましたが、
結論を書きますと、
私のホームページは、
IEだとちゃんと見れるらしいのですが、
他のブラウザではちゃんと見れないらしい・・・・うぅ。
ということなのでありまする・・・。
けれども書き込みしていただくことには
なんの支障もありませんです。

とりあえずは今のままの状態でUPしてしまいましたが、
これからもっと勉強して、きちんとしたホームページを
作っていきたいと思っています。


このブログにあるブックマークリストをクリックすると
自動的に私のホームページに飛べるようになっています。

吉岡くんのスケジュールや、履歴などの情報は
載せてありませんです。
あくまでも、参加型のHPになっています。

もしよろしければ、
お時間のあるときに、どうぞ覗いてやってくださいませ。
よろしくお願いいたします。

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春待ち草

2007年06月25日 | 雑記





日本は梅雨なのに、暑いらしいですね~。
雪なんかもうと~っくの昔にみ~んな溶けちゃったのに・・・

お元気でごじゃるのでしょうか、冬眠くん、またの名を吉岡くん。
逆だった。

たぶん何かしらのお仕事は何気になさっているに違いないぞ・・・。
とは思うけど、
ファンにとっちゃあ、
再びの長い冬でごぜいます。

・・・・・・・・・・・・・・・。

フッ、いいんだせよ。
これがチミにどすこい惚れちゃってる理由の一つでもあるのだ・・・。

いつもの周期運行だしぃ・・・。
こんなの慣れっこだしぃ・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
も一つついでに
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


なんかやっぱりちびっと寂しいかもだ。


そうだ、こういうテンテンステイタスに入っちゃう時には、
晴れやかに気分転換すればええのかもしれない。

       
       例えばこう
         ↓

見上げる空は青く澄み鳥はさえずり雲は流れて山は遥かに聳えたち
川はうねって海へと流れて波打つ沖には汽船が浮かび見渡す浜辺に
寝転んで空に吸われし15の心で立てば岸壁思わず叫ぶよ
「吉岡く~~~~~~~~~~~~~~んっ!!!」


あ、ループしちゃった・・・・・。



だめぢゃんかぁ~、もう・・・。
ついつい「・・・・」が多くなっちゃうのだぁ、こういう時は。
でも「・・・・」が吉岡必須ステイタスなのだから、
これでいいのだ、ハッハッハッハッハッハッハ・・・・・・・。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・。(←とりあえず熟考している)





いやよくはないわよね、だって
「・・・・」
って、やっぱりなんかちょっぴり寂しいよ~。


だから時にこうなっちゃったりする。
     
      例えばこう
       ↓

吉岡くん大好き→たくさん見たい→お休みはしてほしい→
・・・・←フフ、なんかかっこええ→・・・・→ちびっと見たいかも→
・・・・←ンフフ、かっこええぞっ→・・・・→でもちびっと見たいかも→
・・・・→吉岡くん大好き↺

あっちゃ~行ったりこっちゃ~行ったり
落ち着きのないレッサーパンダくんみたいな思考回路であります。

んだどもまぁ、「・・・・」があるから、

「!!!!!!!」ってなって、

「!!!!!!!」っとなって、

「!!!!!!!!!!」 ってなるんだよね、うんうん。

絵文字って便利だわ・・・。

って何をダラダラダラリヤ~ンと書いているのかしら、あちしったら。

そもそも何を書こうと思っていたのだっけか?
お、そうだ、こりだった。

「吉岡くんに演じてもらいたい人物考」タッタラタ~♪

でありました。


小説や音楽を読んだり聴いたりしていると、
ぼわんっ、と吉岡くんの面影が脳みその端っこに浮かんでくることが
結構、多々(←どっちなの?)ありまする。

特に宮部みゆきさんの小説を読んでいると、
その昔、彼が宮部さんの原作本をドラマ化した作品に
出演したことがあったせいもあってか、どうも読中、
吉岡くんの顔が登場人物のイメージとして脳裏に張り付いてしまう
ことが多いでございます。

「あかんべえ」という作品に出てくる玄乃介というお侍さんなんて、
私のイメージの中では吉岡くんでドンピシャリ、でごぜぇましただ。
この作品を映像化するのは難しいのかなぁ、と思うでありますが、
もしも映画化される機会があったら、役の年齢設定をちびっと上げて、
玄乃介役は是非とも吉岡くんに演じてもらいたい、と一ファンとしては
切望するのでありますだ。

他にはどんな役演じてもらいたいかな~・・・・う~ん・・・・・・・。

ここらで思い切って、
「ハードボイルド・ヒデタカ」
とかええかも~。

場末のバーから着古したレザージャケットを着た
ハードでボイルドなヒデタカくんが出てきて、
ふと薄暗い路地裏にうつろげに立ち止まり、
そこでタバコにスシャッと火をつけ、
「フーッ」と気だるく紫煙を吐き出し、
「俺は煙のように生きてるだけさ・・・・・。」
なんて、疲れきったアフガン犬みたいな横顔で呟かれたら・・・・・




         ↑
   なんかちびっとだけ微妙かもしれない・・・。


すっごくかっちょええに違いない・・・とは思うけど、
しかし同時に分度器3度くらいの角度で微妙域に入っている
気がしてしまうのは何故だろう・・・・・?


ならば、これも思い切ったところで、
はちゃめちゃ突き抜けちゃってる落語家なんかどうでましょ。

べらんめぇの江戸っ子調で畳み掛けるように一席うっちゃう
粋な噺家ヒデタカくん、とか。

い き な は な し か ! 

い き な か も し か  じゃねぃです。 
      
粋な噺家・・・・おおっ! ☜自分で書いて自分でツボってしまった・・・。

お着物姿で高座に登場、扇子でポンっと膝をうち、
「えぇここで一席、」
なんていいかも~いいかも~見たいかも~、あ、
ごく稀に出現カミカミくんはどうしたらええんだろう?

いや、手術モード時のコトー先生は、手先も口調も
すこぶるテキパキくんだったぞ。
だから彼はきっと、まれまれカミカミくんなんぞ
すこぶるテキパキくんに変換してしまうこと間違いなしだっ!(←得意の力説であります)


そだ、これはもんのすごい切望熱望なのだけれど、
永瀬と吉岡くんで、
「傷だらけの天使」のリメイクしてほしいでありますっ。
これは長年の願望でありますだっ!

アニキな永瀬とアキラな吉岡くん。

ドンピシャのあまり頭上でカパッとクス玉割れちゃうと思う~。
絶対いいと思うんだけどな~。
誰かこの二人でリメイクしてくれないかな~、見てみたいよ~。

でもこの際、贅沢は言わないでありますだ。
永瀬との再共演が見れるのならもうなんでもいいであります。
堺さんとの再共演も何でもござれで是非見たいっす。

いっそのこと三人でサボテンブラザースとかでいいかもだ・・・・・・
いやよくないかもだ、それだけは。

だぁ~・・・・・。
テンテン期間はおつむもテンテンになっちゃうだす。
いつもより。

次にお見受けするのは茶川先生なのかな?。
あ、八百屋さんでお手伝いなモルツくんもいたんだわ。
ひだまりくんのその後はあるのだろうか、どうなんだろう~?

それにしても、吉岡くんの芸暦が長くてほんとによかった~。
沢山の出演作からチョイス見していれば、
長い冬だって乗り切れるってもんですけんのぉ・・・。

こうやって待ってるのも、
楽しみのひとつなのかもしれんですばいね
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見知らぬピースたち

2007年05月01日 | 雑記

吉岡くんの作品は、彼のちびっこ期作品群以外は
全てリアルタイムで見ているっ、と鼻の穴をサブちゃんサイズにして
むはははっ!と偉そうに仁王立ちしてみたい気分になる私ですが、
しかしそれは90年代の半ばの作品群まで、という悲しい限定バージョン付であります。

これ以降の彼の作品は、見ていない、いや見れなかったものが
少なくないのであります、ヨヨヨヨォ~。
帰国里帰りと映画の公開時期が運良く重なって鑑賞できたという映画作品も
ありましたけど、そんな幸運に恵まれたのは半分くらい・・・。
テレビドラマは見逃してしまったものが多いでがんした。

なんとですね、少年Hや、そしてあの名作誉れ高き喪服のランデブーなども
見れていないのでごじゃるよ~、か~んちゃ~ん。

神頼みするように日本にいる親に録画を頼んでおいたのに、
その後いともあっさりと「忘れちゃったわ~、ごめ~ん。あははぁ~」
などとシャラ~っと言われた時はですね、余りのショックにその場で
瞬間冷凍されたマグロみたいな顔になっちゃってですね、
そしてそんな顔のまま天に向かって、「お前の母さんでべそ~!」
とあやうく泣きながら絶叫しかけてですね、よって結果的に自分の祖母を
デベソ呼ばわりしかねなかったというアホな子状態になってしまったことは
一回や二回だけではなかったわけで。

そういった冷凍マグロ顔級のショックがその後何度も続いた結果により、
最後には私の思考回路は完全にブチっ!と音を立てて切断されてしまい、
「ええいっこれだからいつまでたっても円安ドル高なのだよまったくなんてこったいオリーブオイルはお肌にいいらしいのよちょっと奥さんお元気おほほほところでなんとか反撃せんのか日本内閣怒りのチョップでワンツーだーっ!」
と完全に理解に苦しむ思考経路でだだをこねまくった挙句に、単独日米摩擦を
起こしかけてしまったという、まったくもってオーマイガーの
トンチキ野郎な私だったのであります。


しかし何故にDVD化してくださらないのだろうか、この作品二つ。
少年Hと喪服のランデブーは諦めきれないじゃないですか~。
なぜになぜになぜなのですかっ、テレビ局さんたち。泣いちゃうぞぉ。

DVD化が難しいのであれば、せめて再放送してけろ~っ!
ごっつい観たいじゃなかですか、赤盤兄ちゃ~ん。

私はドラマ化されるのを知る前にその原作本を読んでおりまして、読中は
「なんてかっこええのだ、赤盤兄ちゃんってば・・・惚れるじゃないか・・・」
って思っていたのだよ~っ。

そんなフフフンなうどん屋赤盤兄ちゃんがヒデタカ節で見れるのだったら、
まさにドリームワールドタリラリラ~ンで世界は一つ火の用心なのであります。(※注・壊れてしまう、ということであります)

いやしかしちと待てよ、確か赤盤兄ちゃんは悲しい結末を迎えて
しまう人物ではなかっただろうか?

悲しいのはイヤダヨ~、パトラッシュ~。

でもやはり見てみたい気持ちは抑えきれないってぇ~のが
ファン心ってもんじゃ~ねぇ~ですかい、八町堀の旦那。

それともう一つ、喪服のランデブー。
作品自体も名作だと聞いておりやす。
そしてこの作品で、彼は刑事の役を演じていると・・・。

デカなヒデタカ・・・・・デカ・・・・・・・ヒデタカ・・・・デヒデタカ・・・。

デカなのだ デカであるのだ ヒデタカくん

思わずまた一句詠んでしまったではないか。

どうしよ~。
吉岡くんったら、「こういう者ですが」とか言って、
上着のポケットからチラリと斜め目線で相手に警察手帳を
見せちゃったりしているのだろうか?

そんでもって夕日をバックに容疑者を追いかけ、ぬおぉぉおぉぉ~っと
全力疾走しちゃったりしているのだろうか?

はたまた「はい、おやっさん」とか言いながら、
缶コーヒーを年配刑事に手渡しちゃったりしているのだろうか?

しまいには電柱の影に隠れてアンパン食っちゃったりとか
しているのだろうか?

アンパン&ヒデタカ。 
これは過去に何度か見られた光景でありますですね。
他の人から見ると、彼は甘党なお人に見えちゃうのだろうか?
私にとっては、君本体自体が甘党うっとりヒデタカくんじゃよ。

そうだ、アンパン論などどうでもいいのだったでごじゃる。
この作品を再度放送してほしいのだよっ、局長さんっ!
ということを言いたいのでありました。

もしこの作品二つを再放送してくれるのだったら、
私は太平洋を泳いで渡って帰国して、この名をギネスブックに載せても
かまわないわっ!(←それはそれでちょっと嬉しいかも・・・)

映画作品では、釣りバカも見れていないし、またの日の知華もしかり。

この二つの映画はいつか観れるのかな~?
と考えると、後の楽しみが増えてええのかもしれんですばい。

とりあえずは、もうすぐお届けされるコトー先生を待つばかりですだ♡

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とりとめのないこと

2007年04月14日 | 雑記

その昔、ニーチェは言った、「神は死んだ」、と。
おぉ、なんとディープなお言葉なのだ。

人間の心というのは、非常に不確かなものであり、
その不確かさなゆえ、人は、形になったものへと
ヒュルルル~と傾いていってしまう。
なんかそうすることで安心しちゃうのだ。

しかし、形あるもの、それは全て真実なのか、
というと、決してそうではないのでごじゃりまして、
それは一向に良くならない政治が証明しているわけで。
公言したから、真実になるのか、え、どうなのだっ? 
しかし政治はいつまでたってもスチャラカタ~ンな状態ではないのかっ?
「一体どうなっているのだっ、責任者でてこーいっ!」
と、私は叫びたくなるわけでござる。
言ったもん勝ち、にいつも私たちは惑わされてしまうのじゃのぉ。

自分の心に目を向けると、それはとっても有耶無耶で、
それはまるで空に高く流れる雲のようであり、
そこに「ある」とは分かっていても、
しかしそれは実態を伴わず、
つかめるようでいて、
実際つかみ所がない。

そしてそれは吹いていく風によって、
刻一刻と形を変えており、
絶えず一定の形は留めていないのですな。
だから、他の人がチラリと見上げた、
「あの雲はこ~んな形だっ!」
という雲と、またまた他の人が見る雲とは
全く違う雲でありえるわけで、
しかしどの雲をとってみても、
それはその雲のようであり、
その雲ではなかったりする。

茶川せんせはどうなのか知らないけど、
小難しい古典ロシア文学などを読んでみると、
その一字一句を理解するなんて、
私みたいな凡人には到底無理でありまして、
しかし文面通りになぞらえて理解はできなくても、
そこから何かを汲み取ることは出来るわけであり、
私なんぞは、それで満足なわけでありまする。

そこに何を感じるのか、見出すのか?
というのは、自分自身の「目」「耳」を持つことであって、
そこにニーチェの言った言葉が深く意味を持ってくるのだと。

なんかそげなとりとめのないこと、思ったりしたとですよ。



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