月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

吉岡刑事物語・その46 / 窓枠の青空・18

2010年03月24日 | 小説 吉岡刑事物語





「筒井君とハギちゃんにここで会う前にね、
宿の女将さんから聞いてたのよ。
秀君が、病院に担ぎ込まれたって」

えり子はそう言って筒井から視線を外し、コップの酒を一口飲んだ。
筒井はその言葉にどう答えたらいいのか分からず、
戸惑った視線を座卓の上に落とした。

「数日前に、秀君が店に来てくれたの」

しばらくして聞こえてきたえり子の声は、とても静かだった。
筒井はえり子へと顔を上げる。

「でも会えなかったんだけどね」

ため息まじりにそう言って、えり子は寂しそうに笑った。

「その日に限って髪のセットがなかなか思うように決まらなくてね、
それで家を出るのがいつもよりだいぶ遅れちゃったの。
開店ぎりぎりに店に着いたら入り口のドアに手紙が挟まっててね・・・」

えり子さん、お久しぶりです。
お元気ですか。
僕は元気です。


「とても綺麗な字で、とても丁寧な秀君らしい文面で書き出してあって・・・。
あたしその手紙を読んだらなんか気持ちが妙に落ち着かなくなっちゃってね」

えり子は伏せた目と一緒に、手前のコップへ気持ちを沈めた。

「そしたらその晩に、あの事件のときにお世話になった巡査さんが
非番でちょうど飲みに来てくれてね、そういえばあの事件の時の
本庁の刑事さんが休職したんだってよって教えてくれて。
それでもういてもたってもいられなくなっちゃって
急いで秀君の携帯に電話したんだけど、ずっと留守電サービスになってて。
それでハギちゃんに電話して、何度もしつこく脅迫して、
やっとここの居場所を聞きだしたの。
まさかハギちゃん、あたしが本当にこんなところまでやって来るなんて
思いもしなかったから最後には折れて教えてくれたんだろうけど・・・。
それが昨日のことでね、それで今日はもうここに来ちゃってたの。
宿に着いて女将さんに秀君のことを聞いたら、
その瞬間にあたしバス停に向かって走ってたのよね。
だけどバスに乗ったら、一体どこの病院にいるのか
聞いてなかったことに気付いて、それで宿にトンボ帰りしてきて、
その道で筒井君とハギちゃんに会ったのよ。
会ったっていうより突撃しちゃったんだけど」

風の叫びが一瞬高まり、えり子は障子窓へと目線を向けた。

「大丈夫なんでしょう・・・秀君?」

海風に乗った雨粒が、硝子窓に飛んでは四方に散らばっていく。
えり子は風の音を耳で追い、筒井はその横顔を見つめた。

「・・・大丈夫ですよ」

筒井は静かに答え、えり子は黙ったまま障子の一点を見つめている。
夜半の雨が、沈黙のしじまに流れ落ちていった。
筒井はえり子の横顔からコップに視線を落とし、
水面に浮かぶ蛍光灯の反射光をじっと見つめた。

「そう」

やがてえり子は沈黙を破るように明るく返事をして、

「よかった。安心したわ」

とふっきれたような笑顔を筒井に向けてから、

「もったいないから全部飲んじゃいましょうよ、ね?」

と言って互いのコップになみなみと酒を注ぎ、
酒瓶に蓋をしながらつとめて明るい口調で話題を変えた。

「筒井くんは会ったことあるんでしょう?」

「はい?」

「秀君がずっと想い続けている人に。きっと素敵な人なんでしょうね。
どんな人なのかしら。知ってるんでしょう?」

「・・・いえ」

筒井は思い出したように手元のコップを手に取って、ぐいっと一口呷った。
一気に通り過ぎて行く酒が喉元を焼いて、筒井は少し咽こんだ。
えり子はそんな筒井を慈しむような寂しいような表情で見つめたあと、

「正直なのね、筒井くん」

と言って自分も一口酒を飲んだ。

「秀君の親友だってことが、ほんとによくわかるわ」

えり子は座卓に肘をついて持ったコップを部屋の明かりに透かすようにして眺め、

「不思議よねぇ・・・」

と呟くように言って少し黙ったあと、静かな口調で言葉を継いでいった。

「どうして恋をすると人は欲張りになっちゃうのかしらね。
その人を愛することが自分の幸せのはずなのに、
でもそれだけじゃ満足できなくて、寂しくなっちゃうのよね。
そのうち、その人の幸せの真ん中に入っていきたい、なんて、
勝手なことを思うようになっちゃう。そう思わない、筒井君?」

「・・・そうすね」

筒井は頷いて返事をする。

「叶わない恋って、月みたいよね。
辿り着ける場所に存在してはいるんだろうけど、でも実際は、
選ばれた者以外は決して行き着くことのない距離にあるの」

えり子は光にかざしていたコップを座卓の上に静かに置き戻し、
それから遠くを見つめるような視線を宙に向けた。

「あの事件のときに秀君が着ていたシャツね、
薄い水色の生地に細い白のストライプが入ってて、
とっても似合ってたんだけど、血が付いてだめにしちゃって。
秀君はそんなこと気にしないでって笑っていたけど、でもあたし、
早く弁償しなくちゃってずっと思ってて。でも返しちゃったら、
なんだかもうそれきり秀君と会えなくなってしまうような気がしてね、
なかなか返せないままでいて・・・」

そう宙を見つめながら話しているえり子の目線の端には、
どうしても窓際に寄せられた三つの旅行バックが入ってきてしまう。
えり子はふいに泣き出したくなるような気持ちを必死にこらえて、
じっと宙を見つめつづけた。

えり子さん、

えり子の耳の奥に、ふいに吉岡の声が蘇ってくる。

大丈夫ですよ。

やわらかな声はやさしい笑顔と交差しながら、
えり子の心をふわりと包んでいく。

えり子さん、

やもするとこみ上がってきてしまう涙の塊は、

大丈夫。

穏やかな声音に優しくそっとほどかれていく。
えり子は宙をしっかりと見つめ、
大丈夫、
と自分も心の中で呟いた。
大丈夫。
大丈夫よね、秀君。
えり子は小さく頷いて、それから筒井にまっすぐ顔を向け直した。

「筒井君、人生って、島倉千代子の歌の文句じゃないけど、
色々あるわよね。あたしね、ある時期に、
どうしようもなく気落ちしちゃったことがあったのよ。
自分の人生に意義が持てなかったっていうか、
やっていること全てが無価値なことに思えてね。
生きていることの意味がまるで見いだせなくて。
それでいつものように呼び出して会いにきてくれた秀君にね、
あたし聞いたことがあったの、人生って何なのかしらねって。
そしたら秀君、そうですねぇって、
ちょっと困ったように照れて笑いながらこう言ったの。
僕にとっての人生は、先にある幸せを希求していく場っていうより、
幸せでいることへの日々の冒険なのかもしれません、って。
考え出すと複雑だけど、でも単純なことであるのかもしれないです、って。 
ねぇ筒井くん、」

「・・・はい」

筒井は考え込むように見つめていた座卓から顔を上げた。

「もし自分がこれから一人ぼっちで未開の地へ行くことになったとして、
最後に一言だけ好きな人に何か言えるとしたら、何て言う?
一緒に来てくれ、とか、ずっと好きだった、とか、愛してる、とか、
色々あるでしょう?」

「・・・そうですね・・・何て言うかな・・・」

「あたしはね、きっとこう言うわ、秀君に。
ありがとう、って」

えり子はそう言って大きく微笑むと、コップに残った酒を一気に飲み干して、
座椅子からすくっと立ち上がった。
それから足元に置いてあった自分のボストンバックを手に取り、

「ハギちゃん、明日二日酔いにならなければいいけど」

といたずらっ子を見るような眼差しで萩原の寝姿を見やったあと、

「こんなに遅い時間まで付き合ってくれてありがとう、筒井君」

と言い残して足音を立てないように部屋のドアへと歩いて行った。
突然の展開にあっけに取られていた筒井は、しかしすぐに慌てて立ち上がり、
横に寝ている萩原につまづきバランスを崩しながら、
立ち去っていくえり子の背中をドアへと追っていった。

「あのね筒井君、」

後ろから呼びかけようとした筒井に、
三和土でスリッパを履きおえたえり子はくるっと振り返って言った。

「やっぱり今晩中にお願いしておくわ」

筒井が口を開くより前にえり子は先にそう切り出し、
持っていたボストンバッグを開いて中から透明なラップに入った包みを取り出した。

「これ、秀君に渡してほしいの。急いで買ってきたから包装する時間がなくて、
こんな雑な包みのままなんだけど。あたしからっていうことは内緒にしておいてね。
ここに来たことも、秀君には話さないでいてほしいの」

筒井は手渡された包みにじっと視線を向け、
それから顔を上げてえり子の顔を見た。

「よっぽどの思いで訪ねて来てくれたんだと思うのよ、秀君、数日前のあの日、
お店に」

そう言ってえり子は微かに微笑み、
(ドアに挟んであった手紙の最後にね、)
と言おうとしたその言葉を、そっと想いの中にしまい戻した。

「そんな悲しい顔しなくていいのよ、筒井君」

何か言おうとしても言葉がみつからないままでいる筒井に、
えり子は励ますように大きく微笑みかけ、

「それじゃあね」

と言って背中を向け部屋から出て行った。パタン、と静かにドアが閉まり、
筒井は独り、薄暗い踏込に残された。
降り続いていた雨はいつの間にか止み、風は小夜中の海へと凪いでいく。



喉の渇きで目が醒めて、萩原はぼんやりと天井の木目を見つめた。
明るく日の差した障子窓の向こうで、鳥たちが朝の向かえを歌っている。
水が飲みたくてしかたがないのに身体を動かすのがひどく億劫で、
頭の芯が重かった。二日酔いで鈍麻している脳細胞を動かして考えても、
昨晩、突然ここに現れてきたえり子と筒井と三人で呑んだことは覚えているが、
しかしえり子にもっと呑めと注がれた六杯目のビールを空けたところで、
萩原の記憶はぷっつりと途絶えていた。目を向けた隣の布団に筒井が眠っている。
ヒデは?と考えかけて、萩原は天井の木目模様に目線と意識を向け直した。
遠くから、誰かの話し声が耳に届いてくる。階下で女将と別れの挨拶を交わしているらしい。
ええ・・・そうなんですか・・・天気が回復して・・・
と、徐々にその会話は頭の中でぼんやりと形を作っていく。
いいところですよね・・・・・これからまっすぐ?・・・・ええ・・・

「東京に戻ります」

突然はっきりとえり子の声が耳に入ってきて、萩原は布団から飛び起きた。
寝ている筒井につまづき踏み潰して転がりながら三和土に降りてドアノブを引っ掴み
押し開けたドアから廊下へ走り出たあと一度滑って転んで正面玄関へと続く階段を
まっすぐに駆け降りた。

「えり子さんっ!」

玄関を出ようとしていた背中が、ゆっくりと萩原に振り返った。

「なんでもう帰っちゃうんですか?」

上がり框に立って萩原は、振り返った顔に息急き切った言葉を投げた。

「ヒデに・・・ヒデに会わなくていいんですか?」

玄関内に半分回していた身体を、えり子はきちんと萩原に向け直した。

「開店までに東京に戻らないと」

「でも、でもヒデに会いにここまで来たんですよね?」

「気が変わったの」

「だってそんなこと言ったらもうヒデには会え・・・」

と思わず言いかけて、萩原は口を閉じた。

「こんなあたしでもね、いないと寂しいって言ってくれるお客さんたちがいるのよ」

落ち着いたえり子の声が、ひっそりとした朝の玄関に響いていく。

「けどもう少し待てば、今日の午後にはヒデに会えるかもしれない」

「帰らないといけないの。じゃあね」

えり子はくるりと踵を返す。

「待ってください、えり子さん、ヒデは、」

立ち去ろうとする背中に萩原は必死で呼びかけた。

「ヒデは喜ぶと思いますよ。えり子さんの顔を見たら、すごく」

えり子は行きかけた足を止め、再び萩原に振り返った。

「いつも気にしてたから、えり子さんのこと。幸せでいて欲しいって」

逆光を受けたえり子の顔が、くしゃっと泣き顔へと歪んだようだった。
萩原はさらに訴える。

「えり子さんの話しになると、いつもヒデはそう言っていて、だから、」

「帰るわね、あたし」

「えり子さん、」

「思い出があれば充分よ」

「思い出なんですか、ヒデは?」

えり子は黙り、しばらくじっと萩原に顔を向けていた。
車の走行音が県道に近づき、二人の沈黙の間を通り越して、
そして小さく遠のいていった。

「ハギちゃん、いい?」

やがてえり子は静かに口を開いた。

「思い出には二つの種類があるのよね。
心に重石をのせてしまう思い出と、
心に羽をつけてくれる思い出と。
大丈夫よ、あたし。これからどこへでも飛んでいけるから」

何も言えずに立ち尽くしたままでいる萩原に、えり子はそっと背中を向け、
そして玄関から出て行った。
朝日を受けた後姿が、ハイヒールの靴音と共に道の向こうへと小さくなっていく。
萩原はその場に佇んだまま、その背中が見えなくなるまで一人見送っていた。



羽を広げた鳶が、ゆったりとした気流線を描いて飛んでいった。
遥か彼方に、白い山岳が雄大に聳え連なっている。
窓辺に立って見上げた空は水浅葱色に高く澄みきっていて、
見つめ上げる清んだ瞳が、空の青さを深く呼吸していく。

「窓際のガッチャマンですか、君は?」

ふいに聞こえた声に心を呼び戻され、吉岡は後方に振り返った。

「つれないね秀隆くん、ボクのプレゼントを人に見せたくないのか?」

萩原がドアの戸先に軽く身を寄りかけていて、

「真冬にTシャツ一枚でいられるわけねぇだろ」

吉岡の代わりに返事をした筒井が病室のベッドまで歩いてきた。
その肩には二つのバックパックが担がれている。

「掻っ攫いにきたぞ、ヒデ」

吉岡は笑って、筒井から自分のバックパックを受け取った。

「重てぇんだよ、お前のリュック。担がせた礼は昼飯代でいいぞ」

「うん、わかった」

吉岡は笑みを深めて答える。

「それからさ、これ」

筒井は自分のバックパックを開けて包みを取り出し、
お前に、と言って吉岡に手渡した。
少し不思議そうな顔をしながらそれを受け取った吉岡の表情が、
包みに視線を落とした途端に、ふと止まった。
薄水色に細い白のストライプが入ったシャツが、
その包みの中に入っている。
驚いたように僅かに開いた吉岡の口が、
ゆっくりとまた静かに閉じていき、
手元を見つめる瞳が、そっと、微かに、揺れていった。
筒井は何も言わずにドアへと戻っていき、
萩原は廊下の先へと視線を向けている。
吉岡は、手の中のシャツをじっと深く見つめ続けた。
窓から差し込む透明な冬の光が、やわらかく、温かく、
その横顔を穢れなく包み込んでいる。
吉岡は、両手に持った包みをそっと大事そうに握りなおした。
それから大切そうに、とても大切なものを扱うように、
その包みを自分のバックパックの中へしまった。

「筒井、」

バッグのファスナーを静かに閉めた吉岡は、
視線を手元に落としたままドアへと向って呼びかけた。

「昼飯は、カツ丼だよな?」

「当たり前だろ」

吉岡は顔を上げ、そして筒井を見た。

「腹減ってんだよ、俺は。行くぞ、ヒデ」

筒井はバックパックを右肩に背負いなおしてドアから出る仕草をした。
吉岡はそっと頷きながら手元のバックパックを肩に掛けた。

「またカツ丼かよ、筒井。お前の前世はカツ丼か」

床に置いた自分のバッグを拾い上げながら萩原が不平をたれる。

「お前の前世はニャロメ一族の小姑だな、ハギ」

「ニャロメに先祖がいるのかよ、筒井」

「お前がその末裔だよ」

吉岡が微笑みながら二人に肩を並べ、三人は病室から廊下へ歩き出た。
エレベーターへと向かいかけた吉岡の視線がふと横に逸れ、
開いたドアから隣の病室内を捉えた瞬間、その足がふいに止まった。
がらんとした病室に、糊の効いた真っ白なシーツに包まれたベッドが、
真新しい状態で次の患者を待っている。
誰もいなくなったそのベッドを、吉岡は、静かに見つめた。

「ヒデ、」

萩原の声に呼びかけられて、吉岡は前方に顔を戻した。

「行こうぜ」

筒井と萩原が、数歩先に立ち止まって待っている。
吉岡はふっと溢れるような笑顔で笑って肩のバックパックを掛けなおし、

「そうだね」

二人に向かって大きく足を踏み出した。






つづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉岡刑事物語・その45 / 窓枠の青空・17

2010年03月23日 | 小説 吉岡刑事物語




「もう5年以上も前の話になるんだけど・・・」

座卓の上に置かれたコップの縁をひとさし指で丸く辿りながら、
えり子はゆっくりと話し出した。

「ハギちゃんがさっきもちょっと言ったけど、あたし昔、
女子プロレスラーしてたのよ。っていってもTVに出るような人気者じゃなくて、
前座のそのまた前座レスラーってやつだったんだけどね。ヒモみたいな、
っていうか実際にヒモだったんだけど、クソがつくくらいにだめ男の
マネージャーと二人して全国行脚しながら日銭を稼いでて。
だけどそんなこといつまでもしてられるわけないじゃない?
身体がついていかなくなっちゃうしね、気持ちに。
だから稼いだお金をちょっとずつちょっとずつ貯めていって、
それでやっと、文字通り場末だったけど、小さなスナックを開いたの。
開店してから最初の数年はお客がつかなくてほんとに大変だったけど、
それでもなんとかやっているうちに少しずつ常連のお客さんが
ついてくれるようになってね、そのうち大繁盛とまではいかないけど、
商売が軌道に乗ってくれるようになって」

えり子はそこで話を区切ると、手元にあった瓶を手にとって、
合い向かいに座っている筒井と萩原にビールを注いだ。

「だけど一つ穴が埋まったら、別の穴の深みが増していったっていうのかしらね、
商売が上手くいくようになったら、今度は情夫の博打癖が悪化しちゃってね、
もう笑い種なのよ。実際には笑えることじゃなかったんだけど、全然。
あっちこっちに博打で借金しこたまこさえて、気付いた時にはもう
火の車状態だったってわけ。そんなになるまで全然気付かなかったあたしも
大バカだったんだけど。それでも店の上がりがあったからなんとか借金を返してね、
でもある日あたし見つけちゃって、生命保険の明細書っていうの、あれ。
そこにあたしに対してすごい額が掛けてあったのよね。
お客さんから噂にはきいてたから、その筋の人が債務者に無理矢理保険金を
掛けさせるって話。だからもうすごく怖くなっちゃったんだけど、
でもせっかく軌道に乗ったお店をほっぽっていきなり逃げるわけにもいかないし、
それにどうしようもなく気が小さくてクズだったけど、情夫のことも
捨てるに捨てられなくてね・・・」

「愛だったんすね」

「愛?」

ふいに言葉を割り込ませてきた萩原に、えり子は顔を上げた。

「そうじゃないすか。愛がなかったらそんな男のことなんか
とっくに見捨ててたでしょう?」

萩原はだんだんと呂律がまわらなくなってきている。

「それは立派な愛だったんですよ、愛」

えり子はまるで母親が息子を見つめるような眼差しを萩原に向けると、

「まぁ呑みなさいよ、ハギちゃん」

と言って萩原のコップにビールを注ぎ足した。

「愛に立派も何も上も下も横も縦もないわよ。あたしとあの男の場合はね、
ただ一方通行に吸着して足引っ張リ合ってただけなのよ。
とにかくね、生命保険のことがわかってからはもう怖くて怖くて、
そのうちおちおち眠れなくちゃってね。だから思い切ってある日
警察に助けを求めにいったんだけど、全然相手にしてもらえなくて。
“そんなこといったら日本中の夫婦が殺人予備軍ですよ”なんて
鼻であしらわれちゃって。その言い分も分からなくなかったけど、
でも不安と恐怖は消えないわよね、そんなこと言われても。
だからもう藁をも掴む思いで新聞社にまで出向いていったの。
もしかして報道関係の人たちなら何とかしてくれるかもしれないって思って。
それでその時たまたまオフィスにいてあたしに対応してくれたのが
ハギちゃんだったってわけ。一部始終のいきさつを詳しく説明したあたしに、
それなら刑事をしてる友人が僕にいるからそいつを訪ねていったらいいって
メモを渡してくれたのよね。でもそのメモ書きを見たらその友達っていう人は
警視庁本部の刑事だっていうし、とてもじゃないけどあたしのことなんて
相手にしてもらえるわけないって最初から諦めてそのまままっすぐ家に戻ったの。
そしたらその晩、お店に来てくれたのよ、秀君が。こんばんはって」

えり子は手元にある自分のコップに目を落とし、そこに昇る泡を
しばらくぼんやりと見つめたあと、また話を続けた。

「その時お店に入ってきた時の姿が余りにも爽やかだったもんだから、
友達から連絡をもらって立ち寄ってみたんです、ってそのあと説明されてもね、
刑事だなんて到底信じられなかったわ。まぁ刑事じゃなくても、
あんなに物腰のやわらかい人ってなかなかいるもんじゃないけど・・・。
なんていうか、雨上がりの新緑みたいな、そんな感じがしたの、その時の秀君。
その印象はその後もずっと変わることはなかったけど」

えり子は筒井と萩原に顔を上げなおして、ちょっと微笑んだ。

「それでその晩店を閉めてから、秀君があたしの話を一言一言、
すごく親身になって聞いてくれたの。心を丸ごと傾けてくれたっていうか、
心の全てを寄せてくれたっていうか、そんな感じだったわ、ほんとに。
あんなふうに話を聞いてもらえたことって、生まれて初めてだった・・・」

「よくわかりますよ」

筒井は頷いて腕を伸ばし、空になったえり子のコップにビールを注いだ。
立ち昇る泡が消えていくのを見つめながら、えり子は言葉を継いでいく。

「その日を境にして秀君、時々お店に顔を出してくれるようになってね。
ハギちゃんも飲みにきてくれるようになったのよね、同僚と一緒に時々。
秀君は飲みにくることはなかったけど、でも開店前の時間とかにね、
さらっと来るの」

(こんばんは、えり子さん)

そう挨拶しながらいつも顔を覗かせていた吉岡のやわらかな笑顔が、
ふわりとえり子の脳裏に浮かび上がってくる。

「何を聞くわけでもなくね、ただひょっこりと顔を出してくれるだけなんだけど、
でも何より心強かったわ」

えり子はコップを手にとって、ビールを一口飲んだ。
言葉が途切れていくたびに、雨音が部屋に満ちていく。

「それでそんな日が暫く続いたあとに、あの事件が起きたの」

えり子は半分空いた筒井と萩原のコップにビールを注ぎ足した。

「その日、開店準備中に情夫が切羽詰った顔してやってきてね、
それでいつものように喧嘩になって、そしたらそのうちあいつの
ひょんな言葉から、借金の形にあたしの店を抵当に入れてたってことが
わかったの。あたしもう怒りを通り越してやっとそのとき愛想が尽き果ててね、
だからあいつに、この店はくれてやるからどうにでもしていいけど、
その代わり金輪際あんたとの縁は切るって三行半を投げつけて
店から出て行こうとしたの。そしたらあいついきなり泣き出して、
店を売っても借金は払いきれないし、取立てのやつらに殺される前に
死んでくれってとり縋ってきてね。ふざけないでよって突き放して
逃げようとしたんだけど、でも勝手口のドアにも入り口のドアににも、
あいつが先回りして立ち塞がっちゃって、凄い顔しながら果物ナイフを手に持って、
死んでくれよ、死んでくれって、今にもあたしに飛びかかろうとしてて。
あたし怖くて怖くて全身の力が抜けてしまってね、足が竦んで
あやうく床に座り込みそうになった時、ドアの向こうで声がしたの」

(えり子さん?)

「もう必死で助けてって秀君に向かって叫んでたの、あたし。
そしたらあいつあたしに向かって誰だよってビビりながら聞いてきて、
だから知り合いの刑事なんだって言ってやったら、裏切ったなって叫んで
もの凄い形相でナイフを振りかざしてきたのよ。
後ろに逃げれば鍵のかかっていない勝手口があったんだけど、
でもあたし金縛りにあったみたいにその場から足が動かなくてね、
それでもうダメだって観念して目をつぶった瞬間に、ふわって
身体ごと力強く誰かに引き寄せられてて。びっくりして目を開けたら、
秀君の背中があたしの盾になってくれてたの。
床の上にはあいつが腰をぬかしたみたいにへたりこんでて、
あいつの手にあったナイフは秀君の手からカウンターへ静かに置き戻されてね・・・」

(えり子さんの命ですよね)

何が起きたのかわからず途方に暮れたように見上げた情夫に、
威圧するでもなく、なだめるわけでもなく、
ただ心の真ん中からまっすぐに相手に向けてきた吉岡の静かな声。
後ろから見つめたその背中は意外なほど広くて大きく、
しっかりと引き寄せて守ってくれたその手は、 とても強くて、
そして切ないくらいにやさしかった。


えり子は物思いへと沈んでいきそうになる瞳を、
窓際の旅行バッグに向けた。
一つ、二つ、三つ・・・。
数えるバッグは三つ。
今目の前に座っているのは、
二人。

えり子さんの 命ですよね。

「・・・その時は気が動顛してて気付かなかったんだけど」

えり子は筒井と萩原に顔を向け戻し、静かに話を続けた。

「騒ぎに気付いた近所の人の通報でお巡りさんが駆けつけてきて、
あいつはそのあと派出所まで連行されて行ったんだけど、
あたしは動顛したままずっと店の外に突っ立ったままでいて。
店の中に入るのが怖くて、一人になるのが怖くて、どこにも行きたくなくて。
そんなあたしの横に秀君はずっと見守るようについていてくれてね。
ただ隣にいてくれていただけなのに、すごく温かくて。
それでようやく気持ちが落ち着いてきてね、それで横にいる秀君を見たら
右の掌を怪我してて」

えり子は伏せた視線を座卓へと落とした。

「めちゃくちゃに飛びかかってきたあいつからあたしを庇ってくれた時に、
切りつけてきたナイフを咄嗟に素手で受け止めたみたいなのね。
掌が横にざっくり一文字に切れちゃってて・・・。
あたしその傷を見たらまたすごく動顛しちゃって。そしたら秀君、
着ていたシャツをさっと脱いでね、その日はすごく肌寒かったんだけど、
白いTシャツ一枚になって、その脱いだシャツでくるくるって怪我した掌を巻いて・・・」

ごめんなさい、ごめんなさい、
怪我なんかさせちゃってごめんなさい、
と動顛したまま頭を下げて謝るえり子の前に、
吉岡は両膝に手を当てて腰を屈め、
泣いたまま項垂れているえり子の顔を、
下からちょっと覗き上げるような仕草をして、

(大丈夫ですよ)

と言ってにっこりと微笑んだ。


「すぐに手当てをしなくちゃいけなかったのに、
でもあたしその言葉を聞いた途端に堰を切ったように
涙が零れてきて止まらなくなっちゃって。
他人でいようと思えばずっと他人のままだったはずのあたしのせいで、
あんなことに巻き込んでしまった自分が嫌で嫌でどうしようもなくて、
もう秀君に申し訳なくて申し訳なくてどうしようもなくて、
涙で化粧はぐじゃぐじゃになっちゃって化け物みたいになっちゃって、
でも秀君は隣でそっとあたしを泣かせるままにしておいてくれて・・・」

えり子はそこで言葉を切り、その先を見通すような視線を障子窓へと向けた。
筒井と萩原はただ黙って、えり子の次の言葉を待っている。
ビールの泡が、チリチリと、3人のコップの中で
心細げな蛇行線を昇らせながらやがては消えていき、
海からの風は重く厚く、波をたてるようなリズムで硝子窓を叩いていく。

「それでね、」

雨音を鳴らす窓を見つめながら、えり子はぽつんと言葉の接ぎ穂を落とした。

「思いっきり泣いちゃった後にね、秀君がふっと、ほんとにさり気ない感じで、」

(えり子さん、)

「やんわりと呼びかけてきて。それで顔を上げたあたしに、」

(ラーメン食べに行きましょうか)

「そう言って明るく笑ったの・・・。その時また泣いちゃったわ、あたし。
笑いながら」

そう言ってえり子は二人に顔を向け、少し微笑んだ。

「あの事件があった後にあたし破産宣告をしてね、
どうにか店は手放さなくても済んだんだけど、
でも18の頃からずっと一緒にいた男が急にいなくなったら、
ぽっかり心に穴が開いちゃってね。
でもいなくなったあの男の空白が恋しかったわけじゃないのよ、
そうじゃなくて、何十年も頑張って過してきたあの生活が、
あんな形で終わってしまったことが哀しくて、悔しくて・・・
情けなかったのよね。それまでの人生が全部否定されてしまった気がして、
すごく孤独だった。だからついついあの事件の後も秀君を頼ってしまって。
わがままだってことは充分わかってたけど、でも忙しい間を縫って、
呼べばいつも笑顔で会いに来てくれたから・・・」

(こんばんは、えり子さん)

えり子は頬杖をついて、ぼんやりとコップの縁を指でなぞった。

「孤独の穴って、他人の同情で埋め合わせてもらえるものじゃないじゃない?
心にぽっかりと開いたほら穴に正面きって立ち向かっていくのは、
結局は自分の意志しかないし、孤独を肩代わりしてくれる人なんて
誰もいないのよね・・・。でもそういったことを秀君は、
きちんと心で理解できている人でしょう。
孤独の意味を充分に承知して、覚悟して、受け入れて、そのうえでね、
秀君は私の孤独に触れてきてくれたのよね。
孤独をうち消してやろうなんて自我はそこにはまったくなくて、
ただ静かにね、私の心の淵に一緒になって佇んでくれて、
ぽつんと独りぼっちでいた私の気持ちにね、
彼の孤独でそっと寄り添ってくれたのよ。
とても勇気のあることじゃない、そんなこと実際に出来ちゃうなんて。
なんて強い人なんだろうって、そう思うのよ。
真の優しさは真の強さの中にあるっていう言葉の意味が
すんなりと理解できるのよね、秀君のとる行動から。
いつだって闘えるんだって思いながら暮らしている人と、
いつどんなときにも闘っている人の間には、
そこに天と地ほどの差があるじゃない、存在の逞しさの」

えり子は見つめていたコップから目を上げて筒井と萩原に微笑むと、
再び障子窓へと顔を向けた。

風は夜空に吹き止まず、
雨は地面に降りしきっている。

ガラス窓を叩く雨音が、閉めたカーテンの向こうで詩っていた。
暗闇の落ちた病室にはベッドが白く浮き上がり、
透明な呼吸がその上で静かに繰り返されている。
吉岡は窓辺に向けていた視線を天井へそっと戻し、
寝静まった病棟の廊下へと耳を澄ましていった。
ゴム底を蹴る靴音がいくつか、静まり返った廊下に足早に響いてくる。
だんだんに近づいてきたその足音は隣の個室へと吸い込まれていき、
やがて頭の先にある壁を通して、低く抑えたいくつかの声が、
ベッドに横たわる吉岡の枕元へと伝わってきた。
看護士らしい女性の声の後に続いて、医師らしい男性の言葉が耳に届いてくる。

「もうダメだな。今すぐ家族に連絡して」

誰かの足音が、隣室のドアから廊下へと滑り出していく。
吉岡は、そっと静かに瞼を閉じた。

雨音は風に飛び、
いつまでも、鳴り止まない。

筒井は見つめていた障子窓から目を離し、
合い向かいのえり子へと顔を向けなおした。
座卓の上にはビールの空瓶が5本と、
半分空いた日本酒の中瓶が一本置いてある。
いくら飲んでもえり子はしらふのままで、
飲み続けているはずの筒井も酔いは全く感じなかった。
筒井の隣に、萩原が畳みの上で酔い潰れている。

「珍しいわね、ハギちゃんがこんなくらいで酔っ払っちゃうなんて」

ええ・・・と頷きながら筒井は立ちあがり、押入れに入った
掛け布団を一枚取り出してきて、萩原の上へ掛けた。

「長い付き合いなんでしょう、三人とも?」

深く寝に入っている萩原の姿を眺めながら、
えり子は座卓を挟んだ合い向かいに座りなおした筒井に訊いた。

「そうですね。高1の時からの付き合いだから」

「入学した時からみんな同じクラスだったの?」

「俺とハギは一緒でしたけど、ヒデは一年の時は別のクラスでした。
野球部で一緒だったんですよ、ヒデとは。
二年と三年の時は三人とも一緒のクラスでしたけど」

そう・・・と言いながらえり子は互いのコップに酒を注いだ。

「ハギちゃんも野球部だったの?」

「いや、ハギは汗臭い体育会系は嫌いだから。帰宅部でしたね」

「でも報道新聞記者って、いってみれば体育会系よね?」

「ペンを持った体育会系のノリは好きなんじゃないんすかね、きっと」

そう・・・とえり子はまた頷いて、コップの酒を一口すすった。

「いいわね・・・。あたし16で家飛び出しちゃってからそれきり
高校へは行かなくなっちゃたから、学生時代の友達っていないのよね。
地元を離れちゃったから中学時代の友達ともずっと音信不通だし・・・。
三人はいつも一緒なんでしょ?」

「いえ・・・学生時代は環境的にそうでしたけど、でも働き出してからは
年がら年中一緒にいるってわけじゃないですよ。ふいに会うっていうか、
会おうぜって約束していなくても安心できる関係っていうか、なんか
そんな感じですよね」

「筒井君、」

「はい?」

軽い寝息をたてて眠っている萩原の様子を確認するような目で見つめてから
えり子は筒井に顔を向け直した。

「大丈夫なのよね?」

「え?」

「秀君、今病院にいるんでしょう?」

突然に切り出してきたえり子の言葉に筒井は不意打ちを食らって言葉を失くし、
そんな筒井の顔をえり子はまっすぐに見つめ返した。






つづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉岡刑事物語・その44 / 窓枠の青空・16

2010年03月13日 | 小説 吉岡刑事物語



ドアを開けると、凍てついた夜風が車内に吹き込んできた。
筒井と萩原はほぼ同時にボルボから降りると、
ほぼ同じタイミングで車のドアを静かに閉めた。
バタン、バタン、
とたて続けに車のドアが閉まる音が二回、
寂しく静まり返った旅館の駐車場に遠慮がちにくぐもっていく。
萩原はダウンジャケットのポケットに両手をつっこみ、
狭い県道を隔てた先にある民宿旅館の玄関先へと向かって
重たげに歩いていった。
筒井は車の横に佇んで、心もとなげなその背中をじっと見つめていた。
吉岡が緊急入院した総合病院からここへと帰る道すがらに、
車内に溜まってしまった沈黙をそのまま引き摺るかのように、
萩原は少し背中を丸めたまま県道に向かって足を運んでいく。
筒井は、ゆっくりと夜空を仰いだ。
頬を冷たく撫でる夜風には、微かに潮の匂いがする。
砂防林の葉掠れの音が、海からの風に遠くざわめいていた。
星の瞬きが、風に吹き散らされた砂金のようにチラチラと小さく揺れている。
それをじっと見つめる視界の端が地上に浮かんだ光を捉え、
筒井は視線を下げて左前方を眺め見た。墨色の県道の中を、
二筋のヘッドライトが射抜くようにその光を強めてくる。
近づいてくる光線の中に、萩原の姿が白く浮かび上がった。
県道の縁石前に立ち、まるで迷子になった子供のような頼りなさで、
ぽつんと一人、走り去る町営バスを見送っている。
筒井は足を大きく踏み出して、萩原のもとへと向かって歩いていった。


「筒井、」

後方から近づく足音を背中に受け止めながら、
萩原は振り返らずに筒井に呼びかけた。

「知らないんだろ、さっちゃんは・・・」

呟くような声で問いを投げかけてきた萩原の右横に筒井は並び、
そして黙って前方を見つめた。
折からの風が、二人の上にさっと吹き渡っていく。

「知らないんだよな、さっちゃんはヒデの・・・身体こと?」

走り去っていく町営バスの後姿をぼんやりと見つめながら、
萩原は筒井に問いかけつづける。テイルランプの赤い目が、
暗闇の道へとすーっと吸い込まれて消えていった。
筒井は何も答えずに、前方に浮かぶ旅館の玄関灯を見つめたままでいる。

「もう会うことはない二人なんだろうけどさ・・・」

萩原は呟く言葉を夜風に乗せ、

「でもさ・・・」

と言ってまた口ごもる。

繋がってるよな・・・心は・・・ずっと・・・・。

言葉にならない思いの呟きは心の中にぽとんと落ちて、
波紋を広げながらその奥底へと沈んでいく。
萩原は視線を足先に落とした。
スリップしたタイヤの跡が、ひびわれたコンクリートの路面に
黒く焼きついている。

「告げなくて・・・いいのかな・・・さっちゃんに・・・」

じっとタイヤの焼痕を見つめながら言った萩原に、
筒井はゆっくりと視線を移した。
長く重く心にのしかかった一日の疲労感が、萩原の横顔に滲んでいる。
筒井は口を開きかけて何か言おうとしたが、
しかし逡巡するようにまた口を噤み、しばらく何か考え込んだ後で
再び萩原へと視線を戻した。その瞳の焦点がふと、
萩原の肩先を越えた県道へと注がれていった。
遠方の暗闇から何か小さな物体が、転がるようにこちらに向かってくる。

「もし俺がさっちゃんの立場だったら・・・」

隣から聴こえてくる萩原の言葉を耳に入れながら、
筒井は県道のわき道を猛スピードで近づいてくる物体にじっと目を凝らした。
よく見ると、それは小さな物体ではなく大きな女性の姿だった。

「さっちゃんの立場だったらって、そう思うとさ・・・・」

路面に俯いたまま萩原は呟き、その女性はぐんぐんと容貌を顕わにしてくる。
筒井は更に目を凝らした。
50代初めらしきその女性の顔はけばだたしい厚化粧にがっちりと塗り固められ、
がっしりとした肩にかかる髪を怒り狂ったメデューサのように振り乱しながら、
今時どこで買えるのか不思議なくらいにド派手な大柄の花柄ワンピースを身に纏っていた。

「俺がさっちゃんだったらさ・・・知らせて欲しいって思うよ・・」

猛烈な勢いと様相で女性が近づいてくる。
何かしきりにこちらに向かって叫んでいるようだったが、
言葉は口から離れた途端に風となって四方に散りさっていた。

「・・・お前だって・・そうだろ・・・?」

萩原は呟きつづけ、謎の女性は怒涛の勢いを増し、
筒井は釘付けになったように県道の先を凝視していた。

「そうだろう、筒井?」

何も言わずにいる筒井に痺れをきらした萩原が顔を向けた。
その視線が自分を越えた県道の向こうにじっと向けられていることに気付き、
萩原はふと後方に振り返ったその刹那、

どばッ!

と猛烈に何かが体当たりしてきた。

「ぅわぁあっ」

地面にふっとばされて尻餅をついた萩原の横で、
筒井もあっけに取られたまま棒立ちになった。
恰幅のよすぎる熟年の女性が、二人の目の前に、
デン、
と仁王立ちしている。
風が、
ふいに止んだ。
ように二人には思えた。

「秀君をどこ隠したの?」

むっつりと開いた女性の口から、
どすの聞いた声が地面に低く這っていった。

「答えなさいよ、ハギちゃん」

雷神のような顔で睨み落としてくる女性に向かって、
萩原は尻餅をついたまま茫然と尋ね返した。

「・・・えぇ?」

「えぇ? じゃないでしょ。立ちあがりなさいよ、ほら」

熊手のような女性の手が、むんずと萩原の肩を掴んで宙に引き上げた。
萩原は為されるがままによろりと起き上がり、
驚きで土偶のように固まってしまった面持ちを女性に向けた。

「秀君は、今、どこにいるの?」

ゆっくりと、低く、容赦ない口調で女性は訊ね返す。

「・・・どこって・・・どこかな・・・」

言葉につまったまま立ちつくす萩原の顔を、
女性は仁王立ちのまま見据えて微動だにもしない。
相手の顔を気圧されたように見つめ返す萩原の鼻の穴から、
ツー、と、あおっぱなのような鼻血が垂れていった。

「ハギちゃん?」

しん、と、辺りの静けさが深みを増していく。

「・・・・・はい?」

どすっ!

と突っ張りが入って、萩原は再び地面に尻餅をついていた。

「どつくわよ」

「・・・もうどついてますよ」

太いアイラインとショッキングピンクのシャドーに埋もれた女性の小さな目が、
じっと萩原の目を捉えつづけ、その身体全体から放たれる圧倒的な沈黙が、
周囲のさざめきを完全に押しのけていた。
二人の間であっけに取られている筒井は、完全に蚊帳の外に追い出されたままでいる。

「ちゃんと聞きなさいよハギちゃん」

一文字に結ばれていた女性の口が、やがて再び開いた。

「秀君は今どこにいるのかって、訊いてるのよ・・・」

その言葉尻が、ふっと力を失ってしぼんでいった。
萩原を見つめている瞳の奥底から、どうしようもなく切ない表情が
ゆらりと浮かびあがってくる。
風が、
再び吹きだした。
駐車場の後方に立ち並ぶ常緑樹が、しきりに枝を揺らしはじめる。
萩原は伏し目がちに地面から起きあがると、
チノパンについた泥を両手で軽く叩き落とし、
それからゆっくりと顔を上げて女性の顔を見つめ返した。

「今夜は一緒に呑みましょうよ、えり子さん」



旅館部屋の障子窓に、宵闇の風に踊る枝影が揺れている。
今夜から天気が崩れるのかしらね・・・と独り言のように呟いた顔を
唐木座卓の上に戻したえり子は、手前のガラスコップになみなみと
ビールを注いだ。コップにプリントされた麒麟が立ち昇る泡の雲に
一瞬とび乗り、それからゆっくりとその身を黄金色に染めていく。

「よく考えてみたらハギちゃんが親友の秀君と旅行にでるなんて
何も不思議なことじゃないのよね。でもねあたし、なんか無性に変な
胸騒ぎがしちゃってね、昔から好きな男に対する直感だけは鋭いのよ、
あたし、だからね、気付いたら今日電車に乗ってここに来ちゃってたの、
ほらあたしって一旦何かが気になりだしちゃうともう前後の見境がつかなく
なっちゃうでしょう、それでここでバス停から降りてハギちゃんの姿見つけたら、
なんか途端に捨て身な侍みたいな気分になっちゃったのよ」

そう一気に話してえり子は、ビールを注いだコップを手馴れた手つきで
合い向かいの席に置いた。

「仰ってることがまるで理解できないことは横に置いておいてですね」

萩原は差し出されたコップを右手に受け取りながらそう言い返すと、

「なにも全身で突進してくることないじゃないですか」

と言い足して呆れたようにえり子の顔を眺め見た。
萩原の両の鼻の穴には、鼻血止めのちり紙が詰め込まれている。

「鼻の骨が折れたかと思いましたよ、マジで」

斜に構えた顔で軽く睨んでくる萩原に、フフフとえり子は
地に響くような声で笑い、

「ごめんなさいね」

と素直に謝った。萩原は斜めに構えたままビールを一口飲み、
それからまたまじまじとえり子の顔を見つめ返した。

「まだまだいけますよえり子さん、プロレスラーとして、充分に」

憎まれ口を叩いた萩原の顔をえり子はいたずらっぽく睨み返し、

「いやぁね、ハギちゃんったらそんな昔の話持ち出さないでよ。
っていってもあんな過去があったから秀君と出会えたんだけど・・・あら、
どうしたの筒井君?」

と言ってふっと視線を横に移した。
置いてきぼりをくらったような顔をした筒井がその目線の先に座っている。
その手前には、気の抜けかかったビールが微かな泡を上らせていた。

「全然呑んでないじゃないの?」

え?と我に返ったように答えた筒井は、目の前のビールを
思い出したようにぐっと一気に飲み干した。

「職業柄ね、お酒の強い子はひと目でわかるのよ、あたし」

えり子はそう言って含んだように笑うと、筒井のコップに新しくビールを注いだ。

「初対面なのにあんな現れ方しちゃってごめんなさいね、筒井君。
びっくりして当然よね、ちゃんと説明しないとよね、あたしと秀君のこと。
何も知らないみたいだから、そうなんでしょう?」

「はい・・。知らないっすね」

「ぼくだって知らないですよ、深くは」

筒井の返事に横からそう言い加えてきた萩原に、
えり子は意外そうな目を向ける。

「あらそうだったの? ハギちゃんも知らないんだ・・・」

「知らないっすよ」

「へぇ~、そうなの・・・」

「そうですよ。っていうか何かあったんですか、あれから」

あったも何もね・・・と答えてえり子は含み笑いを深めた顔を二人に向けた。

「恋人同士なのよ、あたしたち」

ポロ、と萩原の鼻の穴から詰めたちり紙が落ち、
コップに手を伸ばしかけた筒井がその横で絶句した。
えり子は何食わぬ顔で自分のコップに手酌でビールを注ぎ足し、

「冗談みたいな話に思えるでしょう?」

と言って豪快にコップの中身を空にして、

「だって冗談なのよ」

と野太いため息を吐きだした。

「笑っちゃうわよね」

その言葉にどうリアクションしていいかわからずに萩原と筒井はとりあえず、
笑ってみた。フフフとえり子も低く笑う。はははと声だけで
二人は笑い返し、フフフとまたえり子が笑い返すので、はははと
二人は固まったまままた笑い、フフフ、ははは、フフフ、ははは、
と卓球試合のようなやり取りの笑い声に包まれた部屋は、

「そんなに可笑しい?」

と言ったえり子の言葉でぴたりと静かになった。
窓の外で風が唸りをあげ、部屋の中には不意の沈黙の糸が絡まっていく。

「ヒデ・・・この近くの知り合いの家に泊まってくるって今夜は・・・」

しばらくしてから萩原が沈黙の結び目をほどいた。
えり子がコップからふと顔を上げる。

「もしかしたらニ、三日そこに泊ってくるかもしれないですけど・・・」

そうなの・・・、とえり子は言い、それから障子窓の下へとそっと視線を向けた。
そこには、旅行バッグが三つ置いてある。
えり子は頬杖をつき、視線を障子窓へと上げた。
萩原と筒井は、その横顔を黙ったまま見つめている。
ポツン、と一粒、風に運ばれてきた雨音がガラス窓を叩いた。続けて、
ポツン、ポツン、ポツ、ポツ、ポツ、ポツ・・・、と
雨脚はその旋律を急速に早めていく。

「あたし、男に生まれてきたかったわ・・・」

やがて本降りになった雨音に耳を傾けながら、えり子はぽつんと呟いた。

「なんで女に生まれてきちゃったのかしら・・・あたし・・・。
羨ましいのよね、男と男の友情って。
女にはちょっと手に入らないものなのよ。
女の世界ってすごく直接的な世界だから・・・。
でも男の世界って、女のそれとは全然違うものでしょう。
男には、女が入ってはいけない世界があるのよね。
そこに女は絶対に踏み込んじゃいけないし、そもそも入れないのよ。
それが男と男の友情。宝よね」

頬杖にのったえり子の横顔は、障子窓を越えたどこか遠くを見つめている。
筒井と萩原は、黙ってコップのビールを口に運んだ。

「秀君にはずっと想い続けている人がいるってこと、あたしちゃんと
分かってるわよ。そんなこと、出会った時からわかってたわよ」

そう言ってえり子は横に向けていた顔を二人に向け直した。

「でも、なにもただ一本の赤い糸だけが
幸せを手繰り寄せてくれるものってわけでもないでしょう? 
人と人の縁って、様々な色の糸で結ばれてるものじゃないの」

「えり子さん、」

「わかってるわよ」

話しに入ろうとした萩原の言葉を、えり子は静かに遮った。

「この前も常連さんに言われたわよ、そんなこと言ってられるのは
あともうちょっとの間だけだぞって。胸もほっぺたもお腹の贅肉も
オラウータンみたいに垂れ下がっちゃう前に早くどこかに収まれって。
余計なお世話だって言い返してやったんだけどね、ハギちゃん、
何が言いたいの?」

物言いたげな表情をしている萩原にえり子は襷を渡してやった。
萩原はすこし改まって、

「そのお客さんの言ってること僕よくわかりますよ、
ってことが言いたいんです」

と言って真正面からえり子の顔を見た。

「オラウータンになっちゃうってこと?」

「いやそうじゃなくて・・・えり子さんは幸せになるべき人だってことですよ」

えり子は頬杖から顔をもたげ、同じように正面から萩原の顔を見つめ返した。

「あたしが不幸に見えるって?」

「そうじゃないですけど・・・。でも幸せそうにも見えないですよ」

「あたしが年増の独身女だから?」

「いやそういうことじゃなくて・・・」

「結婚していないと女は不幸なの?」

「いやそんなことは・・・」

「一般的にはよくそういうわよね?」

「・・・・そ・・・はぁ・・」

「一般的ってなに?」

「え・・・」

「ハギちゃん?」

「・・・・はい?」

萩原は反射的に身構えた。
えり子はたしなめるような眼差しでじっとその顔を見つめ、
筒井は黙ってえり子のコップにビールを注ぎ足した。
黄金色に色変わったガラスコップの中で、白い小さな水玉が、
無数に浮かび上がっては泡沫に消えていく。
あのねハギちゃん、と、すこし間をおいてから、
えり子はまた言葉を継いでいった。

「あたしが幸せか不幸せかなんて他人が決めることじゃないじゃないの。
自分が受け入れられない事柄だからってそれは即ち存在しえないことなんだ、
なんて端的な言葉で否定されちゃったらそんなのは勝手なお世話ってもんなのよ、
こっちとしたら。それは受け入れないっていうその人の選択であって、
必ずしもの真理ではないじゃないの。いい、幸せはね、他人に価値評価される
ものじゃないのよ、一般論じゃないのよ、そんなことくらいハギちゃんだって
知ってるでしょう?」

「はぁ・・・知ってると・・・思いますけど・・・」

「知ってるだけじゃだめなのよ」

えり子は肘をついた片手にコップを取って一口飲んだ。

「結婚するのは運命。友達でいられるのは奇跡。あたしはね、
運命論者じゃないのよ」

トン、とコップを座卓に置き戻したえり子の目がふと横に逸れて、
障子窓の下を捉えていった。風に飛ばされた雨粒が、
障子の向こうのガラス窓を強く弱く叩いている。

「細くても、赤色じゃなくてもね・・・」

えり子はそう言いながら、見つめていた三つの旅行バッグから視線を
引き剥がすと、再び二人へと向き直った。

「引き寄せてくれた一本の糸の笑顔が、
新しい人生の扉を開けてくれることだってあるのよ」

そう言ってえり子は少し微笑み、

「存在自体が心のお守りになる、それがあたしにとっての秀君なのよね」

そう切り出してから吉岡との出会いを話しはじめた。




つづく
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする