吉岡君は、大地に凛と佇む一本の木のようだ。
と思いを馳せる今日この頃、
いかがお過ごしでございましょうか?
ここ最近に吉岡君が応えたインタビュー雑誌を読み返していて、
なんかそげなことを思ったであります。
吉岡君という人を想うとき、
そこにはいつも自分に内在する様々な感情を反映する
鏡のようなものを感じるわけでありまして。
それは誰もが生きていく上で否応なしに抱え込んでしまう
様々な思いや感情の反射鏡であり。
嬉しかったり、悲しかったり、
喜んでいたり、悩んでいたり、
混沌とした中でも希望へと向かっていたり。
吉岡君から紡ぎだされる言葉には、そういった思いが
切々と息づいていると感じられるわけで。
それは吉岡君が、色々な思いを抱えながらも、
切なくなっちゃうほどそこに生きている人だからではないだろうか、
と思ったりするわけで。
そして私達も皆、そうした思いを抱えながら
日々を過ごしているわけであり。
だからこそ、生活の中でふと迷子になりそうになった時に、
吉岡君の姿を見たり、彼の言葉に触れたりすることで、
そこに同じ温度を感じて、ふっと気持ちが救われるように感じたり、
時には、迷い込んだ思いに答えを求めていくことが
出来るのではないのかな、と思ったりもするわけであります。
一人の人として語られてくる彼の言葉たちは、
決して別世界から引き出されてくる言葉じゃなく、
確かにそこで生活し、そこに息づいている言葉たちであり、
生きている言葉であるから、心に直に響いてくるわけで、
それは飾りでもなんでもない。
そうした思いを言葉にのせてくる吉岡くんは、
いつでもどんなときでも、
潔いほど一直線で、
潔いほどに「人」でありますだ。
心を着飾らないストイックさ。
えらくかっちょええ生き様だと思う。
まいるぜ、吉岡君。すっきやで。
吉岡君という人は、無意識に、
彼のことを想う人たちにも、
または、彼が生み出す人物たちを見る人たちにも、
彼を見、思うことによってそれぞれの自己へと内省させていく力を
持っている人なのではないだろうか、
と、そんなふうに思われて仕方ない秋の夜長でございますが、
人間ってええもんだなぁ~、と彼の生きていく姿を見ていると、
そうしみじみと思うし、やんわりと元気が出てくるわけで。
吉岡君は、
切なくなるほどまっすぐで、
とても優雅にしなやかに、
その向こうの高みへと、
ゆっくりとつづいていく人のようであり、
その姿は、
例え周りの景色がどんなに変わろうと、
大風に吹かれようと、
雷に鳴り響かれようと、
大雪や、大雨に降られようと、
その幹は決して変わらない、
しっかりと地に根を張り続け、
更なる高みへと伸びていく、
大地に凛と佇む一本の木のようでありまする。
美しい人だな、と思う。