月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

良いお年を。

2007年12月30日 | 思うコト



今年もあと僅かで終わりですね。
皆様、いかがお過ごしでしょうか?

気づけば、忙しくて、今月は二つしかブログを書いていませんでした・・・。
四月から書き始めたこのブログでありますが、
いつもここに来て下さる皆様に気持ちを支えていただきながら、
書き続けることができ、こうして年の瀬を迎えることができましたです。
皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。
いつも読んでくださって、ほんとうにありがとうございます。

これからも、吉岡君への想いなどを、
ゆっくりと、私なりに綴っていきたいと思っています。
またここに皆様にお越しいただけたら、とても幸いです。
明年もどうか宜しくお願い申し上げます。

皆様、お元気で、どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。




今年の心からの感謝を込めて、
風子より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

語る人

2007年12月11日 | 思うコト


この間12月に入ったと思ったら、
あっという間に、もう月半ばで、もうすぐ年末。
どうして12月という月は全世界総出で忙しいのだろう?
12月限定バージョンの早回り時計台というのがロンドン辺りに
存在しているに違いないずら。
どこもかしこも、はいはいはいはいはいはいはい
忙しいんだから忙しくってよ、忙しすぎて何に忙しいのか
忙しすぎて忘れちゃったわ、あーこれでもかってな程忙しいのよ、
んもうっキィィーーーーーーーーーーーー!
ってなモードでキリキリモンモンすったもんだのすっとこどっこいであります。
しかしこの時期、忙しくしていないと、まるで世界から取り残されたような
気分になってしまうのは、おかしい。
自身の存在意義は周りの圧力によって左右されるべきものではない、
とソクラテスも蕎麦をすすりながら言っていたと思う。
私なんて、思わず、「年の瀬反対っ!世界に平和を火の用心!」
と叫びたくなってしまうのですだわ~。
んがしかぁし、それでもやはり忙しく動き回ってしまうのが現実の日々であり、
あ~んもうどうすりゃいいのだぁタコのふんどし~!! 
それにしてもタコのふんどしとはよく言ったもんだわ、笑わせるわね、
んふふ、あは、あっははーっ、勝負あったり! 
などとふざけている心の余裕は全くなく(←ないのかよ?)
半径3㎜周辺に黒い粉を吹きまくっている師走の私でごわす。
年の瀬ですのぉ~。

こんな時には心のホッカイロ、吉岡君。

ということでやっと夕べ、久しぶ~りに吉岡君の作品を観たであります。
会いたかったよ~ん、吉岡く~ん!はぁ~、心の安らぎだわ、吉岡くんったら、
アロマセラピーみたいやでぇ~、と、ふやけたはんぺんみたいになりながら
思ったことがあったのでありますが、
吉岡君という役者さんは、「語る人」ではないだろうか、と。
ストーリー全体を、演じる人物によって語ってくる役者さんだと。
いやこりは決して、饒舌な演技をしてまっせ、へへへ、ということではなく、
その存在自体から寡黙に話の核を語ることの出来る人、
なのだと思うわけであり、そこがこの人の凄味だと思うわけで。

以前にも書いたと思うのですが、吉岡君は、
出来事にくっついて人物描写をするのではなく、
人物描写によって、起こってくる出来事をストーリーに
映えさせることの出来る人なのだと思うでありますだ。
そりは時には地味な演技と呼ばれるものかもしりないであります。
しかし世の中に派手なアクションをするという人は、紅白歌合戦で
電飾を纏って歌っている人たちくらいなわけであって、
そんな人たちはごく稀であり、現実的ではないわけでして。

吉岡君の生み出す人物たちは、現実感があるわけで、
しかしそれは「現実味」ではなく、あくまでもシンプルに
「現実」という、視聴者に極々近い場所にいると思うわけで。
だからこそ、吉岡君が織りなす目線や呼吸などが、
自分の目線や呼吸となりえてストーリーに一緒に潜り込むことができ、
そこに流れている感情に触れることで更なる気持ちの感動を生むのでは
ないのだろうか、なんて思ったりしたわけでありますだ。
例えば、吉岡君が涙を流している姿にもらい泣きをするのではなく、
吉岡君の演じる人物が悲しいから涙を零している、その悲しみに触れて
こちらも悲しくなり泣いてしまうのだと思うわけであり。
それは吉岡君が私たちに語りかけてくる感情と融和する
自分自身の感情でもあるからなのだと。

観客の気持ちを引き出し、ストーリーに乗せ、そうすることで話自体に
深みを増すことの出来る彼は、間違いなく優れた語り部くんであり、
名優くんであると思うであります。

彼の後姿が「絵になる」とよく言われるのは、
もしかしたらそんな語りから生まれてくるものなのではないだろうか、
なんて思ったりもしたでありますだ。

気持ちという語りを、その姿全体から、寡黙に、真摯に語りかけてくる吉岡君。
優れた語り部。
カタリーベ・ヒデタカ。
洋菓子みたいな響きだわ、とにかく美味しいということには違いないずら。
ヒデちゃんったら、いつでも極上、うふっ♡

演ずるということは、相手の役者さんとのやりとりを通したり、
監督の指示で組み立てられていくのが基本の一つなのかもしれないけれど、
しかしそれはあくまでも外枠からの組み立てなのだと思うわけで、
詰めていくのはやはり役者さんの心ひとつに懸かっているのだと思うであります。
そりはとても孤独な作業なのでありまっしょい。
その孤独にどこまで対峙し、どこまで耐え、どこまで掘り出していけるのかが、
すなわち語りの深さに繋がっていくものだと思うでありますばい。

吉岡君は、外枠へと安易に逃げこんでしまう人ではないと思われ。
感情の溝をとことん掘り込んで掘り進めていくことの出来る無頼の人
なのかもしりない。
研ぎ澄まされた美的感覚、人としての美意識を持って生きている人
なのかもかもしりない。
でなければ「語る」という至難なことなど出来はしないずら。
いかすでよ~、吉岡く~ん。
師走の喧騒も黙らせるかっちょえさだわ。
惚れるでねぇか、たまらんぜよ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西の横綱

2007年12月05日 | ジェームズ♪


吉岡君は、その存在自体が奇跡なのかもしれない。んふっ。
と思いきや、そんなミラクルパンチの役者さんは、
実はもう一人、この世に存在しているらしい。
所は西洋、その名を、James McAvoy。んふっ、その2。
東の横綱、吉岡ヒデタカ。
西の大関、ジェームズ・マカヴォイ。なんて言いにくい苗字なのだ。
バカヴォン、なんてうっかり言ってしまいそうじゃないか。
この際、マカビーと呼ばせてもらおう。マカビーよ、
ツボでごぜいやすっ、うきゃ~~んっ! ぽわっ
ということで、彼の姿を初めて見たのは、かれこれ5年くらい前、
こちらで放送されたテレビドラマでのこと。またきっと、
きょぇぃ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ、
とか叫んだんだろう、オバカだねぇ~。と、お察しの方、
そんなオバカではなかったのでありましたの、おほほ、
けぇぃぇぇ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ、
でありましたの。オバカにもほどがある。しかし私はただ単に、
始め人間ギャートルズのオープニングの如く、
地球から吹きだしが飛び出しちゃうほどの叫びを上げただけでは
なかったのでぃした。では他に何をしたというのか? それはズバリ、
忘れてしまったのであります。 彼の存在自体を。アディオス、アミーゴ。
見上げたあほっぷりだわ、我ながら感動してしまう。
ところが、映画「ナルニア国物語」を鑑賞した際、スクリーンに映し出された
半人半鹿くん、なのだろうか、実のところ君は一体なんなのだ、
ウナギ犬の親戚なのでしか??いや、そんなことはどうでもいいのでした、
とにかくスクリーンにおでまりもうした彼の姿に、
「おわ?」「はて?」「えぇっ?」「うっそぉ~ん?」「けぇぃぇぇ~~~っ」
あ、これは省略形でありまして、
「おわ? 誰なのだ、このトレビアンなアミーゴは? 
はて?どこかで見たことあるぞなもし? 
えぇっ? もしかしてぇん・・・
うっそぉ~ん? そうだ、そうじゃよ、
けぇぃぇぇ~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ」
全文にするとこんな感じで、マカビー再びカンバックサーモン。
涙と感動の再見、にぃはお、感無量でありました。

私は、えげれす英語のアクセントで話す殿方にも滅法弱いであります。
おげれつ英語ではありまっしぇん。
マカビーは普段、なんと強烈なスコットランド訛で話すでごわすで、
おぉ~~~~~モォ~~~レツゥ! 聞き取りにくいったらありゃしな~い!
しかしいいのだ、マカビーくん。だってなにはともあれあなたは
スコティッシュ。最強じゃで。
こりは例えて言うならば、稲葉一矢に博多弁を話させて、更に
その背中に西郷さんの銅像を背負わせちゃって、ごっつええかんじ。
ってなわけわからんくらいの濃縮っぷりであります。
たまらんじぇぇ、もう好き好き大好きぃ一矢く~~~~~んっ!
ではなくて、今日はマカビーのことを書くのだった、巻き戻し。

このマカビーくん、文句なしに、素晴らしいであります。
オスカー像の頭に「ブラボー」と書いた熨斗をつけて
毎年お中元お歳暮に送りたいくらい、
そりゃ~ワンダホーな役者さんであります。
そんでもって、「降参だよ、マカっちゃん。」と、溜息と共に呟き
お茶を啜りしながら思わず遠目になってしまうほど、
びゅーてほーこれ限りなし。
チャ~ミング♪ という音符付きの言葉が、これほどまでにぴたりんこ、
と当てはまる人も珍しいと思うであります。たまらんねぇ~。
しか~し、彼の魅力は、外見だけを掘り込んでHOLLYWOODサインへと
行き止まってしまうほど、底の浅いものじゃ~ございやせん。
ハンサムくん、ということが全てを覆い被せて
追加点を貰っちゃうような人ではござらんでごぜいまして、
あくまでその演技で引き込む実力のお人でありもうす。
特筆すべきは、まずそのお目め。 
とてつもない深みがあるであります。
そりから、そのお声。
薫り漂う美声で様々な旋律を奏でるであります。
百万馬力の眼力と声色の持ち主。どすこいだわ、いかすわね。
そりからついでに、真っ白。
おいおい白人なんだから、白いにきまってるじゃねぇ~か。
と、思う方もいるかと思いますが、白人の人達の中にも、
ホワイト、ホワイター、ホワイテスト、まるで漂白剤のCMみたいな
色白加減があるであります。
マカビーはまさしく、ホワイトみたいな石鹸花王石鹸ホワイト。
(↑とにかく気合の入った白さということらしい)
これは一歩間違えると、「もしや血液色素までホワイティ?」
と思わず聞きたくなってしまうくらいの白さなのですが、
しかしいいのですだわそんなこと。
だってあなたは陶器のような美しさ、んふふ。

と、ここまで書いていて、新事実発見。
深みのある瞳。薫り漂う美声。ホワイティー。
こりは・・・・・吉岡君の魅力と似通っている、いや同じだわ、
ダブルミラクルパンチでデート。あぁもうまた壊れてきちゃったわっ、
どうしぇばええのだ、すっきやでぇ~い!!!
吉岡君とマカビー。
似ているから好きなのだろうか? 好きだから似ているのだろうか?
どっちなのだろう? 

映画やドラマを観ることの醍醐味の一つは、登場人物と同じ感情を
共有し共鳴することから広がっていく人生感であると思うわけでぃすが、
しかし人物の感情ではなく、演じている役者さんから漏れ伝わってくる
我執を感じてしまうことも、やはり多いでがんす。
吉岡君からも、マカビーからも、そういった外枠からのしがらみという
胡散臭さが、1㍉たりとも感じられてこないとです。
寛仁大度に存在している感受性の持ち主たち、という感じがするし、
「演じる」ということに対する意気込みのベクトルが、二人とも
同じ方向に向いている印象がするとです。
それはあくまでも「無我」に向いており、決して「自我」には
向いていないと思うわけで。わんだほ~。

そして彼らの生み出す人物達は、いやんなっちゃうほど生身の人間であり、
だからこそ引きずり込まれていく感情の渦巻きなのだと思うわけで。
人間の持つ感情は、それが瞬間に生み出されるものだとしても、
たった一つだけの感情だけで存在しているものではないのかもしりない、
と思うであります。
怒りや、喜び、悲しみには、そこにまた様々な付箋感情が
渦巻いているわけであり、それは決して、「見よっ、これじゃでよっ!」
とは容易に納まらないわけで、そもそも感情とは見せつけるものでは
ないわけであり。
吉岡君も、マカビーも、その幾重にも絡まった感情の「混乱」「揺らぎ」を、
痛いほど当たり前のように、容赦なく押し出し伝えてくるわけで。
その姿は、時にはとっても無様であり、惨めなわけで。
しかし人間だから、そうなってしまうのは当たり前なわけで、
と気づかせてくれるお二方なので、ブラボ~なわけであり、惚れるのであります。

この、当たり前のことじゃ~ん、という状況に自分の気持ちを開け広げ、
尚且つ押し出してくるのは、至難の業なのではないだろうか、と思うであります。
自分の抱える様々な感情を丸裸にし、
そこに対峙していける骨太な心の逞しさがないと、
感情の奥底へなんて、怖くて潜っていくことができない、と思うでありますばい。

吉岡君もマカビーも、シリアスなものからコメディーなものまで、
当たり前のように幅広く奥深く演じられるお方たちでありまするだ。
それはすなわち、人に対する洞察力の深さ、そして彼らの人間性の
幅の広さに繋がるものじゃなかでしょうか、と思うでありまする。

行き着くところは、人なのだ。
ということなのかもしりないですねぃ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする