吉岡刑事物語・その50
死者を死せりと思うなかれ
生者のあらん限り
死者は生きん
死者は生きん
-ゴッホ
2001年 1月
夕暮れの茜を吸い込むアスファルトに、乾いた木枯らしが舞っていた。
所々かさついたようにひび割れた路面には、一組の靴音がひっそりと鳴っている。
コツ、コツ、コツ、コツ、と愁然と周囲に響くその音は、
路地裏へと折れていく三叉路に来た場所で、不意に止まった。
雑草の枯れしきる一軒貸家の庭先に、中型の雑種犬が一匹迷い込んでいた。
所在無さげな眼差しを向けている犬の瞳と目が合い、
吉岡はふっと笑みを綻ばせた。
怖がらせぬように歩みを緩めて近づいていくと、犬は垂れた尻尾を気弱に振りながら、
身を寄せるような仕草でそっとしゃがみこんだ吉岡にクゥンと一つ小さく鳴いた。
寒いねぇ、と語るように話しかけながら、吉岡は犬の頭をやさしく撫でた。
何も入っていないと頭の端で認識しながらも、犬に与えられる食べ物はないかと、
咄嗟にハーフコートのポケットに手を入れた吉岡は、そういえば今朝、
高裁に足を踏み入れる前から何も喉に通していないことに気付き、
それでも全く空腹を感じていない自分に途方に暮れたように少し驚いて、
ポケットに入れた右手が警察手帳に触れた途端ピタリと身体全体の動きが止まり、
催促するように冷たい鼻を掌に押し付けてくる犬に行方を失くした視線を戻され、
にこりと微笑み直しながら犬の頭を再び撫で返して、ごめんね、と謝った。
満足そうに目を細めている犬の首には、迷子札を付ける首輪はついていない。
僕もね、道に迷ってばかりなんだ。
頭を撫で続けながら呟いた吉岡に、迷い犬はしきりにしっぽを振り続ける。
慈しむような温かい笑みを向けている吉岡の瞳の奥には、
けれども癒えることのない深い傷口が身を潜めるように見え隠れし、
心の波打ち際に揺れるその傷痕は、ふっと波に浚われていくように、
今日という長く重い記憶の沖へと引き戻されていく。
「主文、原判決を破棄する。被告人は無罪」
数時間前に遡る時の中から、一審の有罪判決を覆した裁判長の第一声が、
消耗しきった吉岡の心へと蘇って覆いつくし、じわりと締めつけ、
酸素を奪い窒息させながら心の奥底へと再び浸潤していく。
控訴審の結審が下された高等裁判所第一法廷の被告席で、吉岡が説得し、
所轄所へと自首をさせ、その口から自白調書を取った谷原信也が、
直立不動の姿勢で判決文に耳を傾けていた。その隣に、一審の死刑判決の後、
私選弁護にあたっていた三島敬一が、無機質な表情を浮かべながら、
大量の法廷書類をブリーフケースへと戻し入れていた。
50枚以上にも及ぶ判決文を読み上げている裁判長の声は、
第一報を掴み我先にと廊下へ飛び出していく報道記者たちの慌しい物音と、
被告人の家族や知人たちの喜び抱き合う歓声でかき消されて、判決後の法廷ではもう、
被害者の命の重みは無関心という過去の中に葬られてしまう。
奪われた二つの命は無数の中に埋もれる数字へと、その存り様を処理されていってしまう。
喜びと興奮に沸く傍聴席の最後列で、被害者夫婦の義理の息子が、
周囲から忘れ去られた姿で頭を垂れていた。
-それなら誰が犯人なんですか?
隣に座る吉岡に、義理の息子の関口耕介はうな垂れたまま、地を這うような声で呟いた。
頭上に響く判決文は、事務的な声音で滔々と音読され続けている。
その内容は、弁護側の主張を全面的に受け入れる形で、
初動捜査から起訴におけるまでの警察側のミスを指摘していた。
-なら誰が義父と義母の命を奪ったんです?
膝の上に置かれた耕介の両手は、きつく拳に握り固められたまま小刻みに震えていた。
-誰が二人を殺したのかって訊いているんだ。
吉岡は何も応えられず、ただぐっと頭を下げ続けることしかできなかった。
-間違いましたじゃ済まされないんだぞ。
「けん太!」
子供の叫び声に、吉岡ははっと我に返った。ワン!と一声吠えた犬が、
吉岡の手許から離れて路上に走り出していく。振り返ると、
泣きべそ顔の男の子が犬を両腕に抱きかかえていた。
飼い主を見つけて喜ぶ犬が、その顔を嬉しそうになめまわしている。
「心配したんだぞ」
少年の声を追うように、木枯らしが一つ、
さっと脇道の落ち葉を吹き上げていった。
「ダメじゃないか、ちゃんと家に戻らなくちゃ」
水彩に溶けた落ち日がゆっくりと空中にまどろんでいく中で、
吉岡は、互いに喜び合う少年と犬の姿を、物思うような表情で静かに見つめていた。
町の喧騒から引き離れた冬景色は、穏やかで、とても平和だった。
夕日は、時を急いだりしない。急ぐのは、それを見る者の心なんだろう・・・。
やがて吉岡はゆっくりと路上に立ちあがると、
「けん太をここで見ててくれたの? ありがとう」
その姿に気付いた少年がきちんと礼を言った。
やさしく微笑む吉岡の瞳に痛みがよぎり、何も言えずに、
吉岡はそっと首を横に振った。
「こいつすぐに迷子になっちゃうんだ。さあ家に帰るぞ!」
持っていたリードを犬につけると、少年は寒さを吹き飛ばすように
一気に家路へと駆け出していった。足元に、嬉しそうに飛び跳ねる犬が
じゃれつきながらついていく。
吉岡は、元気に走り去って行く少年と犬の姿をいつまでも見送った。
ひっそりと佇むその背中が、色を深めた黄昏に染まっていく。
遠く小さくなっていく二つの影が路地を曲がって見えなくなるまで見届けると、
吉岡は深く息を吸い込みながらそっと空を見上げた。
巣に戻っていくのだろう、鳥が二羽、西の空を飛んでいく。
追いかけあうように飛び去っていく二羽の鳥の姿を、
吉岡は仰ぎ見るような眼差しでしばらく眺め続けていた。
空は菖蒲色に日の終わりを慰めつつ、北風が宵の寒さを告げにくる。
姉さんに会いに行こう・・・
ふと心に浮かんだ呟きを零さぬよう、吉岡はそっとコートの襟を合わせ、
乾いた路上に再び歩みを繋げていった。
つづく
死者を死せりと思うなかれ
生者のあらん限り
死者は生きん
死者は生きん
-ゴッホ
2001年 1月
夕暮れの茜を吸い込むアスファルトに、乾いた木枯らしが舞っていた。
所々かさついたようにひび割れた路面には、一組の靴音がひっそりと鳴っている。
コツ、コツ、コツ、コツ、と愁然と周囲に響くその音は、
路地裏へと折れていく三叉路に来た場所で、不意に止まった。
雑草の枯れしきる一軒貸家の庭先に、中型の雑種犬が一匹迷い込んでいた。
所在無さげな眼差しを向けている犬の瞳と目が合い、
吉岡はふっと笑みを綻ばせた。
怖がらせぬように歩みを緩めて近づいていくと、犬は垂れた尻尾を気弱に振りながら、
身を寄せるような仕草でそっとしゃがみこんだ吉岡にクゥンと一つ小さく鳴いた。
寒いねぇ、と語るように話しかけながら、吉岡は犬の頭をやさしく撫でた。
何も入っていないと頭の端で認識しながらも、犬に与えられる食べ物はないかと、
咄嗟にハーフコートのポケットに手を入れた吉岡は、そういえば今朝、
高裁に足を踏み入れる前から何も喉に通していないことに気付き、
それでも全く空腹を感じていない自分に途方に暮れたように少し驚いて、
ポケットに入れた右手が警察手帳に触れた途端ピタリと身体全体の動きが止まり、
催促するように冷たい鼻を掌に押し付けてくる犬に行方を失くした視線を戻され、
にこりと微笑み直しながら犬の頭を再び撫で返して、ごめんね、と謝った。
満足そうに目を細めている犬の首には、迷子札を付ける首輪はついていない。
僕もね、道に迷ってばかりなんだ。
頭を撫で続けながら呟いた吉岡に、迷い犬はしきりにしっぽを振り続ける。
慈しむような温かい笑みを向けている吉岡の瞳の奥には、
けれども癒えることのない深い傷口が身を潜めるように見え隠れし、
心の波打ち際に揺れるその傷痕は、ふっと波に浚われていくように、
今日という長く重い記憶の沖へと引き戻されていく。
「主文、原判決を破棄する。被告人は無罪」
数時間前に遡る時の中から、一審の有罪判決を覆した裁判長の第一声が、
消耗しきった吉岡の心へと蘇って覆いつくし、じわりと締めつけ、
酸素を奪い窒息させながら心の奥底へと再び浸潤していく。
控訴審の結審が下された高等裁判所第一法廷の被告席で、吉岡が説得し、
所轄所へと自首をさせ、その口から自白調書を取った谷原信也が、
直立不動の姿勢で判決文に耳を傾けていた。その隣に、一審の死刑判決の後、
私選弁護にあたっていた三島敬一が、無機質な表情を浮かべながら、
大量の法廷書類をブリーフケースへと戻し入れていた。
50枚以上にも及ぶ判決文を読み上げている裁判長の声は、
第一報を掴み我先にと廊下へ飛び出していく報道記者たちの慌しい物音と、
被告人の家族や知人たちの喜び抱き合う歓声でかき消されて、判決後の法廷ではもう、
被害者の命の重みは無関心という過去の中に葬られてしまう。
奪われた二つの命は無数の中に埋もれる数字へと、その存り様を処理されていってしまう。
喜びと興奮に沸く傍聴席の最後列で、被害者夫婦の義理の息子が、
周囲から忘れ去られた姿で頭を垂れていた。
-それなら誰が犯人なんですか?
隣に座る吉岡に、義理の息子の関口耕介はうな垂れたまま、地を這うような声で呟いた。
頭上に響く判決文は、事務的な声音で滔々と音読され続けている。
その内容は、弁護側の主張を全面的に受け入れる形で、
初動捜査から起訴におけるまでの警察側のミスを指摘していた。
-なら誰が義父と義母の命を奪ったんです?
膝の上に置かれた耕介の両手は、きつく拳に握り固められたまま小刻みに震えていた。
-誰が二人を殺したのかって訊いているんだ。
吉岡は何も応えられず、ただぐっと頭を下げ続けることしかできなかった。
-間違いましたじゃ済まされないんだぞ。
「けん太!」
子供の叫び声に、吉岡ははっと我に返った。ワン!と一声吠えた犬が、
吉岡の手許から離れて路上に走り出していく。振り返ると、
泣きべそ顔の男の子が犬を両腕に抱きかかえていた。
飼い主を見つけて喜ぶ犬が、その顔を嬉しそうになめまわしている。
「心配したんだぞ」
少年の声を追うように、木枯らしが一つ、
さっと脇道の落ち葉を吹き上げていった。
「ダメじゃないか、ちゃんと家に戻らなくちゃ」
水彩に溶けた落ち日がゆっくりと空中にまどろんでいく中で、
吉岡は、互いに喜び合う少年と犬の姿を、物思うような表情で静かに見つめていた。
町の喧騒から引き離れた冬景色は、穏やかで、とても平和だった。
夕日は、時を急いだりしない。急ぐのは、それを見る者の心なんだろう・・・。
やがて吉岡はゆっくりと路上に立ちあがると、
「けん太をここで見ててくれたの? ありがとう」
その姿に気付いた少年がきちんと礼を言った。
やさしく微笑む吉岡の瞳に痛みがよぎり、何も言えずに、
吉岡はそっと首を横に振った。
「こいつすぐに迷子になっちゃうんだ。さあ家に帰るぞ!」
持っていたリードを犬につけると、少年は寒さを吹き飛ばすように
一気に家路へと駆け出していった。足元に、嬉しそうに飛び跳ねる犬が
じゃれつきながらついていく。
吉岡は、元気に走り去って行く少年と犬の姿をいつまでも見送った。
ひっそりと佇むその背中が、色を深めた黄昏に染まっていく。
遠く小さくなっていく二つの影が路地を曲がって見えなくなるまで見届けると、
吉岡は深く息を吸い込みながらそっと空を見上げた。
巣に戻っていくのだろう、鳥が二羽、西の空を飛んでいく。
追いかけあうように飛び去っていく二羽の鳥の姿を、
吉岡は仰ぎ見るような眼差しでしばらく眺め続けていた。
空は菖蒲色に日の終わりを慰めつつ、北風が宵の寒さを告げにくる。
姉さんに会いに行こう・・・
ふと心に浮かんだ呟きを零さぬよう、吉岡はそっとコートの襟を合わせ、
乾いた路上に再び歩みを繋げていった。
つづく