まっすぐに見上げてくる少年の視線を穏やかに受け止めながら、
吉岡はゆっくりと腰をかがめた両膝を両手で支えて、
少年の目の高さに自分の目線を合わせた。
「こんばんは」
にっこりと笑って挨拶をした吉岡に少年は表情を崩さず、
一文字に結んだ口をぎゅっと固く閉じたまま、
今にも泣き出しそうな、何かを訴えかけてくるような目を、
じっと吉岡に向け続けていた。
柔かな視線はそのままに、吉岡は何気なく周囲を見渡して、
少年の置かれている状況をさっと瞬時に捉えていった。
人波で賑うレストラン街の中には、この少年の親とみられる人物の姿は、
どこにもその気配を感じ取ることができなかった。
吉岡は少年の姿をそっと見つめ直した。
真冬にしてはものが薄すぎる長袖のシャツと、
着古したズボン姿という格好をしているその少年は、
真冬の夜空の下、寒さに体を小刻みに震わせていた。
「人の通りの邪魔になっちゃうから、ちょっと脇にどこうか」
吉岡は少年に明るく言うと腰を上げ、さっと脱いだハーフコートを
少年にさりげなく掛けてやってから、自動販売機コーナーの横にある
ちょとした空きスペースへとその小さな肩をそっと促していった。
少年は黙って吉岡についてくる。
土産物屋の店内から放たれている電灯が、グレーのアスファルトの上に
白い光を流し込んでいる場所に吉岡は足を止めると、
同じくその場所に立ち止まった少年に改めて向き合った。
「知らない人とはなしちゃダメだっていわれた」
口を開こうとした吉岡に向かって少年はやおらに言った。
「知らない人についていっちゃぜったいにダメだって」
意志の強そうな少年の瞳を穏やかに見つめ返していた吉岡の眼差しに、
やさしい温もりの光がゆっくりと深まっていく。
吉岡は再び腰を屈めて、目線を少年の高さに合わせた。
「そうだよね、ごめんね。僕は吉岡といいます。下の名前は秀隆」
吉岡は少年に向かって右手を差し出した。
少年は、肩に掛けてもらった吉岡のハーフコートから、
握り固めていた右手をそろりと伸ばすと、
強ばっていた拳を吉岡の手の前でゆっくりと開いた。
大きくて温かい吉岡の手が、差し出されたその手をやわらかく包み込む。
少年の手はとても小さくて、氷のように冷え切っていた。
「すばる・・・」
呟くようにして言った少年の顔を、
吉岡は小首を微かに傾けて見つめ返した。
「ぼくは、しのだすばるです」
少年は、吉岡の手に包まれている自分の右手をじっと見つめながら、
自分の名前を名乗った。
「はじめまして、しのだすばる君。いい名前だね」
すばると名乗った少年の口元が嬉しそうに綻んだ。
しかしそれはほんの一瞬のことで、すばる少年は吉岡の手から
自分の右手を離すと、また固く口を閉ざした。
じっと黙りこくったその姿は、周囲の賑やかな喧騒から切り離されて、
群れから落ちてしまった小鳥のようにぽつんと寄方なく、そして
とても孤独だった。
「すばる君は今何年生?」
舗道に俯いているすばるを、吉岡の声がふわっと包み込んだ。
「二年・・・」
すばるは顔を上げて答えた。目の前で吉岡が温かく微笑んでいる。
「つまごい小の二年三組。太田先生のクラス」
「そう。嬬恋っていうと群馬県かな?」
「うん。知ってるの?」
「知ってるよ。よく群馬の山に登りにいってたから」
すばるの頬がほんの少しピンク色に染まった。
「すばる君は、学校は好き?」
「すき」
「学校は楽しいよね」
「うん。算数がいちばんすき。クイズをとくのがとくいだから」
「そうなんだ」
すごいねぇ、すばる君、と心底感心しながら微笑んだ吉岡の顔を
すぐ目の当たりにした途端、すばるの口元が、泣きべそをかいたように
ぎゅっとへの字に歪んだ。
吉岡の顔からふっと笑顔が引いていく。
静かに黙った二人の前を、若い親子の4人連れが慌しく通り過ぎていった。
幼稚園生くらいの女の子の、何かを買って買ってとせがむ泣き声が、
苛立った母親の手に引っ張られながら舗道の向こうへと小さくなっていった。
吉岡は、穏やかに凪いだ眼差しをすばるに向けながら、
二人の間の空気を静かにやわらかく温めている。
「まってなさいっておとうさんが・・・」
しばらくしてすばるはぽつんと言った。その言葉と一緒に、
真珠のような大粒の涙がぽろぽろとその目から零れ落ちてきた。
「おかあさんはいません。ずっと前にどこかにいっちゃったから」
すばるは更に深く俯いて下唇を噛んだ。出てきてしまった涙を、
そうして懸命に食い止めようとしているようだった。
吉岡は、両手を伸ばしてそっとすばるの両肩を包んだ。
すばるの顔がくしゃっと涙に歪んでいく。
「朝までまってなさいっておとうさんが・・・。
それまでだれともはなしちゃいけないって・・・」
「うん・・・」
やさしく頷く吉岡の瞳は、まっすぐにすばるを見守っている。
すばるは涙を零しながら、心細そうに後ろを振り返った。
吉岡もその視線を追っていく。
すばるが見つめた視線の先には、中型のセダンが一台、
サービスエリアの最奥に位置した暗い場所に、
ぽつんと寂しく置き忘れたかのように駐車されていた。
「車の中でまってるっておとうさんとやくそくしたんだけど」
すばるは今にも崩れそうな泣きべそ顔を吉岡に向けた。
「おとうさんは、ぼくがやくそくをちゃんと守れたら、前からほしかった
ガンダムのプラモデルを三つぜんぶ買ってくれるって言ったんだけど・・・」
そこまで言ってすばるは耐え切れずに声を出して泣き出した。
「でも、ぼくは、そんなの、ほしく、ない・・・」
吉岡はアスファルトに片膝をついて、しゃくり上げて泣くすばるの肩を、
優しく包みなおした。すばるは更に激しくしゃくりあげた。
「ぼく、は、おとう、さん、と・・いっしょ、に、いたい・・・」
「うん・・・、そうだよね」
すばるの手がぎゅっと吉岡のシャツを脇腹に掴んだ。
ずっと我慢していたらしい涙は堰を切ったように、止め処もなく
すばるの頬を伝って流れ落ちてきた。
慈悲深くその顔を見つめる吉岡の眼差しに、
切なさの色がぐっと深まっていく。
吉岡は片手をのばして、すばるの背中をそっと優しくさすり続けた。
小さなすばるの体は、大きな吉岡のハーフコートの中で、
思いの限りに全身で泣いている。
しばらく間を置いてから、吉岡はそっと口を開いた。
「すばる君、お父さんはどっちの方に行ったか覚えてる?」
すばるはこくんと頷く。
「あっち」
すばるは顔を横に向けて、右手を前方に指差した。
その方向に、遊歩道の行き止まり先に隆起している小丘に沿って、
急な上り階段が薄明かりのランプの下に見えていた。
「あそこをのぼって、どこかにいっちゃった・・・」
すばるは吉岡のシャツをぎゅっと強く掴み直した。
吉岡は視線をすばるに戻して、縋るように見つめてくるすばるに
やさしく微笑んだ。
「今からすばる君のお父さんを探してくるね」
すばるの瞳にさっと明るい光が差す。
「ほんとう?」
「ほんとだよ」
すばるの顔に初めて笑顔が浮かんだ。
「あのね、おとうさんはね、黒いジャンパーに黒いズボンをはいてるよ。
せはあまり高くなくて、かみはぼさぼさになってる」
「うん、わかった」
吉岡は笑顔を深めて頷くと、静かに立ち上って、
右手をすばるの肩にまわした。
「ここは寒くて風邪引いちゃうから、戻ってくるまで
お父さんの車の中で待っててもらえるかな?」
「ぼくまってる」
吉岡の顔を見上げたすばるの顔は安堵の色に満ちていた。
泣きぬれて汚れたその頬には、新しい涙はもう落ちてこない。
吉岡はしっかりとすばるの肩を抱えなおした。
すばるに導かれて辿り着いた場所は、サービスエリアの敷地の
一番奥端に位置していた。
筒井のボルボはその正反対の奥端に駐車されている。
すばるはズボンのポケットから車のキーを引っ張り出すと、
慣れた手つきでアンロックボタンを二度押した。
綺麗に洗車された新車のプリウスのハザードが、ピッピと二度
暗闇の中で点滅した。吉岡はさりげなく、後部バンパーについている
ナンバープレートを確認した。
群馬ナンバーの下に、「わ」を先頭とした番号が続いている。
レンタカーの共通番号だ。
すばるは、ぶかぶかに羽織っている吉岡のハーフコートから
右手の指先を出し、後部座席のドアを掴んで開けた。
後部シートに目線を移した吉岡は、一瞬微かに驚いた表情を浮かべた。
5、6歳くらいの女の子が、そこですやすやと寝息をたてている。
冷え切った車の中で眠るその女の子は、男の子用にデザインされた
大きめのセーターを、厚着した自分の服の上に重ね着している。
シートの周りには、食べ終わったお菓子の袋がいくつか散らばっていた。
後部座席を見つめる吉岡の瞳が、切なく潤んだように揺れ動いていく。
「いもうとのかえで」
すばるは吉岡に小声で囁くと、シートに散乱していた空のお菓子の袋を
足元のビニール袋の中に一つにまとめてから、眠っている妹の横に腰掛けた。
吉岡はそっと手を伸ばして、寒くないように、すばるの体をハーフコートで
しっかりと包み直した。
「あったかい・・・」
泣き腫らした顔ですばるが笑う。吉岡も静かに微笑み返した。
「ぼく、ほかのだれが来てもぜったいに車のカギはあけないよ。
エンジンをかけないでヒーターを入れるやり方だってしってる。それと、
お父さんがおさいふとケータイでんわをおいていってくれた」
すばるはしっかりとした口調で言うと、
ハーフコートに包み隠れた右手を前方に向けて持ち上げた。
すばるの指す助手席へ吉岡は顔を向けると、
使い古した男物の財布と黒い携帯電話が、
シートの上にきちんと並べて置かれているのが目に入った。
「おなかがすいたらいもうとになにか買ってきてあげられるよ。
ケータイでんわの使いかたもちゃんとしってる」
吉岡はすばるに微笑み、そして了解したように頷いた。
それから、ちょっとごめんね、とすばるに一言断ってから、
一旦後部座席から車外に出て助手席側へと周りこみ、
ドアを開けて助手席のシートの上に置かれた財布と携帯電話を手にとった。
それから開いたドアを静かに閉め、後部座席へと戻りながら、
すばるの視界に映らないようにさりげなく携帯電話のメモリと
財布の中身を調べた。携帯の充電はしっかりとされていたが、
運転免許証だけ入った財布の中身は空だった。
吉岡は自分の財布をジーンズのポケットから取り出し、
そこから自分の運転免許証をさっと引き抜いた。
「これはすばる君が持っていたほうがいいと思うんだ」
後部ドアを開けてすばるの横に戻ってきた吉岡は、
手にしていた携帯電話と財布をすばるの膝の上にそっと置いた。
すばるは違いに気付かなかったが、渡された財布は吉岡のもので、
父親の置いていった空の財布は、吉岡のジーンズのポケットに入っていた。
「これが僕の携帯電話の番号だから」
吉岡は、シートの足元に落ちていたぬり絵帳と色鉛筆を一本拾い上げて、
開いた一ページ目の余白に青字で自分の携帯の番号を書き記した。
「何かあったらすぐにここに電話してね」
すばるは力強く頷いた。
「ぼくまってる」
聡明そうな瞳をまっすぐに向けながら、すばるは吉岡に言った。
吉岡は笑顔で頷いた。
陽だまりのようなその微笑みが、やさしく、温かく、
すばるの身体を包み込んでいった。
つづく