月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

茶川商店の文学さん

2007年04月28日 | 山崎監督作品

昨日に引き続き、三丁目にお住まいの文学さんこと茶川さんについて
レポートしてみたいと思いまする。

この映画ですが、昨年の夏に日本に里帰りした時、
なんとリバイバル上映館で鑑賞できたという、
サンキュ~ダンケしぇーしぇーメルシーあんがとさ~ん
な機会に恵まれた作品でありました

一緒に行ってくれた友よ、ありがとー!

そしてその劇場で再確認したとですよ。
ヒデタカくんは、銀幕によう映えるお人でありなさる。
銀幕の人じゃよ~、君は!
うれしいぞぉ、おいちゃんはっ! 泣けてくるじゃね~か、うぅ。


この作品は全体がマキシマイズされた演出だから、
彼は演技をする上で、特に笑いのバランスのとり方が
難しかったんじゃないかな~って思うとですよ。

しかし君はやったぞ、ホームランだ。
決して的は外さないのだよ、君って人は~。

群像劇の云々を肌で理解しているのかもしれんですね。
引くときは引く。なりを潜める。しかし出るときはしっかり出る。
しかし出すぎない。
それはまるで、蛸壺に隠れたウツボくんがシュバッと身を出し獲物を
確実に捕らえるウルトラ級ウツボ技みたいだよ~。

ウツボエキスパート・ヒデタカ。
前代未聞の達人技だぜよ~。
やるじゃね~か、たまらんぜぇ。

彼はこの作品の中で、「これ以上いったら地雷を踏む」という境界線を
ものすごく良く理解していたのではないだろうか、と思いますです。
それは笑いをとる演技のときだけではなく、彼の演技全体から感じられるとですよ、ムッシュ~。
茶川さんが内に秘める爆発感情と、彼が外に発散する爆発っぷりの
バランスが、それこそ微妙な感度で保たれていると思うのです、おいどんは。
それは、一歩間違えれば、作品自体を爆破させてしまう危険性をもつ
バランスなのだと思うのでありますが、しかし吉岡くんはもちろん
「微妙なバランス」を保持したままのワンダホーな演技でもって、
観客を作品ごと魅了してくれるのであります。トレビア~ン。

しかしですね、これは決して「へい、おまちぃ~」な出前一丁系の
流れ作業的に生まれた演技ではないっ! とシコを踏んでつっぱって
宣言できるぞっ、ごっつぁんですっ、おかみさんっ!

悩んだと思うのですよ~、この茶川演技。
しかし観客にはそんなことは片鱗も感じさせないのですばい、彼は、フフ。
いかにもスイスイスイ~ッと存在しちゃっているように思わせちゃうのだ~観客に。
だから観客は安心して、徐々にこのどうしようもない茶川さんに
感情移入していけるのだと思うとですよ。
それはすなわちこの作品が、茶川さんに合わせて成長していっている、
ということだと思うとです。

ビバッ!ビバッ!ビババ~ン、ヒデタカ~っ!

うれしいんだよ、おいちゃんはぁ~。(←今日は登場回数が多い、おいちゃんであります)。

淳之助が贈られたクリスマスプレゼントの万年筆を
嬉しそうに眺める姿を見つめる茶川さんの表情なんて、
「味がある」とはこういう演技のことをいうのかもしれない、
と劇場で心底思ったですよ。

ここで彼が浮かべた、幾重もの感情が読み取れる表情って、
そう容易に表せるものじゃないと思うのですよ。
地層みたいなのですよん、この時の彼の表情。
過去に積み重ねてきた幾重もの感情と、「その時」の純粋な茶川さんの気持ちが、
断面図となって彼の顔に浮かんでいるような表情っていうのでしょうか。
茶川さんの過去と現在が、彼のその複雑に揺れる表情からスクリーンを通して
観客にとてもよく伝わってくるとですね。

それからもう一つ、淳之介の父親が、彼を茶川家に引き取りにくる場面も
えっらいえがったよ~、吉岡く~ん。

茶渋がこびりついた茶碗に注がれたお茶を、
淳之介の父親に差し出してからの一連の君の演技には、
国民栄誉賞を差し上げたい。

そしてここでも君は、もちろん地雷を踏まない。
ギリギリの卑屈境界線に茶川さんを立たせているのだ~。

しかし唸らせるよな~、君って人は。
すごく切なかったよ~、茶川さんの表情。

淳之介を物として対処しているまったくデリカシーのない父親に
怒りの気持ちを抱きつつ、しかしうろたえ傷つき卑屈にならざるを得ない
茶川さんの情けなさと、それでも横に座る淳之介をチラリチラリを
横目で守るように確かめる優しさの片鱗を見せる茶川さんの視線が
その顔に交互にクロスして、そりゃ~もうあっぱれやったよぉ、吉岡く~ん。

もちろん監督の演出、脚本の旨さが土台にはなっているわけで。
そこに彼の演技が加わり、三位一体となってこのシーンを成立させている
のは間違いないことであります。
けれどあの絶妙な味のある演技は誰でもが出来るものではない、
と私は思うわけでありまする。

この神業演技があったからこそ、観客はその後に続く下駄履き疾走茶川さんに
ガンバレイッと盛大なエールを送ることができ、
その観客の感情と茶川さんの心情がシンクロすることよって
この場面がクライマックスとしての感動を迎えることができるのではないのかと。

重複してしまう内容だけれども、茶川さんを演じている吉岡くんを観てですね、
この人は本当に観客に確かな安心感を与えてくれる役者さんなんだな~、
と心底思ったとです。

決して観客の気持ちを裏切らない信頼感が、
彼の演技の根底にはあるのではないでしょうか。
だからこそ、それが喜怒哀楽どんな感情であっても、
観客は安心して自分の湧き上がった感情を彼に委ねて
感情移入することができるのではないのか、と思うとです。
そしてそういった連鎖反応が作品自体をも高めていくのではないのかと。

そんな才能を持つ役者さんが名優と呼ばれるにふさわしい人なのだと思われ。

う~ん、マンダム。
たまらんのぉ~、君って人は~。
タックルしたくなっちゃうじゃないか~。



吉岡くんよ、君はかっこええ。

なにを今更言っとんねんな、と思われる方もいらっしゃるでしょうが、
しかし言わずにはいられないのであります。

かっこええよ~、君は~。

精進していく、という言葉がこれ程似合う現代人も珍しいと思うでがんす。
常に努力しながら一途にその道を極めていく、というストイックな心を
あの華奢な体の奥深くに秘めている人なのだと思う。

これをかっこええと言わずに何というのか、アンドレよ。

そしていつだっていつだっていつだっていつだって
君は結果にちゃんと表してくれるのだ。

シビレルじゃね~か、ヒデタカくんよ。
はぁ~、えがったよ~、君のファンでぇ。
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三丁目の茶川さん

2007年04月27日 | 山崎監督作品

茶川氏は爆発している。

細さ爆発。
白さ爆発。
汚さ爆発。
へたれ爆発。
せこさ爆発。
みじめさ爆発。
卑屈さ爆発
哀愁爆発。
そして純情爆発。

わたくしランニング姿に爆発。(おっと余計だったずら・・・)

しかしあの髪型の爆発っぷりはすごい。
最初に氏の姿を見たときは、実写版きのこの山かと思ったですよ。

東の茶川、西のジェームス・ブラウンでありまする。


私などはですね、このあっぱれな茶川氏の感情爆発っぷりが、
この作品の核をなしているのではないかと思うわけで。

いやそんなこといったら、鈴木オートさんだって爆発している、
と思われる貴兄もおありでありましょう。うむうむ、確かにそうでありまする。
しかしこの二人の爆発はその種類が異なると思うのですぜ、旦那はん。

鈴木オートさんの爆発は、それ自体は基本的には形を変えない
瞬間湯沸かし器型だと思われ。

一方、茶川氏の爆発は、噴火したマグマがその後に溶岩となって流れ、
その形自体を変えていく火山大噴火型なのだと思われ。

茶川氏は、そのシーン毎に爆発しまくり、
そしてその爆発噴火によって、作品自体も新たな山を築いていくのであると
思うでごわすよ、おいどんは。


これは決して、誰の話がメインであるのかっ、などと
すっとこどっこいな事を言っているのではないわけでして、
だた、話の起承転結が茶川氏の爆発によって展開されている、
ということを言いたいのでありますだ。

うぅ、うまく説明できない自分が嫌だ~。


群像劇であるからですね、誰だってメインになると思うとです。
誰を主役にしてみるのかは、それは観客が勝手に発酵すればええんでないかい?
と思うですばい。

寅さん映画だって、人によっては満男君をメインにして観るだろうし(それは私だった・・・)、
おいちゃんやおばちゃんをメインにして観る人もいると思う。
ひょっとしたら、あの作業着ごと全身漂白されちゃったような三平ちゃんを
メインにして観る人だって中にはいるかもしれないですばい。
けれどそれはそれでいいのじゃないのか、星くんっ!(←突然登場、花形ミツル)

群像劇というのはそういう懐の広いものであり、
だからこそ「男はつらいよ」があんなに長年にわたって
多くの人たちに支持されてきたのだと私なんぞは思うのであります。


さて、このマグマ大使・文学を演じた吉岡くんでありますが、
感慨深いものがあったとですばい。
味のあるええ役者になったなぁ~、って思って泣けてきたですよ。


この人のすごさは、なにがすごいって、以前にも書いたけれども、
どんな作品でもカメレオンとなって色を変え、
そしてそこに棲んでしまう、という類まれな存在感。

決して自分だけを押し出すような演技はしない。
あくまでも三丁目の住人の一人・茶川さん、として作品の中に「住んでいる」。
しかし同時に、彼は自分の役目をしっかり理解しているから、
ここはというときにはすっと前に出て観客の心を掴み、
そしてしっかりと引っ張っていく。

ツボを絶対外さない究極の按摩さんじゃ~、ヒデタカよ~。
これだからたまらんのだよ~、君って人は。


しかしこの作品での吉岡くんの演技を受け付けられない、
と言う人も中にはいると思う。
私だって、茶川さん系の演技は、時々ならいいけれど、
あまり頻繁にはやってほしくないなぁと思うとですよ。
しかしそれは、あくまでも私の好みで言っているわけでありまするだ。

この作品での彼も素晴らしいと思うことには違いないわけであります。
名優になったんだなぁ、って本当に感動したとですよ。

この作品での吉岡くんは、作品全体を体現した、
という神業演技を見せてくれたんだと思う。

それをですね、彼自身に対する否定感情と混同して、
「純」の演技が大げさすぎて鼻に付くとか、まるで消臭剤レベルの
意見を言う人たちの言葉を聞いたりしますとですね、
あっしなんざ、「ケッ、顔洗って出直してきなっ。」
とついつい言いたくなってしまうのですぜ、親分。

しかし本当に顔を洗って出直されてきちゃっても迷惑でござる。
君たちの言いたいことはわかったぞい。しっかと耳にしたでござるよ。
けれどもそんな彼らの言葉を聞いて、「それじゃ、失敬!」と
エースをねらえの藤堂くんのように晴れやかにも立ち去れないのだっ。
なのでこちらの言い分も言わせていただく。

ええですか?
お目めをきち~んと開けてごらんなされ。
ついでに耳も澄ましていただきたい。

三丁目のどこに「純」がいるというのだ、スネオくん。

しゃ~~~~~~~っ、も~~~~~~~~~~~~っ!!!!!
吉岡くんは「純」じゃないって梅干食べてスッパマンも言っとるだろ~がぁ~っ!!!!
なんでそんな引退した日光猿軍団のおサルさんでもわかるようなことが
わからないんじゃいっ?!!
予習復習はしっかりしなさいっ、と進研ゼミの赤ペン先生が
その指にペンダコを作ってまでしつこく答案に書いていたでしょがっ!
いっそのこと、背負い投げしてエトロフ島まで投げ飛ばしたろかっ?
いや、君たちはインドへ脳みそ軟化の旅修行に行くべきだっ!

鼻につくのは、かまわんじゃないか。
そんなもん嗅ぎつけてるのは自分の鼻なんじゃい。
とっとと鼻をかめば済むことじゃ。
しかし、ちょいと待たれい、そこの小坊主。
大袈裟とはなんじゃい、エ、
聞き捨てならんじゃねぇか~、あんさんよ~。

いいかい、作品にはね、色というものがあるのじゃ。
この映画の色は誇張されているのじゃ。
その誇張色がこの作品の味なのじゃい。
そんな色の作品の中で、この名優くんが一人、
ささやきさんたろうみたいな演技をするとでも思うのかっ、
え、どうなのだっ?!

彼は「作品」というものをまず第一に理解している人なのだよ。
ただ単一に良い演技をしていればいいって人じゃないんだぜ、ヒデタカはよ。

君たちは、そのカチンコチンな石頭にエジソンバンドを装着したらいかがですかっ?

んもうっ、私まで怒り爆発になっちゃたじゃないか~。
お肌に悪いったらありゃしないじゃないのぉ、プンプンッ。

はぁ、気分を取り直してですね、再び三丁目にお住まいの茶川さんに
目を向けたいと思います。

でも長くなりすぎちゃった~。っていつものことだけどぉ。
この後は、つづくですだ。
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水底の涙

2007年04月26日 | コトー先生

コトー先生は志木那島の人気者。いわばアイドルスター。
しかしそんじょそこらの、「歌って踊れるアイドルスター!」とは違くってよ、フフフン。
なんてったってコトー先生は、「ボケってもオペれる新星アイドル!」なのだ。

彼のファンは島民だけに止まらず、なんと最北の果てのなんちゃらの島(←覚えてないんかい)
にも熱狂的なファンを持っているのだよん。
そのファンの熱狂振りはすごくてですね、彼が最終回でコトー先生と
診療所の屋上で会話を交わすシーンなんてですね、そりゃ~まるで、
大好きな先輩を校舎の屋上に呼び出してバレンタインのチョコを渡そうと
モジモジしちゃってる女子中学生みたいやったよ、三上くんっ。

この「コトー&五島祭り」な最終回については、
別ものとして書きたいので、ここでは割愛させていただきまする。

今日はですね、コトー先生の涙について書こうと思いますです。(一体何の前ぶれだったのか・・・)

コトー先生の涙はですね、とても美しいであります。
文字通りの真珠の涙が、ぽとぽとぽとぽとと、
その白い頬を伝って流れ落ちるのですね。
その姿はたいそう美しく、思わずじーーーーっと見つめてしまうという、
まさに大正うららな乙女泣き。

私なんて、もしあんなに涙を流しちまったら、その顔はたちまち、
レコード大勝を受賞して涙に歌う研なおこみたいになってしまうこと
請け合いであります。

その昔、一斉を風靡したアイドル・松田の聖子ちゃんですら、
涙を流す場面では、「おかぁ~さ~ん」と叫んで
泣き顔になったままのドライアイだったのに、
コトー先生は、あくまでも無言実行型の乙女泣き。
ある意味とても男らしい。

そういえば、富良野在住の蛍ちゃんも、たいそう綺麗に泣いておった。
大粒の真珠の涙が、はらはらはらはら~とその頬を流れておったの~。
その姿はまるで竹久夢二の描いた絵画の世界のようじゃった。

ふ~む、そうするとこういう種類の泣き方は、
「道産子大正乙女泣き」というものなのだろうか?

しかしコトー先生は道産子ではないのであった。
たぶん富山っ子だっ!(←執拗に押す自説・・・)

このコトー先生泣きでありますが、これは吉岡くんが以前披露していた
泣き方とは全く違うでありますですね。

純くんは、草太兄ちゃんのお通夜での泣き方を除けば、
「もういいんだよ~。そんなに泣かないで、ね? ほら鼻かんで。 」
とティッシュを箱ごと渡したくなるようなチリ紙泣きだった。
そしてその涙は、日本海の荒波に漂流する難破船系。

満男くんは、基本的にはチリ紙泣きだけれど、
その涙は純君のとはだいぶ趣が違って、それはいってみれば
「太平洋側沿岸に雷雨発生、ところによりバナナ。」な温暖気候系。

他にも、とっくの昔に特許認定されたと思われる、
「はだけまくって一矢泣き」というのもあったりします。


そうだ、もう一種類コトー先生には、必殺涙があったのでありました。
それは、「ウルウル卵焼きふぇすてぃばる」。

これは、コトー先生が、玉子焼きという言葉だけで
ウルウルしてしまうという、必殺昌代技に基づくものであります。

これはですね~、違反じゃよ、君。

卵焼きを目の前にして、うっすらウルウル。
玉子焼きを一口頬張って、ウルウル加速。
それをゴックンして、ウルウル最高潮。
極めつけの昌代さんの殺し文句で、ウルウル限界。
泣くのか、いや泣かないぞっ、ひ、ひっこんだよ~、涙っ!
しかしウルウルステイトメント持続。乙女度アップ。

なんていうことだ、吉岡くんよ。
君は、ウルウル遠隔射撃の名人だ。


しかし何故にあんなに綺麗に泣けるのだろうか、ヒデタカくんよ。
こんな乙女な泣き方が出来る殿方は、ツチノコと遭遇するくらい
稀有なことだと思うぞな。

まるで「乙女泣き事業本部・本部長」みたいだよ。
うらやましいじゃないか~。


けれども、はだけ泣きにしろ、乙女泣きにしろ、チリ紙泣きにしろ、
吉岡くんが場面の中で泣いてしまうと、
ほんっとに見ているこっちまで、
その悲しみで苦しくなってしまうであります。

純君が、草太兄ちゃんのお通夜の席で、
茫然自失になって涙を零すシーンを見た時は、
それがあまりにも衝撃的すぎて、その夜眠れなかったでごわす。

以前にも書いたことだけれど、
彼は決して「状況」に上乗せする演技はしないわけで。

ドラマは虚構であるから、即ちその全ては所詮まやかしである、
なんて究極論を唱える人もいるかもしれないけれど、
しかし彼が役を演じるにあたって、その心を削るようにして吐き出す感情は、
正真正銘の彼の心の波動であり、それは確かな真実性をもって
作品の中に存在するものなのだと思う。
だからこそ、これ程までに彼の演技が沢山の人の気持ちに深く響くのだろうと。

彼が作品の中で泣くとき、それを見る者は、
彼のもつその悲しみに触れて、そして彼と一緒に涙を流すのだと思う。

ヒデタカくん、
君の存在はね、人の心に深く棲んでしまう地底人の要素も持っているのだよ。

はぁ~、どうしたらええじゃ、この気持ち・・。
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モルツくんのお引越し

2007年04月24日 | CM

♪モルツ~モルツ~モルツモルツ~モルツ~モルツ~モルツ~モルツ~♪

この歌を聴いたり口ずさんだりすると、自然と体の動きが早送りになるので、
仕事や家事の能率が上がりやす。

おっ、この歌によって、国の生産および消費率がググ~ンと上がって、
今や慢性化した不況も解消されるかもしれない。
日本の夜明けは近いぞっ、安倍くんっ!

そんなことはさておきですね、今日は、さんとりもるつ君の
お引越しの模様を書こうと思ったのでした。

題して「モルツくんに対する考察・其の三」。(←題するほどのことなのか・・・)


新しい町に着いたモルツくん、お引越しの荷物も無事に届き、
それを高台にある新居、スーちゃん所有の借家へと、おいっちに!
と爽やかに石段を登って運んでいきます。
その模様を音声化するとですね、こうなるわけです。

「ぃっしょっ♪」「はぁ~はぁ~」
「っよぃっしょ♪」「はぁ~はぁ~」
「ぅいっしょ♪」「はぁ~」

どぅゅぅぁああああああああっしゅっ!!!! 
やめてくれ~いっ、その自発効果音!
こっちまで心拍数急上昇の呼吸困難で、はぁ~はぁ~って
なっちゃうじゃないかぁ~。

なんなの、なんなの、これは一体何のCMのつもりなのです? 
酸素ボンベのコマーシャルなのですか?

ほらぁ~~~~~、また頭の中がきみたちキウイパパイヤマンゴな
わけかわらん状態になっちゃったじゃないか~。
バカみたいなのよぉ、私ってばぁ~。


モルツ君、
おぬし、狙っているのか?

そうだとしたら、悔しいが、君の任務は成功されたぞよ。

しかし石段を昇り降りするだけで、こんなにも見ている方に
アドレナリン沸騰させてしまうなんて、
君こそ真のアクションスターなのかもしれない・・・。

困ったことに、君は自分で自分の効果音まで出しちゃうのだよ。
そんなことはウルトラマンだけがしていればいいことなのよっ。
まったくぅ、それは人件費節約のためにしたことなの?
それはいわゆるひとつのエコロジークラスでいきましょう、
ということなのですか? 
確かにこれを製作したサントリーさんの目のつけどころはシャープである。

それからね、大家のスーちゃんに「よろしく。」とか言われて、
むぎゅんって頷いちゃったりしちゃうのよ、君ってばぁ。
も~~~~~~~うっ、そんなの見せちゃったら、
大家のスーちゃんの母性本能が爆発しちゃうじゃないかっ! 
私なんてそれ見た瞬間「ボンッ!」って
母性本能が十尺玉花火になって頭から噴き出しちゃったよっ。
公務執行妨害じゃないか、君。出来ることなら逮捕したいでごじゃるよ。


しかしまったくモルツくん、君という人はだね、まるで
「ぼくゴマちゃんでもジゴロ、ふふ。」
みたいなんだよ~。(←よくわからん・・・)

う~ん、あなどれないやつ。

それから、あのダンボール一杯に詰まった、ボールくんたち。
あれは一体・・・・・・・・・・・、何?

いや、CMの小道具だというのは、わかっとりやすで、旦那。
しかし吉岡くんという人は、周知のとおり
「お茶の間の勝手にご近所さん」の王道を歩み続ける人であり、
なので私なんて、ついついそのキャラ状況を想像しちゃって、
気持ちはまるでとんでイスタンブ~ルなのだ。(←壊れているぞ・・・)

「なんかぁ、捨てられなくて・・・。」って言ってましたね、君。
ということは、あのボールくんたち一同は、
転勤の多そうなモルツくんと一緒に、いつもいつも、
土地から土地へと渡り鳥なのね。
ずっとず~っと、モルツくんと一緒なのね~。

・・・・・。

私の人生で、まさかボールに羨望する日がくるなんて思いもしなかった・・・。

すごい必殺キャラだ、モルツくん。

「っよぃっしょ♪」なんて、一体どこの星の人なのだろうか?
ツボツボ星人なのですか?
も~うっ、君ったら、ツボツボだったりスリスリだったりウリウリ
だったりヌボヌボだったりルルルルだったりカニカニだったり、
四文字大魔王だとでもいうのですかっ?
そのうち君は、国の天然記念物に指定されること間違いなしだ。



吉岡く~ん、私は思う。
君ってば、本当に私たちと同じ人間なのだろうか? 
もしや、ヨシオカヒデタカという単一生物なのではないのですか?
モルツくんな君を見ていると、そう思わずにはいられないのだよん。
なぜなのぉ?
君は、ちっさいころは人間だったはずだ~。
そんなこと思ったら、なんかわけもなく切なくなっちゃって、

吉岡くん 吉岡くんたら ヒデタカでもあるのね   字余り

なんて暮れ行く夕日にむかって俳句を詠んじゃったりしちゃうのよ、アホなのよ、あたしってば~。


ヒデタカくんよ、
君はどんどんどんどんどんどんどんどん発展していってしまう人なので、
追いかけるほうは大変なのじゃよ~。
切ないじゃないか~。

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縦男くんの夏休み

2007年04月23日 | 黒澤映画

まず一言。
縦男という名前は、かっちょいい。

ということでですね、今日は縦男くんについて書きますだ。

黒澤映画でありまする。
英題は「Rhapsody in August」。なんとも潔い直訳(すぎるぞ)。

この作品に吉岡くんが出演するということを聞いたときは、
「やったぜパパ! 明日はホームランだ!」みたいな浮かれっぷりでですね、
当時のあたくし、早速、映画好きな友達にこう報告したとですよ。

私「友よ、聞きたまえ。ヒデタカくんが黒澤映画に出るのだ!(ふふ、すごいじゃろう?)」
友「ヒデタカって誰?」
私「え? あ、満男くんだよ~、寅さんの。」
友「だから誰よ?」
私「・・・・ほら、北の国からの。」
友「あ、純君ね。早くそれを先に言ってよ。」
私「だけど、彼はほんとは、ヨシオカヒデタカって言うんだよぉ。」
友「で、純がどうしたの?」
私「あのね、あのね、黒澤映画に出るんだよ!(どだ、まいったろう、君。)」
友「で?」
私「え? 黒澤映画だよ、世界の黒沢だよっ。(降参したのではないのか~、友よ?)」
友「ふ~ん。」
私「(ふ、ふ~んとは、なんなのだっ?)すごいでしょ?」
友「ねぇ、そのヨシオカヒデタカって名前さぁ」
私「うん、なになに?」
友「選挙ポスターみたいな名前だよね。」

まったく実のない話に終始してしまった悲しい記憶。
私はその時忘れていたのだ。
彼女は、黒澤だろうが、黒飴だろうが、黒豆だろうが、
まったく邦画には目もくれない、
メルモちゃんみたいな可愛い顔した頑固一徹野郎だったことを。

彼女みたいな人って、結構いますよね~。
邦画ははなからだめ~、みたいな。
もったいないなぁ~、って思うとです。

さてさて、この映画ですが、静かに始まるトップロールの後、
壊れた古いオルガンを弾く白魚のような手をもつ少年・縦男くんのシーンから始まります。
おわっ、いきなり登場の縦男く~ん。
まさか一番最初のシーンから出てくるなんて思っていなかったから油断していて、
飲んでいたアイスティーを鼻から逆流させちゃったよ~。痛いじゃないか~。
しかしびっくらしたですばい。
ここから続くその後のシーンで、「壊れたオルガンを直したい縦男くん」
という面がなにやら強調されていたので、これはてっきり、
壊れたオルガン=おばあちゃんの心←おばあちゃんの心を救おうとする縦男君大活躍の巻なのかっ!? 
ヨ~ロレイヒ~!
と一人でエヘエヘしながらウキウキ予測を立てたのだけれども、
しかし取り立ててそんなこともなく、物語は静かに淡々と進んでいきやした。

これを当時最初に見た時の私の感想はですね、
「う~む、これは難解すぎるぞ。どこかに解説書はないのだろうか?」
という、デジタルカメラを目の前にして困っちゃったおばあちゃん、
みたいな感じのものだった。
世界の黒澤映画=難しいのではないか? 
いや、難しいに決まっている! 
乱を観たとき、難しすぎて寝てしまったほどだっ! 
という、まるでETみたいな頭でっかちさんになってしまっていたんですな~。

しかし、今これをDVDで改めて見返してみるとですね、
話はとてもシンプルで分かりやすく、そこには上から下へ流し込む
インテリ臭みたいなものは、いささかもないのがよくわかりまする。
それは、縦男くんを含めた、まるで南アルプス天然水みたいな
純度100%の従兄妹たちに表現されているように、
とてもまっすぐで、驕りがない。
個人に合わせてその作品も色を変え成長していくんですな~。
それは決して心の中で古びていかない。
そういう作品を名作というのでしょうね~。
う~ん、マ~ベラス。

この縦男くん(しかしほんとにかっちょええ名前や~)、
「君は一体、なにを食べて育ってきたのですかな?」
って彼の体内栄養成分表を見てみたいと思ってしまうような、
そりゃ~純粋培養されたような男の子ですと。
それは言葉を変えて更にいってみればですね、
「十年後に結婚してくださいっ! しかし今は結構です。」
みたいな、しばらく額に入れて飾っておきたいような純粋さを
持っているっていうのかな~、なんかうまくいえないけれど、
そんな穢れのなさを携えた男の子って感じなのでごじゃります。

それからなんていうんですかね~、こう、ほどよいのびのび加減が
非常にグッドって感じなのですよん。
のびの~び、でもないし、の~びのび、でもないし、のび~のび~、でもない、
生粋の「のびのび」。

それは、彼本来が持っている「純粋」くん「のびのび」くんを、
黒澤監督がその手法で、うにょにょ~んとスクリーンに引き出したのでは
ないのだろうか? と思えるほど、それは自然で、嫌味がないでがんす。
観ていてほんとに気持ちがいい。

そしてこの作品の中でも、彼は立派に自分の役の役目を理解して、
スクリーンの中に存在しているでありまする~。
小学校の校庭を訪ねるシーンがありますけど、黒澤監督は、
この場面で縦男くんが言う、
「それはね、この世で一番怖いものを見た人たちだからだよ。」
というその言葉によって、このシーンを成立させているのだと思うのでありますが、
しかしそれは、我らがヒデタカくんの演技なくしては語れな~い。
彼は、その絶妙なバランスで抑えた感情演技によって、この大事なシーンに、
きちっと旗を立てているんですな~。
それはまるで、寂寥とした土地にそっと静かに木の苗を一つ植える、
といったような感覚の言葉の響きだったよ。
当時彼は20歳になるかならないかの男の子。
あ~~~っ、なんてトレビア~ンなのだ、君は!
そんなに惚れさせんでくれ~、ヒデタカく~ん。

女の子たちの台詞が、少し児童文学書みたいな響きに聞こえちゃう以外を除けば、
この従兄妹達は、ほ~んとに自然。
おばあちゃんの家でひと夏を過ごしている生活が、
とてもリアルに、そこから伝わってくるでありますよ。
そしてその従姉弟たちが、黒澤監督によって、とてもとて~も
大切に撮られているっていうのが、スクリーンを通して
よ~く伝わってくるですだ。
その暖かさが、この作品の一つのメッセージでもあるのかな~、
なんてこの作品を見直してみて、そう思いましたですばい。

この素晴らしい作品を作りあげた人達の一人としてクレジットされている
彼の名前をエンドロールで見たとき、
なんかものすごく感動したとです。
コメント (5)
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リンメイ先生

2007年04月20日 | 杉田監督作品

マチルダ中尉が出ていたのでビックラこいた。
もとい、マチルダ中尉の声の女優さん、でした。
いや、私、決してガンダムのファンではないのですが、
このマチルダ中尉は、時折見ていたその番組の中で、
子供の頃の私の目には、えっらいかっこいい女性として映っており、
そんな彼女をどこか理想の女性として見ていた所があったのですね。

お、いやいや、そんなマチルダ論はどうでもよくてですね、
今日は、リンメイ先生のことについて書こうと思ったですだ。

このリンメイ先生登場作品は、事前に原作を読んでいたので、ドラマ鑑賞中は、
「あそこのシーンはどう演じているのかなぁ?」とか、
「早くあの原作にあるシーンがみたいなぁ。」とか、
「あの原作にある場面は、絶対買いだっ! 早く見せてくれいっ!」などなど
フライングしっぱなしで、気付いてみたらドラマはいつしか終わっていた、
という、ある意味非常に涙をそそった作品でありました。
やはり、原作は観てから読む方がいいのかもしれない。
わかっているのに、それでもやはり先に読んでしまう、学習能力のまったくない私・・・。
馬鹿みたいだぁ、うぅ。

で、涙を拭いてからですね、また作品を見直しましたですよ。

このリンメイ先生、なんかお月見劇場みたいな人やった。
静かにそっと宵闇に浮かぶ月であり、
そよぐ夜風に銀に白に光り揺れるススキでもあり、
強く弱くそこに響き続ける鈴虫の音でもあり、
お皿に盛られた白団子くんたちでもあった。
そこに草叢からタヌキくんが顔を出したら完璧だ。

松平さんについては、なんだか派手な着物を着て暴れまくっている
将軍様及びチャチャチャなダンサーらしい、という基礎知識はあったものの、
実際にこの人の演技を見るのは、これが初めてだったであります。
吉岡くんとのダブルキャスティングを聞いた時は、
「なんと思い切った発想、杉田成道。」と思ったけれど、
蓋を開けてみれば、「やるじゃねぇ~か、杉田成道ってばよ。」
って感心したですばい。
二人が対峙する数々のシーンは、どれも見応えがありやんした。

作品中、特に私が、おぉ~、と感嘆したシーンは、初公判の場面。

抑えながらも確かな強さをもって自論を押していくリンメイ先生。
それはまるで、的確にハーケンを打ち込みながら高みへと登っていく
クライマーみたいな演技やったよ。
担当刑事への尋問シーンで、判事に頭を下げる場面なんて、
畳み込み方が絶妙~。
呼吸の入れ方、出し方、声を出す瞬間が、まさに「間髪入れず」。
かっこええのぉ、ヒデタカ。おぃちゃんは、うれしいぞ。
でもその後がちょびっとだけ息切れカミカミ君だったよね、ふふ。(←何者っ?)

そしてですね、私の感嘆が最高潮に達したのは、次に続く内藤教授への
尋問シーンですだ。
内藤教授によって得られるはずであった確信証言が覆されてしまうときの
彼の醍醐味演技。
あそこで、一気にヒデタカくんの演技が「受身の動」にガラッと
変化するのがわかる。
彼は、場面ごとのツボというものを的確に捉えるのだ。ワンダホー。
内藤教授の裏切り証言によって、そこにくるまでにリンメイ先生が着実に
積み上げてきた自信が、ガラガラガラっと音を立てて一気に崩れていくのが、
彼のぎこちない体の動き、震えつかえる声、揺れる目線、
せわしなく資料を捲る指から、グイグイグイグイグググ~イと、
こちらに振動されてくるのじゃね~。
崩しながら盛り上げていく、という反比例効果の演技。おぉ、なんと深いのだ。
リンメイ先生危機一髪!というこのシーンでのクライマックスを、
このぶざまに狼狽しまくる演技で、彼は完成させるのでありますよ~。
惚れるじゃねぇか~、えぇ、ヒデタカよ~。

それから、第二回公判のシーンで、
まごつき戸惑いながらも証言をした恒蔵の妻を、
無言で見つめる、あのリンメイ先生の顔。
憐憫、哀切、やるせなさが深く深く沈殿する表情。
あれって、視聴者の感情を代表していたみたいな表情だった。
深い。深~い。ふぅかぁ~~い、の三段階活用。
一度君にはひれふした方がいいのかもしれない。

あ、そだそだ、恒蔵の護衛を演じていた役者さん、
あの人って、コトー2003で「自衛隊病院の高村ですっ!」シュタッ!
とコトー先生に敬礼していた人なのだろうか? 
似ているぞな。

それからなんといってもですね~、場面は前後してしまうけど、
言わずにいられないのがですね~、
友人を訪ねに、リンメイ先生がテレビ局に現れるシーンなのですよぉ。
だってだってだぁ~ってぇ~~~~~~、
勝村さんが、リンメイ先生を後ろから抱きしめてウリウリしちゃうんだよぉ。

フフ。

これをなんと呼ぶか知っているかい、チキータ?
ちょいと、叫ばしてもらうよ。

シュウちゃん抱きカ~ンバァ~ックッ!!!!!!

動悸、息切れ、めまいの救心。
これですもの、これですもの、たまりませんよぉ。
なんと素晴らしいのかっ、杉田監督よ!
今度日本に里帰りするときには、フジテレビに向かって
柏手を打ちますわっ、あたくし! 
いやぁ~、それにしても何度見てしまったことやら、この場面。
んも~う吉岡くん、君って人はこういうシーンになると、
急に乙女になっちゃうからリンダ困っちゃうのだよ。
お陰で私の頭の中は一気に、チ~ロ~リア~ン♪ な状態に
急変しちゃったじゃないか。
しかし、こんなにスリスリウリウリされちゃうのが似合う男の人は、
誰か他にいるのだろうか? 
スリスリ星から来たウリウリ星人なのかい、君は?
なんか生産地不明のわけわからん野菜みたいな響きじゃないか、それってば。
だぁ~、もう~、まともなことが書けなくなっちゃったじゃないかぁ~、
ウリウリ星人ってばっ!

持田女史とのコミカルなやり取り、利一さんとの哀感漂うシーン、
恒蔵との怒りを露呈するシーンなどなどな~ど、うふふふ。(←こわい・・・)
ヒデタカくん、君は何故にたった一つの作品でこんなに
メリハリのある凄い演技を見せてくれるのか?  
ハッ、そうだった、そんな「メリーとハリー大活躍!」なヒデタカ節を、
もっと書きたかったのだった・・・。
いいや、またの機会に書いてみよ~っと。
しかし、見ごたえのあるお人ですね~、君って人は。
ますます惚れちまうじゃないか。

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満男くんと純くん

2007年04月19日 | 思うコト

吉岡くんの演技を評価する人は多い。
しかし、もちろん批判する人も少なくない。
それは一向に構わないことでがんす。
批判がなければ、評価も生まれてこないでごじゃる。
しかし、屁理屈と批判を混同している人は、許せんぞ、三四郎。
そういう人たちにはですな、常套句があるのだ。それは、
「純はなにをしても純だな。」という、
まるで創造性のその字もない言葉でR。
まったくなんてこったい、オリーブ。
君たちはだね、さいた さいた さくらが□□□。 ←この□に入る言葉を書きなさい、
の問いに、「さいた」としか言葉を入れられんのかっ?
そんな考えじゃ、「ばかものっ!」と吹き出し付きで波平さんに一喝されてしまうぞっ。

いいかい、それは、「さいた さいた さくらが さいた」ではなくても
ええのじゃ。

さいた さいた さくらが ちった であっても、
さいた さいた さくらが きれい であっても、
さいた さいた さくらが ぴんく であっても、
さいた さいた さくらが だんご であっても、

それはみ~んなそうなのだから、そうであって、それでいいのだっ!

純はなにをやっても純。
こういうことを九官鳥のように繰り返し言う人たちはですね、
純=純という漬物石みたいな先入観で頭がカチンコチンになっているから、
そこに融通無碍な見解は、ま~ったく見られないのだよ、アミ~ゴ。

チッチッチッチ。
いいかい、よく見るのだ、九官鳥くんたちよ。

①「純は」←(吉岡くんなのだ。)
②「なにをしても」←(ほ~う。)
③「純だな。」←①に戻る。

( )がないと、全くもって非生産的。
君たちは、ケロンパと一緒にカチンコチン体操に励むべきである。

一番いけないことはですね、こういう漬物石な人たちに限って、
純くんも満男くんもコトー先生も、きちんと見ていない人が多いということ。
まったくもう、わかったようなわからんことを言ってないで、堂々と
「なんか嫌い。」と正直にいえばええのじゃ。
私なんて、「好きなんだから好きなんじゃ~っ!」と街頭で叫んで
おまわりさんに職務質問されたってかまわないぞいっ。
潔くしようじゃねぇ~か、兄さんよぉ。

満男くんと純くん、この二人は、
どこにでもいる人・青年部代表です、ども。
みたいな人物たちなのだすよ。
それを同時に、ヒデタカくんは20年近くにわたって演じてきたのだぜ。
それぞれの作品をきちんと見れば、おのずとこの二人は
全然違う人物であることがよ~くわかるのでがんすよ。
声の出し方、笑い方、歩き方、箸のはこび方、泣き方までも、それはそれは
繊細に演じ分けているのだ。
その繊細さがわからんのかぁ~、どりゃ~っ!

きっと、漬物いっし~な人たちは、凶悪犯とか常軌を逸した役などに見られる、
ひぇひぇひぇっ~とか、ギンラギラ~とか、ジョワッ、とかにみられる
「音量大」みたいな演技に感謝するタイプなのかもしれない。
それはそれでいいんだよん。でも、屁理屈はいかんじゃないかぁ、
と二宮金次郎さんも薪を背負いながら言っていたではないかっ!(ほんとか?)
純くんはちょん髷、満男くんはアフロヘアーにしていたら、
君たちの意見もち~っとは変わっていたというのか、小次郎よ。

満男くんと純くんを演じるにあたってですね、この
「えぇ、あっしは、まったくもって普通でしてね、へへへ。」
という二人のキャラを、長年にわたり、
その外見は全く変えることなく演じ分け続けたヒデタカ君に、
私は感謝の気持ちをもって、表彰状並びに伊香保温泉宿泊券を差し上げたい。
お帰りの際には、温泉饅頭をつけてもいい。

そしてもう一つ、聞き捨てならない言葉について。
「純は、ほんとに作品に恵まれているな。」←これ。
なんなのだ、その文学崩れの現国教師成れの果て、みたいな
鼻持ちならない言い方はっ?
もう、これだから本ばっかり読んでないで、少しは外の空気を吸ってきなさいって
言っているのよ、お母さんはっ。
外に出てみるのだ、君たちよ。
そして、ちょっと周りを見渡してごらんよ、セニョ~ル。
木漏れ日が、青葉を通して柔らかく綺麗に揺れているだろう?
そよ風が、木々の葉をそよがせて、優しい音を奏でているだろう?
それは、単に、「木」だけがもたらせる現象ではないのだぞ。

物事はね、多面性をもつものなのだ~。
それを頭で解釈するのと、心で探知するのとは
大きな違いなのだと思うぞ、おやっさん。

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職人気質

2007年04月18日 | 思うコト

もるつ君と大家のスーちゃんとの映像を見ていて、
つくづく思ったことがありましたです。
吉岡くんは、誰とでも、ほんっとによく融和してしまうお人である、と。

いや、融和と言う言葉は語弊があるぞなもし。
なんというか、こう、カメレオンみたいなんですな。
相手に合わせて、色を変えるけれども、
しかしカメレオンはカメレオンであり、
自分本体を変えることはなく、そこにきちんと存在している。
そんな感じですたいね。

まぁ、それは対象が役者さんだけということに限らず、
彼がそこに立つ場所であったりもするわけだけれど。

シルクロードでの青空市場の場面なんて、
一瞬「ウォーリーをさがせ!」の絵本を見ているのではっ?
と錯覚しちゃった程、あの風景に調和していたですね~。

そういえば、ルート先生も、黒板とよくマッチしていたでがんす。

自己主張の全くない、存在感。
これ、すごいことだよ~。
すごく奥深い。
なんか一種の伝統芸能みたいずら。

彼が主役を演じているときも、
主役=俺(私)の作品 
という驕りが、見ているほうには感じられない。マ~ベラス。

主役とは、目立つだけのものではない、という美学。
主役とは、周りを包括し、惹き立てる存在のものでもあって、
そうすることによって、主役も生きてくる、という美学。
しかしけれども、決して自分であることは失わず、
確かにしっかりとそこに存在している、という美学。

そんな心念みたいなものが、彼の演技からは感じられるとですよ。
2006でのコトー先生を見ていて、特にそう思ったですばい。

出番の量を気にする役者さんがよくいるけど、
そんなことは彼には関係ないのだろうな~。
主役であれ、脇であれ、ただただ真摯に、その役に命を吹き込む、
その役の人生を生きる、ということに全てのエネルギーを注ぐのだよね。
作品とはなんなのか、という原点に、いつも目を向けられる人なのだろう、
と思うぞな。

しかしこれってよっぽど強い心念がなければ出来ない技じゃよ~。
だって、彼ほどの才能があれば、いつだってどこだって作品の中で
「跳び出ちゃう」ことは出来るはず。

けれどおそらく、それは彼の美学が許さないことなのだろう。
そんな事をするのは、全くの愚の骨頂であり、
チャンチャラおかしくてやってられないぜ、と思っているのかもしれない。
彼の姿を見ていると、なんかそう感じられてくるのですよ。

よく、「主役を食う演技」って言葉は、たいそうな褒め言葉として
形容されるけど、私は全然そうは思わないですたい。
以前に、自分の別のブログにも書いたことなのだけれども(その後すぐに消しちゃったけど)、
だいたい主役を食うなんていうのは、その食っちゃった役者さんが、
自分の役の立ち位置を、その作品の中で全然理解していないゆえに
起きることなのではないのだろうか、と私なぞは思うでありますよ。
まぁ、主役がど~しようもないくらいヘッチャラケな演技を
してしまっているのなら、必然的に脇が沸きあがってきてしまう、
というケースも確かにある。しかしそうでなはくて、
作品全体が非常に調和良く保たれているのにもかかわらず、
そんな中で「主役を食っちゃう」というのは、いわば、
全員一致団結して優雅にクラシックバレーを踊っている中で、
一人ブレイクダンスなんか踊っちゃって悦に入っている勘違い野郎、
みたいな感じに見えちゃうんでやんす。
それは上手い演技、というのではなくて、自己顕示欲な演技以外の
何者でもない、と私は思うでごわすよ。

吉岡くんには、その演技に役者エゴというものが全く見られない。
松竹で育てられてきた、ということがそこに大きく影響しているのかもしれない。
彼が周りの名優さん達から受けてきた影響というのは、
第三者の私なんて計り知れない程の大きさがあるのだろう。

真の影響というのは、受け手が受けとる皿を自ら持って
初めて成立するものなのだと思う。そして彼は、上等な皿を持っている。
やはり、彼には名優となる心の資質が、幼少の頃から備わっていたのだろうと
私には思えてしかたがない。

ヒデタカくんは、匠の人なのだと思われ。
自分独自の美学を持ち、その道を歩み続ける。
紆余曲折であれども、やはり歩んでいく。
それは、誰にも邪魔することはできないことなのだろう。

美しいな、と思う。


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万華鏡な君

2007年04月17日 | コトー先生

コトー先生は美しい。
彼が時折ふっと見せる表情は、とても静謐で、美しいでござる。

それはあたかも、誰も入ることのない森の奥深くに、
ひっそりと存在する泉のよう。

とりわけ2006のコトー先生は、全体的に振り返るとそんな印象がしたですよ。
この人は、苦悩すると、その美しさが増すのだろうか?
特に横顔なんて、イオナの化粧品のCMに出れちゃうのではないだろうか、
と思える程の美しさ。そして真っ白。

吉岡くん本来の肌の色からは、焼けちゃいましたぁ、
みたいな肌色のコトー先生だけれど、しかし南国の島で、
毎日自転車で往診しているという設定を考えれば、
コトー先生ってば、それはそれは美白ちっく。
なんてうらやましいのだ・・・。
一体何の化粧品を使っているのか、一度聞いてみたい。
いや、もしかしたら、コトー先生は天然でもあるから、
間違って漂白剤で顔を洗っちゃったりしているのかもしれない。

2006シリーズ中、印象に残ったシーンは沢山あったけれど、
その中でも、とりわけ印象的だった一つが、7話の最後、原さんとのシーン。

この時のコトー先生ってば、美人コンテストに出場できちゃうのではないかい、君?
と思えるほどに、そりゃ~たいそう美しかったよのぉ~。
まるで薄く透き通ったびいどろ細工みたいやった。

そしてその美しさに浸潤するように浮かべた表情が、すごかったっす。
原さんから、彩花さんの状態のことを婉曲に指摘される場面での、彼の表情。
顔のどこのパーツも動かさない、しかし表情がみるみる変わっていく。←これですぜぃ、旦那。
ぞんわ~っと全身が波打ちだったよ、あの時。
台詞が一つもないからといって、

①!っとびっくり豆鉄砲→②推理するぞ、コロンボ刑事→③苦悩するインドの苦行僧 

みたいな、あからさまで安易な演技は、彼はぜ~ったいしないのじゃ。

おぉ、なんてすばらしいのだ、君はっ!

原さんの言葉を聞きながら、心の中で動揺しまくっているコトー先生の気持ちが、
あの微妙で繊細な表情の変化によって、それはまるでテレパシーみたいな周波で伝わってきたよ。

しびれるぜ~、ヒデタカ。

それにしても、あのシーン、映画館で観たかったな~。
凄さ倍増だったろうなぁ、銀幕で見ていたら。

そしてもう一つ、追加して書いちゃお~。
2006・四話で、春江さんの緊急治療が終わった後、
診療所の待合室で泣き出してしまう信ちゃんを、静かに見つめる
あのコトー先生の表情。

くわぁあああああ~、思い出しただけで腕立て伏せしたくなっちゃったよっ!(←自分で書いてて理解不能)

一体どうしたら、あんな表情を浮かべることができるのだ、君って人は?
あのたかが数十秒の中で、君は心に浮かんだ小さな物語を
その表情に次々と浮かべて、私たちに語るのだよ。

それはそれを言葉にのせるとすれば、
「あぁ、そうだったなぁ、この時期の男の子は。」みたいな、
「わかるよ、信ちゃん、その気持ち。」のような、
「純粋なんだね、信ちゃんは。」という感じの、
「いいんだよ、大丈夫だよ、それでいいんだよ。」とか、とか、とか~!!!

スクワットしたくなってきちゃったじゃないかっ!
どうしてくれるのだっ、君のすごさはっ?!

可愛かったり、美しかったり、かっこよかったり、ぬぼ~んとしてたり、
まるで妖怪七変化みたいなのだぜよっ!

何故なのだろう?
君は、役、状況によって顔まで変化するのだよ。
美しいのに、小動物系。これはやはり新種の生き物なのだろうか?
「アライグマ ラスカル」のスタンリー少年とラスカルを、
君なら一人二役出来るに違いない。

その容貌まで変える男、八千種ヒデタカ。
あまりこの言葉って頻繁に使いたくないけれど、
しかしどうしても言いたくなってしまうぞい、
やはり君は、天才である!と。

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田野誠くんのこと

2007年04月15日 | 杉田監督作品

私が吉岡くんのファンになったのは、諏訪満男くんがきっかけであり、
その満男くんにより切符を渡され電車に乗り、
純くんの「情けないじゃないかぁ、父さぁん!」
で快速電車に乗り換え、次いで優駿の誠くんにより、
それは暴走機関車へと変化し、現在も爆走中、という
「その人に歴史あり」な遍歴を経ているのであります。

吉岡くんは、その華奢な体、そして、ふっとどこかへ消えてしまうのではないかという、
刹那的な雰囲気を醸し出しているのにかかわらず、
病臥する役というのは、映画・優駿の田野誠くん以外他にはない(と思う)。
あの、「儚さ凝縮パックでお届けしましたぁ!」
みたいなコトー先生だって、ハードワークのラーメン食いで、
炎天下の中、毎日遠路をチャリンコでキコキコ往診していて、
「もしや、コトー先生が一番命の危機に晒されているのではないだろうか?」
なんての懸念をよそに、本人はいたって元気なスーパージェッター。

彼が、現在までに演じた「若くして命を失ってしまう人物」は、
この田野誠くんと、赤穂浪士の一人・矢頭教兼、この二人(のはずだ)。
この二人の人生は、ひたすら悲しい。
絶望的に、まったくもって救いようがない。
この二人を思い出すたびに、私なんて、まるで催涙弾を集中投下された
森進一みたいな顔になってしまって、大変でありまする。

映画「優駿」は、豪華キャストで、内容もどっさり豊富な、
ちゃんこ鍋みたいな映画なのだけれども、
この映画を劇場に観に行った当時の私は、
天真爛漫能天気120%の血液で循環されておった花のティ~ンエイジャ~。
「み~つお君さえ観れればいいんだも~ん、うきゃきゃ♡」
みたいな、完全おサルさん状態であったので、別に他に誰が出ていようが、
作品の出来がどうであろうが、全然お構いなし状態。
当然、鑑賞中の私の全神経は、吉岡くんに集中しており、
だから彼の最初の台詞「すいまぁせぇ~ん!」
が聞こえたときには、「やっと出たわぁ~、きゃぁ~♡」などと
血液沸騰させちゃって、盆暮れ正月一気に来ちゃったみたいな
浮かれっ子状態で、そりゃ~大変だった。

しかし、しかし、しかぁ~し、そうだ、そうだ、そうなのだ、
私は、その時、浮かれまくってた余りに、吉岡くんの才能に
油断していたのでありまするよ、アミ~ゴ。

この作品に出ているのは、満男くんではない、
ということは、鑑賞前に、もちろん頭では理解していたけれども、
心では感じ取っていなかったアホな私。
スクリーンに登場した「満男くん」に、ウキャウキャウッキキ~と
ハイ・モンキー状態になっていた私は、しかし次に続くシーンで、
はっと正気に戻らされたんですね~。
そこには、突然自分の病室に現れた年上の女性・久美子に
戸惑いながらも、徐々に心を開いていく(開きたい)孤独な少年、
誠くんがそこにはいたわけです。
それは、まぎれもなく、田野誠、という一人の少年だったのでがんす。

この誠少年、とにかく悲しい。
彼は、自分の命が終わりつつあるのを知っている。
それは、砂漠に一人彷徨う旅人が、柄杓に残された最後の水を、
少しずつ飲み干していくような感覚なのかもしれない。
悲しすぎるんですよ、この子ってばもう。

自分の馬となったオラシオンに全てを掛けるしかなかった、17歳の少年。
ほのかに恋心を抱いていたであろう久美子とは、実は異母姉弟だったと、
久美子本人からではなく、自分の母親から、自分が危篤になった時に
初めて聞かされた、誠くん。
もう助からない、と自分で悟った時に、そこでやっと目の前に現れる、
命綱を持った父親。
そしてそこにある最後唯一の望みを、必死に掴み取ろうとする誠くん。

悲しすぎる。
救いようがない。
どうしてくれるんだっ?

誠くんのラストシーンを見終わった時点での私は、
まさに涙腺破壊状態で涙を流しに流しきり、完全に全身旱魃状態。
もう、その後に続く話の内容なんて、
「あぁ、とにかくオラシオンさえレースに勝ってくれればそれでいいよー!」
ってな投げやりな態度で、それは観ているのか観ていないのか、
しかしそんなことはもうどうでもいい状態だった。
もう、悲しくって、悲しくって、気分がドドーンと落ち込みすぎちゃって、
そのまま地底に沈み込んで、マグマを通り越して、ブラジルにまで突き抜けちゃって、
そこでコーヒーの豆売りで人生やり直そうかと思ったほど、
深く深く考え込んでしまった。
それくらい(ってどのくらいやねんな?)鮮烈でリアルだった、
誠くんを演じたヒデタカ少年の演技。

最後のシーンで、父親がビニールで囲われたベッドのカーテンを引き開け、
その中のベッドに横たわる誠くんの顔がスクリーンに映し出された時なんて、
観ているこっちの方が心停止しちゃうのではないかと思ったくらいの
衝撃だったでありますよ。
そのシーンの時、満員だった客席から「ざわざわ」っと空気が揺らいだのを、
今でもはっきりと覚えている。

こういう薄幸の少年を演じるときには、
「僕ってこぉ~んなに悲しいんだよ。ささ、泣いて頂戴、見て頂戴。」
みたいな媚が、演じ手の中には見えちゃうものだけれども、
この吉岡くんの演技には、それは全くないっ、と断言できるっ!と力説。
等身大の、生きたいと願う、しかしどこかでそれをとっくに諦めてしまっている17歳の少年を、
彼は「状況」ではなく、しっかりと「気持ち」で演じていたのだと思うのでありますよ。
もちろんそこには、杉田監督の演出のすばらしさも大きいのだろうけど、
しかしそれにしたって、それにきちんと応え「媚」に全く頼らない演技をした、
少年・ヒデタカくんは、まさにエクセレントであったわけでありまする。
そんな君に、どすこい惚れ直してしまったのだよ~。
そしていまだに、私の暴走機関車は加速を増すばかりで、どうしたらいいのか・・・。

しかし、この作品を最初に観たのが、お肌ぴちぴちの十代の頃で良かった・・・。
今こんな悲しい役を演じられちゃったら、あたしゃ~泣きすぎになって
脱水状態に陥いり、お肌はガビンガビンになってしまうぞな。










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とりとめのないこと

2007年04月14日 | 雑記

その昔、ニーチェは言った、「神は死んだ」、と。
おぉ、なんとディープなお言葉なのだ。

人間の心というのは、非常に不確かなものであり、
その不確かさなゆえ、人は、形になったものへと
ヒュルルル~と傾いていってしまう。
なんかそうすることで安心しちゃうのだ。

しかし、形あるもの、それは全て真実なのか、
というと、決してそうではないのでごじゃりまして、
それは一向に良くならない政治が証明しているわけで。
公言したから、真実になるのか、え、どうなのだっ? 
しかし政治はいつまでたってもスチャラカタ~ンな状態ではないのかっ?
「一体どうなっているのだっ、責任者でてこーいっ!」
と、私は叫びたくなるわけでござる。
言ったもん勝ち、にいつも私たちは惑わされてしまうのじゃのぉ。

自分の心に目を向けると、それはとっても有耶無耶で、
それはまるで空に高く流れる雲のようであり、
そこに「ある」とは分かっていても、
しかしそれは実態を伴わず、
つかめるようでいて、
実際つかみ所がない。

そしてそれは吹いていく風によって、
刻一刻と形を変えており、
絶えず一定の形は留めていないのですな。
だから、他の人がチラリと見上げた、
「あの雲はこ~んな形だっ!」
という雲と、またまた他の人が見る雲とは
全く違う雲でありえるわけで、
しかしどの雲をとってみても、
それはその雲のようであり、
その雲ではなかったりする。

茶川せんせはどうなのか知らないけど、
小難しい古典ロシア文学などを読んでみると、
その一字一句を理解するなんて、
私みたいな凡人には到底無理でありまして、
しかし文面通りになぞらえて理解はできなくても、
そこから何かを汲み取ることは出来るわけであり、
私なんぞは、それで満足なわけでありまする。

そこに何を感じるのか、見出すのか?
というのは、自分自身の「目」「耳」を持つことであって、
そこにニーチェの言った言葉が深く意味を持ってくるのだと。

なんかそげなとりとめのないこと、思ったりしたとですよ。



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風見さんちの武志くん

2007年04月13日 | 山田監督作品

遥かなる山の呼び声。
名作だよ、おっかさん。

この作品、私の中では名作ベスト3の中の一つでして、
たぶんすでに100回くらいは見ているのではないかと。
そして382回くらいは泣いていると思う。
そう思うと、
「あぁ~、思えばヒデタカくんにはこんなにちっさいころから泣かされているのねぇ~」
と温泉につかったニホンザルみたいに遠い目になってしまう。

彼はこれ以前にスクリーンで初泣きを披露していたけれども、
本格的な映画デビューはこれであるといってもいいのではないかと。

私がこの作品を始めて見たのは、まだうら若き少女時分で、テレビ放送でのことだった。
み、満男くんが出ているぞいっ!とミーハー気分で、鼻息荒く見始めたのだけれども、
すぐに話自体の中にぐいっと引き込まれた。
あの時に感じたその興奮は、今でもすごく新鮮に覚えているですね。
この作品が、私に映画の素晴らしさを教えてくれた最初の作品だったのかもしれない。
そして、「満男、おぬしやはり只者ではない。」
と強烈に思わされた最初の映画でもあったのでありまする。

良い映画というのは、全てがそこにすごく良く調和されている
そのバランスのよさなのではないかと思うのだけれども、
この作品も、脚本、演出、役者全ての歯車がカチっと気持ちよいほど良く噛み合わさっていて、
それはそれはワンダホー。
見ないと損ですたい。
それになんてたってですね、

健さんがかっちょええ~~~~っ!!!! 

いや、健さんはいつもカッコええのだけれど、
ゴルゴなさーてぃーんの時でさえやはりかっこよかったけど、
しかしこの映画の中の健さんは飛びぬけてかっこええ。
こんなカッコいい人がこの世にいたのかっ、と思わず
「おお、神よ!」と天を仰ぎたくなるくらいかっちょいい。
乗馬のシーンなんて「あぁ、もうかっこよすぎでどうしよう!」
ってキューッとセーターの裾を齧っちゃうほどえっらいかっこいい。(←しつこいってかい)
そしてそこにもってきての、可愛い可愛い武志坊やですよ~。
「牧歌的」って言葉がそのまま小さな男の子になっちゃった感じ。
アイアイを歌っているシーンなんてぇ、も~う、君がアイアイじゃ!
彼が取り巻く色調は、それはそれはパストラ~ル!って感じであり、
まさに、癒しのちびっ子大将であります。

余談だけれど、この映画のDVDに含まれている特報で、
本編ではカットされているシーンが見れてごちそうさまであります。
健さんがヒデタカくんを「高いたか~い」している映像を見たときは、
卒倒するかと思ったくらい感激したでがんす。

健さん アーンド ヒデタカくん。

一粒で二度おいしいグリコの法則ですな。
願わくば、もう一度このお二方の共演映画が観てみてたい。
あぁ、観てみたいぞ~っ!!!!!

さて、この武志くんだけれど、文句なしに素晴らしい。
普通子役が出てくる映画というのは、その子役が素晴らしければ素晴らしいほど
そこにかかってくる比重が大きくなっているものだけれど、
この作品にはそういった簡易さはないし、
武志くんはきちんと登場人物の中の一人として存在している。
「子役」というより、「役者」としてそこに存在しているんですな~。

吉岡くんの演技には、おそらく彼に内在するであろうと思われる、
非常に鋭角的で直情的な感性によって、受け手の心の底を容赦なく抉り、
ありのままの、「人間」としての、いわば原始感情みたいなものを
見手に呼び覚さませる原動力があるけど、この作品の中でも、
そういったことを観客に感知させる力が、このちっさい可愛い彼の中には、
確かにかいま見られるわけで。
そういった類まれな才能を見せられると、やはり彼は、
役者になるという使命をもってこの世に生まれてきたのではないのかと、
私なんてそう思いがちになってしまうのでありまするよ。

いわずもがなの、あの武志くんラストシーン。
あの場面での、あのカウンターパンチ演技には、
「満男くん、君には一生ついて行くっ!」
と、まるっきり余計なお世話情熱を私に抱かせたのでありました。

この作品、あくのつよ~い個性的な役者さんだよ全員集合!
って感じのキャストだけれど、しかし決して誰も前に出すぎず、
自分の役の人物に息を吹きかけている。
おぉ、なんてすんばらしいのだっ!
ブラボ~ブラボ~とれびあ~んのワンダホーですよ、マダム。
とりわけその中でも特筆すべきは、ハナ肇さん。
あの人のラストシーンには、何度見ても泣かされてしまう。
この映画を一番最初に見たときに、まさか毎年かくし芸大会で
銅像になって缶で頭たたかれている人に泣かされるとは思わなかったから
更に感動倍増だった。

いやぁ~、映画って本当にいいものですね~。


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平山さんちの涼くん

2007年04月12日 | 山田監督作品

平山工務店の長男・涼くんは、
仕事に対する忍耐力のなさっぷりを親に嘆かれ叱られ、
半べそかきながら家を飛び出るというへたれっぴー。

しかし、こ~んなへたれな役を演じているにもかかわらず、
この作品の中でのヒデタカくんは、とにかくかっこいい。

「格好いいぜぇ」火山活動中って感じで、役柄をつきぬけて追い越しちゃった
かっこ良さみたいなのがあるのでごじゃりまする。

吉岡くんの魅力って、彼の作品を最初に観るときは、
外見の格好よさが後から付いてくる感じがするのですね、私にとっては。

まず役者・吉岡に魅かれるから、無意識に認識している彼の外見の美しさが、
作品鑑賞中にはあまり私の中では顕在化されてこないのでありまする。

で、後にビデオやDVDで何度かそれぞれの作品を見直してみて、やっと
「おぉ、なんてビュ~テホ~なお方なのだっ! 神様ありがとう!」
と叫びを上げ、そして次には彼の外見の美しさにまで嵌っていく、
という繰り返しになるという、完全健全地球にやさしいリサイクルになっているのですね。

しかしそういう点、この涼くんは例外で、これは最初に観たときから、
「くぅあああ~! どうしてくれよう、このかっこよさっ?!」
という状態だったのでありまする。 

どこを切っても切っても金太郎飴ってくらい、かっこいいヒデタカてんこ盛り。

おかげで作品に集中できなかったよ~。あぁ、なんて罪なお方。
けれども彼、この作品の中で、一生懸命フェロモン封印しているような
気配がするのですが何故なのでしょう? 
まぁ、映画全体のトーンを考慮すればそうするのも納得だけれど、
しかし、ふふふ、君の色気は画面にしっかり漏れてきているのだよ。

この涼くん、稲葉一矢が全開で放っていた強烈フェロモン光線ボーイとは違って、
「ほのかに漂う色香が隠せましぇ~ん。」
っていう感じの青年。

なんともいえない抑制された色気と、匂いたつような美。
少年の名残を内包しつつ、大人へと繋いでいく青年期にいる彼。

この青年期というのは、男性にとって、とても大事な通過過程でありますな、
と私は思うとですよ。
青年期の如何によって、その後の男っぷりが違ってくるような気がするのですよ。

しかし、少年からいきなりおっさんになっちゃたりする人が巷には多い。
悲しいぞな。

けれども、ヒデタカくんはきちんと「青年期」を通過している。
いや、もしかしたら今でも「青年期」通過中なのかもしれん。
なんかそんな気がしないでもない。

さてさて、映画の話に戻りまするが、
涼くんは、カメハメハ大王みたいなカッちゃんに会いに南の島に行くけれど、
その舞台設定のわりには、彼のガードはとても固いであります。

満男くんみたいに、「海辺で半裸でハンモック」どわぁああああっ~!
みたいなシーンはないでござる。

惜しい。

ちなみにあの驚愕の満男ハンモック映像を最初に観たときは、
私なんて、もう、その場で瞬間自家発火してアンドロメダまで一気に飛んで
いってしまうかと思ったくらい衝撃的だったですばい。

けれども、この涼くんの場合は、唯一カッちゃんの経営するオデオン座を訪ねる時のみ、
ひかえめ~な、「ヒデタカ開き」シャツのお披露目があるだけであります。

出し惜しみするなんてひどいぢゃないか~!

ちなみに、この「ヒデタカ開き」、見るたびにいつも思うのだけれど、
これは一体誰の提案なのだろうか?

満男くんに、このスタイルはないと思う。
彼は「開ける」のではなく、「脱いじゃう」のだ。

そういえば、純君ははだけまくっていた時期がある。
そして、はだけの王者といえば、稲葉一矢。

やはり杉田監督の意向なのだろうか? 

あぁもう~ど~うしてこんな不埒なことばかりに考えが及んでしまうのだろう?
映画の内容を語ろうと思ったのではなかったのか、あたしってば?
しかしやめられないとまらない~のかっぱえびせんなのだよ、ムッシュ~。

コトー先生のときも、満男くんのときも思ったけど、
吉岡くんは、ジャケットを着ていないシャツスーツ姿のいでたちの時は
更に彼の艶っぽさが増すと思うのでありまする。

先にも述べた、オデオン座シーンの涼くんなんて、
もうすっごい艶っぽかった。

まるで、ゆらゆらと立ち昇る朝靄のような色気。

真っ裸になるより、こういったいでたちのときの方が、
遥かに遥かに色っぽい。

これはもしや「リヴァーシブル艶出し現象」というものなのだろうか? 
なぜなのだ? 
あのほっそ~い腰が強調されるから? 

いやしかし、同じ細いといっても、小倉一郎さんが同じ格好をしてても
全くなにも感じないので、やはりこのいでたちには、
吉岡くんの持つ色気炎を焚きつけるなにかがあるに違いないと思われる。

このオデオン座の後につづくシーンで、人気のなくなった波止場でちょこりん、
と縮小折りたたみコンパクトサイズになって座っている涼くんは、
地上に点在するまりもみたいで可愛かった。

そうだった・・・、
この涼くんってば、カッコいいだけじゃなくて、
可愛かったりする場面もてんこ盛りだったのだ。

あぁ、もうどうしようっ!? 
って彼に向かってタックルしたくなっちゃうくらい、
この涼くんなヒデタカくん、魅力的なのでごじゃるよ~。


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モルツくん

2007年04月11日 | CM

サントリーさんちのHPでやっとこさ見れたモルツのCM。

いいですねぇ~。
この人の軟体動物みたいな体の動きは一体何処からくるものなのだろうか?
まるで新種の生き物みたいだぞ。

電車の中でタッパーを開けて枝豆を出すけど、
うまいですなぁ~この小道具の使い方。
30秒の話の中に、これだけで視聴者に設定の奥行きを持たせるもんね。

私なんて、おい、モルツ君、それは君が、
「♪明日は電車乗るから枝豆ゆでとこ~♪」
なんて言いながら自分で茹でたのですかい?とか、
「独身なのかなぁ~、うふふ。」
なんて想像力働かせちゃってらんららら~ん♪

吉岡くん、私の脳細胞の活性化にまで貢献してくれて、ありがとー!

そしてそして、さんとりもるつ君、駅から出て周りを見回し、
それではコメントをどうぞで、「いいとこっぽいぞ~」でふにゃららら~ん♪
レレレのおじさんみたいな周波ですよ、君。

普通こういった場合、ビールのCMなんだし、男優さんなんだし、
「いいとこっぽいぞぉ!(よっしゃぁ、いっちょやったるかぁ!!!)」
グビ~っとクワ~っとビール。
っていう体育祭の体育の先生みたいなトーンが常套手段ではなかったのだろうか?

しかし、このさんとりもるつ君は、
「いいとこっぽいぞ~(あ、ちょっとどっかで一休みしよ~、ふぅ~。)。」
みたいな、垂れ下がった簾みたいな脱力雰囲気が、まさに絶妙でがんす。

大家のスーちゃんとの映像にしたって、こういうの見たら、
「ふわぁ、私もビール飲んじゃお~」ってビール飲んで、
「あぁ、なんか幸せ~。」の微笑みがえし、ってなるよ~。

それにしても、大家のスーちゃん、うらやましいぞな。
この夏、もるつ君はおすそ分けされた「スーちゃん枝豆」をつまみながら、
大家のスーちゃんと二人で、ほんわぁ~とビール飲んだりするんだねぇ。

なんてうらやましいんだっ、大家のスーちゃんっ!


ところで、もるつ君、引越しの荷物の中にギターがありますね~。
私はギター弾きに弱いのじゃよ。特にアコースティックギターには。
たのきんのよっちゃんにでさえ、ギター弾いてる時限定バージョンでは
「やるな、よっちゃんてば。」と思ってしまう程だった。
初恋の人はニヒルなギター野郎スナフキンだったし。

そういえば、ヒデタカくんとスナフキンは似ている気がする。
二人とも月明かりの下で、ボロロンとギターを爪弾きながら哲学してそうだ。

しかし、CMのもるつ君は、晴れた浜辺でギターをシャカシャカ弾きながら、
♪おぉ牧ぃ場ぁ~はぁ~みぃどぉりぃ~♪
なんて歌って平気で天然ボケをかましそうなキャラに見える。

う~む、奥が深いのぉ~、ヒデタカくん。

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響く、声

2007年04月10日 | 思うコト

吉岡くんはその声にも色気がある。

艶のある広い声域も武器に持つ男であ~る。

わたしゃ何度その色声にハートを射抜かれたかわからんとですよ。
なんせいきなりドッキュ~ンと射抜ってくるし、
その射撃率は100%。 

ハンターヒデタカ。 
彼は隠れた名マタギかもしれない。

一番最初に彼の色声に射抜かれたのは一体いつだったのだろう?
多分ちっさい頃から無意識の内にばっきゅーんばっきゅーん
撃ち抜かれていたのかもしれないな~。

後年、それをはっきりと、最初に自分の中で意識したのは、
2003のコトー先生の二話で、コトー先生が内さんに言う
「内さん、診療所に・・帰りましょ。」←これ。

あの時は、撃ちぬかれたっていうより、なんか上手く言えないんだけれど、
すこーん、と心を裸にされた感じがしたのですよ。
これを言葉になぞらえるとですね、「心の琴線に触れた」なんてな
お決まりの言葉で片付けられちゃうのだろうけど、
そういう簡要なことじゃなくて、もっと原始的な感情っていうのかなぁ、
そんな感じになったとですね。

色声射撃最新版は、コトー先生2006の最終回でのこと。
彩花さんのオペ中、必死で患部を止血するときのコトー先生の声。

「ペアンください。」って連呼するあの四番目の「ペアン!」。

瞬間、白旗あげましたですとよ。
完璧な無条件降伏だよ、君。
あの声、体の奥底までズッキュ~ンって入ってきたですよ。

コトー先生の焦燥感が、その声に、濃縮還元100%愛媛みかんジュースです、
っていうくらいギュッと詰まってたですよ。

あのシーンは、手元も映さなくちゃだから、
顔のクローズアップにはできなかったんでしょうな、
だから声にすべてを表した。

これにしびれずに、なににしびれるのか、諸君。


彼の声には旋律がある。

美しく響くときもあれば、悲しく響くときもあり。
楽しく響くときもあれば、怒りに触れるときもある。

そんなもん誰にだってあるやんけ、と思われる人もいるかもしれないけど、
声にトーンがあるのと、旋律をもつのは違くってよ、セニョ~ル。

人間が生まれながらに持ち合わせる要素は、多分みな同じなんだと思う。
ただ、個人個人、どの要素が強く表面に出ているか否かの差だけなのではないのかと。

彼の発する声が、息吹をもってすっと人の心に入り込むとき、
それぞれ個人の奥底に眠っている、自分の普段意識することのない要素が揺さぶられて、
時には懐かしくなったり、泣きたくなったり、
またはざわついて落ち着かなくなったりするのだと思う。

そういった旋律を奏でる人って、私は彼以外には知らない。


すごいぜよ、マタギ・ヒデタカ。


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