月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

吉岡刑事物語・その52

2011年01月29日 | 小説 吉岡刑事物語




接見室に入ると、満悦顔の谷原とすぐに目が合った。
三島は厚いガラスを隔てた相向かいに腰を下ろし、
鞄から取り出した調書に無言のまま目を通した。

「ありがとうございます」

つと目を上げると、谷原とまた目が合った。締まりのない顔で笑っている。

「まだ決まったわけじゃない。判決はこれから出る。浮かれるのは早い」

三島は調書に視線を戻して言った。

「でももう決まったようなもんだってみんな言っていますよ。
俺は完全に無罪で、すぐにも娑婆に出られるって」

三島の眉間に深い皺が寄った。顔を上げて何か言いかけたが、
壁の時計が目に入り、思い直して調書の上へ視線を戻した。

「最後にもう一度確認しておくけれど、事件のあった両日、
君は関口さんの恋人と会っていた。それについてだけれど、」

「それはもう美香ちゃんがちゃんと証言しているじゃないですか」

三島は顔を上げた。

「君の口からもういちど確かめたいだけだよ」

「会ってましたよ、ちゃんと。美香ちゃん二股かけていたから。
関口ってほんとばかだよなぁ」

そう言って谷原は声を出して笑った。空気を歪ませるような笑い声だ。
いつ見ても聞いても好きになれない笑い方だった。
三島は灰汁のようにどうしても浮き上がってくる嫌悪感を追いやるように、
確認の質問を続けた。

「君の起こした過去の傷害事―」

「ねぇ先生、今度は関口が捕まる番ですよね?」

三島の口元が引きつったように締まり、ゆっくりと正面に上がった。
筋肉の緩みきった顔の谷原がこちらを見て笑っている。

「俺を捕まえたあの刑事、なんて言ったっけ、吉岡だっけ? 
俺が無罪になったら今度は関口を捕まえるのかな、俺のときみたいにさ、
自首しろとかいって」

三島の視線はじっと目の前の顔を捉えている。

「それは君には関係のないことだろう。あっちはあっちでまた勝手にやるさ」

それだけ言って、三島は再び調書の上に視線を戻した。

「でもむかっ腹たつよ、あの刑事。俺の大切な人生の時間を奪ったんだから。
許せないよ。先生には感謝しているよ。俺を救ってくれた恩人だからさ」

まただ。文面を追う三島の目に苛立が走る。勘違いするな。
俺はお前のために法廷で争ったわけじゃない。
お前を救おうなんて思った事ははなから一度もなかった。
三島は口から出かかった言葉を深い呼吸で押さえ込み、
調書に神経を集中しようとした。新しく出た状況証拠は全て法廷で立証されている。
利はこちらにあり、非は検察側にある。それはこれまでの公判で確定されたも同然だ。

「でも関口なんて、捕まって死刑になっても身内は全部死んじゃっているし、
誰も悲しまないから気が楽だよね」

三島の視線が、調書の上でピタリと止まった。顔を上げて、
いつになく饒舌になっている谷原の顔を見た。谷原は嗤っている。
嗤うという文字がその顔にはぴったりだった。

「そんなことはない」

三島は言ってやった。
谷原に対する嫌悪感が義務感を超えて出てきた不意の言葉だった。

「関口には一人息子がいる。実際その子は逃げていく犯人の後ろ姿を目撃している」

前回の公判の後、関口の息子が急に思い出したと言って口にしたことだった。
信憑性はないとして、検察も調書を取らなかった。
三島は壁の時計を見た。接見を早く終わらせて最終弁論要旨の確認をしたかった。
三島は再び調書に意識を集中させた。

「話は前後するけれど最初の事件・・・」

ふと周囲の空気が変わった気がして、三島は顔を上げた。
そこで全ての動作が止まった。谷原が、奇妙に顔を歪ませている。
分厚い頬の下の筋肉が、引きつったように痙攣していた。

「息子?」

滑稽なくらいに惚けた声で、谷原は聞き返してきた。

「そんなこと関口から聞いた事なかった」

三島は、急激な喉の乾きを覚えた。

「どういうこと、先生?」

三島の背中にじっとりと汗が流れ出てくる。耳の奥で金属音が鳴っていた。

「なにそれ?」

惚けた顔で固まっている谷原の口から言葉だけが零れ出てくる。

「説明してよ、先生」

谷原の視線が声が蛭のように三島の皮膚に張り付いてくる。
三島は乾いた口を開いた。

「関口さんは、自分に子供がいることがわかると、恋人の美香さんが
自分から離れていってしまうかもしれないと憂慮して、
店では子供がいる事を隠していたんだ」

まさか・・・。
疑念が否応無しに沸き上がってくる。
三島は必死でそれを心の奥底に押さえ込んだ。
谷原は白昼夢を彷徨っているような顔つきでぼうっとしたまま視線を宙に泳がせている。
今まで一度も見た事のない表情だった。
まさか・・・。
いやそんなはずはない。三島は疑念を振り払った。
繋ぎ合わせたパズルは完璧なはずだ。見落としたピースなんてない。
状況証拠はそろっている。谷原のアリバイは公判の証言で立証されている。
捜査のミスは明らかだった。疑いは最初から関口にあった。吉岡はミスをした。
だから俺はこいつを弁護した。勝てると思ったからだ、吉岡に。

「だけどその子供の証言はまるで当てにならないな」

三島は自分に言い聞かせるように言った。
谷原は長年の勾留生活から拘禁反応を起こしているだけだ。無理はない。
こいつは無罪だ。こいつはやっていない。
三島は洪水のように溢れ出てくる疑惑の念を払拭させるように、
わざと砕けた調子で声高に言った。

「隣の家との隙間から犯人が猛スピードで走り出ていったと言っているが、
そもそもそれは地形的に立証できない。所詮子供の作り話だろう」

その瞬間、谷原の身体から張りつめた空気が抜けていくのがわかった。

「そうだよね、あんな鉢だらけの場所をダッシュで走り抜けられる訳ないし」

三島の顔が凍りついた。時間が止まり、空間が歪んで、谷原の顔が視界に霞んだ。
顔から一気に血の気が引いていく。
どうしてそれを知っている?
三島は唖然としながら目の前にいる人物を凝視した。
調書にも碌に目を通さなかった国選弁護士に導かれての一審の死刑判決に冤罪性を感じ、
二つの事件を自分の足で一から調べ直して、接見、文通を繰り返した結果無罪だと確信した、
そう確信したからこそ弁護を引き受けたはずの、今目の前にいるこの男は、
一体誰だ?
三島は、したり顔で笑っている谷原の顔を見つめつづけた。
どうしてそれを知っているんだ?
犯人の靴後が残っていた犯行現場の家の脇道に、被害者の女性が育てていた
コスモスの花鉢が置いてあったと、その場に行ったはずのないお前が、
どうして知っている?
破顔している谷原が、一縷の懸念もなく自分を見つめ返している。
見た事もないくらいの醜い笑い顔だと、三島は全身に鳥肌がたった。こいつは・・・
やっている。
こいつが犯人だ。

「時間です」

看守がやってきて、接見時間の終わりを告げた。





弁護人は最終弁論を、と裁判長からの言葉が耳に入っても、
三島はすぐに椅子から立ち上がらなかった。
法廷内は呼吸音さえ憚れるくらいにひっそりと静まり返り、
三島の言葉を待っている。
軽く咳払いをした裁判長の督促に、三島は自分の意思でというよりは、
長年の習慣から自動的に椅子から立ち上がった。

「これより最終弁論を開始します」

発した自分の声が、頭の中の空洞で虚しく響いている感覚がした。
三島は、この最終弁論の時を事前に幾度も頭に思い描き、
書き上げた弁論要旨も幾度となく丹念に通読していた。
公判は自分の思い描いた通りに澱みなく進んできた。
自分の判断に間違いはなかった。
なかったはずだ。

「被告人は高田はつ子に対する殺人ならびに死体遺棄、」

口から機械的に言葉が流れ出ていく。頭の中には、
検察側から提出された殺害現場の写真が浮かんでいた。

「その夫である高田克治にたいする殺人ならびに死体遺棄の四つの訴因で起訴され・・・」

真っ赤な血溜まりの中で俯せに倒れていた二つの死体・・・
殺人死体という括りにはめ込まれてしまった人間の身体・・・

「一審の判決を不服と感じ・・・」

心の中の何かが先へ進もうとする自分を必死に引き止めている気がしていた。
行くな。まだ間に合う。引き返せ、と。

「事件の概要を一から調べ直し・・・」

心の中のせめぎ合いとは裏腹に、言葉は滞りなく流れ出ていく。
三島の意識は、傍聴席から自分を見つめている一対の瞳に向けられていった。
やっとここまできた。あと少しで勝てる。あと一歩踏み出せば、
あの瞳に勝てる。

「被告人本人との接見、文通を繰り返し・・・」

一審判決をここまで覆してくるのは至難の業だった。
勝利の女神は今、完全にこちらに微笑んでいる。
報道記者たちは弁護側勝訴の下書きをタイプで打ち始めているだろう。
援護グループの作った白幕は無罪を宣言する瞬間を今か今かと待っている。
全てが思い描いた通りに運んでいる。
加速度のついた勝利の流れは止まらない。

「被告人が過去に起こした事件、その後の生活態度は、
確かに品行方正と言い切れるものではなかったかもしれませんが・・・」

谷原の歪んだ嗤い顔が頭に浮かんだ。
殺された二人の姿がそこに重なっていく。
けれど・・・

「しかし被告人は、いや人間というものは全ての面において・・・」

死んだ二人は還らない。
被害者二人の流れは止まってしまった。

「弱みの部分を持ち合わせていることは誰にも否めない事実で・・・」

敬ちゃんはすごいねぇ・・・

繰り出されていく言葉の裏で、記憶の断片が再び喋りだした。

神童だ、この子は・・・
大人になったらきっと立派な人間になるよ・・・
三島にはかなわない・・・
かなわない・・・
かなわない・・・
情に厚くて・・・
守り抜くことは必ず守り抜いて・・・
誰よりも頼りがいがあって・・・
誰からも愛されていて・・・
いいやつなんだと・・・
本人がいないところでも
みんな嬉しそうにそう話していた・・・
友達であることが自分の誇りだと・・・
かなわない・・・
かなわない・・・

吉岡にはずっとかなわなかった。

「検察側は被告のその弱みの部分につけ込み自白を強制したと・・・」

戻れ。戻るんだ。
心のどこかで何かがそう叫んでいた。
まだ戻れる。引き返せ。

「被告人の無罪を主張します」

三島は、己の卑小さをはっきりと自覚した。





法廷内はひっそりと静まり返っていた。
無罪判決に沸かされていた喧噪は、喜びも悲しみも混ぜ合わせた人の波とともに、
引き潮となってドアの向こうの外海へと浚われていった。
人の生の重さを量った部屋の空間は、過去という重さにも未来という不確かさにも
まるで無関心な気配を呈したまま黙り込んでいる。
三島は何百枚にも及ぶ調書の束をブリーフケースにしまい入れ、
それからゆっくりと立ち上がった。裁判長席、証言台、そして被告人席へと
重い視線を渡していき、そしてドアの方へとゆっくりと身体を回した。思った通り、
吉岡はそこに立っていた。
三島はブリーフケースを手に取り、ドアへと向かって歩きだした。革靴の音だけが、
二人の間にやけに大きく鳴っている。
吉岡は黙ったまま、静かに三島を見つめていた。その姿全体からはまるで、
全ラウンドの負け試合を終えたボクサーのような気配が漂い流れている。
けれども静かに見つめ返してくるその瞳は決して打ちのめされてはいなかった。
負けを転嫁する瞳でも、相手を糾弾し誹謗する瞳でもない。ただひとつ、
その瞳からは混じり気のないたった一つ思いが、
真っ直ぐに三島へと向かって語られているだけだった。
何故?
と。
何故なんだ?
と。
三島はブリーフケースの持ち手をぐっと握り返した。
あと数歩で吉岡のもとに辿り着く。
吉岡はそっとその場に佇んだまま、
三島の歩みを引き受けようとしている。

「負け犬が」

三島は一言吐いてドアの向こうへ出た。
足早に横を通り過ぎるとき、自分の肩が吉岡の右肩にぶつかった。




裁判所内では、写真の撮影は禁止されている。
奇跡に近い無罪判決を勝ち取った弁護士を待ち構える報道陣たちは、
厚い木材の扉の向こうに陣取っているのだろう。
裁判を終えた建物内は冷え冷えとした静けさの中に包まれて、
第一法廷内から出てきた三島の靴音だけが大理石を敷き詰めた回廊に響き渡っていた。

「見くびるなよ」

正面玄関を押し開ける一歩手前で声がして、横を向くと、報道記者バッヂをつけた男が一人、
柱に寄りかかりながら三島を見ていた。三島はそのバッヂを素早く確認していく。
社会派を謳っている新聞社の記者だった。社名の下に萩原と記されている。
三島はゆっくりと身体を相手に向け、何の事だとその顔を睨み返した。

「真実をさ」

萩原という記者の片側の口端が軽く上がった。笑ったのだろう。けれどもその目は
少しも笑っていなかった。
三島は、斜に構えた視線を投げつけてくる相手の顔を再度睨み返したあと、
無言のまま正面玄関の扉を押した。一斉に焚かれたカメラのフラッシュが、
三島の視界を眩ませた。
無罪釈放された谷原信也が関口親子を殺傷したのは、それから三週間後のことだった。




つづく
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吉岡刑事物語・その51

2011年01月28日 | 小説 吉岡刑事物語
※「吉岡刑事物語・49,50」からの続きです。


どうしてあんな処にいたのだろう。
いやそれより、いったいどうやって
あのような処から生きて還れたのだろう。

―ダンテ




2001年 1月

夜更けの空を覆った厚い雲は午後にはみぞれを降らせるだろうと、
低音に絞ったカーラジオから天気予報が流れていた。
三島敬一は後部車窓から視線を伸ばし、重く湿った空を見た。

「勝訴間違いなしですよ。やりましたね」

三島は視線を前方に移した。革張りのヘッドレストの先から、
ハンドルを握る新人弁護士の後頭部が見えている。寝坊でもしたのだろう、
右側頭部の髪が纏まりのない曲線を描いていた。

「世論は間違いなくこちらに勝利の風を吹かせていますよ。
今朝の各社新聞記事も引き続き検察側の決定的な落ち度を叩いているし、
救う会へのサポート数は日ごとに増えている。世間は谷原を救う方向に
正義を見いだしているんですよ。やりましたね」

やりましたね、と三島の助手を勉めているこの若い弁護士は、同じ言葉を
二度繰り返して会話を括った。三島は奇妙なものでも眺めるような目つきで
目の前の寝癖に視線を止めていた。勘違いしないでほしい。それからそう思った。
自分は谷原を救おうなんて思ったことは一度もないし、実際にそんなことはしていない。
人を救うなんて神であろうと出来やしないことだ。神という存在が
この世にあればの話だが。人生にかかった梯子を昇るのも堕ちるのも、
自分の意思にかかっている。自分の意志が宇宙であり、人の数だけ宇宙が存在する。
互いの宇宙は決して混ざり合う事はない。自分はただ谷原の表面に浮き上がった
罪量の間違いを法で修正しただけだ。そう新米の弁護士に向けて言おうかと思ったが、
しかし敢えて話さなければならない理由も義理も見つからず、三島は車窓へ視線を戻した。
黒塗りのマジェスタは東京高裁へと滑らかに自分の身体を運んでいる。
砂色に垂れ込める雲はやがて自分の重みに耐えきれず陰気な雨を降らせるだろう。
天気予報は当たるかもしれない。ばかにしたものじゃないな。三島はそう思いながら、
車が赤信号で止まった先の横断歩道に視線を渡した。小さな子の両手を取った老夫婦が
ゆっくりと道を横断していく姿が視野に入ってきた。子供の母親らしき笑顔の女性が
数歩下がったあとからついていく。

敬ちゃんは賢い子だねぇ。

ふと目にした情景は、ふいに遠く懐かしい記憶を喚起させた。

やっぱり三島さんちの子は他の子とは違う。
あの子は神童だよ。
きっと将来は一角の人物になるに違いないから。


物心ついたときからずっと聞き続けてきた周囲からの言葉の数々。
成長するにつれ形容の仕方こそ変わったが、自分に向けられる言葉の内容は
普遍的に変わることはなかった。

三島にはかなわない。

そう言われるのが当たり前だった。当たり前の褒称だった。
不意に、三島の視線が舗道の先に伸びた。眉根が寄り、瞳に険が走っていく。
目線の先に見慣れた背中が見えていた。華奢ともいえる身体つきに、
意外なほど広くしっかりとした肩幅の片側をかすかに下げて、
寒空の下を独り歩いている。
三島は、その背中をじっと見つめた。記憶の中の賞賛がまた耳の奥に戻ってくる。
三島にはかなわない・・・。
そう、自分はいつもトップだった。
誰にも何も負けたことはなかった。
前を行く背中の先に、公判の待つ高裁の建物が見えている。信号が青に変わった。
マジェスタは発進し、舗道を歩く吉岡の横を通り過ぎていった。



「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います」

証言台から宣誓文を読み上げた関口耕介は、義理の両親殺しの被告人である
谷原信也の犯行に至るまでの経過を知る重要証人として、
検事からの主尋問に言葉少なに受け答えしたあと、
続いて反対尋問に立ち上がった弁護人へと背筋をまっすぐに整え直した。
着慣れないスーツの襟が首すじに当たって、居心地が悪かった。

「証人は、被告人と第一の事件前から顔見知りだったそうですね?」

満席の傍聴人で埋まる法廷内に、弁護人である三島敬一の第一声が低く響き渡った。

「知っていました」

関口耕介は答えたあと、軽くつばを呑み込んだ。喉の奥が乾いていた。

「どういう経緯で知り合ったのか話してください」

「私のよく通っていたスナックで、アルバイトをしていたのが谷原・・
谷原君でした」

「それはどのようなスナックですか?」

「どのような・・・といいますと?」

「柄、と言ったらいいのかな」

関口は軽く眉根を寄せた。

「とても雰囲気のよい店でした。勤め先と駅の間にある小さな町のスナックで、
頼めば軽い夕食も出してくれるので、仕事帰りの人たちがよく立ち寄っていました」

「その店の従業員は何人くらいいましたか?」

「ママ・・オーナーと手伝いの女性一人と谷原くんの三人でした」

「あまり広くない店内という印象を受けますが、客が5,6人も入れば
すぐにいっぱいになってしまうくらいの広さですか?」

「ええ、そんな感じです」

「ならば客同士の会話は互いに筒抜けですね。あなたはそのスナックに、
週どのくらいの頻度で通っていましたか?」

「週末だけです。金曜日と・・それからごくたまに木曜日に」

「通っていたのはそのスナックだけですか?」

関口はつと返答に詰まって、検事の方を窺い見た。視線の先で、
検事は苦味切った表情を浮かべながら手元の調書に目を走らせている。

「そのスナックだけに通っていたのですか?」

関口は三島へ視線を戻した。

「他の飲み屋には行かなかった?」

「・・・はい」

関口は呟くように返答をした。

「それはどうして?」

関口は言葉に詰まって戸惑い、証言台の上へ視線を落とした。

「どうして他のスナックに行こうとは思わなかったのですか?」

「・・・」

「どうしてなのかな?」

淡々と質問を繰り返す三島に関口は顔を上げられなかった。
関口の気持ちは傍聴席に向かっていく。どうしても裁判に行くといって着いてきた息子が、
その中に混じっていた。

「答えていただきたい」

俯く関口の瞳の中に、さきほど読み上げた宣誓文の文字が映っていた。

「そこで働いていた人に・・・会うためです・・・」

ためらいの秒針に押し出されるように、関口はやっと口を開いた。

「従業員の女性ですか?」

「・・・はい」

「恋人、ということ?」

「異議を申し立てます」

検事が立ち上がった。

「弁護人の質問は、証人の個人生活に関するもので、主尋問とは何ら関連のないものであり、
適当ではないと思われます」

検事の言葉を受けた裁判長は、証言台にじっと視線を落としている関口の表情を、
掬い取るような目つきで暫く見つめた後、

「異議を認めます。弁護人は質問を変えてください」

と静かに言ったあと、視線を検事、三島の順に移していった。
三島は余裕の表情で質問の内容を変えていく。

「奥さんが他界したとき、あなたはまだ二十代後半でしたね。
やり直そうとすれば新しい生活を他の誰かとやり直せたはずなのに、
しかしあなたは義理のご両親との同居を選んだ。それは何故ですか?」

俯いたままの関口の身体が強ばった。

「何の理由での選択ですか?」

ぐっと瞳を閉じた関口の様子を、三島は冷ややかに見据えている。

「答えられませんか?」

関口は、傍聴人の全視線が皮膚に刺さってくるのを痛いほど感じていた。
息子の視線がその中にはある。

「・・・当時・・・失業中で収入がなく・・・」

目を閉じたまま、関口はやっと言葉を押し出した。

「それで行く当てがなく止むなく同居をした?」

「止むなくだなんて思ったことはありません」

咄嗟に目を開き、語気を強めて反論した関口の顔を、
三島はたっぷりと5秒ほど見つめたあと、

「なるほど」

と皮肉にもとれる口調で受け流してから尋問を再開した。

「あなたは奥さんと死別してから何年か後に再就職先を見つけましたね」

「・・・ええ」

「それで生活に少しだけ余裕ができた」

質問の意図を計りかね、関口は三島の目を怪訝そうに見つめ直した。
感情がどこにあるのかわからない瞳が冷静に自分を見つめ返してくる。
薄く引き締まった三島の唇が、再び開いた。

「自由になる金、つまり自分の小遣いも出来ましたね?」

「・・・ほんの・・・少しだけなら・・・」

「それで行きつけのスナックをつくった?」

すかさず椅子から立ち上がりかけた検事を裁判長は目で制した。三島は続ける。

「あなたは自由になる金で行きつけのスナックを作り、
そこで出会った女性従業員と恋仲になった。そうですね?」

関口は否定も肯定もせずじっと三島を黙視している。
三島はそんな関口の目を捉えながら微かに鼻で笑った。
笑ったような仕草を見せた。

「その女性とは遊びの付き合いでしたか?」

関口の目に反発の光が走った。

「遊びではありません。結婚は視野に入れていました」

検事が異議を唱える前に関口は憤然と返答した。
三島の口の端に、今度ははっきりと薄い笑みが浮かんでいった。

「そうですか。第一、そして第二の事件の起こった日、
あなたはどこにいましたか?」

「え?」

関口の口から思わず意外な声が出た。

「両事件とも平日の昼間に発生したものですが、あなたはそのとき、
どこで何をしていましたか?」

「仕事をしていました・・・」

仕事?と三島は間髪入れずに問い質し、そして暫く間を置いた。
法廷内は息をひそめたように静まり返っている。

「おかしいな」

やがて三島の声が静寂を破った。

「不思議と誰もその裏付け証言をしていないですね。それは真の証言ですか?」

関口は固く俯いたまま拳を握りしめ、上目がちの視線を傍聴席に流した。
息子の両横に、同伴してきてくれた勤め先の社長夫婦が見守ってくれている。

「正直に答えてもらわないと困りますよ」

三島の追求はやまない。関口は強ばった身体の底へと震える息を吸い込んだ。
開いた唇も凍えたように震えている。

「恋人と・・・会っていました。いつもではなかった、その日に限って・・・」

「おかしいな」

三島はまた言った。調書を手に取り、メージをめくっていく。

「その恋人の裏付け調書には、その日その時刻に被告人と会っていたことになっている」

関口は弾かれたように顔を上げた。大きく見開いた目が、そんなはずはないと訴えている。

「あなたの恋人の証言は、あなたの証言とはかなり食い違っていますね」

「異議があります!」

検事が席を立った。

「弁護人の言う恋人の証言は、本人自らが出廷して証言されるべきものであり、
本法廷において適当ではありません!」

「異議を認めます。弁護人は尋問を変えて下さい」

裁判長の言葉に、三島はゆっくりと調書から顔を上げた。

「あなたは被告人が以前何度か傷害事件を起こしていたことを知っていましたね?」

呆然とした思いを引きずったままの関口は、絶句したまま三島を眺めている。

「さきほどあなたは証言しましたが、行きつけのスナック店の中はとても狭い。
客同士の会話も筒抜けだ。あなたはそこの常連客だった。
他の客たちが酒のつまみにしていた話は、あなたの耳にも当然入っていたはずだ。
本人のいない所でされていた被告人の多額の借金の話も、あなたは当然知っていた。
金の為なら何でもやりかねない奴だと話していたことも。実際、
被告人が過去に起こした傷害事件はみな金銭絡みの事件が因を発していた。
だから常連客たちはいつもオーナーに忠告していた。気をつけろと」

関口は三島の機械的によく動く薄い口元をじっと見つめていた。

「何故なのかな。あなたは店でよく、義理の両親さえいなければ
その従業員の女性と晴れて結婚できるのにと冗談まじりに話していましたね。
それは数人の客たちの証言で調書にも提出されている。あなたは他の客たちがいる店内で、
わざと聴こえるようにそんな話をしていた。それは何故ですか?二人が亡くなれば
彼らの資産は全て自分のものになるとも、他の客たちの前で吹聴していましたね。
どうしてわざわざそんなことを被告人の前で声高に話していたのですか、
関口さん?」

不意に名前で呼ばれて、関口は顔を上げて三島を見た。
無機質なコンクリートの質感を思い起こさせる目が、じっと自分の目を捉えて離さない。

「邪魔な二人は消えてしまえばいい、と」

三島は一語一語確かめるように発音しながら言った。

「そう思っていたからではないですか?」

茫然と三島の顔を眺めていた関口の瞳に、三島の放った言葉の意味が徐々に沈み込んでいき、
やがてその瞳の奥底から、はっきりと蔑みの色が滲み上がってきた。

「そんなことはありません」

関口は初めて正面切って三島の顔を睨みつけた。

「そんなことはない?」

三島は首を軽く傾げ、ぐっと睨み返してくる関口の顔をしげしげと眺めた。

「そんなことはない?」

「異議を申し立てます! これはあきらかに誘導尋問で-」

「異議を却下します」

裁判長は検事の異議申し立てを静かに遮った。

「もう少し話を聞いてみたいと思います。弁護人、続けてください」

検事はやり場のない怒りを込めて三島を睨んだ。
憎しみの篭った検事の視線は三島の横顔に掠りもしない。
傍聴人の全視線は関口と三島の二点だけに交互に集中している。
しかし三島が意識するのはただ一つの視線だけだった。
ただ一つの視線だけが自分に理由を与えるものだった。
最後部の傍聴席から事の成り行きを見つめている、
三島の人生に長く濃い陰を落とし続けてきた、
あの物静かな吉岡の瞳だけが自分に取って意味を持つものだった。
三島は背中に向けられたその視線を意識しながら尋問を続けた。

「そんなことはなかったとあなたは言いましたね。それはどういうことですか?
無職だった自分を厭うことなく、衣食住、子育ての手伝いまでしながら
長年一緒に生活をしてくれていた義理の両親のことを、新しい女性ができたからと、
いともあっさりと切り捨てることなんてできやしなかった。そういうことですか?
ならば何故、被告人のいる前で二人がいなくなればいいなんて話をしていた?
あなたの中では矛盾しませんか?彼女とは結婚したい、けれど長年世話になった
義理の両親のことは簡単に捨てられない、第一世間が許さない、恋人は若くて
とても魅力的だ、時間は待ってくれない、死んだ妻の両親の存在さえなかったら、
あの二人さえいなかったら、そう思った事は、なかったと? けれども、」

そこで三島は言葉を区切り、強ばった顔で睨みつけてくる関口の顔を
まじまじと見つめ直した。

「ピュロスの勝利。そう考えた事は?」

関口の顔に、不可解そうな表情が過っていった。それを逃さず捉えた三島の口元に、
再び薄い笑みが浮かんでいく。

「どうですか?」

三島は聞き返し、

「答えていただきたい」

そして促した。拳を握りしめている関口の身体が小刻みに震えだしていく。

「簡単ですよ。イエスかノーで答えればいい」

三島はそう付け足しながら、押し黙ったままでいる関口の視線を誘導するように
ゆっくりと証言台の上に置かれている宣誓書へと視線を移していった。

「二人がいなくなればいいと、そう考えた事はなかった?」

視線を関口に戻し、三島は問い直した。
法廷内に、静けさが深まっていく。

「答えられませんか?」

関口は言葉を繰り出せない。

「終わります」

三島は椅子に腰を下ろした。




つづく
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