突然映画の話なのでありますが、
私の大好きな映画の中の一つに、
「Fly Away Home」という作品がありますです。
これは1996年に公開された映画でありまして、
邦題は「グース」。
おおまかにさらっと主内容のあらすじを書きますと、
母を亡くした14歳のエイミーという少女が、両親の離婚以来
10年振りくらいに再会した実父のもとに引き取られて
オーストラリアからカナダへと移り住み、
そこで父との確執や新しい環境への順応に悩みながらも
ある出来事を通して大きくその世界を拓いていく。
という話でありまする。
その「ある出来事」というのが、
ある日エイミーが野原で偶然に見つけた卵を孵化させ
自分の手で育てた16羽のカモグースくんたちを、
鳥人間コンテストに出てきそうな自家製飛行機(エンジン付き)に乗って
彼女が“ママグース”として無事に越冬地まで一緒に連れて飛んでいく。
というビックリカモ~ンな話でありまするが、
これは事実に基づいている話だそうですだ。
(*実際は少女ではなく、大人の“パパグース”が飛んだそうです。)
荒唐無稽に思えがちな話であるのでぃすが、
しかしとてもええ映画でありまして、おすぎも3回くらいは
この映画を観て感動の涙を流したと思う。
大自然を映し出す映像が、特にエイミーの飛行と共に
映し出される風景映像がこの上なく美しく、それを見ていると、
日常の区切られた生活の枠の中からすーっと
解放されていくような感覚に包まれもうして、そしてそれは
「あ、そうだ、地球に住んでいるんやな~。」という
原点に戻らさせてくれるとです。
映画は、観る人の数だけその想いの数はあるわけで、
それはそれは多様性をもっているものでぃすだ~。
私にとってのこの映画は、
「再生」であり、
「勇気」であり、そして
「信念」ですだ。
日ごろ思っていることでありまするが、
信念を貫くのは難しいことですばい。
「日常の生活」という理由をそこにこすりつけて、
それはうやむや~んにふやけてしまい、
そんな己から生み出している状況に、
歯痛を抱えたニホンザルのような顔で
ため息をついてしまうあちしでおます。
どこに信念をおくのか、
そこに何を見出せるのか、
それは追い求める価値があるのか、
なんて~なことはとてつもなく抽象的であり、
気が遠くなるほどの数の迷宮路がそこに口を開いているわけで、
それを考えだせばすぐさまその迷路に入り込んで、
ひとつ曲がり角、ひとつ間違えて、迷い道ク~ネクネ~♪
と渡辺真知子の曲を歌ってしまうのは私だけかもしれないけどまぁ
そういうことですだば。(←どういうこと?)
だからついつい、目に見えるもの、耳に入るものに、
すすららら~~~~、と引っ張られてしまうわけで、
なぜならそれはそれを納得するしないに関係なく、
そうすることによって自分の気持ちがとりあえず落ち着ける
ということなのであり、人間誰だって
「そわそわわわわわわあ~っ」としているよりは、
「ま、ここらへんで、按配ですな。」と
茶でも飲んで落ち着きたい生き物なのであり、
それは至極自然な行動であるのだけれど、
しかし拝啓恵子ちゃん、ほんとにそれでいいのだろうか?
富良野はすっかり秋になりました。
なんてまた考えちゃったりする私ったら
一体何を書いているのかしら?
そうだ、映画の感想のことだった。。。
話題を元に戻すと、
この映画の主人公のエイミーは、
ただ自分の育てたグースくんたちを
無事に越冬地に辿り着かせたい、
というその「一心」だけでもって彼女は「飛ぶ」わけで、
ただそれだけなんですね。
でもその一心が彼女の信念であり、
その信念がエイミーを動かしているわけで、
その「信じる」ということの根源的な純粋さが
とても崇高であり、美しく、
その姿はとても感動的なのでありますだぁ。うぅ、
ぶひっ。(←泣いているらしい。)
それからこの映画のもう一つのテーマに、
自然、動物保護のテーマがあるです。
エイミーたちが選んだ越冬地を開発事業から救う動きが
彼女たちの飛行開始と同時に始まるわけで。
一つの信念がもう一つの信念を呼び起こし、
やがてそれは大きなエネルギーとなって
物事を突き動かしていくわけでありまする。
「信念」とは意志を伝えていくバトンでもあるのだなぁ、
なんてなことも思ったですばい。
途中までは父親の“パパグース号”と一緒に
並飛行していたエイミーなのでありますが、
しかし往路で父親が怪我をしてしまい、
やむなく一人で到着地まで飛ぶことになりまする。
そこで父親が、一人で飛ぶことに躊躇している
エイミーに向かって言う言葉がとても印象的であります。
「君の母はとても勇気のある人だった。
彼女は誰の手も借りずに夢を追い続けたんだ。
その血を君も受け継いでいるんだよ。
そしていいかい、君の母さんはいつでも君の隣にいる。
君の周りのどこにでもいるんだ。
この自然の中の一部として彼女は今も生きているんだよ。」
そう静かにエイミーに語る場面が、
とても印象的でありまするだ。
その言葉はきっとそのまま彼の信念なのであり、
もちろん娘へと向けた言葉なのだけれど、
しかしそれは同時に、
訳あって別れてしまった、
以前は確かに愛した人への、
愛情の形なのだとも思うです。
終わってしまった愛情も、
終わってしまった夢も、
はかなく過ぎ去っていってしまった人も日々も、
もしかしたらそれは終わっているのではなく、
そっと背中を押してくれる勇気の微粒子となって、
今も自分の空間の中に存在し、そして自分を成長させつづけて
くれているのかもしれないですね。
物事には終わりがなく、
全てが繋がっているのかもしれなく、
その繋がりにどう関わっていくのかで、
日々を彩るモザイクはその形や色を変えていくのかな、
なんて思ったりするです。
「再生」は「勇気」であり、
「勇気」は「信念」であり、
そして「信念」はいつでも
「再生」していくものだと。
この映画の中でもう一つ強く印象に残るのが、
Mary Chapin Carpenterという歌い手さんが歌っている
「10,000miles」という挿入歌でありまする。
自己流で和訳したので、「全然違うやん。」
とツッコミをいれられてしまうかもしれないのですが、
とてもとても美しい曲なので、この歌の雰囲気だけでも
ここから感じ取っていただけたら嬉しいでぃす。
またいつの日か
僕の真に愛する人よ
しばしの間 さよならだね。
僕は旅にでるんだ。
でもいつかきっと戻ってくるよ
10,000マイルをくぐりぬけて。
10,000マイル
僕の愛する人よ
10,000マイルの道
もしかしたらそれは、
もっと遠いのかもしれない。
けれども岩は溶け、
そして海は燃えるだろう。
もし僕が
約束どおりに戻ってこなければ。
ほら見えるだろう、
あの寂しそうな小鳥のこと。
ツタの上に止まって
静かに涙を流しているんだよ、
彼女の真に愛するもののために。
僕がそうしているように。
あぁ 君よ戻ってきて
私の真に愛した人よ。
そしてほんの少しの間でもいい
私のそばにいてほしい。
もしこの地球上に
真の友達が存在するのなら、
それは君なんだ。
君はずっと私の友達だった。
ー 10,000 miles ー