月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

色褪せない人

2007年10月31日 | 思うコト


あのねあのね吉岡君がねうっきゃっきゃでうっきっき~でうふふふらららら
てくまくまやこんあっぱれひでたかる~るるるる~でやんばらやんやんやん♪

と、面かぶりクロール100M世界記録に届く勢いで(そんな競技があるのか?)、
「最新吉岡君レポート」を日本の姉に電話で話していたところ、
「しかしよく飽きずにずっと純君のこと好きだよね~。」
と、姉から言われて、へゃ?っとそこで始めて息づきの呼吸をしたであります。
「純くんでなくて吉岡君だと口を邦衛にして何度も言ってるでましょ!」
と、とりあえずの忠告ホイッスルを鳴らしたあと、ちびっと沈思。

あ  き  る  って? 
あ  ひ  る  とは明らかに違うのだ。では、
あ  き  ら  といえばデビルマン。
一体彼は同じTシャツを何枚持ち歩いていたのだろう? 
いやそんなことはどうでもいいことだった。

「吉岡君に飽きるという思いはこの世に存在しないのだっ、ふぅわっはっはっは~!」
と黄金バッドのような高笑いと共に毎度お騒がせの電話を切った後、
再び沈思、ちびっと心にすきま風、ひゅるるるる~。

・・・・・・・・・・・・・・ふぅ。

なんか淋しくなっちゃったじゃないかぁ~。
んもうっ、飽きるっていう言葉がいけないのだでよっ。
吉岡君は人なのだから、人に対して飽きるだのあひるだのあきらだの
という言葉を使うのは、WHO条約に反していることなのだ、チッチッチッチ! 
と、もう一度国際電話して姉に告げようと思ったものの
何だかしょびーんとパワーダウンしてしまったので、
寅さんのDVDを観て元気回復、心にビタミン満男パワー。
好きやでぇええええ、みっちゃん。

ということで本題に入りまする。(って今までは何だったのだぁ?!)

吉岡君の出演作品を観る時、吉岡君の姿を観ようとして見始めても、
しかし実際見ているのは、純君であり、満男君であり、
コトー先生であり、ちゃ~さんであり、ノンポリくんであり、
ルート先生であり~の、その他大勢、省略ごめなすって。
という人物人生博覧会になるわけありまして、
こりは偉業であると思いますだ。

しかしこういった偉業のことを、ただ役に恵まれてるだけ、
とおっ猿、いや仰る方を時に目に耳にするであります。

・・・・・・・・んふ、
ふふふ、
フフフフフ(片仮名変換してみました)、
へへへへへ~
ニヤ。

って怪しい含み笑い妖怪になってしまうでなかですか。
なじぇって? 
なじぇというならっ、なじぇなのだろう、なじぇなのかっ? (しつこい・・・)
そりはズバリっ、
褒め言葉だからでぃっす、れぃでぃ~す え~んど じぇんとるめ~ん!

役に恵まれている。
という結論の出所は、そもそも一体どこからくるものなのだしょう?
ここで解りやすくチャートにしてみるとです。

① 役に恵まれている = ② くやしいけどごっつええかんじ → 
③ なんか言いたい → ④ くやしいから①に戻る→ ⑤ しかし結局②に戻る。

おぉ、これぞブーメランの法則。ヒデキ、カンゲキ。

しかも吉岡君は、生み出してきた多くの人物でもって、個別に
インディビジュアルブーメランを長年に渡って飛ばし続けているという、
Wブーメランの達人でありますだで、ヒデキまさにカンゲキ、
ブラボ~ヒデタカ。ヨ~ロレイッヒ~!

役者さんが、演じた役から伝えてくる真のインパクトというのは、
最初からお膳立てされているものから伝わってくるものではないと思うわけで。 

確かに既成品から生まれてくるインパクトというのも
あるかもしれないでありますだ。
見るからに「こいつ悪やな。」という眉墨たっぷりの悪役や、
「いい人まるだしやで。」というお買い得パックなキャラクターというのは
確かにあるであります。
でもそれはストーリー上そうでなければならない
登場人物その11、12くらいであるわけで、
それは悲しいかなそう枠組みされてしまっているキャラなわけであり。

しかしそれがメインキャラクターとなると、
ことは簡単にいかないわけであって、
「与えられた場所」から、どうその人物をどう育てていくのかは、
やはりその役者さんの実力にかかっていると思うし、
その実力なくしては、ブーメランは何度も戻ってこないと思うわけで。

吉岡君は、ふぅわいとぉ~いっぷぅわ~つっオロナミンC!
のような限定瞬発力だけを持っている人じゃ~なかとですばい。

彼には底力があると思うわけで。
長年に渡って培われてきた土壌があると思うわけで。
そこにはしっかりと深く張っている根があると思うわけで。
それは揺るがない「実力」であるわけで。

満男君、純君、コトー先生、そして茶川さん。
これだけ多くの「人物」を人々の心の中に「生み出し」「滲ませた」
役者さんは、やはり稀有であるわけで。
それは結果が残しているものであって、必要から出ているものでは、
決してないわけで。

「誰か」が「演じた人物」という表の印象を強く残す登場人物は、
多いかもしれないでぃす。
でもそれは、その「誰か」に付属している人物という枠を、
結局は抜けられないのかもしれないですだ。
そういうことを思う時、役者という仕事を持つということは、
一体どういうことなのだろう、って時に思うでありまするだ・・・。

吉岡君から生み出される人物たちは、そういった枠が全くなく、
外連味がなくて、個々に自由に呼吸をしている感じがするでありまする。

残していく、ということは、
最初から望んで生まれるものではなくて、
ただただ一心になる、ということから
生まれてくることなのかもしれないですねぃ。

一生懸命になるってかっちょええじゃんか~。
って、吉岡君の姿を見ていると、自然とそう思いますです。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

余韻の人

2007年10月26日 | 思うコト

キネ旬11月号の、吉岡君の綴じ込み写真を
暫しの間じぃーっと見ていて、
とりあえず0.8秒おきにクラ~~~~~っ
となっていたりしていたのですが、
くらり~となりがらも、なんか、吉岡君のその佇まいに、
とても感動してしまったであります。

被写体としての吉岡君の姿を目にする時は、
必ずといっていいほど毎度毎回お決まりのように、

どっしゃふへししゃしゃしゃられれれら~っはぁ~

という、「言語表現不能につきやむなく退場」
な状態になってしまう私であるのですが、
しかし場所が自宅では退場のしようがないので、
だいたいの場合は、雑誌のページをひたと閉じて暫くの間
じぃ~っと表紙を見つめた挙句に掲載文字タイトルの漢字の画数などを
数え始めたりする珍しき物体と化してしまうのが常であります。

んがしかしっ、今回の場合はそれプラスっ(←結局珍しき物体と化したらしい)、
 
よっほぉおおっ、ほおおぉ~~~~~~~~~~~~~しおかくん・・・・。

と、つくづくしみじみほれぼれはれはれららららら~~~~~っはぁ~

いや、後半の擬音は省略可でありますが、
なんというか、ほんまに、「ええ男になったな~」と、
その姿を見て思ったとです。

いやいやいや、以前だって、そりゃ~~~~~~それこそ、
じゅ~~~~~ぶんすぎるほどじゅ~~~~~~~ぶんに、
可愛かったしぃ(今もだけど)、かっちょえかったしぃ、(今もだけど)。
素敵だったしぃ(今もだけど)、きゅいぃ~~~~~んてなっちゃってぇ
よぉぉおしおかぁくぅ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~んっ、きゅん!
となってしまっておりましたおりましたですおりましての、
吉岡君すっきやでぃんぐ。(←現在進行形ということらしい)でありますが、
でもなんというのか、今回お出まりになった吉岡君は、

一味違う。

もっと、その素敵さの層が増したというか、その深みが増したというか、
熟成醗酵している感じというか、なんかそんな感じでありもうす。

垢にまみれていない潔白さは全く失われてないようなのに、
しかし人としての人間味は人一倍持っている。
そんな相反する魅力を同時に併せ持っている不思議な雰囲気がするわけで。

吉岡君という人は、とても余韻のあるお人ですばい。
画面や紙面から直接に受ける印象はもちろん大きいけれども、
でも、そこから離れてみてもなお残っている余韻のほうが、
もっとずっと深く長く心象として残っていくお人のような気がするでぃす。

静か~に漂ってくるその余韻は、幾重にも幾重にも重なっていて、
なんというか、これまた不思議なくらいに、
「ひとつじゃない」感じがするわけで。
すっと静まっているのに、ぐっと動いている感じというか。
なんかそんな感じがするですばい。

以前、一矢くんは中也の詩のような印象だと書いたことがありましたが、
でも吉岡君本人から感じる印象は、それとはやはり異なるものであり、
彼からは、例えば中也の詩から感じるような
哀切で切り取ってしまったような世界感はしなくて、
もっとこう、例えば、光太郎や宮沢賢治から感じられるような、
日常の流れに感じ入るような繊細さと、
それでもしっかりと自分の道を自分の足で歩いていく人生に対する力強さ、
というような二つの大きな核みたいなものを、
その心に持ち続けているお人なのではないだろうか、
という気がしたりなんかするわけで。

自分自身が歩いてきた道を、決して大げさに脚色せず、
それをあるがままに受け止めていく実直な逞しさみたいなものを、
吉岡君からは感じるでありますだ。

赤の他人の私などからは想像でしか計り知れないことだけれど、
吉岡君の歩んできた道は、
二宮金次郎さんだって蒔を投げたし逃げ出したくなるような事が沢山あった、
のかもしりないし、
「そんなんじゃ~ねぇんだぜぇ、オレはよっ!」と、
富士山頂から叫び出したくなるようなことも沢山あった、
のかもしりないし、
もしかしたら人生ゲームのキャッチコピーような
山アリ谷アリモハメッドアリの人生を歩んできている、
のかもしりないし、
でも、「そんなの生きてりゃ~誰にだってあることだよな。」
と、そういった出来事を咀嚼しながら生きていくことが出来る人、
なのかもしりない。

しりないけど、それはわからない。
吉岡君しかわからないことでありますでぃす。

でも一つだけいえることは、
咲ちゃんではないですが、

吉岡君、どんどんいい顔になってる。

ますますいい顔になっていく。


その顔が語るその人生なのかもしりない。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸せツーユー

2007年10月20日 | CM


えらいええ感じであります。
吉岡君の新しいCM「昆布つゆ」。

夕食のお買い物の紙袋を抱えて坂道を小走りしている吉岡君は、
たぶん、新種のぷりてぃ~星人だと思われ。

可愛い・・・・・。
かぁ~わい~とカ~ラ~スは鳴~くよ~。
可愛い可愛いと鳴いちゃうんだよ~~~~吉岡く~ん。

可愛いな 可愛いなったら リピートチャチャチャ

思わず唄って詠ってしまいましたわよ、せにょ~る。
反則級のらぶり~濃度なのだ、しかし新鮮度は100%。
出るたびに真新しい吉岡くん。
いつまでも決して淀まないお人でござる。
真に揺るがない白さを持っている人に違いないずら。
惚れるでよ。惚れてるけど。


お友達が言っていた通り、よく見るとほんまに、
でぇこんとブリがまんまぶりぶりっと紙袋に入っているっ。
おぉっ・・・・・・・・・・・・どこのスーパーで買ったのだろう?
そりとも八百屋、魚屋と順次に食材を買って入れたマイ紙袋なのだろうか?
やはりエコロジークラスでいきましょうなのですか、ぐっどだわ、
どちらにしても尾頭付きだわブリくんったら、めでたいでござる。

そりにしても、エプロンが(まで)似合いますね~、旦那ぁ。
あんな可愛い旦那しゃんが、毎日「おかえり~」っていって
手料理と一緒に出迎えてくれたら・・・・・・・・・・・・・・・
私は、うきゃっって叫んで玄関先でとりあえず気絶してしまうと思う。

しかし吉岡君って、ほんとに誰とでもお似合いになっちゃうわけで。
毎回新しい女優さんと共演するたびに、「これはお似合いだっ!」って
無理なく納得させて唸らせてしまう唸り節を奏でるでありますばい。
自分を押し付けずに状況と溶け込んじゃうから、見ているこっちは
その状況をそのま~んま丸ごと受け入れられちゃうのですね、
まるでブルースクリーンみたいですねぃ、吉岡くん。とれびあ~ん。

しかし可愛い。とことん可愛い。麻生久美子さんより可愛いかも~。
ごめんよ~、どうしてもラブリィ~っうきゃっってなってしまって
ついでに絵文字を使っちゃうのだよ~。
ハッ  (っとまた絵文字らしい)
もしや、あの尾頭付きブリくんはっ、「La ブリ」の隠しキーワードなのかっ?!
La ブリ → らぶり~ 
いやそんなアホな。
しかしっ、可愛いだけじゃなかですっ。(といきなり力説)
吉岡君は、可愛くって素敵なのだった。いや、素敵で可愛いのかもしれない。
どっちなのだ? 多分、「可愛い⇔素敵」な吉岡の法則なのかもしりない。

しかしこんなにもナチュルルに可愛いという言葉が
嫌味なく違和感なくさらっと似合ってしまう37歳の男性を見つけるなんて、
徳川埋蔵金を見つけるより困難なことだと思うぜよ~。
やっぱり貴殿は、時にラブリ~、時に素敵、概ねミックス。貴重なお人だ。


ブリ大根を味見している時に、“あ、帰ってきたっ”って感じで
画面を振り返る吉岡君に、マグマジェッ~~~ットッ! でやられもうした。
吉岡くん、万歳。

一瞬で画面一杯に「ふんわり~」な雰囲気を醸し出して
人の心を画面に惹きつけてしまうなんてぇ・・・・・さすがの瞬間吸着力だで、
アロンアルファですかい、吉岡くん。最強じゃ、フフ。

サントリーモルツのCMの時にも書いたことだけど、
吉岡君からは、力みというものが全く感じられないとですね~。
ふわ~んとしたなんとも柔らかい温かみが体全体から滲みでていて、
なんだかとっても羽毛布団みたいな雰囲気でありやすだぁ。

柔らか~い温かさでふわっと包んでくれるような大きな包容力が、
ふわりとした軽やかさで画面全体から伝わってくるような雰囲気。んふ。
そういった、気持ちが優しくほどけていくような心地良さで、
人が抱える日々のいやんなっちゃう緊張感などなどを、
「いいんだよ~」と、やさしくほわっと包み込んで解き放ってくれる感じが
するでごわすだでぇ~、吉岡く~ん・・・・・・すっきやでっ!


吉岡君の放つ時間感覚って、とてもゆとりがあって、やんわりとしていて、
まるで木漏れ日のような安らぎ感がするでぃす。
大らかで泰然自若とした時の流れの中に、自然といつの間にかやさしく包まれて、
自然とこちらの気持ちもゆったりと和らいでくつろいでいく、
っていう感覚がすごぉ~くするでありますけんのぉ、おぉっまるであなたは
「遥かなる時の旅人悠久編」だで、惚れちゃったら離れられないのだ、
すっぽんラブ。

吉岡くんって、
ほわっとさせてうふっとさせていいな~ってさせちゃう
略して「ほうっとな~大王」でありますですたい。

はぁ~~~~~もう・・・・とことん大好きや~。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本人と寅さん

2007年10月18日 | 思うコト



ロスアンジェルスから成田までの飛行時間は約11時間。
ナガイの海苔ですナガイさんもお手上げの長さだと思う。

私は飛行機にもすこぶる弱いであります。
できることなら、飛行機とは交際をお断りしたい。
できることなら、ひみつのアッコちゃんのパパが乗るような
外洋客船などに乗ってゆっくりと祖国日本に帰りたい。
いや贅沢はいわない。遠洋漁業船だっていい。
ついでにマグロ漁を手伝ってもいい。とにかく飛行機はいや~ん。

なぜなら、飛行機ほど納得のいかない乗り物はないと思うわけで。

もうなんてったって、あの座席空間の狭さには、オオマイガッドで神よ仏よ
なんまいだ~あ~めんや~れんそ~らんそ~らんそ~らんはいはいっ!
と思わず逃げだして踊り出したくなるほどのヒューマンネィチャー最小限
スペースだと思われるわけで。
何故に高度10000M上であんな固定椅子四の字固めのような理不尽アワーを
過ごさなければならないのだろう?
あんな苦渋に満ちた時間はインド人だってターバンを投げ捨て辟易すると思う。
しかしだからこれが何故にどうして吉岡くんのことと関係があるというのだろう?
いや、あるようでないようでないようであるのかもしれないけどどうなのだろう、
ないのかもしれない。(断言できないらしい・・・。)


飛行機内での私の崩壊寸前土偶状態を少しでも緩和してくれるのが、
機内上映映画であります。
当たり外れが多い福引袋のような機内上映のリストの中に、
「男はつらいよ」が入っているかいないかで、その状態は、
陽気な旅人か荒野に佇むモアイ像かにはっきりと明暗が分かれるわけで。

運良く「男はつらいよ」(特に27作以降)が上映リストに入っている時は、
それこそエンドレスラブでひたすら満男くんをうふふ~とリピート上映している
突き抜けちゃった陽気な旅人の私なのでありますが、そんな私に感化されたのか、
不思議に思ったのか、たぶん後者だと思われるのですが、あるフライト時に、
私の旦那さんも一緒に「男はつらいよ」を鑑賞した時があったでごわす。

旦那さんに限らず、機内で寅さんを観始める西洋人の方たちは
意外と多いでありますばい。意外と多いのでありますが、
しかしよくよくそういう方たちを観察してみると、大方の方たちが、
すごぉく興味津々でぇす→興味ありまぁすね~→興味どこいったでぇすかぁ~
→チャンネルチェンジ→007、ジェームス・ボンド。
いや、007とは限らないのですが、でも皆さん大体こんな感じの
リアクションをしているような気がするであります。
なんてこったいウェスタン。

かくいう私の旦那さんも、寅さん映画を鑑賞をしたときは、
それこそ、寅さんが矢切の渡しに乗って登場する冒頭場面から、

旦:ここはどこなの?トーキョー、キョート?
私:トーキョーじゃよ。
旦:トーキョーに筏があるのっ?
私:筏じゃないのだ、小船じゃよ。
旦:どこが違うの?
私:(・・・)トムソーヤが乗っているのが筏じゃ。
旦:これはどこで乗れるの?
私:(うるさい奴・・・)トーキョーじゃといったろう、アメリカンよ。
旦:あっ、これはなに? ジャパネーズカフェ?
私:(まったくもってうるさい奴・・・)そうそう、カへだよカヘ。
旦:なに作ってるの?
私:(お主、しつこいぞ。)団子じゃよ。
旦:団子ってなに?
私:(えぇ~いっ、黙っとらんかいなっ)団子は団子で餅の親戚じゃっ!

と、とにかくWHY? WHY? ワイワイうるさくて、
作品に集中できないじゃないのよぉ、ちょっと黙って観てて頂戴っ。
解説はあとでしてあげてよ。
と、ピシャっと窓口相談の戸を閉めて、私は作品に集中。
いや~懐かしいわぁ~うんうんそうそうこの場面あったよな~
あけみちゃんが出てるわぁ~いい味出してるわぁ~、やっぱり
寅さん映画は最高だ~フフフアハハハフフフおっ満男く~~~~んっ
待ってたよ~ふふふ~♪可愛いぞぉ、満男くんったら、あのね、
この人が私の好きなみつ・・・

って寝てんじゃねぇ~ぞぉ~~~~~っ!

横を見ると、旦那さんは大口開けての爆睡状態・・・。
きさま~、満男くん登場の場面でアホ面して寝ているとはっ、
喧嘩売っとるのかっ?!
思わずムッとして、うりゃ~っと人差し指と中指を旦那さんの
鼻の穴に入れて無理やり起こしたら、「なにするのっ?!」と旦那さん。
「加トちゃんぺだよ、ぺ。」とクールに答えた私。決めたぜ。

私:寝てたね、キミ?
旦:寝てないよ~。ちょっと目を瞑ってただけ~。
私:大口あけて目を瞑るの、キミは? カバみたいだったよ。
旦:カバは大口あけて寝ないよ~、口は閉じて寝るよ、カバは。
私:(なんじゃと?)そういうのを理屈が屁をこくっていうのだ。
  キミは寝てたのだ、確かに。
旦:寝てない寝てない。
私:(ムッ)じゃ~ここまでの映画の感想いってみて。
旦:あのね~、筏にのった男の人がジャパネーズカフェにやってきて、
  病院に行って大騒ぎして反省して団子カフェを手伝ったんだよね。
私:うんうんそうそうその通りってそれは感想じゃなくてあらすじだっ!
  それに筏じゃないと言ったろうがぁ~。
旦:だって感想といわれても・・・・。
私:言われても、なに?
旦:何も起こらないんだよね。
私:起こってるでしょ、ちゃんと。
旦:何が?
私:色々、モロモロ、エトセトラ。
旦:よくわからないんだよね~。
私:(フッ、こりだからウェスタンはよ・・・)これはね、詫び寂びという
  日本人の心を描く名作喜劇なのだよ~。
旦:そうなの?
私:そうなのですわよ、うえすたん。
旦:団子カフェじゃないの?
私:団子カヘだよ。だから何なの?
旦:だってワサビなんでしょ?
私:そうね~ワサビは練りでもいいけどやっぱり生を擂ったほうがって
  ち~が~うっ!

こいつ倒したるっ!

なんで高度10000M上昇してまで日米対抗オモロイ夫婦にならなければ
ならないのだっ。こりだから飛行機はいやなのよぉ~もぉ~~~~~~~~。

と、嘆きの、いや嘆きのジャパニーズとなりかけて、
ふと思ったことなのでありますが、日本人の心ってなんなのだろう?
侘び寂びっていうけど、それってワサビじゃないことは確かだけれど、
でも一体なんなのでましょ?


例えば、秋の夕暮れに、ゴーンと鳴り響くお寺の鐘の音を聞いて
秋の深みを感じたり、
冴え渡った冬空にキーンと浮かぶ月を見上げて、
冬の色を感じとったり。
そういった余韻のさざ波みたいなものを五感で感じ取れるのが
侘び寂びの美しさなのかな・・・?

う~ん、よくわからない。
でも、言葉で説明できないのが詫び寂びの極意なのかもしれない。


移ろい変わりゆく季節の美しさや自然美と自分達の生活とが、
互いに深く密接してきた日本人だからこそ感じ取れる
微細な美意識というものは、私たちを形成する心の一部分となって、
私達の体の中に確かに深く流れているものだとは思うわけで。

そういった「とてもささやかなこと」に敬意を持ち、
それを深く感じとれる日本文化は、やはりとても素晴らしいものだと
思うでありますばい。

「男はつらいよ」は、
四角い顔したおじさんが、綺麗な女性に叶わぬ恋をして、
親戚ご近所巻き込んでのお話だよジ・エンド。

あらすじにしてしまえば、60字以内に収まってしまう話かもしれないですばい。
でもそこには、文字には表しきれない程のささやかな人情の機微が
散りばめられているわけで。
そしてその人情に触れることが「男はつらいよ」の真打ちであり、
この作品が長い間愛され続けてきた名作喜劇たる所以の一つだと思うわけで。

人が生きていくということは、人と接していくということだから、
時にはこんがらがってしまったり、行き詰まっちゃったり、
袋小路に迷い込んじゃったりするけど、でもそういうことはもしかしたら、
自分が考えているほど大げさなことではないのかもしれないねぇ。
笑ったり、泣いたりしていれば、いつかはすっと何処かにいってしまう
わだかまりなのかもしれないよ。 なんといったって、
人と人とのふれあいが人生の醍醐味ってやつじゃ~ねぇかい、おいちゃん?

というような「悲喜こもごもの人のやさしさ」が、
「男はつらいよ」の世界の根底には、静かに流れていると思うとです。

四角い顔したおじさんが、綺麗な女性に叶わぬ恋をして、
親戚ご近所巻き込んでのお話に、心から笑ったり、泣いたり、怒ったりしながら
その人情の機微に共鳴することができる日本人でほんとによかったな~、と
つくづく思うでありますだ。


「三丁目の夕日」の舞台挨拶などで、
吉岡君が「日本人」を強調していたのを思い出して、
なんかそげなことを思ったりなんかしたとです。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そこにある、確かな気持ち

2007年10月16日 | 思うコト




「続・三丁目の夕日」の完成披露試写会が昨日行われたようで、
今日はその模様での最新吉岡君がワイドショーで見られるらしいのですが
しかし私は見れないらしいので悲しいらしい。泣けてくる・・・。

でも、作品も吉岡くんも、とてもとても評判がいいみたいですね。

ふふふ~♪

やっと役者・吉岡君が見れるっ!

いや私は見れないのだけれど、でも日本中の方たちが
名役者・吉岡君を見るのだっ、おぉっ、これはまったく、
ふふふふふ~♪

しかし長い日々じゃった・・・。

追いわき山で三味線を弾き鳴らしながら「帰ってこ~いよ~」と
何度唄おうと思ったことか・・・・・いやそれは事実ではないですが、
でもこの時をず~っと待ち焦がれていたのだよ~、吉岡く~ん。
満男くんっ子のあたしとしちゃ~、やっぱりチミのお姿は
銀幕で観るのがいちばん好きじゃよ~。
観たいぞぉっ、銀幕の君っ!

そうなのだ。(え?)
吉岡君は、銀幕に映える。
とっても映える。
なんといっても映える。
役者・吉岡の醍醐味ここにあり、という感触が
銀幕からズバンと180Km/hで伝わってくるようでありますけん、
魔球じゃの、星君、いや、伴君、いや、花形君、しつこいわねっ、吉岡君じゃっ。
(↑久々の一人ツッコミであります。)

役者・吉岡君の醍醐味。

そりは、やはり、

感情を直にズバッと心に受け取れられるということ。

ではなかでしょうか。

ブラウン管からも、それはもちろんグングン伝わってくるけど、
けれど銀幕からはその感情周波数が、スーパーワイドな振幅で、

ど~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ん

と劇場全体を圧し包むような迫力で伝わってくるので、
たまりませんじゃよ、自発3Dみたいですだば、吉岡くんったら底なしブラボ~。


帰国時と公開時が運良く重なって劇場で吉岡くんの出演作を
観れたのは、三丁目の夕日と、四日間の奇蹟。
人生で(最近)このふたつ。

三丁目の感想は以前に書いてしまったので
ここでは割愛いたしまするが、
四日間の奇蹟については、運良く帰国時に劇場で鑑賞した時、

「千織ちゃんに演技をさせてピアノを弾かせているあなたは
詐欺師じゃないんですかっ、え、どうなのまったくかっこいいじゃないの
あなたってばクラ~っなのよっ、早く月光弾いてちょうだいっ!」

いや、後半の台詞は全てフィクションでありますが、
前半のきっつ~い言葉で看護婦さんに詰問されてしまう場面の
吉岡くんの演技ときたら・・・・・・・・・・
全身鳥肌もんでござんした。

スクリーンを通して、如月氏の心の奥に潜む嫉妬、悲哀、憂き身、
それら全てが混沌とした複雑な感情が、
彼のその無言に佇む姿からスクリーンを飛び越して、
びびびわ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~んっ
と体全体を巻き込むように伝わってきて、
それは怖いくらいだったとです。

吉岡くんは、台詞と表情がきちんとワンパックになっているですだ。
台詞だけ、とか、表情だけ、のどちらか一方だけが
画面上に先走ってないでありまする。
ちゃんと言葉と気持ちが一体化しているというか、
気持ちの奥深くからぐぃ~っとくみ上げられてきている感情が
その表情、言葉になって現れている、という感じでありますばい。

そして台詞がないときでも、そこに「無言の言葉」があるわけで。
表情、というか、体全体から彼の気持ちが無言の言葉の粒子となって
拡散され語られている、という感じですばい。
んもうっ、さすがじゃ吉岡くんったら、男は黙って心で語るぜ、惚れるでよ。

一つの感情では語らない。

静にして動。

阿修羅像みたいじゃ、吉岡くん。
君の存在こそ奇蹟なのだ。たまらんぜなもし。


いやいやしかしですね、もちろんブラウン管の吉岡君だって、
そりゃ~もう~~~~~
「あぁもうっ吉岡ばんざ~いっ!」
とお手上げになってしまうほどの素晴らしさでありますだ。

なんてたって「お茶の間の勝手にご近所さん」浸透率は横綱級。
そんな神業級の存在感をもっているのは、私は吉岡くんと
サザエさんしか知らない。

演じる役を通して、まったく別個の「ご近所さん」な人たちを
作り上げて浸透させてしまう吉岡くんはやはり只者でねぇですだ。
何者なのだ、吉岡くんよ。

なので、
銀幕の吉岡くんと、ブラウン管の吉岡君、どっちが好き?
というのは、結局は、これはもう、なんというか、

リンリンとランランはどっちが可愛い?

という質問に答えるのと同じくらいの難易度でありますね。
詰まるところ、やはりやっぱり吉岡くんは名優だぁっ、
惚れちゃったんだよぉ~ん、ということでありまするだぁ。
ふふ。


銀幕からにしろ、ブラウン管からにしろ、吉岡くんの演技からは、
役者欲というメッキコーティングみたいなものが
まったく見受けられないですばい。

しかし欲を消し去るってとっても難儀なことだと思うわけで。

しかしそうする影の努力の匂いまで消し去る消しゴム忍法ごときなものまで
使いこなしてしまう吉岡くんはやはり只者でねぇ。ほんとに何者なのだぁ~
吉岡く~ん? サスケですか?

彼の生み出す人物たちは、
役者の力量を見せるために生み出された看板人形ではなく、
その役の人物の気持ちに自分自身全てを委ねている、
という感じというか、
吉岡秀隆という浄化フィルターで濾過して生み出してくる
混じりっけなしのありのままの「そこにいる人物たち」、
という感じがするですだ。

色んな重みを抱えて生活しているのが人間であり、
そしてその重みを躊躇なく曝け出してくる吉岡くんだからこそ、
「そこに人が生きている」となるわけだと思うわけで。

吉岡君の生み出す人物達は、ブラウン管や銀幕の中だけに生きている
お人形さんでは決してなく、人々の心の中に、人々と同じレベルで
確かに「生きている」人物としての人生という重みを、
永遠に近い高さで創り出しているのだと思うでありますだ。


それが吉岡くんという役者さんの「名優」たる所以であると思うわけであり、
それが吉岡くんという役者さんに「すっきゃでぇっ~♡」となる所以の一つと
なるわけで。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

繋がっているのは、言葉だけですか?

2007年10月10日 | CM


ブログの名前を変えてみました。
内容は全く変わっておりませんです・・・。
これからも宜しくお願いします。




さてさてですね、
私は吉岡くんにも気圧にも時差にも滅法弱いのでありますが、
どうやら秋にも弱いらしいであります。

特に、「じわじわ~といきまっせぇ、枯葉と夕暮れ」という
じわわんオータム攻撃に、免疫力がまったくない、
らしいであります・・・。

なので(なにがっ?)ついつい、黄昏の窓辺に佇んで越路吹雪のように、
愛のシャンソンなどを一曲披露したくなってしまうのでありますが、
しかし私はシャンソンは歌えなかったのでありました、あぁどこまでいっても
私は昭和枯れススキ。


おかんやかん、いや、いかんいかん、
このままでは、あちしは全身古賀政男メロディーになってしまう・・・。
といった時には、頼みの綱だで、ズバッと登場吉岡くんっ!

と、枯れ葉舞い散る秋には決まって最多のご登場を願うのが、
NTTのCM吉岡くん。
ついでに松家のたか子ちゃん。


こりはですね・・・・・こりは・・・・この吉岡くんはですね・・・・・


宝の倉庫よっ、鬼に金棒っ、ゴールドラッシュで、会津磐梯山は宝の山。


とにかく、無条件降伏で、白旗振り振りルンバしちゃうほど、
えらくかっこええくって、おまけにコサックダンスも踊っちゃえ。

んもうっ、

おわはられりら~~~~~~~、

と、ひれ伏したくなるほど
「エクセレントやね」
でありますばい、うふ。


何パターンかに渡ってのストーリ形式になっているこのCMでありますが、
何パターンにも渡って、うわわぁ~~~ん、きゅいぃ~~~ん、どわっしゅ!
と雄叫び三段活用を上げさせるCMでもありますので、困っちゃうのよ、
嬉しいけれど、それがヒデちゃん、惚れるわね、ツボっ!

という吉岡トルネードを巻き起こすのでありまするだ。


このCMの中で、一番強~~~く印象に残っているのが、
松たか子ちゃん。


え?

なんで?

あほんだら。


と、お思いのそこのお方、
ちょっとまってくだせぃ。


そりは何故なのか?
そりは何故かというと、
だってぇだってだってぇ、


うらやましすぎる、松竹梅の松たか子っ!!!!!!!


という、強~~~~い羨望がベースになっているのでありますだ。

こりは俗にいう、じぇらしぃ~、というララバイでありますね、ルート先生。
ってルート先生は、はね毛の理系だった。(←だからなんなのだ?)

とにかくっ、あ~~~~んなかっちょええ人と
「友達以上恋人未満」
の美味しすぎる関係を繋いでいるなんてぇえええええええっ、(クラ~っ)
やっぱり私はじぇらしぃ~らしぃ~うらやましぃ~。

この「友達以上恋人未満」という、
むずむずきゅんきゅんしちゃう関係が、
吉岡くんには、どんぴっしゃりっ!


吉岡くんという人はとても、さらり、とした薫りが漂っているであります。

オレオレオレオレオレオレオレオ~~~~~~~~~~~レィッ!!!!
みたいな、熱血モウモウ闘牛オレオレオーラは、
ま~ったくない人でありますばい。

とても魅力的であるのに、しかしその魅力を、
いともさらり~、と風にそよがしているような雰囲気があるでありますだ。

そこがっ、こりがっ、

吉岡くんの、流れるようなかっちょよさ、これ粋なり。

そうめったにはお目にかかれない
さらりでやはりなかっちょえさでありまんがな、
流しそうめんみたいな粋っぽさだわ、吉岡くん、たまや~。
(↑自分で書いてて意味不明らしい・・・。)


この、吉岡くんが独特に放つ、
「透き通った薫り」みたいな雰囲気が、
「友達」という安心感と、「好きな人」という切なさの微妙な隙間を、
絶妙な揺らぎバランスでもって、あっぱれ見事に存在融和させているですだ。


CMのバージョンが新しくなっていくたびに、
その「友達」と「好きかも・・・しれないよな」という
揺り翳っている気持ちのバランスを、微量にかすか~~~~に
「好き」へと崩していくその加速度が、んもうっ、吉岡くんったら、
切ないっ、切なかっ、切なかえすとっ!

切なさチャンピオンベルトだ、吉岡君よ。
無敗の王者じゃ、ヘビー級。


「友達」だけど「好きなんだ」
でも、
「好き」だけれど「友達だから」

という、切なさギリギリ境界線の気持ちを、
その表情に、その沈黙に押し込めるように、
すっ、とした明浄さでもって、
そこに漂わせて浮かばせて見え隠れさせているのでありまするだ、
これはもう、ヒデタカ揺らぎ節だよ、まいったねっ!

そしてですね~、
このCMでの吉岡氏は、
服装まで完璧ですので、どうぞよろしく。

着ている服のベースは、その多くが、
なんと、黒。

黒い服と吉岡くん。

くろれんじゃ~吉岡。

ノックアウトでごぜいます、エイドリアン。

そういった意味でも、
埠頭の倉庫街みたいな場所を歩く二人のCMバージョンは、
まさに家宝ものでごわす。

グレーのフィルターをかけた画面と、
洋レトロな街の雰囲気と、
全身黒い服に身を纏った吉岡くん。
おまけに季節は真冬ときたもんだ。

フッ。
フフ。
フフフ、フフフフって
フフが止まらないのだ、
最っ強コンビネーションだでぇ~~~~~~ぃすっ!!! 
クラ~~~~っ。

いやいや、それだけではもちろんござらんのだ。
なんてたって、
特にこのCMバージョンでの吉岡君は、

なにからなにまでずずずい~~~~っと、
いやんなっちゃうくらいに、

ツボキング!!!!!!!!!

黒のハーフコート着てるってだけでも、ツボノックアウトなのに、
松たか子ちゃんの後ろから離れてついていく吉岡くんの歩き方が、
切ねぃであります。

俯いたりしながら「ねぇ。」と声をかける吉岡君が、
ひたすら切ねぃでありまっす。

「ほんとに行くの?」という吉岡くんの声が、
どっぷり切ねぃでありましゅ。

途中で立ち止まってしまうその姿が、
とことん切ないでありまして、

立ち止まって考えるその顔が、
切なさ怒涛の如しでありまして、

あぁもう~~~切なすぎるうわぁああああああああああんっ、
きゅい~~~んってなっちゃうんだよ~~~~ん。
やっぱりあなたは
切なさ大王その名はきゅいん。

更にチミはその上なんともかっちょええ。

ゆっくりと、歩幅を広げて歩いていって、
松たか子ちゃんの持つ紙袋をその手から取って持っていってしまう
その全ての吉岡仕草が、
容赦ないくらいのかっちょ斬りなのだっ、
必殺でゅっせるどるふ君!!!

何度見てもやられちまうのですばい、あたしゃ~。
仕草までかっこええとは、なんということだ、吉岡くんよ。

いや、
仕草がかっこいいという人は、巷にも結構いるでやんす。
しか~し、
仕草が「さりげなく」かっこいいという人は、
そうめったにいるもんじゃ~ありゃせんぜぃ。

「さりげない」って、なんだかすごく
かっちょええ。


しかしなんでこんなに切なくなっちゃうんだろう?
どうしてなのかな?

感情が、言葉を飛び越して伝わってくるから、
余計に切ないのかもしれないとですね。

先にも書いた、
路に立ち止まって考え込む吉岡くんは、
苦しいほどに切ないでありますだ。

一瞬一瞬にその感情をぎゅっと詰め込んで伝えてくるから、
一瞬一瞬が、永遠へと繋がっている感じがするでありまする。

その永遠の感情が、ふっと風に吹かれて、
気持ちとなって相手に伝わっていく、
そんな感じがするですばい。


吉岡くんは、ほんとうに、
「風に吹かれる」のが、
似合う。

様になる。

いや、
君が風のようなのだ、吉岡くん。


彼は、風のように、
とても透き通っているですばい。

とても透き通っていて、
とても和らいでいて、
少し切ない。

そして、
どこにも属していない、
光風霽月な感じ。

そんな無頼さと、切なさと、優しさが、
吉岡くんの、大きな魅力の一つなのかもしれないとですね。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風立ちぬ、今は秋。

2007年10月08日 | 雑記






例えば、

三角柱をまん前から見て、
それは三角形ですね。

と、言いきってしまうのと、

三角柱を見て、
それは前から見れば三角形ですが、
下から見れば底面で、
上から見れば点かもしれないですねぃ。

と思うのとでは、
その二つの間には、全く違う世界が広がっていると思うわけで。


人の心も、

上から読んでも山本山。
下から読んでも山本山。

とは、どうやらならないようであり。


人が人を想う気持というものは、
その人の心の選択というものに基づいているわけで、
そしてそこに、「好き」という「形」を決めてしまう
「定義」なんていうものは、
存在していないのだと思うわけであり。

人それぞれの「好き」があり、
人それぞれの「好き」の形があって当然でありますだ。

そしてそこに介在していく「好き」の意見も異見もあって至極当然だし、
それがあるからこそ、様々な「好き」の形へと、自分の気持ちも変えて
いけるわけで。

それが「好き」であるということの
「柔軟さ」であり「多様さ」であり「複雑さ」
であるのかもしれないですね。

しかし、そういった人の好きの選択型に、
自分の好きの形の「定義」や「規約」でバタッと上から蓋で
覆い被せてしまうのは、それは余りにも「閉塞的」であって
「排他的」なのではないのだろうか、悲しいぞ、とも思ってしまうわけで。。。


「好き」の気持ちは、もちろん「心」から派生してくるものだから、
それはやはり、あやふやでつかみにくいものでありますばい。
しかしあやふやでつかみにくいものだから「心」なのであって、
だからこそ常に、
雲みたいに、その形を変えているし、
空みたいに、その色を日々刻々と変えているわけで。

しかしそれは誰でもが持つ心の在り様だと思うし、
同じ揺らぎという共通点を持っているものだと思うからこそ、
尊重しあえるものなのではないのだろうか、
とも思ったりするわけで。。。

寅さんは、その昔、こう言っていたであります。
「いくら物知りの先生だって、
江戸川の鰻の面と、浜名湖の鰻の面と、
見分けがつく訳がねぇもんな。」と。


江戸川だろうが、浜名湖だろうが、
もとは同じ鰻なだけでありますだ、おいちゃん。


人の人生は、大河の上を流れる筏のようであり、
その大河には、流されていく途上で、
色々なものがどんぶらこと流されてきたり、流されていったり、
底に沈んでいったりするわけで。

そこから何を拾うのか、流していくのか、沈めていくのかは、
やはりそれは自分の選択なのであって、即ちそれが
現在の自分自身の在り様なのではないのかと。

人生という筏を漕ぐ竿は自分の心であり、
だからしっかりと竿を握って漕いでいかないと、
筏はどんどんと大河の上を流されて、気付いた時には、
思いもしなかった場所へと漂流していってしまうものなのかも
しれないとですね。

最後に行き着くのは一体どんな海なのか、
それは誰にもわからないことだけれど、
けれども、自分の行き着きたい先の海原を、
大きく遥かに思い描き、そしてそれを目指すことは
誰にでも出来ることだと思うし、そしてそうすることが
「生きる」ということの醍醐味の一つになるのかもしれないとですね。

「好き」という気持ちも、
「生きる」うえでの醍醐味の一つでありますですばい。

それは人生に陽だまりを作ったり、雨を降らせたり、風を吹かせたりする
一つの大きなエネルギーであって、そしてそのエネルギーは誰のものでもなく、
自分の心で感じて、自分の心で持ち続けていくものですたい。


風立ちぬ、いざ生きめやもう。


「好き」という気持ちは、
一つの大きな宇宙みたいなものなのかもしれんですね。



などと、思ったりしている今日この頃の私でありまする。
戯言であります、すんません。
秋だわ・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

満男くん、20歳の休日

2007年10月05日 | 山田監督作品



満男くんは、めでたく20歳になった。


成人した満男くんは、
やはりめでたい満男くんのままだ。


好きやでぇ、満男くん。



この世の中には、なんとなく得するタイプの人、
という人種の方々がいると思われ。


例えば、長蛇の列に並んでいる自分のまん前に、
いきなり割り込んできたいかつい体のおっさんが、
振り返ったらゴマちゃんみたいな顔をしていた。
キュ~。

としたら、

驚き及びに和らぎ効果で憤怒のわななきも瞬時にしてすっ飛んでしまうと思われ。

このように、
「わなわな感をそのキャラで押し切ってしまうめでたい人」
という人種の方々は、なにげに高いエンゲル係数率で
日本の食卓に存在しているのかもしれない。

葛飾柴又あたりには、そういった方々の住居率は
きわめて高いような気がしないでもないのですが、どうでなのでしょう、
満男くん、血統ですか?


男はつらいよ・第43作「寅次郎の休日」であります。


本作品での満男くん、親離れ真っ最中のようでありまして、
相も変わらず両親をいがいがキィ~~~ッとさせながら、
なにやら一人暮らしを計画中。

ええんでないかい、一人暮らし。
責任感が大きく芽生えてきたのじゃの~、満男くん。
成長したねぇ~、おいちゃんは嬉しいのだ。
しかしちゃんとピーマンは食べろよ。

さてさて、一人暮らしを反対され、またまた両親を
いがいがキィ~~~~っとさせてしまった夜の数日後、しかし負けずに
大学の友達たちに手伝ってもらいながら見つけたアパートへと、
八王子から柴又まで引越しの荷物をレンタカーでとりに帰る満男くんは、
そうです、ここです、泉ロケットカウントダウン。


友達を家の外に待たせてカウント3、

「これから引越しするけど」と母に宣言してのカウント2、

「お~い入れよ。」と友達に声をかけてカウント1、

タッタッと階段を上がりかけて泉ロケット 


泉軌道に乗った満男くんは、
引越しも、友達も、いがいがキィ~~~~~ッも、
まるで何事もなかったかのような遥か彼方のイスカンダルで、
世界は一つ泉ちゃんだよ僕の心はユネスコ級。
その夜、ご機嫌で泉ちゃん参加の諏訪家の食卓を囲んでいるわけで。


めでたい。
めでたすぎるぞ満男くんっ!

成長したのではなかったのか?


いいよ、いいよ、満男くん、いいんだよ~ん。
親をやきもきさせたって、満員電車に乗りたくなくったって、
手伝ってくれた友達をトンボ帰りさせたって、ピーマン食べれなくったって、

ってピーマン食べてるぅっ!!!!!!!!

どっしゃぁああああああっ!


チミってやつぁ~・・・・・・、
泉ちゃんさえいれば、
泉ちゃんさえピーマンを切ってくれればぁ、

それでええのか、みっちゃんよ?


なぁんてわかりやすい性格なんだぁ、満男くんよぉおおおおお~~~。
まるでジャッキー・チェンの香港映画で悪役を瞬時に見つけるのと
同じくらいのわかりやすさだでよぉ~、ええでぇ~、満男くんっ、
さいっこうだぁー!


このように、満男くんという人は、
こと泉ちゃんのこととなると、
状況を天秤にかけたりしないあっぱれ見事な決断力を
コンマの速さで発揮するであります。


これはある意味、非常に男らしい。

そしてある意味、とてもおめでたい。


東京を離れてしまった父親を尋ねに九州まで行こうとする
けなげな泉ちゃんに、満男くんもたまらず一緒に新幹線に飛び乗ります。


ここじゃだばでだばすばだばって、 ♡ ♡ すぎて言語不能になっちゃったズラ、
やったぜ、満男っ、大ホームランだぁ!!!


驚く泉ちゃんの前で、ただただ黙って何も言わず、
少し照れたように、でもしっかりと「その場」に「一緒」に
気持ちを寄り添わせてくれる満男くん。

なんて男らしい優しさなのだぁっ、惚れるでねぇかっ。
みっちゃんったら、たまらんねーっ!

あ~んな風に好きな人に電車に飛び乗られて一緒にいてもらえたら、
徳永英明の歌がなくっても切なくて泣いちゃうぞぉっ。


そんでもってとことん初々しかったりするのよね、チミってばぁんっ!
満男くんの鼓動が直にまっすぐ伝わってきて、
キュ~~~~~ンッと共鳴鳴り響きましての心拍数急上昇。

何度も書いちゃうことでありますが、
吉岡くんは、こういった、体裁コーティングされていない生身の感情を、
そりこそ「新鮮直送でお届けしやすっ」といったフレッシュインパクトで、
時には雷鳴のようにどど~んと容赦なく、
そして時には鳥の羽のように微かに震えるように、
などなどな~どのエトセトラで書き出したら止まらない程、
そりゃ~繊細多様な波動でもって伝えてくるでありますだ。

画面という柵がまるで存在していないかのような温度と質感でもって、
心情という鐘を様々な形で鳴らしてくるでありますだで、
見ているこっちも心がどわわ~っと揺さぶられちゃうのでありますのだぜぃ、
さすがのエースだ甥っ子くん、とれびあ~ん。

ちなみにこの場面を劇場で観た時の私は、

はしゃわやららららわわわ~~~~~~~~~~~

と、骨抜きクラゲみたいになってしまったとです。
まいったね、だよ、満男くん。


満男くんが持つ優しさというのは、とてもふんわりとしていて、
押し付けがましくない気がするでありますだ。

コットンみたいに白くて柔らかくて温い、
とても心地いい優しさをもっている人のように感じるですばい。
そしてとにかく一直線。

新しい土地で、新しい女性と暮らす幸せそうな父親の姿をみて、
何も言えずに立ち去ったセンチメンタル・ジャーニーの泉ちゃんを
懸命に慰めようとする満男くんは、それはそれはただただ一心。
一心に泉ちゃんの傷ついた気持ちを思って想う満男くんは、
邪心がなくて、とても一直線でありますだ。惚れるぜ、みっちゃん♡


きっと、そんな傷心の泉ちゃんをもっと元気付けさせるために、
温泉旅館で一曲歌って踊ったのに違いないのだ、満男くんったら、
なぜにちびまる子ちゃんの歌?

いや、その場で、「ギャランドゥ」とかを歌われるよりは
全然ましであります。ましでありますのですが、しかし、
いくら大好きな満男くんであっても、
いきなり、酔っ払った浴衣姿で、目の前で、
たったたらた~、あ、そ~れそれ~♪
などと踊り唄われたら、
私はツンドラ気候に投下されたバナナのように瞬間冷凍されて
その場で釘を打ってしまうかもしれない。

やはりめでたいのだ。

千手観音もお千手上げだよ、満男くん。


しかし、ぴ~ひゃらな満男くんを目の前にしても、
微笑むことができるのが、さすがのモービルオイル泉ちゃん。
いかなる時も凍結しない。

これは恋というより、すでに愛にちかいのではなかでしょうか?

でなければ、突き抜けちゃった人を目の前に、
余裕の笑顔で微笑むことなどできないはずだぁ。
菩薩のようじゃで、泉ちゃん。

やはり満男くんには、泉ちゃん。
泉ちゃんには、満男くん。
終わりがあるから恋で、終わりがないから愛なのかもしれんとですね~。
ええカップルでごぜいます。

泉ちゃんをひたすら想って想いぬく、
男らしくて、おめでたい満男くんは、
やはりとっても愛しいお人であります。

彼が持ち合わせる「男らしさ」と「めでたさ」というのは、そのどちらも、
「それが満男じゃ。」
と、その場その場面で、違和感を全く与えることなく、
観客を自然に納得させ得てしまえる、
ナチュルルブレンドパワーを持っているでありますだ。

場面から生まれる性格描写ではなく、
満男くんから生まれる場面、っていう感じでありますけん、
凄いわ惚れるわフォ~エバ~。

絶妙な軽妙度でミックスブレンドされた満男くんの喜怒哀楽を、
至極当たり前に、至極当たり前の仕草で、至極当たり障りなく
こなしてしまう吉岡奥義、山田流。

深いでごわす。


さて、泉ちゃんが母親と一緒に、名古屋への帰途へつくのを見届けた後、
満男くんも寅伯父さんと一緒に柴又へと帰りまする。

伯父さんとの旅をまたひとつ終えた満男くんは、
年明け早々、またまた泉ロケットを炸裂させたりしておりますが、

新年明けて、
満男くんは走る。
自転車に乗って、走る走る走る。
まっすぐに続く道をひたすら走る走る走り続ける。

人間はほんとうにわかりにくい生き物なんだなぁ、と
哲学しながら成長していく満男くん。
大好きやでぇ~。


そして、
ほんとうにわかりにくい生き物である人間を、
懸命に生み出し続ける吉岡くん。


あなたの存在で、私の世界はバラの包みのたかしまや~。


いつもありがとう、吉岡くん。
大好きだよ~。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お元気ですか、純くん。

2007年10月02日 | 杉田監督作品




㋔ふくろさんよ、
㋐たしはどうやら、
㋛ばらくぶりに、
㋜キスキ純君。



と、「時代」の純君を見て、
心のオアシス運動に入ってしまった私でありやすが、
気付けば暦は早くも10月、秋深し。

10月といえば、満男くんはちょっとスキップ、
純君でございます。



純君という人は、なんというか、とても、
苦しい、
であります。


いや、純君だって、
なにも年中無休で苦しんでいるわけではなく、
ちゃんと笑ったりデヘヘとなったりムムムとなったりルルル~と
なったりしているわけですが、
しかし黒板純君という人を、その全体像で捉えるときは、
やはり、どうしても、
キラキラと輝く水面を水中深くから見上げている、
みたいな窒息感を、彼からは感じてしまうわけであり。


満男くんだって、時には苦しくなるでありますばい。

しかし、満男くんの場合は、
ハーフマラソンを走っているみたいな苦しさというか、
彼が走る沿道には、スポーツドリンクを手渡してくれたり、
旗をふって声援を送ってくれる人たちが、
沢山いたりしての苦しさであるというか、
なんせ彼にはきちんと行き着く先のゴールが、
その向こう側にはあるわけで。


しかし純君は、
その向こう側が非常に見えにくいわけであり。


なにもそこまで・・・・純君よぉおおおお・・・・・・・うぅ。

と、パトラッシュとネロと源義経とナポレオンと池田屋騒動と
ついでにツタンカーメンを混ぜ合わせたようなどすこいブル~スが、
彼の背後には流れているような気がしてしまうわけであり・・・。

これは、「切ないよ~っ、おっかさ~ん!」
という感情とはちょっと違って、
もっとこう、とことん、一直線に、どうしようもない重力で、
苦しいぜよ、
という感じなのでありますだ。

なので、純君を見るのには、「見ごろ純ごろバイオリズム」、
というのが私にはあるわけで、もし間違ったタイミングで彼を見てしまうと、
あちしはもう梅干の種を飲み込んでしまった五郎さんの顔のようになって、
心はズバ~~~~~~~ンと地中深くに沈み込んでマグマを通り越して
ブラジル経由のモロッコ行きトロッコに乗ってインドの山奥へと
出家したくなってしまう梅干五郎、という不可解きわまりない
脳漿循環作用が起きてくるので注意が必要なのでありまするだ。


しかし拝啓 恵子ちゃん、
苦しくったって、悲しくったって、
電柱の影から会いたくなるのが純君なのでありまっしょい。

純くん度ボルテージでいいますと、
「初恋」の時の彼が断然絶対なんてったって大好きなのでありますが、
DVD回転数ボルテージでいいますと、
「時代」の時の純君が、
会いたくなる頻度アタックナンバーワン。


「時代」の時の純君は、
ぶっちぎりで苦しくったって、
ぶっちぎりでかっちょええ、おぉっ、わんだほー!


至極私事テイストなのでありますが、
この頃の吉岡くんは、
っんもぅ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ、
どっぷりたっぷりベリーでマッチでやっほ~やっほ~こだまは返るよ、
イカスぜヒデタカ、かっちょええったらチーズッたらで、君に完敗!

でありますので、毎度お騒がせしております。


誤解を招いてしまうかもしれないので書いておきまするが、
今の吉岡君だって、ぶっちぎりでかっちょええっす、
まいるぜ、ヒデタカ、ケンケン出てきてハッシッシッシッシ~!


しかし、「時代」の頃の前後数年間の吉岡くんと、
それ以降の吉岡くんのかっちょよさというのは、
なんかちびっと趣が違うようだぞなもし、
と、思われるわけでありまするのだ、明智君。

なんといったらええのか、こう、
そのかっちょよさの出方が違う、みたいな感じがするのですばい。

「時代」の頃の吉岡くんは、なんというか、
すごく直線的なかっちょよさというか、そりは例えて言うと、
かっちょよさナイアガラの滝級、ゴワーーーーっと出てます、
イカスぜヒデタカ、まいったね、キュン!

といった感じであり、

それ以降の吉岡くんは、もっとこう、
放射線状的なかっこよさ、みたいな感じであるというか、
かっこよさ名湯いで湯温泉級、じわ~~~~~っと湧き上がってます、
唸るぜ吉岡、たまらんね、うふ♡


みたいな違いというか、
追加びゅ~てぃ~とでもいいますかなんというのか、
うまく表現できないので悲しいでごわすおいどんは、え~~~~んっ。


とにかく、

出来ることなら一緒に逃避行したいっ、ヒデタカ~ん!


とついつい叫んでしまうのが、この頃の吉岡ブラボ~くん、
またの名を、鷲摑みのヒデ。必殺でござる。


Made in Yoshioka の人たちには、それぞれ決まって、
「ザ・ズバリそうでしょう!」
というシーンが、一つや二つや156個くらいはある私でごぜいますが、
「時代」においてのそれは、
悲しくて苦しくて呼吸困難になってしまうのでありますが、
ゆっこおばさんのお店で草太兄ちゃんの事故の知らせを
受話器越しに聞く純君が、
やはりズバリそうでしょうでありましょうなのでそうなのでしょう。


こういった場面で感情を押し出してくる時の吉岡くんは、
とても、とても、底がない感じがするであります。

グラっと揺れる心情を映し出すその瞳が、
ググっと瞬時にして深く沈んでいくようであり、
それはもう、薄~いガラス板にビリビリと
細かに微かに振動している感情周波が、
その瞳の奥底に宿る底のない沼に、
深く、仄暗く、沈殿していくようで、苦しかです。
苦しくて、心にキリキリ痛いであります。

しかしその痛さが、純君のその時の「気持ち」なのであって、
そこにあるのは、それ以外のなにものでもないわけで。

深く、深く、その内面へと沈んでいく純君の気持ちが、
しかし観ている方には、大きな波のうねりのようになって
ぐぐ~っと心に押し寄せてくるわけであり。

見せる感情ではなく、感じ取らせる感情でありますけん、
お手上げでござるのだ、吉岡殿。


そしてそういった吉岡君の繊細な感情の機微を
絶対に逃さず掴んで引き出す杉田監督の手腕も、
やはり文句なしに素晴らしいと思われ。

杉田伴奏ヒデタカ節じゃ、こぶしがきくぜっ、はるみちゃん。
さすがの杉田監督、スッポンのようじゃよ~。

やはりこのコンビは、「凄い」のかもしれんとですばい。



北の国からというドラマの好き嫌いは、
確かに個人個人にあるけれども、
しかしこの作品が、テレビドラマ史上において、
人々の記憶に永く残り続けている作品群であるということには
間違いないわけで。

そりはやはり「偉業」と呼ぶに等しいことなのではないのかしらん、
と私なんぞは思うわけであり。

そしてその「偉業」を作り上げてきたうちの一人である吉岡くん。
とれびあ~ん。

けれども吉岡くん本人からは、そんな気配はまったくなしの、
「ただの兄ちゃんやで」、
みたいな雰囲気が、いつまでもどこまでも
彼からは漂ってくるわけで。

そしてそれが吉岡くんなのであって、ヒデタカくんなのでありまっしょい。

偉業というものは、作ろうとして作るものでなく、
気付いたら後からついてくるものだということを、
吉岡くんの姿を見ていると、そう強く心に感じるわけであり。

福沢諭吉さんだって、なにもMr一万円札になろうとして
学問のススメを書いたわけじゃなかとですね、おぉ、吉岡くんよ、
やはりあなたは只者ではないのじゃ、惚れるでよ、んふ♡。


吉岡くんは、実はとっても凄い人なのに、
その凄さを全く人に感じさせたりなんかしない、
まっさらさらな凄さをもっている人なのでありますですね、
こりをかっこええと呼ばずに何がかっちょええのというのだっ。

ほんまにかっちょええでぇ、ヒデタカくんよ、
最高だぁ・・・。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする