あのねあのね吉岡君がねうっきゃっきゃでうっきっき~でうふふふらららら
てくまくまやこんあっぱれひでたかる~るるるる~でやんばらやんやんやん♪
と、面かぶりクロール100M世界記録に届く勢いで(そんな競技があるのか?)、
「最新吉岡君レポート」を日本の姉に電話で話していたところ、
「しかしよく飽きずにずっと純君のこと好きだよね~。」
と、姉から言われて、へゃ?っとそこで始めて息づきの呼吸をしたであります。
「純くんでなくて吉岡君だと口を邦衛にして何度も言ってるでましょ!」
と、とりあえずの忠告ホイッスルを鳴らしたあと、ちびっと沈思。
あ き る って?
あ ひ る とは明らかに違うのだ。では、
あ き ら といえばデビルマン。
一体彼は同じTシャツを何枚持ち歩いていたのだろう?
いやそんなことはどうでもいいことだった。
「吉岡君に飽きるという思いはこの世に存在しないのだっ、ふぅわっはっはっは~!」
と黄金バッドのような高笑いと共に毎度お騒がせの電話を切った後、
再び沈思、ちびっと心にすきま風、ひゅるるるる~。
・・・・・・・・・・・・・・ふぅ。
なんか淋しくなっちゃったじゃないかぁ~。
んもうっ、飽きるっていう言葉がいけないのだでよっ。
吉岡君は人なのだから、人に対して飽きるだのあひるだのあきらだの
という言葉を使うのは、WHO条約に反していることなのだ、チッチッチッチ!
と、もう一度国際電話して姉に告げようと思ったものの
何だかしょびーんとパワーダウンしてしまったので、
寅さんのDVDを観て元気回復、心にビタミン満男パワー。
好きやでぇええええ、みっちゃん。
ということで本題に入りまする。(って今までは何だったのだぁ?!)
吉岡君の出演作品を観る時、吉岡君の姿を観ようとして見始めても、
しかし実際見ているのは、純君であり、満男君であり、
コトー先生であり、ちゃ~さんであり、ノンポリくんであり、
ルート先生であり~の、その他大勢、省略ごめなすって。
という人物人生博覧会になるわけありまして、
こりは偉業であると思いますだ。
しかしこういった偉業のことを、ただ役に恵まれてるだけ、
とおっ猿、いや仰る方を時に目に耳にするであります。
・・・・・・・・んふ、
ふふふ、
フフフフフ(片仮名変換してみました)、
へへへへへ~
ニヤ。
って怪しい含み笑い妖怪になってしまうでなかですか。
なじぇって?
なじぇというならっ、なじぇなのだろう、なじぇなのかっ? (しつこい・・・)
そりはズバリっ、
褒め言葉だからでぃっす、れぃでぃ~す え~んど じぇんとるめ~ん!
役に恵まれている。
という結論の出所は、そもそも一体どこからくるものなのだしょう?
ここで解りやすくチャートにしてみるとです。
① 役に恵まれている = ② くやしいけどごっつええかんじ →
③ なんか言いたい → ④ くやしいから①に戻る→ ⑤ しかし結局②に戻る。
おぉ、これぞブーメランの法則。ヒデキ、カンゲキ。
しかも吉岡君は、生み出してきた多くの人物でもって、個別に
インディビジュアルブーメランを長年に渡って飛ばし続けているという、
Wブーメランの達人でありますだで、ヒデキまさにカンゲキ、
ブラボ~ヒデタカ。ヨ~ロレイッヒ~!
役者さんが、演じた役から伝えてくる真のインパクトというのは、
最初からお膳立てされているものから伝わってくるものではないと思うわけで。
確かに既成品から生まれてくるインパクトというのも
あるかもしれないでありますだ。
見るからに「こいつ悪やな。」という眉墨たっぷりの悪役や、
「いい人まるだしやで。」というお買い得パックなキャラクターというのは
確かにあるであります。
でもそれはストーリー上そうでなければならない
登場人物その11、12くらいであるわけで、
それは悲しいかなそう枠組みされてしまっているキャラなわけであり。
しかしそれがメインキャラクターとなると、
ことは簡単にいかないわけであって、
「与えられた場所」から、どうその人物をどう育てていくのかは、
やはりその役者さんの実力にかかっていると思うし、
その実力なくしては、ブーメランは何度も戻ってこないと思うわけで。
吉岡君は、ふぅわいとぉ~いっぷぅわ~つっオロナミンC!
のような限定瞬発力だけを持っている人じゃ~なかとですばい。
彼には底力があると思うわけで。
長年に渡って培われてきた土壌があると思うわけで。
そこにはしっかりと深く張っている根があると思うわけで。
それは揺るがない「実力」であるわけで。
満男君、純君、コトー先生、そして茶川さん。
これだけ多くの「人物」を人々の心の中に「生み出し」「滲ませた」
役者さんは、やはり稀有であるわけで。
それは結果が残しているものであって、必要から出ているものでは、
決してないわけで。
「誰か」が「演じた人物」という表の印象を強く残す登場人物は、
多いかもしれないでぃす。
でもそれは、その「誰か」に付属している人物という枠を、
結局は抜けられないのかもしれないですだ。
そういうことを思う時、役者という仕事を持つということは、
一体どういうことなのだろう、って時に思うでありまするだ・・・。
吉岡君から生み出される人物たちは、そういった枠が全くなく、
外連味がなくて、個々に自由に呼吸をしている感じがするでありまする。
残していく、ということは、
最初から望んで生まれるものではなくて、
ただただ一心になる、ということから
生まれてくることなのかもしれないですねぃ。
一生懸命になるってかっちょええじゃんか~。
って、吉岡君の姿を見ていると、自然とそう思いますです。