先日友人との会話の中で、
「今まで観た中で1番怖かった映画は?」
という話題になった際に思い出したのがこの、
「NEVER LET ME GO」
という映画。
怖さと云っても様々な種類がございますが、
例えばミスタートムクルーズ主演の「War of the Worlds」なんて、
家に帰って部屋のドア開けたら中にバズーカー抱えた織田信長が258人いた、
という現象に匹敵するくらいに心臓飛び出し恐怖度MAXな映画も過去にありましたし、
更に100年時を遡って、生まれて初めて劇場で観た作品「JAWS」も、
水中というエリア限定な怖さでありながら、
ジョーズは地上ではジョーズに生きられないのだ、
とつい親父ギャグを未だに飛ばさせて周囲の人々を瞬間冷凍させてしまう、
正に背筋の凍るホラー映画でございました。この映画を観た数年後に、
ジョーズが怖くて水に入れないので水泳教室は見学しますと言った私に、
ジョーズはプールにはいないから安心しろと勇気づけてくれたあの小学校の担任の先生はお元気だろうか?
などど、
ですね、
当たり前だけれども、
人に訴えかける怖さというものは千差万別多種多様でございます。
そんなこんなの私にとってのこの「Never let me go」という映画、
これは決してホラー映画ではなく、多分恋愛ドラマに分類される作品だと思うのですが、
怖い。
ダントツに怖い。
そして、
美しい。
ひたすらに美しくて、
そしてとてつもなく怖い。
怖いから美しいのか、美しいから怖いのか、
ムーミンはカバなのか、カバがムーミンなのか?
わからない。
いやムーミンはトロールなのだ。(カバっぽい)妖精なのだすムーミンは。
そこに確かな答えを持てる所に平和は存在するけれど、
「Never let me go」という映画には、
それがない。
その不確実な怖さが絶望的な悲しみに圧倒されていくという、
非常にトラウマな作品でございます。
カズオ・イシグロさんの同名の小説を映画化したこの作品ですが、
その内容を大まかに説明しますと、
舞台となる英国で、臓器提供者として生まれ、
そして青年期になるまで専用の宿舎で学び育ち、
やがてその命をドナーとして若く「完了」していく運命にある若者たちを描いた作品です。
この作品の要となるのが、
圧倒的存在感な透明人間のCaray Mulliganの演じるKathyと、
仄暗い鈍色の空からはらはらと舞い降りてくる雪の結晶のようなAndrew Garfield演じるTommy。
この主役の二人が、
まぁ素晴らしいったらありゃしないってかい。
素晴らしすぎるのでオスカー像を2ケースお中元で贈りたい。
好き!と書いた熨斗つけて。けれどもそれが故に、
トラウマが巨大化してしまうわけでもあり。
とても美しい(特にAndrew)映画だから、もう一度観直したい。
できれば週に少なくとも9回(主にAndrew)は観たい、
しかし悲しくて怖くて夜寝れなくなっちゃうから観れない、
なのに観たい、でも観れない、けれど観たい、だけど観れない、
ああもうどうしてくれるんだい、おやっさん!
という状態がもうかれこれ10年以上続いているわけで。
これが犬神家の一族だったら「スケキヨ、仮面をお取り」という号令と一緒に画面から一時避難できるけれど、
実際にスケキヨのお顔を拝顔したことが未だにない私だすが、
Andrewは仮面を着けていないのだ。着けちゃダメ、素顔の君が好き、ありのままの君が一番さ、ハニ〜、うふふ。
なんて❤️飛ばしていられないのだ、悲しすぎて怖すぎて絶望的すぎて。
困ったもんでござんすよぉ。
なんて眉を八の字にしながら連鎖して思い出すのが、
「嫌われる勇気」
という大ベストセラーになった書籍。
これはですね、
題名からしてもうメダル獲得圏内って感じでありますが、
この本をAmazonでポチッとしてみた、次の日届いた、表紙をめくってみた、
読み始めたよ、なるほどぉおおおおおっと今日はジャンプの発売日だ、
夕飯はカレーで決まり嫌ならシチュー、ってことでこの本はあとでゆっくり読もう、
という悲しき読書癖の末路に良書を本棚へと追いやった不届者はまさかいないと思うけど、
それはズバリ私でしょう。
「あとで」と「オバケ」は出た試しがない、と母上はよく言っておりました。
だから何でだよ?って事なのですが、完読もしてないくせに、
しかしこの本の題名はよく思い出します。
上記の映画とセットで。
話が前後して申し訳ないのですが、
このNever let me go という映画の中でのKathyとTommyは、
臓器提供者としてその生を若くして「完了」させることが運命付けられていて、
その最終的宿命に彼らは抗わない。
そうする可能性を希望に見出そうともしない。
僅かに見出そうとした一縷の希望ですら諦念という深い井戸の中にあるわけで、
それが彼らの世界であって、世界は無慈悲に沈黙したまま。
自分の身体は自分のものではなく他の誰かのもの。
けれどもそれならば、
そうであっても、
見つめる景色は誰のもの?
触れるその肌の感触は誰のもの?
絶えず湧き上がってくる感情は誰のもの?
この喜びは、嬉しさは、悲しみは、怒りですら、
それは一体誰のものなの?
自分の身体の中に確かにある、
この心は一体誰のものだというのか?
これは怖いです。
すごく怖いと思ったです。
自分はどうなのだろう、
と思い返させられた時に、
果たして自分の意志すなわち心は、
誰のものにして生きているのだろうか、と。
嫌だと思っている自分の要素を側面と捉えて甘んじて、
正面から物事と対峙せず、
本音本質を蔑ろにしているのではないだろうか。
側面も正面も、それは一つの平面にあるものなのに。
石橋を叩きすぎてぶっ壊す力はあるくせに、
石橋をただ渡って向こう側に行く力を持つことができなかったり、
溺れないように川の流れに逆らって泳いで抵抗することにばかり力を消耗していたり。
もしかしたら、ふっと流れに沿って泳いでみたら、
そこは足のつく暖かい浅瀬かもしれないのに。
心を大きく左右する勇気の持ちどころ。
勇気の在り処を定め決めることの大切さ。
この映画と書籍(正確には題名からだけど)から受けたその大きさは、
メガ波動砲だったわけで。おそらくそれは、
東京ドーム8674個分の大きさに匹敵すると思う。
東京ドームがどれだけ大きいか知らんけども。
重ね重ねになりますが、「嫌われる勇気」という書籍自体は、
私は完読していないわけで、多分三分の一も読んでいないと思う。
それなのにこのいつまでも消えない波動砲を心にぶち込んできた、
という事実が言葉の威力に改めて気付かされた要因でもあったわけで。
人は納得したい生き物ですだ。だから気持ちに沿わないものを、
逆に奥底に添いすぎて実は羨ましく思ってしまうものを見たり接したりする時、
それを言葉の枠に当てはめて気持ちを納得させてしまう。そこに正当性を見出してしまう、
そういう生き物だったりするわよね、と思ったりなんだりふんだりけったりはぁ〜やれやれ。
とかなっちゃったりする自分がいるわけで。
あいつ厨二病だよねとか、自分はもうアラフィフだからとか、
あの人アラフォーのくせにとかビージーフォーだとかジャクソンファイブだとかいうけれど、
後者の二つはともかくヨーダなんて800歳くらいだしアラハッピャ〜なわけですが、
「わしはもうアラハッピャ〜なんで隠居して趣味は盆栽にしたよん」
なんてライフセーバーをハンソロの家で充電しながら言うのかもしれないし言わないのかもしれないし言わないだろう。
なぜならヨーダは革命の戦士だから。
人間は、関心のないことには見向きもしない生き物ですのに、
気になる、目線がいく、聞き耳三太郎になる、ということは、
実はそれに興味があるということであって、
それが本当は心が求めていることなのかもしれない。
しかしおいおいそれはみんなが恥ずかしいくだらないみっともないバカじゃね?
と言っている状態だぜよ、と次に空耳三四郎が登場して心に囁くので、
ならばとそこに言葉の枠の解決を導き、聞き耳三太郎は退場してしまう。
言葉の威力を知っているからこそ、そうしちゃうわけで。
そうしながら自分自身をも枠組みしちゃったりしているわけでありまして、
まったくもう。
そういう状態は喩えたら、
言葉という甲冑をがっしり心に着用しているのと同様かもしれなくて、
その格好は確かに敵の攻撃からの安全無事を保証されておりますけれども、
それって重いし動きづらいし呼吸しづらいし着てるだけでHP1個半になっとるやん。
ってなりますよね、しかしこれ。
「そんなもん着てるから本気出せないんだぜ、覚悟って言葉を知ってるかい?」
とキャプテンハーロックならぜひ言って欲しいところでございますが、
デビルマンのアキラでも可。だって、
パンツ一丁で戦ってるんだよデビルマンは。
真冬でも。
そして強い。
嫌われる勇気を持つ、ということは、
ならば自分勝手に周囲の方々の気持ちを無碍に扱ってもいい、
というわけではない事は、
人は環境によって成長していく生物であることからして自明の理でありますが、
いかんせんこの世の中、せまっちぃ。
いや世界は広い。とても広いです。広いけれど、
その広い世界が広げる手の中で孫悟空のようにウリャワリャぬぅおお〜、
と喚いたり叫んだり泣いたり怒ったり黙ったり食べすぎたりして行ったり来たりしている自分の世界は、
意外とちっさかったりするわけで。
しかし大きさはどうでも良いのですだ。
大きいからすごいじゃんとか小さいからダメよねとか、
そういうことではまるでなくて、
それに気づいていることが大切なのだと思うわけであり、
やはり大切にしていきたいのは、状態なのだと。
そして状態は移り変わっていくものでございますので、即ち、
それは変えていけるものだということであり、ということは、
人とは素晴らしい生き物である、
のだ、
とな。
それを覚えておきさえすれば、
なんだか大丈夫なのではないだろうか、
とか思ったり。
思えたりする事って気づきだし、
気づきは成長の一歩だと思う。
笑われたらどうしよう、
バカにされたらどうしよう、
無視されたらどうしよう、
なんて、
そんなものは、
どうしようもない。
人の気持ちは雲のようであって、
形はあるように見えても実は掴みどころがなく、
常に形を変えていて、勝手に湧き上がっては、
やがては消えてしまう。
そんなことを掴もうとするより、
自分の心が本当は嫌だと違和感を覚えていながら、
時流に迎合してしまう自分自身のエゴに嫌われる勇気を持ちたい。
嫌われる勇気とは自分にとってはそういうことなのだと、
覚えていたいわけであり。
そうそう、
大丈夫だよ、
こう言ってみよう。
Never let me go.
私を離さないで。
「今まで観た中で1番怖かった映画は?」
という話題になった際に思い出したのがこの、
「NEVER LET ME GO」
という映画。
怖さと云っても様々な種類がございますが、
例えばミスタートムクルーズ主演の「War of the Worlds」なんて、
家に帰って部屋のドア開けたら中にバズーカー抱えた織田信長が258人いた、
という現象に匹敵するくらいに心臓飛び出し恐怖度MAXな映画も過去にありましたし、
更に100年時を遡って、生まれて初めて劇場で観た作品「JAWS」も、
水中というエリア限定な怖さでありながら、
ジョーズは地上ではジョーズに生きられないのだ、
とつい親父ギャグを未だに飛ばさせて周囲の人々を瞬間冷凍させてしまう、
正に背筋の凍るホラー映画でございました。この映画を観た数年後に、
ジョーズが怖くて水に入れないので水泳教室は見学しますと言った私に、
ジョーズはプールにはいないから安心しろと勇気づけてくれたあの小学校の担任の先生はお元気だろうか?
などど、
ですね、
当たり前だけれども、
人に訴えかける怖さというものは千差万別多種多様でございます。
そんなこんなの私にとってのこの「Never let me go」という映画、
これは決してホラー映画ではなく、多分恋愛ドラマに分類される作品だと思うのですが、
怖い。
ダントツに怖い。
そして、
美しい。
ひたすらに美しくて、
そしてとてつもなく怖い。
怖いから美しいのか、美しいから怖いのか、
ムーミンはカバなのか、カバがムーミンなのか?
わからない。
いやムーミンはトロールなのだ。(カバっぽい)妖精なのだすムーミンは。
そこに確かな答えを持てる所に平和は存在するけれど、
「Never let me go」という映画には、
それがない。
その不確実な怖さが絶望的な悲しみに圧倒されていくという、
非常にトラウマな作品でございます。
カズオ・イシグロさんの同名の小説を映画化したこの作品ですが、
その内容を大まかに説明しますと、
舞台となる英国で、臓器提供者として生まれ、
そして青年期になるまで専用の宿舎で学び育ち、
やがてその命をドナーとして若く「完了」していく運命にある若者たちを描いた作品です。
この作品の要となるのが、
圧倒的存在感な透明人間のCaray Mulliganの演じるKathyと、
仄暗い鈍色の空からはらはらと舞い降りてくる雪の結晶のようなAndrew Garfield演じるTommy。
この主役の二人が、
まぁ素晴らしいったらありゃしないってかい。
素晴らしすぎるのでオスカー像を2ケースお中元で贈りたい。
好き!と書いた熨斗つけて。けれどもそれが故に、
トラウマが巨大化してしまうわけでもあり。
とても美しい(特にAndrew)映画だから、もう一度観直したい。
できれば週に少なくとも9回(主にAndrew)は観たい、
しかし悲しくて怖くて夜寝れなくなっちゃうから観れない、
なのに観たい、でも観れない、けれど観たい、だけど観れない、
ああもうどうしてくれるんだい、おやっさん!
という状態がもうかれこれ10年以上続いているわけで。
これが犬神家の一族だったら「スケキヨ、仮面をお取り」という号令と一緒に画面から一時避難できるけれど、
実際にスケキヨのお顔を拝顔したことが未だにない私だすが、
Andrewは仮面を着けていないのだ。着けちゃダメ、素顔の君が好き、ありのままの君が一番さ、ハニ〜、うふふ。
なんて❤️飛ばしていられないのだ、悲しすぎて怖すぎて絶望的すぎて。
困ったもんでござんすよぉ。
なんて眉を八の字にしながら連鎖して思い出すのが、
「嫌われる勇気」
という大ベストセラーになった書籍。
これはですね、
題名からしてもうメダル獲得圏内って感じでありますが、
この本をAmazonでポチッとしてみた、次の日届いた、表紙をめくってみた、
読み始めたよ、なるほどぉおおおおおっと今日はジャンプの発売日だ、
夕飯はカレーで決まり嫌ならシチュー、ってことでこの本はあとでゆっくり読もう、
という悲しき読書癖の末路に良書を本棚へと追いやった不届者はまさかいないと思うけど、
それはズバリ私でしょう。
「あとで」と「オバケ」は出た試しがない、と母上はよく言っておりました。
だから何でだよ?って事なのですが、完読もしてないくせに、
しかしこの本の題名はよく思い出します。
上記の映画とセットで。
話が前後して申し訳ないのですが、
このNever let me go という映画の中でのKathyとTommyは、
臓器提供者としてその生を若くして「完了」させることが運命付けられていて、
その最終的宿命に彼らは抗わない。
そうする可能性を希望に見出そうともしない。
僅かに見出そうとした一縷の希望ですら諦念という深い井戸の中にあるわけで、
それが彼らの世界であって、世界は無慈悲に沈黙したまま。
自分の身体は自分のものではなく他の誰かのもの。
けれどもそれならば、
そうであっても、
見つめる景色は誰のもの?
触れるその肌の感触は誰のもの?
絶えず湧き上がってくる感情は誰のもの?
この喜びは、嬉しさは、悲しみは、怒りですら、
それは一体誰のものなの?
自分の身体の中に確かにある、
この心は一体誰のものだというのか?
これは怖いです。
すごく怖いと思ったです。
自分はどうなのだろう、
と思い返させられた時に、
果たして自分の意志すなわち心は、
誰のものにして生きているのだろうか、と。
嫌だと思っている自分の要素を側面と捉えて甘んじて、
正面から物事と対峙せず、
本音本質を蔑ろにしているのではないだろうか。
側面も正面も、それは一つの平面にあるものなのに。
石橋を叩きすぎてぶっ壊す力はあるくせに、
石橋をただ渡って向こう側に行く力を持つことができなかったり、
溺れないように川の流れに逆らって泳いで抵抗することにばかり力を消耗していたり。
もしかしたら、ふっと流れに沿って泳いでみたら、
そこは足のつく暖かい浅瀬かもしれないのに。
心を大きく左右する勇気の持ちどころ。
勇気の在り処を定め決めることの大切さ。
この映画と書籍(正確には題名からだけど)から受けたその大きさは、
メガ波動砲だったわけで。おそらくそれは、
東京ドーム8674個分の大きさに匹敵すると思う。
東京ドームがどれだけ大きいか知らんけども。
重ね重ねになりますが、「嫌われる勇気」という書籍自体は、
私は完読していないわけで、多分三分の一も読んでいないと思う。
それなのにこのいつまでも消えない波動砲を心にぶち込んできた、
という事実が言葉の威力に改めて気付かされた要因でもあったわけで。
人は納得したい生き物ですだ。だから気持ちに沿わないものを、
逆に奥底に添いすぎて実は羨ましく思ってしまうものを見たり接したりする時、
それを言葉の枠に当てはめて気持ちを納得させてしまう。そこに正当性を見出してしまう、
そういう生き物だったりするわよね、と思ったりなんだりふんだりけったりはぁ〜やれやれ。
とかなっちゃったりする自分がいるわけで。
あいつ厨二病だよねとか、自分はもうアラフィフだからとか、
あの人アラフォーのくせにとかビージーフォーだとかジャクソンファイブだとかいうけれど、
後者の二つはともかくヨーダなんて800歳くらいだしアラハッピャ〜なわけですが、
「わしはもうアラハッピャ〜なんで隠居して趣味は盆栽にしたよん」
なんてライフセーバーをハンソロの家で充電しながら言うのかもしれないし言わないのかもしれないし言わないだろう。
なぜならヨーダは革命の戦士だから。
人間は、関心のないことには見向きもしない生き物ですのに、
気になる、目線がいく、聞き耳三太郎になる、ということは、
実はそれに興味があるということであって、
それが本当は心が求めていることなのかもしれない。
しかしおいおいそれはみんなが恥ずかしいくだらないみっともないバカじゃね?
と言っている状態だぜよ、と次に空耳三四郎が登場して心に囁くので、
ならばとそこに言葉の枠の解決を導き、聞き耳三太郎は退場してしまう。
言葉の威力を知っているからこそ、そうしちゃうわけで。
そうしながら自分自身をも枠組みしちゃったりしているわけでありまして、
まったくもう。
そういう状態は喩えたら、
言葉という甲冑をがっしり心に着用しているのと同様かもしれなくて、
その格好は確かに敵の攻撃からの安全無事を保証されておりますけれども、
それって重いし動きづらいし呼吸しづらいし着てるだけでHP1個半になっとるやん。
ってなりますよね、しかしこれ。
「そんなもん着てるから本気出せないんだぜ、覚悟って言葉を知ってるかい?」
とキャプテンハーロックならぜひ言って欲しいところでございますが、
デビルマンのアキラでも可。だって、
パンツ一丁で戦ってるんだよデビルマンは。
真冬でも。
そして強い。
嫌われる勇気を持つ、ということは、
ならば自分勝手に周囲の方々の気持ちを無碍に扱ってもいい、
というわけではない事は、
人は環境によって成長していく生物であることからして自明の理でありますが、
いかんせんこの世の中、せまっちぃ。
いや世界は広い。とても広いです。広いけれど、
その広い世界が広げる手の中で孫悟空のようにウリャワリャぬぅおお〜、
と喚いたり叫んだり泣いたり怒ったり黙ったり食べすぎたりして行ったり来たりしている自分の世界は、
意外とちっさかったりするわけで。
しかし大きさはどうでも良いのですだ。
大きいからすごいじゃんとか小さいからダメよねとか、
そういうことではまるでなくて、
それに気づいていることが大切なのだと思うわけであり、
やはり大切にしていきたいのは、状態なのだと。
そして状態は移り変わっていくものでございますので、即ち、
それは変えていけるものだということであり、ということは、
人とは素晴らしい生き物である、
のだ、
とな。
それを覚えておきさえすれば、
なんだか大丈夫なのではないだろうか、
とか思ったり。
思えたりする事って気づきだし、
気づきは成長の一歩だと思う。
笑われたらどうしよう、
バカにされたらどうしよう、
無視されたらどうしよう、
なんて、
そんなものは、
どうしようもない。
人の気持ちは雲のようであって、
形はあるように見えても実は掴みどころがなく、
常に形を変えていて、勝手に湧き上がっては、
やがては消えてしまう。
そんなことを掴もうとするより、
自分の心が本当は嫌だと違和感を覚えていながら、
時流に迎合してしまう自分自身のエゴに嫌われる勇気を持ちたい。
嫌われる勇気とは自分にとってはそういうことなのだと、
覚えていたいわけであり。
そうそう、
大丈夫だよ、
こう言ってみよう。
Never let me go.
私を離さないで。
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