月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

ご無事でありますように。

2011年03月13日 | 思うコト


ブログを書いて更新し、風邪で体調がすぐれなかったので、
寝室で横になっていたら最初の揺れがきました。
熱があったので目眩かなと思っていたのですが、
次第に書棚の扉が大きく揺れだして、
怖くなってベッドから起き上がったときには、
揺れの大きさにまっすぐ立っていることもできない状態でした。
部屋の中を這うようにしながらやっと廊下へ出て、
非常階段で34階から地上に降りました。
あんなに怖い思いをしたのは初めてです。
説明できないくらいの怖さでした。

報道されている被災地の様子に言葉も出ません。
被害に遭われた方たちのことを思うと、
どうしてこんな事が起こってしまったのかと、
ただもうやりきれない思いで、悲しいです。
これ以上の被害が出ないよう心から祈っています。

余震がつづいていますが、どうぞ引き続きお気をつけてください。

みなさまと、みなさまのご家族、お友達がどうかご無事でありますように。



                              風子
コメント (2)
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一水のゆらめき

2011年03月11日 | その他のドラマ




水彩絵筆でさっと一筆掃いたように、
西の彼方へと遥かに吸い込まれていく
カリフォルニアライラック色の空を眺めながらふと、
想いを掠めていったその人の面影に、
どわぁ~~~~~~~~~とソファーから背面に倒れてしまった。
ということは最近ありませんでしたか?
あたくしにはあったのです。
ええ、ええ、そうですの、
それは誰なのかと敢えて書き出なくても答えは火を見るより明らかなので
ここではわざわざその名を書き出しますがそれは
吉岡君です。

日本にいるのに何故か時差つきで鑑賞したスペシャルドラマ、
「遺恨あり」。
ここまま観られることが叶わなかったら、
「遺恨(大いに)あり」
であったのでありますが無事に鑑賞できまして感無量でございます。

人間の業の深さを考えさせてくれるとても良いドラマでありましたですが、
最初にこれだけはどうしても書いておきたい事が一つありまして、
それはドラマ終盤近くに出てくる吉岡君演じる中江さんの姿にですね→→→→→
文頭に戻る。
という春風リサイクル発作をわたしに起こさせるということでありまして、
なんということですのん吉岡殿、
いきなり着物姿でお出ましになるとは、貴公、
それは事破りではあるまいか。
しかも袴まで履いちゃってるしぃ、こちらとしましてはですね、
ずばしっとまた心を射抜かれてしまったではないか。
ハートマタギなのでしか?
こんなにも着物が似合ってしまうということはもしや、
前世が和服だったのだろうか。
だとしたらそんな人は世界初だと思う。なんだかすごい。とにかく、
着物姿から漂うなんとも形容しがたい直線的な品格、
凛とかほるような男の気質・・・・くはぁっ、吉岡君よ、
素敵なのかカッコイイのかどっちかにしてくれぃっ! これはもう、

吉岡くん、

晴れ時々着物、

おおブレネリ、

あなたのお姿、

プライスレス。

アメリカンエクスプレスでも買えない希少価値を拝見できてしまったのだ、
なんてこったい、おかげであたしの前頭葉は春爛漫、んふ、んふふ、んふふふ~~
なんだか心だけじゃなくて頬も熱くなってきた気がするけどそういえば、
気がするのではなくて風邪引いて熱出していたのだった、あははははぁ~~クラ~、ふぅ、
吉岡くぅ~~~~ん・・・・・・【素敵】(←カッコイイと素敵を合体させたらしい)。

今回もリアルタイムではなく録画したものから拝見したのですが、
郵送してもらった録画DVDケースを手にし、そしていつものように、

手に取れど、

手に取れど、

ドキドキしすぎて、

じっと手を見る。

啄木化してしまった私であります。
床に置いたDVDの前に正座をして暫し緊張対面の数十分。外には鶯の鳴き声が。
まぁずっとこう向かい合っているだけでも何ですからここからは
若いお二人だけで私たちは席を外すことにしましょう、ではごゆっくり♪
って見合いの席じゃないのだから私が部屋から出ちゃダメなのようっ! 
そうではなくて、念願の吉岡君と会えるのではいか、いや会うといっても
一方通行ブラウン管対面だけれど、でも吉岡君の姿が見られるだけであたしは
おみくじ大吉先物取り引き388年分な心持ちぃ(←妖怪になる気らしい)。
はぁ~めでたいめでたいよかったよかったなんまいだ~、それじゃぁまた来週!
って違う。
違う。違う。違うのだぁ~~~もう~~~吉岡くぅ~~~~~~~~~ん、
好きっ
あっ、そうだっ、吉岡くんの公式サイトにいってみようじゃないか、えっ、えぇぇぇっ、
きぃゃぁあ~~~~っ写真がまた変わっているわぁっ!!!!! 吉岡くぅんっ、
やはり君は俯きチャンピオンヘビー級だ。こういうふうに、ぐわん、と
一瞬で心を掴んでくる時の吉岡君の引力には悲壮なまでの凄みがあるですばい。
存在そのものが魂の詩みたいだよう。か、かっこいい・・・たった一度でいいから、
八丈島へ逃避行したい・・・三宅島でもいい・・・都内だし・・・吉岡く~ん・・・
クラ~~~~~~~~あ、そうだ、あたしったらいやだわ、うふふ、そうなの、
遺恨ありをみるはずじゃなかったのかぁっ?!!!
などとですね、
怒濤の吉岡くん恋しや堂々巡りメンタルツアーお一人様春の旅で
うきゃっとなったり、はたまたむむぅと滝にあたる苦行僧のようになったり、
もしくは動物園の檻の中にいるレッサーパンダくんのように部屋の中を
あっちゃ~行ったりこっちゃ~行ったり柱につっぱりを入れたりしながら
急に思いついて部屋の模様替えをしてみたりしたすえにようやく気持ちが
落ち着いてきまして晴れて鑑賞できたわけなのでありますが、見終わって、
この心の膜をざらりとなぞっていくような残触感はなんなのだろう・・・と、
井戸底から沸き上がるような深いため息が出てしまったとです。


このドラマに出てくる登場人物たちは、みな切ない。
切なくて、そしてそこから動けない。動かない。
中江さんが受け持った臼井六郎裁判に関わる人たちは、
明治という新しい川の流れの中に身を置きながらも、
古き時代という川底にじっと沈み込んだままでいる石巌のようであるというか、
中江さんはその中で一人、近代という舟に乗り、
法の理念という竿を持って、石と石の間を流れていく。

孤立無援といってもいい状態で事件の概要を掘り下げていく
中江さんの意志には堅牢な仁義心が宿っていて、
その姿見が西洋志向へと変わっていても、
彼の心髄にもやはり武士の精神が宿っていたのではないのかと思ったです。
彼自身がそのことを本当はよく解っていて、だからこそなおさら
臼井六郎の事件を感情論ではなく近代国家の法で裁くべきだと、
判事であるべく中江さんはそう思ったのではないのかと。
古い因習を断ち切る為には、己の中の旧套を脱がなければならないと。
仇討ちは、殺したのも、殺されたのも、人であるということ。
武士は武士であるまえに人であるということ。美徳は行き過ぎれば、
傲慢になりかねない。
そう思っていたかもしれない中江さんもまた、
新国家の理念に染着しているのかもしれなくて・・・。

結審後の廊下で、山岡翁の言葉を受け取ったときの中江さんは、
観ていてとてもやるせなかった。
江戸と明治という時代背景を象徴的に背負った二人の間に、
埋めようもなく歩み寄る事も出来ない轍のようなものが
深く横たわっている感覚がして、
中江さんが裁判に向かってひとり舟を漕ぎ、その川の底から掴みえたものは、
何であったのだろうと・・・。
切なかったです。

明治という時代は急速に近代化へと邁進していくわけでありますが、
物語終盤で、開け放したドアの横に立って臼井の手紙を読んでいる中江さんと、
武士の魂の分身であった刀を故郷の川底へと投げ捨てた臼井六郎の姿が、
対置しているような印象で深く心に残りましたです。
互いの姿が、ピースをなくしてしまったパズルの絵のようであるというか、
自分でもよく説明できないのですが、でもそんな印象を受けたとですばい。
哀しくて切なくてやりきれなくて、
しかしそれでも河は絶えまなく流れていくわけであり、
嘆いたり悔やんだり恨んだりもする世界であったとしても、
呼吸をしているのは自分が立つその場所であって・・・。
なくしてしまった破片は、
誰の手に握られていたものなのだろう・・・。
どこへ零れ落ちてしまったのだろう・・・。
とグランドキャニオンより深い皺を眉間に浮かべながら
なんだかとりとめもなく考えてしまったとですねぃ。う~ん、
難しかです。。。

中江さんを演じた吉岡君、大変な役であったのだろうなと思いました。
ここは吉岡君の出番場面に焦点を絞って感想を書いちゃうのですが、
前述したように臼井裁判に関わってくる人たちには武家の精神が根付いていて、
吉岡くん演じる中江さんはいわばそこに一匹狼で対峙していくわけですねぃ。
揺るがない人たちから放たれる揺るがない空気感というか、
このドラマの心張り棒のような全体感を、
吉岡君は光となり影となり矢となり羽となり壁となり空気となりながら
揺らめかせていくわけで。
それはもちろん相手役の人との相乗効果があっての演技なのだろうけれど、
けれども画面ごとひっくるめながら波動のように物語を揺さぶっていくのは
吉岡くん一匹狼なわけで、
揺らされていくドラマの中にドラマはまた生まれるのだと小生は思うですけん、
どうしてこんなことができてしまうのだぁっ、吉岡くんっ、お見それいたした!
感動したよう。すばらしかぁ。


演ずるってどういうことなのだろう・・・と時々考えたりするです。
以前にも書いたけれど、限られた文字数の向こうには無限の世界が
果てしなく広がっているのだろうし、
演じる本人が自分の心の底の底まで己を運んでいってやらなければ
掴めない感情や世界があると思うですよねぃ。
心の底に並ぶドアの中には触れたくはないものもあるのだろうし、
けれども自分自身がそこに潜って入り込んでいかなければ、
演じる人物へ内側からドアを開いてあげる事ができないのかもしれない。
それは想像するだけでもとてもつらい作業で、
絶対的に孤独な世界だと思うです。

身を削るように息を吹き込んだ人物は、一旦他の人の心に触れれば、
それはその人たち個人の心の中で生まれ変わっていくものだからもうそれは、
自分のものだけれど自分だけのものではないわけで、
それは作り手にしては確かな喜びとなるものだけれど、同時にその喜びは
固執の名残となって根雪のように介在してしまう恐れがあるのかもしれなくて、
だからこそ一旦創り上げたものは手放してあげなければいけないのだろうし、
そうしなければ次へと進んでいけないのかもしれませんねぃ・・・。

吉岡君が実際どのようにして演じる役へと
自分自身を渡してあげているのかはわからないけれど、
演じるということをそれこそ長年のあいだ続けている吉岡君はけれども、
自分自身であるということの奥意を決して職業へも時流へも譲らない人であって、
インタビューなどで垣間見える素顔の吉岡君は、
いつも吉岡君でいてくれる。
ずっと吉岡君でいてくれる。
心の逞しい人なのだと、そう思うです。
男らしいってぇのは、こういうことだぜ、と。


日々の生活の中で右往左往しながら、
笑顔がよれちゃったり、
横道に入ったら行き止まりで泣きべそかいたり、
飛べると思ったのにずっこけちゃったり、
緑はどこにあるかいなぁなんて酸欠になったり、
いいことなんかそんなにあらへんでぇとか、
ああもうやめちゃおうかなぁとか、
なんてこと言ったりしながら飲むビールはでもおいしくて、
なんだか空はとっても青いし、
吉岡君が心に蒔いてくれる種はいつもとても美しくて、
そこからきれいな花を咲かせられるように、
私もまた頑張ろうっと思えるので、
あなたのファンでいることが、
私のとびきりな幸せです。


ありがとう、吉岡君。
ずっと応援していくよ。
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