夢を見ていた。
僕はベッドの中で眠っている。
どれくらいこうしているんだろう、
夢の中でも眠っているなんて、
よほど疲れているのかもしれないな・・・。
眠っても、眠っても、
眠りの淵から抜け出せなくて、
瞼を開こうとしても、
重たくて気だるくて
目が開けられないんだ。
体の熱も、呼吸の痛みも、
錘にひっぱられるようなだるさも、
僕の気持ちとはまるで別のところで叫びを上げていて、
心とは別々になってしまったみたいだった。
もう・・・駄目なのかな・・・・・・
遠くで、食器を洗う音がしている。
それから、誰かと誰かの低く、くぐもった話し声。
それは夢の中の声なのか、
現実から聞こえてくる声なのか、
朦朧とした意識の中で混乱し、
ごちゃまぜになっていた。
僕は、どうしてしまったんだろう・・・・
誰かの足音が、眠っている僕のもとへと
静かに近づいてきた。
起きなくちゃ・・・
僕は目を瞑ったままベッドから起き上がろうとするけれど、
なのに体の中心が溶けてしまったようにまるで力が入らない。
起きなくちゃ・・・
体を持ち上げようと一つ息をするたびに、
一つ意識が遠ざかってしまう。
起きないとだめなんだ・・・・
なんとか起きあがろうとする僕の体は、
そのたびに、
誰かの手でそっとベッドに押し戻されてしまう。
約束が・・・・
ありったけの力を振り絞って体を持ち上げた瞬間、
そこでぷっつりと糸が切れたように、
また深い眠りに引きずり込まれた。
落ちていく・・・・
睡りの中の睡りは、
ほの暗く、
底がない。
落ちていく・・・・
ただすーっと、
睡りの底なし井戸へと僕は・・・
落ちていく・・・・・
落ちて・・・
どこからか風が吹いていた。
夢の浮橋を渡っていく冷たい風は、
熱った僕の頬の上も掠めていって、
とても心地がよかった。
そよ吹く透明な風にはほんの少しだけ、
木の芽立ちの匂いがする。
もうすぐ春がくるんだ・・・
春になったら海に行こうって
約束していたんだ、
筒井と、ハギと。
春になったら・・・・・
額に置かれた何かが、ひんやりとした温度に変わって、
閉じている瞼の前で、懐かしい香りが、
ふわりと揺れた。
それはとても心が安らぐ匂いだった。
柊木犀の芳香にも似ているけれど、
でももっとずっとやわらかくて・・・
ほのかな石鹸の香りを含んでいて・・・・・
さっちゃん・・・
君の香りだ。
「さっちゃん」
やっと開けた目の先に、懐かしい微笑があった。
いつのまにかベッドの横に持ち込まれていたダイニングチェアーに、
彼女はそっと腰を下ろしていた。
「もう少し眠っていたほうがいいわ」
夢現の僕に、彼女は微笑みながらかすかに頷いた。
「ゆっくり休まないと。まだ熱が高いのよ」
「いてくれていたんだね・・・」
彼女はシーツをそっと僕の肩にかけなおして、
それから少しだけ寂しそうな目で僕を見つめた。
黙っている彼女の後ろで、
光と風を含んだレースのカーテンが、
白く小さく、さざ波のように揺れている。
「ありがと・・・」
僕の言葉に、彼女はくすっと笑った。
僕の大好きだった笑顔だ・・・
「いつもそうね、吉岡くん」
吉岡くん、と言った彼女の声が、
雲間から差し込む陽だまりのように、
僕の心の中に温かく広がっていった。
「どうして?って理由を聞かないの。
のみ込んじゃうのね、どんなことも。
いつもそうなの」
笑みを深めてそう言った彼女は、
しかしふと何か思いついたように、
「いつもそうだった」
と言い直してまた黙ってしまった。
浮かんでいた笑顔は、吹いていく風に
さっと連れ去られてしまう。
「さっちゃん、」
僕は彼女の名を呼んだ。
伏せていた彼女の目が、
再び僕の顔を見つめ直してくる。
「さっちゃんは・・・」
「・・・・?」
「サチっていうんだ、ほんとはね?」
「なによそれ」
彼女は軽く笑いを吹き出した。
その顔に明かりが再び戻ってくる。
「そうよ。サチっていうのよ、ほんとはね」
白く細い彼女の指が僕の額に伸びて、
のせてあったタオルを取った。
サイドテーブルに置いたボウルに浸したタオルを、
その手がぎゅっと絞る。
ボウル一杯に入った氷が、カラン、カラン、と
涼しく清潔な音をたてた。
「眠ったほうがいいわ」
冷えたタオルが額に当てられて、
心地よさに僕はまた瞳を閉じそうになった。
「眠らなくちゃだめよ」
子守唄のように聞こえてくるその声に、
僕の意識はまた遠のいていく・・・・・
ふっと目醒めた部屋の中は薄暗かった。
ベッドの脇に置かれた椅子の背はぽつんと闇に透き、
きちんと閉められた厚手のカーテンの向こうは、
宵の漆黒が息を潜めていた。
ついさっきまで部屋にまどろんでいたはずの冬の白い日差しは、
さっちゃんの姿と共にどこかへ消え去っていた。
僕はベッドの脇に置かれた椅子を再び見つめた。
そこにあった彼女の懐かしい香りは、あの微笑みは、
どこにもなかった。
やっぱり夢だったんだ・・・・
僕は目を閉じた。
彼女がここに来るはずはない・・・
瞼を閉じた僕の横に、人の立つ気配がした。
「どうだ、気分は?」
開いた目の中に、筒井が立っていた。
「筒井・・・」
驚いて呟いた僕の顔を確認するように見つめながら、
筒井はベッド脇の椅子に無造作に腰掛けた。
「ぶっ倒れてたんだぞ、玄関先で」
「え?」
「え?じゃねぇだろう。何度携帯に連絡しても繋がらないから
ここに来てみたら、ドアに鍵もかけないで玄関の横の壁に凭れたまま
ボロ雑巾みたいにぶっ倒れてたんだ。あまり俺を怒らせるな」
「ごめん・・・」
「ごめんで済むならお前の仕事は用がないだろう」
筒井は憤慨と安堵が綯い交ぜになったような顔で言うと、
手に持っていた飲みかけのコーヒーカップをサイドテーブルの上に置いた。
「来てくれてありがと」
筒井は黙ったまま、テーブルの上の時計をじっと眺めている。
表には決して出さない疲れが、緩めたネクタイの結び目から
じわりと伝わってきた。
「もう大丈夫だよ」
赤く浮き上がったデジタル時計の数字が、
ピッと12:00を表示して日付を変えた。
今日が、また始まる。
「ヒデ、」
時計に目線を据えたままの姿勢で筒井が呼びかけてくる。
「ん?」
「約束って、何なんだ?」
「・・・・・?」
「熱にうなされながらうわ言のように言ってたんだ、
約束があるから起きなくちゃいけないってさ・・・」
そんなことを言っていたなんて、
僕はもちろん覚えていなかった。
「さっちゃんの親父さんのことか?」
筒井が顔を向けて訊いてくる。
「そうなんだろ?」
筒井は透かすように僕の顔を見た。
僕は言葉につまってしまって返事ができなかった。
筒井もそれきりまた黙り込んだ。
暫くの間、僕らは暗闇の中で黙っていた。
しん、と静まり返った部屋は、
行き場を失った互いの疼きが、波に漂う夜船のように
沈黙の波の上をゆらゆらと漂っているみたいで、
やるせなかった。
筒井はベッドの横で、膝の上で組んだ両手を
じっと睨むように見据えている。
僕はもう一度、力を振り絞ってベットの上に起きあがった。
咄嗟に手を貸そうと伸びた筒井の手が途中でぴたりと止まって
元の場所に戻っていった。
「ずっと考えていたんだけど・・・」
たったこれだけの動作をするのにもひどく目眩して、
僕はベットの背に凭れかかった。
「もしかしたら人は、それぞれの約束事をその手に掴んで
この世に生まれて来るんじゃないかなって・・・」
肩息をついてしまいそうになるのを堪えながら、
僕は言葉を継いだ。
「生まれるとき手に掴んできた約束事?」
筒井が聞く。
「うん・・・。人はその約束事を果たす為に
生きているんじゃないかって。その約束事には、
大きいも小さいも偉いも貧しいもなくて、
すべての人がみな大切で大事であるように、
生まれ掴んできた約束もまたそれぞれに
大切で大事なことであって・・・・。
でも知らず知らずのうちに、生きていく過程のどこかで
人はそれを見失ってしまうのかもしれなくて・・・。
だから・・・、」
僕はそこで息をつきなおした。
筒井は黙って耳を傾けている。
「だから、自分に託された約束事が何であるのかを見出して、
それを追いかけながら生きていける人は、
とても幸せだと思うんだ。
果たしていく約束の先には、新たな世界が、
きっと誰かの中に託されていくはずだから・・・」
そのことを・・・、と言いかけた僕の言葉は、
そこでふっと宙に途切れてしまった。
開いた寝室のドアの先、遠く眺めたキッチンシンクの上に、
コーヒーカップが一つ置かれている。
僕はしばらく呆然としてそれを見つめていた。
そんな僕の様子を、筒井が横から
じっと見つめているのが気配でわかった。
捉えた先の一点から視線を逸らせぬまま、
やがて僕は口の中で言葉を繋いでいた。
「そのことを・・・」
パステルオレンジのそのコーヒーカップは、
ずっと長いこと使われることがなかった、
「そのことをずっと・・・」
もう使われることはないだろうと棚の奥にしまっておいた、
「ずっと考えていて・・・」
さっちゃんのコーヒーカップだ。
胸に急激な鋭い痛みが走って、
僕はシーツの中にうずくまった。
呼吸が、苦しかった。
さっちゃん・・・、
ふわり、と体が一瞬浮かんで、
だらりと垂れ下がった頭が、
やわらかい枕の上にそっと乗った。
「いてくれたんだね・・・」
ああ、と筒井の頷く声が遠くで聞こえたような気がした。
「ここに・・・」
「眠るんだ、ヒデ」
瞳の中の光がかすんで、
小さく・・・小さく・・・
遠のいていく。
「いてくれていたんだね・・・」
「ああ。さっちゃんはずっとお前の横にいたよ・・・」
「よかった・・・」
会えたんだね・・・
そこでぷっつりと意識が途切れた。
つづく