矢嶋武弘・Takehiroの部屋

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日本人初の宇宙飛行士・秋山豊寛さんのこと

2024年11月13日 11時22分28秒 | メディア

<2016年8月に書いた以下の記事を復刻します。>

日本人初の宇宙飛行士・秋山豊寛(とよひろ)さんのことを書きたくなってきた。と言っても、私は彼との付き合いがわずか2年余りなので、多くは語れない。しかし、30代中半の若いころ、記者クラブで一緒だった彼のことは決して忘れられない。だから書くのだ。
もう40年以上も昔になるが、私がフジテレビの外務省詰めの記者をしていた時、秋山氏はTBSの記者として外務省クラブにやって来た。はじめは何か取っつきにくい感じのする人だったが、同じ民放テレビの記者同士で、席が1メートルぐらいの向かい隣りだったのですぐに仲良くなった。年齢が同じぐらいだったせいもあるだろう。(私の方が1歳年上なので、以後、親しみを込めて「秋山君」と呼ばせてもらうこともある。)
彼は記者クラブが初めてだからか、とにかく仕事に非常に熱心だった。例えば誰かの記者会見があると、ほとんどいつも記者席の最前列中央に座って、鋭い質問を浴びせる。私はと言えば、彼の後ろに隠れるようにして座るのが常だった。こうして、われわれは日々の記者生活を送っていった。
秋山君は非常に仕事熱心だったので、社に送った原稿が変に直されたり歪められて(?)放送されると、相手がデスクだろうと誰だろうと、激しく抗議していた。向かい側に座っているので、彼の迫力がじかに伝わってくるのだ。私が驚いた様子を見せると、彼は電話を乱暴に切って「馬鹿なデスクだ!」と、吐き捨てるように言うこともしばしばだった。とにかく、彼は異常なほど仕事に前向きだった。
その一方で、彼には優しい一面がある。なにせ席が向かい隣りだったので、私の電話送稿に“間違い”があると、そっと忍び寄ってきて耳打ちしてくれるのだ。何度、助かっただろう。もちろん、たまには私が彼の間違いを指摘することもあった。お互いさまだが、彼に助けられた方が多かったにちがいない。
秋山氏はICU・国際基督教大学を卒業してTBSに入り、20代のころイギリスのBBC(英国放送協会)へ出向していたことがある。このため、英語の能力は抜群だ。それに比べて私はと言えば、英語の読み書き、ヒアリングなどはせいぜい中学生並みだ(笑)。このため、彼にずいぶん助けられたことがある。
例えば、アメリカ大使館でレクがあると、ほとんど通訳抜きの英語だけになる。私は必死に聞き耳を立てるが、理解できないことも多い。こういう時、頼りになるのは秋山君である。会社が違うのだから人に教えなくてもいいのだが、そこは“お互いさま”である。彼からよく内容を教えてもらったのだ。
お互いさまと言ったが、まるで秋山氏から“一方的”に教わった感がある(笑)。しかし、私だって役に立つことがたまにはある。記者クラブの仕事は別にして、例えば政界の“生臭い話”などは得意中の得意だ。そのころ、私は自民党の福田派(福田赳夫元首相の派閥)を担当していたから、政界のいろいろな動きも分かる。それを秋山君に教えると、彼も大いに関心を示してくれた。

こうして2年余りの間、秋山氏とは大いに“競合”し助け合ったが、ある時、2人で徹底的に飲もうということになった。彼は酒も強い。3~4軒の店に行っただろうか・・・ 秋山氏はダンスも好きなようで、その場の女性ともよく踊っていた。その時だったか、私が以前 ICUの女子大生と付き合っていたことを話すと、秋山氏も彼女のことをよく覚えていたので、われわれはさらに“親密感”を深めたように思う。
取りとめのない話になってしまった。とにかく、私にとって秋山君は忘れがたい「記者」であり、ある時は親身になって助けてもらった人である。もうそろそろ止めるが、その当時の最大のテーマだった「日中平和友好条約」の締結が終わって、われわれは別れたと思う。
それから10年余りたって、彼が日本人初の宇宙飛行士として、宇宙を飛んだ時には驚いた。あの秋山君が・・・と思ったが、何事にも熱心で優秀な彼なら、当然のことかと思い直したものだ。それから数年して、彼はTBSを退社した。これも意外だったが、後でいろいろ伝わってくる話を聞くと、秋山氏の“世界観”が変わったのだからやむを得ない。
彼はその後、福島県に移住して有機農業に取り組んでいたが、2011年の原発事故で群馬県に避難し、いわゆる“原発難民”の生活を余儀なくさせられた。その辺の体験や苦闘は省略するが、秋山氏は原発を深く呪っているという。そして、今は仕事の都合上(京都造形芸術大学教授)で京都府内にお住まいだというが、いつまでも元気にそのご活躍をお祈りする。(2016年8月22日)

追記・・・蛇足だが、ある日、秋山氏と私は何かで論争したことがある。何のことだったか覚えていないが、彼はマルクス主義の立場で、私はアナーキズム(無政府主義)に拠ってである。論争はけっこう長く続いたが、互いに立脚点を変えることはなかった。それも今は懐かしい思い出となっている。


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2 コメント

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Unknown (おキヨ)
2019-12-05 12:04:45
これは驚きました。あの宇宙飛行士 秋山豊寛さんとお友達だったとは!考えたら驚くことではなく、ジャーナリストとして同じ場所でよく顔を合す同年代なら親しくなる可能性大ですものね。
秋山さんは宇宙から帰ってから人生観が変わったとか・・・さもあろうかと思います。

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お世話になりました (矢嶋武弘)
2019-12-06 11:40:53
TBSとフジテレビの席が本棚を挟んで向かい合っていたので、秋山君といつも顔を合わせていました。
本文にあるように彼には大変お世話になり、ほとんど彼に助けられ、こちらが助けたのはほんの僅かです(笑)。特に英語関係ではそうですね。
彼が宇宙飛行士になった時は驚きました。宇宙で何かを悟ったのか、その後の変貌も意外でした。でも、それが彼の人生なのでしょう。
秋山君のご多幸を祈っています。
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