<2010年2月10日に書いた以下の記事を復刻します。>
日本人は一定の「ルール」の中では、非常に優秀な成績を残す。それは勤勉でありよく努力するからだろう。その点は大いに誇ってよい。
しかし、ルールを絶対視する傾向があるから、ルールの変更に慣れない面がある。
ルールとは何か。平たく言えば、国の憲法だったりスポーツ競技の規則(ルール)などだ。
憲法が現実社会とどんなに矛盾しようとも、それを変えたがらない。むしろその“ルール”に縛られようとする。無理をしてでもそのルールを守ろうとする。つまり、ルールを絶対視するのだ。
それは日本人の性格だから仕方がないが、あまりにもルールを絶対視すると、とんでもない事態になることも想定すべきだ。
スポーツ競技のルールはよく変わる。例えば水泳のバックストローク(背泳)でも、スキーのジャンプ競技でも何でもルールがよく変わる。別に日本が変えようとしているわけではない。いや、日本人はルールに最も忠実な民族だから、自ら変えようなどとは一切しないだろう。
ルールを変えるのは、もっぱらアメリカやヨーロッパなどの国々だ。日本はそれにいつも振り回されているだけだ。憲法だって敗戦後、アメリカによって大きく変えられた。大日本帝国憲法から現行憲法に大きく変わったのだ。日本人は自国の憲法でさえ、自らの力で変えることが出来ないのだ。そういう民族である。
一定のルールの中では、日本人は非常に優秀な成績を残すと言ったが、それには誰も異論がないだろう。しかし、ルールの変更という面では、日本人ほど不得手で苦手な民族はいないと思う。
与えられたルールを大切にする民族だから、スポーツ競技だろうが憲法だろうが、既存のルール・規則を後生大事に守ろうとする。それも結構だが、先にも言ったように、ルールというのは“永遠”のものではない。しばしばよく変わることがあるのだ。
ある方のブログで読んだが、「ルールを制する者が勝利する」という言葉を最近知った。ルールを制するというのは、それを改正したり変更する力のことだろう。欧米人にはそういう視点があるが、日本人にはほとんどないのではないか。
一定のルールの中では日本人は非常に優秀だが、どこか「木を見て、森を見ない」ところがある。つまり、細かい規則や規準にはとても注意を払うが、全体のことを忘れがちになるのだ。だから、ある日突然「どうなってるの~っ!」と驚くケースがよくある。
これは外交でも経済でもそうだ。例えば“ニクソン・ショック”がそうだった。ルールがガラリと変わってびっくり仰天してしまうのだ。
1971年、ニクソン米大統領が中国訪問を発表したら、日本政府は完全に“頭越し外交”をやられ日本中が大騒ぎになった。同じ年、やはりニクソンによって「ドル・ショック」が起こり、1ドル・360円が1ドル・308円へと、ほぼ強制的に円の切り上げを実施させられた。ルールが全く変わってしまったのだ。
アメリカは平気でルールを変更する。日本はただ振り回されるだけなのだ。つまり「木を見て、森を見ない」ところがあるから、ある日突然、驚いてしまうのである。
ニクソン・ショックはやむを得ない面があったが、事ほど左様に、日本人はルールの変更に不慣れで弱いのだ。しかし、ルールというのは人間が作ったものであり、いつ変更されてもおかしくはない。
ルールを守るのは良い。しかし、それはいつか必ず変わるものだということを、日本人は認識しなければならない。そして、そういった事態を絶えず想定して、いろいろな準備を怠らないことが大切なのだ。
つまり「木を見て、森を見ない」ということでなく、日本人はもっと“巨視的”な見方を体得すべきである。そうでなければ、いつ外国に裏切られるかもしれない。
今日は少しえらそうなことを言ってしまったが、日本人の弱点とはそういうことである。日本の電車などの正確な発着時間は、いつも外国人を感嘆させている。それは素晴らしいことだが、それだけでは足りない。
日本人はもっと巨視的な眼を持とうではないか。(2010年2月10日)