(15)1968年・昭和43年
キャップとのトラブルがあったあと、啓太と草刈の関係は多少の緊張感があったものの平穏に推移した。お互いが注意深く気をつけようと思ったのだろう。そして、大した事件・事故も起きずに年末を迎えた。
啓太はたまたま大晦日が泊まり勤務だった。前にも述べたが、泊まりはNIPPONテレビ、NETテレビと交代で行なっていたが、その日はFUJIテレビの番だったのである。大晦日だろうと別に大したことではない。むしろ年末年始勤務は特別手当などがつくから、啓太のような“チョンガー”の若造にとってはありがたいくらいだ。
大晦日の晩、TOKYO放送の泊まりは井上一馬だった。この局はラジオのニュースもあるため毎晩誰かが泊まっている。この日は小さな火事が1件あったので井上はラジオ用に短い原稿を送っていたが、あとは平穏無事に過ぎていった。
啓太と井上は、暮れの紅白歌合戦などをテレビで見ながら過ごしたが、暇つぶしに花札の「こいこい」をして遊んだ。このゲームをしていると、時間がすぐに経つ。もちろん、少額とはいえ賭けているのだ。
こうして大晦日の晩が過ぎ、日勤の森永徹郎が来ると啓太は家路についた。帰宅すると、母の久乃が待ちわびたように言う。
「朝、三上さんから電話があったわよ」
「えっ、三上から? なんだろう」
三上洋司は中学校時代のクラスメートで、久しぶりの音信だ。彼は理系出身で○☓油化という一流企業に就職し、今は茨城県のKコンビナートで働いているという。啓太はさっそく彼に電話をかけた。
「新年、おめでとう。元気かい・・・」
すると、三上は正月休みで実家に帰ったから、久しぶりに一杯やらないかと言う。啓太は無論OKと言ったが、泊まり明けなので夜うかがうことになった。そして少し仮眠をとったあと、年賀状の整理などをして夕方、歩いて10分ほどの三上の家を訪れた。
三上は酒が強い方で、早くももう飲んでいた。啓太を迎えるなり、ビールや日本酒などを盛んにすすめる。啓太も酒は好きだからけっこう飲み、お互いに最近の動静や仕事のことなどを談論風発で楽しく語り合った。
すると、夜9時ごろだろうか、久乃からの電話を三上の母親が取り次いでくれた。啓太が電話に出ると久乃が言う。
「いま、会社の蒲田さんという人から電話があったわ。すぐにかけてちょうだい」
啓太は蒲田二郎の連絡先を聞いて、すぐに電話をかけた。
「山本君、渋谷で“殺し”があったよ。明日の朝、渋谷署に行ってくれないか」
蒲田はそう言ってから、渋谷の“連れ込み旅館”で中年の女性が殺されたと説明した。とたんに、啓太は酔いが覚める気分になった。警視庁へ来て初めての殺人事件だ。大体のことを言って、啓太は三上に別れを告げた。
「殺人か・・・正月早々、君も大変だね」
三上の少し同情気味の言葉を背にしながら、啓太はすぐに帰宅したのである。
翌朝、彼は渋谷警察署に向かった。署に着くと、捜査一課長の会見は10時半ごろになるという。時間があるので、啓太は殺害現場となった円山(まるやま)町の連れ込み旅館Aへ行ってみることにした。そこは歩いても近い所だ。
ところが、旅館Aへ行っても誰も会ってくれない。規制線のテープはなかったが、主人を始めみんなマスコミを警戒しているのだろう。仕方なく道玄坂などをぶらぶらしていたが、啓太は次第に空しい気分になった。通りがかりのアベックや初詣でに行きそうな人たちを見ていると、正月早々、殺人事件を追いかけている自分がなんとなく侘びしく思えるのだ。
しかし、これではいけない、自分は事件記者なのだから当然の仕事だと思い直すよう努めた。渋谷署に戻ると、捜査本部の部屋が設けられていた。だから捜査一課長が会見するのだが、10時半になっても会見がなかなか始まらない。捜査会議が長引いているのか・・・
啓太は正午前の昼ニュースに原稿を送る予定なので、だいぶ“追い込み”になるのが必至の状況となった。少しイライラしていると、11時頃になってようやく田辺義文捜査一課長の会見が始まった。
「え~、お待たせしました。え~、渋谷区円山町の女性殺害事件ですが、え~、あの~・・・」
田辺課長の説明はずいぶん悠長だ。ますますイライラしてくる。それでも、やがて事件の要点は分かった。被害者の女性の名前はその所持品から分かり、鋭利な刃物で胸や腹など数カ所を刺され死亡したのだ。
課長の会見はなお続いたが、一刻も早く原稿を送らねばならない。啓太は事件の概要が分かったところでその場を離れ、渋谷署の近くの“公衆電話”を見つけそこに駆け寄った。
彼は赤電話に何枚も10円硬貨を入れ、ダイヤルを回してFUJIテレビの報道に電話をする。そして担当者が出ると、一語一語 噛みしめるように送稿を始めた。追い込みになったもののまだ余裕があったのだろうか、担当者は落ち着いて電話を受けていた。
送稿が終わったあと記者クラブに電話を入れると、キャップの草刈が出てきた。正月2日なのに、もう出勤しているのかと思っていると彼が明るい声で語った。
「やあ、ご苦労さん。新年早々、大変だな~」
草刈は事件が好きな男なので、渋谷の“殺し”に刺激されたのだろう。啓太が今年もよろしくと挨拶すると、去年のトラブルが嘘のように草刈は愛想よく受け答えをする。啓太は、キャップが案外 単純な人のように思えておかしくなった。
こうして初めての殺人事件を取材したが、あとで考えると電話の確保がいかに重要かということを知った。渋谷署の近くですぐに赤電話を見つけたが、これが過疎地や不便な所だったらそうはいかないだろう。まして、追い込みの送稿なら放送に大きな支障をきたす恐れがあるからだ。
渋谷の女性殺害事件はその後 被害者の顔見知りの犯行と分かり、1週間ぐらいして30代の男が逮捕された。渋谷のバーに勤めていた女性はその男に誘われ、元日に連れ込み旅館で殺されたのである。
殺害の詳しい動機はまだ分からないが、交際をめぐる男女間のトラブルが原因のようだ。男には妻子があるのに、女と別れられなかったという。よくある話だが、こういう顔見知りの犯行はすぐに分かるものだ。啓太は一件落着の原稿を書いて、殺人事件にピリオドを打った。
1月中旬になると、東京・荒川区内の“連続放火事件”が人々の耳目を集めた。放火は昨年11月末ごろから続いており、もう15~6件に達している。ほとんどはボヤ程度で鎮火したが、中には民家を半焼させた火災もあった。冬の季節を狙った悪質な放火事件である。
ある日、またボヤ騒ぎが起きたので啓太が原稿を書いていると、草刈キャップが話しかけてきた。
「君も知っているだろうが、ニュースに『夜の記者席』というコーナーができたんだ。今のところ、明日の記者席で放火事件を取り上げたいとニュース・デスクから連絡があった。いろいろ調べておいてくれ」
「えっ、夜ニュースでしゃべるんですか?」
「そうだ、話すのは初めてだろうがしっかりやってくれ」
草刈の言う『夜の記者席』は1月から始まった新コーナーで、啓太はむろん知っている。しかし、こんなに早く自分の出番が来るとは思いも寄らなかった。啓太が少し当惑していると、草刈がニヤッと笑って続けた。
「これからのテレビ記者は原稿を書いているだけでは駄目だ。テレビに出て、大いに話すのも仕事なんだぞ。そこが新聞記者とは違うんだ。分かってるだろ?」
「ええ・・・」
草刈が言うことはもちろん分かるが、実際にテレビ出演となると経験がないので困惑してしまう。これが正直な本音だが、啓太は仕事なので覚悟を決めるしかなかった。この当時、普通の記者がテレビに出て話すということは、まだほとんど行われていなかったのだ。
啓太は少し気が重くなった。何か他に大きなニュースが突発して、明日の自分の出演が中止になればいいと思った。しかし、そうそう大きなニュースが起きるものではない。仕方なく、啓太は放火事件の概要を調べることにした。
翌日、彼がフリップに用いる放火現場の地図を準備していると、チーフの蒲田が声をかけてきた。
「山本君、初出演だってな~」
それは明らかに“冷やかし”半分の言い方だ。啓太が内心ムッとしていると、蒲田が笑いながら続けた。
「俺はしゃべりが下手だから、君が出るのがいいんだよ。夕方になったら、一緒に局へ上がろう」
「蒲田さん、あなたがチーフだから出るべきですよ。どうして僕が・・・」
さすがに啓太が抗弁すると、彼がすぐに反論した。
「だって、キャップのご指名だろう。草刈さんは君に期待してるんだよ」
その言葉に、啓太はもう抗弁する気になれなかった。
午後になって啓太は、荒川の連続放火事件について最新の情報を得ようと、捜査1課の火災班に顔を出した。特段の情報はなかったが、これで大丈夫と判断し彼はクラブに戻った。そして、夕方になって蒲田と共に局へ上がったのである。
蒲田は草刈に頼まれ、啓太の“補佐役”に回ったのだ。彼はもともとカメラマンだったが、現場の記者が足りなくなったので1年前に警視庁クラブに移ってきた。元来が無口で話すのが苦手だったため、テレビ出演が啓太に回ってきたと言えよう。
ところで、報道の部屋に入ると、庶務係の席に見慣れない若い女性がいるのに気がついた。啓太が内勤の後輩に聞いてみると、彼女は総務部からこの1月に異動で移ってきたというのだ。名前は末永(牧子)さんと言うそうだが、啓太はその初々しい姿が妙に気になったのである。
夕方のニュースが終わるとほとんどの部員は引き上げ、あとは遅番と泊まり勤務の者だけになる。啓太は始めはリラックスしていたが、時間がたつにつれだんだん不安になってきた。それでも、フリップや映像などの素材は早く準備し、話す内容も事前に大原キャスターと十分に打ち合わせをした。
「君は初めてか。でも、気持を楽にして話せばいいんだよ。大したことじゃないんだ」
大原はNIPPON放送出身のベテランアナウンサーである。啓太の不安を察してか、いろいろアドバイスしてくれた。しかし、夜も遅くなってくると彼の不安は増大し、緊張感が高まってきた。啓太はそういう自分を情けないと思ったが、テレビ初出演だから仕方がないだろう。とうとう彼は蒲田に声をかけた。
「すいません。ちょっと“穴ぐら”で休んできます」
穴ぐらというのは、報道部員が仮眠を取ったり、一休みする狭い部屋でベッドが2つある。時にはこの部屋で、バクチが好きな連中が賭け事をすることもある。啓太が穴ぐらへ行くと、幸い夜も遅いせいか誰もいなかった。彼は二段ベッドの上の方で横になり、気持を落ち着かせようとした。
しかし、時間がたつにつれて緊張感はますます高まるばかりだ。少しも楽になれない。そこで啓太は、流行歌や軍歌を口ずさんだりしていたが、やがて蒲田が穴ぐらの入り口に顔を見せた。
「おい、大丈夫か?」
彼が心配そうに話しかける。
「ええ、まあ・・・大丈夫です」
啓太がなんとか返事をしたせいか、彼は姿を消した。それからどのくらい時間がたっただろうか・・・ ふと腕時計見ると、オンエア・タイムの20分前になっていたので、啓太は意を決してベッドから降りた。
彼は報道の部屋に戻り、用意されたフリップを持って大原より先にスタジオに入った。照明がやけに明るくて気になる。それは全てを照らし出して何もかも暴露する感じだ。啓太は“断頭台”に上る囚人(死刑囚)のような気分になって、自分の席に着いた。
やがて、大原キャスターがスタジオに現れ席に座ると、啓太に声をかけた。
「気楽にね。あとはこちらの言うとおりにすれば、問題はないよ」
このあと、彼はまだ目を通していない追い込み原稿の下読みをしていた。そして、オン・エアになる。10分ぐらいニュースの時間があっただろうか、そして、最後に『夜の記者席』が始まった。
「え~、今夜の記者席は東京・荒川区で起きている連続放火事件を取り上げます。担当は警視庁クラブの山本記者です」
大原の紹介で啓太は頭を下げた。もう観念していたのか、彼は意外に冷静な感じだ。大原の質問に淡々と答え、用意したフリップを示しながら話し始めた。ただし、事実関係を“ぶっきら棒”に機械的に説明するだけで、何の面白みもない。初出演の記者とはこんなものだ。
3分弱のコーナーはこうして終わったが、啓太にとっては時間がかなり長く感じられた。終わって彼はホッとしたが、同時に首筋から肩、背中にかけてえらく疲労を感じた。きっと体が緊張してこわばっていたのだろう。
ニュースが終わり報道の部屋に戻ると、蒲田がさっそく声をかけてきた。
「やあ、ご苦労さん、しっかりやっていたじゃないか」
お世辞とはいえ、彼の一言で啓太は肩の荷が下りる感じがした。デスクや大原に挨拶すると、啓太と蒲田はすぐに東京無線のタクシーに乗って帰宅したのである。
外は真冬の季節だが、啓太はキャップや先輩記者らとようやく和やかな関係になったので、警視庁クラブへ出勤するのが気分的に楽になった。また、他社の記者とも仲が良くなり、時間があれば雑談に打ち興じることもあった。多くの記者が啓太と同じように20代の若者なのである。
ある日、彼はNETテレビの曽我という記者と鑑識課へ行ってみることにした。2人とも記者クラブに来て間もないし、鑑識のことがよく分からなかったからだ。それに独りで行くと気まずい面もあるが、2人だとお互いに“助け舟”を出して会話がスムーズにいくことが多い。
啓太と曽我は本庁1階の奥まった鑑識課の部屋へ行った。2人はやや暇そうに見える係官の1人に名刺を出し、幾つか尋ねていいかと聞いた。西島というその係官が快く応じたので、2人は矢継ぎ早にいろいろ質したのである。警視庁の捜査官らは日頃、民放テレビの若い記者たちを“少年探偵団”と陰で呼んでいたので、ある意味で親しみを感じていたかのもしれない。
いろいろ聞くうちに、西島は写真のファイルを持ち出してきた。
「これは部外秘だが、まあいいだろう。ちょっと見てもらおうか」
そう言うと、彼はファイルをぱらぱらとめくったが、その中に殺人現場の凄惨な写真が何枚か入っていた。啓太はゾッとして思わず目を背けたが、西島は淡々として説明を続ける。
「こうした現場から指紋や足跡、毛髪や遺留品などを採取し、科学的な捜査で犯人を割り出していくのだ。現場の状況が全てを物語っている。“現場百遍”とも言うからね。もちろん、ご遺体は徹底的に調べる。他殺か自殺か、あるいは事故死かなどを判別するためだ。
君たちは生活反応とか、ルミノール反応といった用語を知っているね?」
「ルミノール反応というのは聞いていますが、生活反応って何ですか?」
啓太が聞き返した。ルミノール反応は、ルミノールの混合液を吹きかけると“血痕”が青白く光ることは知っている。しかし、生活反応というのは知らない。
すると西島は、ファイルの写真を指差しながら説明を始めた。
「簡単に言うと、この反応は死んだ人からは見られないが、生きていると皮下出血や呼吸した跡、炎症などが必ず見られるということだ。例えば火災の場合、生きていると気管部分に煤(すす)が残るが、すでに死んでいる場合は煤が残らない。
つまり放火殺人の場合だと、殺した後に放火したのか、生きたまま焼き殺したのか見分けることができる。これは事件の捜査にとって非常に重要なことだ。まあ、生活反応についても十分に勉強することだな」
こう言って、西島はタバコを取り出し一服した。
「他にも何か大切なことはありますか?」
曽我の質問に彼は、一酸化炭素中毒死の場合は鮮やかな紅色の“死斑”ができるなど、幾つかの事例を挙げて説明したが、やがて、ファイルの後部の写真を何枚か見せながら言った。
「これは何だか分かるかな?」
啓太と曽我が写真を見ると、人体のある“局部”のようだ。
「何ですか、これは?」
「はっはっはっはっは、半陰陽だよ」
「半陰陽?」
人体に詳しくない啓太は理解できなかったが、曽我は分かっていた。
「アレだよ、両性具有の性器さ」
啓太は唖然として写真を見ていたが、なんと奇妙キテレツな形をしているのだろうか・・・ そう思っていると、少し離れた席に座っていた初老の男が声をかけてきた。
「西島君、あまりいろいろ見せない方がいいぞ。興味本位になるからね、少年探偵団は。はっはっはっはっは」
その人は先日 挨拶した岩村忠義という警視庁OBだが、管理官相当で鑑識課に来ているのだ。岩村は“鑑識の神様”と呼ばれるほど凄腕だったらしいが、性格は気さくで親しみやすい人柄である。啓太は彼の著書『鑑識生活○○年』を読もうと思っているが、忙しさにかまけてまだ読んでいない。
「岩村さん、そうですね。興味本位になってもらっては困るからな~」
西島がそう言ってファイルを仕舞ったので、そろそろお開きの時間だ。啓太と曽我は礼を言って鑑識課の部屋を出た。
「けっこう参考になったね」
「うん、また来よう」
2人はそう言い合って記者クラブへ戻っていった。
(16)金嬉老事件の発生
ちょうどその頃から、啓太は殺人や放火事件の担当刑事の家へ何回か“夜回り”取材をするようになった。これは顔や名前を覚えてもらうことが主な目的だったが、刑事のいろいろな体験談を聞くのも興味があった。ただし、夜回りだと時間に制限があるため、思うようにいかなかった面もある。
こうして、2月は比較的穏やかに過ぎていったが、20日になって驚くべき事件が発生した。それは静岡県清水市で暴力団員2人をライフル銃で射殺した犯人が、その日のうちに、静岡県榛原郡(はいばらぐん)の寸又峡(すまたきょう)のF温泉旅館に宿泊客らを人質に取って立てこもったのである。世に言う『金嬉老事件』が起きたのだ。
金嬉老(きんきろう)は39歳の在日韓国人二世だが、借金の返済をめぐるトラブルで暴力団員2人を殺害したあと、ライフル銃の他にダイナマイトまで用意してF旅館に侵入し、16人を人質にして立てこもったのだ。この一報が入るや、ほとんどの人がびっくり仰天した。
「どうする? 誰に寸又峡へ行ってもらうか・・・」
草刈キャップが呻くように言った。
「僕が行きますよ!」
啓太がすぐに返事をしたが、草刈はそれを無視した。
「まず蒲田君に行ってもらおう。それしかない」
キャップの断定的な言葉に、蒲田もすぐに承諾した。新米記者の啓太では心細かったのだろう。これほどの大事件が起きたら、まずベテラン記者が行くしかない。蒲田の次は松本、そして森永、啓太と順番が決まり、蒲田はさっそくカメラマンを連れて寸又峡へ向かった。
この時点から、マスコミ各社による壮絶な取材合戦が始まる。21日午前中にはNETテレビのスタジオ番組が金嬉老への電話インタビューをやり、また、ヘリに乗って現場に着いたTOKYO放送の記者が彼に直接インタビューを行なった。
さらに静岡新聞とNHKの記者がF旅館に入ったが、金嬉老は在日韓国人への不当な差別に抗議したり、また差別発言をした清水警察署員の公式な謝罪などを要求した。
こうして暴力団員2人の射殺事件は、日韓両国民の関係や不当な差別問題へと発展し、金嬉老は一躍 在日韓国人の“英雄”にまで見られるようになったのである。このため、人質の安否を心配する清水警察署は当該の署員が謝罪したり、静岡県警本部長らが自首を勧める訴えを行なったりした。
しかし、金嬉老はテレビなどマスコミを大いに利用し、記者会見を開いたりしてその存在感を派手にアピールした。テレビの生放送には次々と登場し、持論の差別問題を大いに論じる。このため、テレビの視聴率が急上昇した。
後日、人々はこの事件を“劇場型犯罪”の始まりと位置づけたが、正にそういうことだろう。啓太もテレビに釘付けとなり、事件がどう進展するか固唾を呑んで見守ったのである。
そうした日、記者クラブで待機していた啓太に電話がかかってきた。彼が受話器を取ると、聞き覚えのある女性の声が耳に入った。
「山本さんですか? 木内です。ご無沙汰しています」
「えっ、木内さん・・・久しぶりだな。元気ですか?」
「ええ、なんとかやっています」
それは木内典子の声だった。彼女と話すのは半年ぶりだろうか、思わぬ電話に啓太は懐かしさで胸が弾んだ。
「どう? 『女性の未来社』の仕事は」
「ここの記者生活にも慣れましたよ。今では“いっぱし”の記者です、ほっほっほっほ」
典子の笑い声に啓太はなにか安心した気持になった。
「君はなんでもできる人だもの、心配はないさ」
「いえいえ、ところで山本さんは事件記者ですってね、念願がかなったわけだ。いろいろ面白い話を聞きたいな~、ご都合はどうですか?」
典子の率直な誘いに啓太は気を良くした。
「もちろん、いつでもいいよ。でも、今は金嬉老事件で手いっぱいだけど」
「ええ、大変な事件ですね。山本さんは現場には行かないのですか?」
「うん、先輩の記者が行ってる。そのうち僕も・・・」
そう言って彼は少し気まずくなったが、典子とこの事件の話を続けた。
「では、事件が終わったら私の方からまた電話をかけます。よろしいですか?」
「ああ、もちろん・・・え~と、典子さんの電話番号は?」
啓太は典子の電話番号を聞いて受話器を置いたが、久しぶりに彼女の声を聞いて満足した。典子は元気そうで仕事に励んでいる感じだ。彼女が言ったように、自分も大事件の現場に行けると良いと思ったのだ。
その金嬉老事件は24日午後になって呆気ない幕切れを迎えた。人質の1人を解放して玄関口に現われた金を、報道陣に紛れ込んだ数人の刑事が取り押さえたのである。金嬉老は激しく抵抗したが、多勢に無勢で難なく逮捕された。報道陣の一部もこれに協力したが、その背景にはマスコミの取材姿勢に対する厳しい批判があったことも作用したのだろう。
一部のテレビ局は、興味本位に金にライフル銃を撃たせそれを撮影したりした。また、全国的に関心が高かったため、必要以上に金嬉老に発言の機会を与えた嫌いがある。彼はそれを良いことに、持論の朝鮮人差別反対を声高に訴えたのである。このため、凶悪な殺人事件や人質監禁の問題は、二義的な出来事という印象を与えてしまったのだ。
金嬉老事件はこうして終了したが、以後、似たような「劇場型犯罪」がテレビ報道の発達に伴いしばしば見られるようになる。それには良い面も悪い面もあるが、啓太はこれも“時代の流れ”だと思わざるを得なかった。
(17)初めてのデモ取材
金嬉老事件が終わって一段落したが、世の中は学園紛争や半日共系全学連の闘争などで騒然とした雰囲気になっていた。前年の羽田事件で過激な実力行動がはっきりしたため、警察側が防備の態勢を強化したのは当然だが、取材する報道陣も常にヘルメットの着用などを強いられたのである。
「おう、なかなか似合うじゃないか。少しは緊張感があっていいな、はっはっはっはっは」
試しにヘルメットを被った啓太を見て、草刈が冷やかすように笑った。記者クラブにも“新品”のヘルメットが何個か届けられたのだ。過激派の学生は石ころや火炎瓶を投げるので、ヘルメットは絶対に必要な防備用具である。
このほか、目薬やオリーブ油なども用意された。これは火炎瓶などに対抗して、警察側も催涙ガス弾を発射することが増えたため、目の保護に必要な措置だった。
ある晩、啓太が帰宅すると珍しく父の国義が話しかけてきた。
「啓太、世の中がなにか物騒になってきたな。これはいつまで続くのだろう?」
「さあ、当分は続くでしょうね。いや、もっと激しくなりますよ」
すると、横合いから久乃が口を出してきた。
「どんなことが起きても、体だけは気をつけてね。怪我などが一番心配ですよ」
「うん、それは気をつけるけど」
学生たちの激しい街頭行動をテレビで見ているせいか、両親は啓太の身を案じているようだ。しかし、彼はそんな心配はほとんど気にしなかった。
啓太が初めてデモの取材に行ったのは、「王子野戦病院反対闘争」の時である。この頃、ベトナム戦争が激化してアメリカ軍の負傷兵が急増した。彼らは東京・北区の米軍キャンプ内にある野戦病院に収容されることになったが、そこは住宅の密集地帯で中学校や高校のある学園地区でもあった。
このため、地元の人たちが強く抗議して反対運動を始め、社会党や共産党などの革新陣営がこれと共闘した。また、反日共系全学連ももちろん加わり、反対運動は一気に盛り上がりを見せたのだ。王子の混雑した地域は、デモ隊の抗議行動や叫び声でにわかに騒然とした。報道陣もその取材で大わらわになったのである。
参考→ 王子野戦病院反対闘争・・・https://www.youtube.com/watch?v=3YzqvgL_Btk
デモの取材で一番厄介なのは、「デンスケ」という録音機を担いでいくことだ。重さが9キロ近くあるため、ベルトが肩にズシリと食い込む。普通に歩いている時はまだ良いが、急いで走ったりする時はとても苦痛になる。しかも、ゼンマイ駆動だから、しょっちゅう“手巻き”で動力を確保しておかなければならない。手巻きを忘れると、録音できなくなるのだ。
こんな厄介なものはない。そこで啓太は草刈キャップに言って、デンスケを常時 担ぐことを免除してもらった。デモの“現場音”を少しでも収録したら待機する車に預け、テープを局の単車(オートバイ)に渡すことにしたのだ。これによって、かなり自由にデモを取材することができた。
3月以降、「王子野戦病院反対闘争」は一段と激しさを増した。反日共系全学連の学生たちはゲバ棒にヘルメットで武装し、米軍王子キャンプに殺到していく。特に3月8日は、学生たちがキャンプの壁を乗り越え中に突入しようとしたため、警備の機動隊と激突し怪我人が続出した。
こうして学生と機動隊の闘争が繰り返されたが、市民の不満分子や野次馬もこれに同調して騒いだため、取材する報道陣が身の危険を感じることもあった。特に狙われたのがSANKEI新聞とFUJIテレビだったろう。不満分子から見れば、この2社は財界寄りの「保守反動」の手先と映ったかもしれない。
ある時、草刈と啓太が荒れ狂うデモを取材していると、FUJIテレビの腕章に気がついたのか数人の男が2人を取り囲んだ。こうなると取材どころではない。1人の中年の男が詰め寄ってきて言いがかりをつけてきた。
「FUJIテレビは何をやってるんだ! お前らは自民党や財界の“犬”じゃないか!」
男はまだ何か叫んでいたが、啓太はくわしく内容を覚えていない。暴行を受ける危険もあるから、早くここを脱出しなければと焦った。ところが、激情家の草刈は対応が違った。彼はその男とまともにやり合ったのである。
「俺はFUJIテレビだが、1人の労働者だ。労働者だぞ! だから労働組合をつくって、会社側と戦っているんだ!」
草刈が吠えるようにして叫んだ。この言葉が効いたのか、相手の男も草刈に一目置いた感じになり、2人はしばらく論争を続けていた。どんな論争だったか啓太は覚えていないが、やがて2人は相手を認め合ったのか互いにうなづいて別れた。そして、取り巻いたほかの男たちも去っていったのである。
啓太は安堵したが、そのうち草刈の言い分が可笑しくなった。草刈は労働組合をつくって会社と戦っていると言ったが、彼のようなKYODOテレビ出身者は組合に入らないという条件で、FUJIテレビに移ってきたのである。
草刈はとっさの判断でああいう言い方をしたのだろうが、男たちに囲まれて臨機応変に対応したと言って良い。余談だが、このあともFUJIテレビやSANKEI新聞はデモ隊に狙われることがよくあった。取材車や中継車が投石されたり、カメラマンや記者が多少の暴力を振るわれたりしたのだ。
いずれも大事にはならなかったが、啓太はデモ取材の厳しさを痛感したのである。
王子野戦病院をめぐるデモ取材などをしているうちに、季節はようやく春めいてきた。そんなある日、記者クラブに木内典子から電話がかかってきた。
「この前は失礼しました。どうですか、よろしかったらそちらの近くでお会いしませんか?」
「ああ、いいですよ。明日は泊まりなので・・・3日後がいいな。木曜日はどうですか?」
「ええ、木曜の昼過ぎなら大丈夫です」
2人は打ち合わせて、3日後の午後1時過ぎに会うことにした。1時過ぎなら、昼食後なので店も空(す)いているだろう。啓太は虎ノ門の交差点の近くにあるイタリアン・レストランを指定した。
「分かりました。前もってまたお電話をしますが」
「いや、僕の方から『女性の未来社』に電話をしますよ」
「そうですか・・・あの~、もし良ければ、同僚の女性記者を連れてってもいいですか? 白鳥(しらとり)さんと言いますが」
一瞬、啓太はためらったが、せっかくの申し出ではないか。
「ああ、構わないですよ。その人はどういう人?」
啓太が尋ねると典子は、自分より1歳年下だが社歴は先輩だなどと簡単に説明した。こうして2人は、会食の打ち合わせをして電話を切った。啓太は3日後の木曜日に、突発的な出来事が起きないことを願ったのである。
その日は、特に大した事もなく午後を迎えた。啓太は典子に電話をかけたあと、草刈たちに人に会うからと言って警視庁を出た。そして、虎ノ門のイタリアン・レストラン「T」に入ると、彼はすぐに草刈に電話をしてレストランの電話番号を伝えた。携帯電話のない時代は、自分の所在地をいつも上司に伝えなければならないのだ。
啓太がナポリタンとコーヒーを注文して待っていると、やがて典子ともう1人の女性が現われた。
「お待たせしました、こちらが白鳥京子さんです・・・山本啓太さんです」
典子が穏やかな笑みを浮かべて2人を紹介する。啓太が立ち上がって会釈すると、白鳥は丁寧にお辞儀をして挨拶した。正面から向き合って彼女を見ると、啓太は思わず呆然とした。白鳥は知的な容貌の上に実に可愛く美しいのだ。
彼はふだん女性の服装には無関心だが、彼女の紺色のスーツ姿に新鮮な感じを覚えた。背丈は身長の高い典子より少し小柄である。2人の女性は席につくと、それぞれ食事を注文した。
「いろいろ忙しいようですね」
「ううん、まあまあですよ。それより、あなたがたの方が忙しいのでは?」
典子の問いかけに啓太が答え、雑談が始まった。雑談とはいえ話すのは啓太と典子だけで、白鳥京子はじっと聞いている。彼女は初対面だから、もっぱら聞き役なのだろう。啓太も特に京子には話しかけなかった。
しかし、やがて典子が京子を横目で見ながら言った。
「山本さん、白鳥さんの兄さんはASAHI新聞の社会部記者ですよ。ねえ、京子さん、兄さんはいま何をやっているのかしら?」
「いま、東京でサツ回りの記者をしています」
“サツ回り”とは、各警察署の取材を担当する記者のことだ。ほとんどの新人記者がそこからスタートする。
「じゃあ、僕と同じような仕事ですね。親しみを感じるな~」
啓太がすぐに相づちを打つと、典子がまた京子にいろいろ質した。彼女の話では兄は最初 福島支局に赴任したが、2年ほど前から東京本社に転勤になって、今は墨田区や江東区などの警察署を担当しているという。年は啓太より1歳上のようだ。
そんな雑談をしているうちに、啓太はなぜ典子が京子を伴ってきたのか疑問に思った。こんな話なら、別に京子を連れてくる必要はない。何か意図するところがあったのか・・・と疑っているうちに、彼はふと、FUJIテレビを去っていった典子の先輩の山村邦男のことを思い出した。
「ところで、山村さんはいまどうしているの? 筑波山麓で無農薬農業をしているはずだね。元気にしているかしら」
急に山村の話が出たので、典子は少し戸惑ったようだ。しばらく返事をしなかったが、やがて神妙な面持ちで答えた。
「元気に働いているようですよ。農作業にもようやく慣れたようで」
「ということは、連絡があったんだね」
「ええ、二度ほど電話がありました」
そうか・・・典子はやはり山村先輩と連絡を取り合っている。啓太はなぜか安心したが、京子は山村のことを初めて聞いたようで、何の反応も示さなかった。こうしてパスタやコーヒー、紅茶を口にしながら3人は雑談を続けたが、やがて典子が改まった口調で話した。
「今日はこれで失礼します。私たちはもう1件、新橋で用がありますので。また お会いしましょう」
そうだったのか・・・仕事のついでに自分と会っていたのか。啓太はそう受け取ったが、忙しい合間によく声をかけてくれたと思い、少しも悪い気がしなかった。いや、もしかすると、同僚の白鳥京子を自分に引き合わせしようとしたのでは・・・
そんな思いを胸に秘めながら、啓太は2人と別れた。ちょうど1時間ぐらいたったろうか。彼は警視庁に戻る道すがら、典子のことより京子のことが気になった。彼女の愛くるしい表情や話しぶりが脳裏から去らなかった。まるで、若手女優の吉永ゆかりのような印象だ。
記者クラブに戻ると、草刈キャップが待ち構えたように言った。
「あした、成田へ行って空港反対のデモを取材してくれ。松本君はほかの仕事があるから行けないのだ」
また、デモ取材である。今度は成田か・・・場合によっては泊まり込みになりそうだ。自分は殺人や強盗など凶悪犯罪を担当する記者だが、このところ、デモや集会などの取材が増えてきた。啓太は少し違和感を覚えたが、民放テレビは報道の人数が少ないから仕方がない。彼はそういう現実にだんだん慣らされてきたようだ。
いわゆる“成田空港反対闘争”だが、この年(1968年)にますます拡大し過激なデモや暴力行為が繰り返されていた。反日共系の三派全学連の学生たちももちろん参加し、今や全国的な注目を浴びているのだ。
啓太はさっそく同行のカメラマンと打ち合わせをして翌日、成田市の三里塚・芝山方面へ向かった。さいわいその日は、大した衝突や混乱は起きなかったが、これ以降しばしば、成田闘争の現場を取材することになった。