加太越え 昭和43年10月(その2)
昭和43年10月27日、初めての加太越えの続編。
C57の下り単機回送を撮影した後、中在家信号所に向かった。
同信号所は加太・柘植間のほぼ中間、加太からは4.6キロにある。大築堤の外れから線路伝いに1キロ半歩いた。
切通しを抜けると、南側の眼下に田園風景が広がってくる。キハ35系上り亀山行336Dが峠を下りていった。
上りDCと交換待ちの下り貨物列車の加太発車は12時10分頃。歩を止めて撮影場所を探した。
下り貨物は、柘植から先関西線を行く列車と草津線に入る列車があり、後者の列車番号は700番台が付されていた。
草津線で草津に抜けるルートは名古屋から東海道線を行くより距離が短く、貨物列車のバイパスの役割があった。
新幹線開業後も、その運行は大きく変わっていなかったようである。
やがて、数両の貨車を牽引してD51が25‰を上ってきた。短い編成でそのまま関西線を行く列車である。
D51牽引の下り貨物261ㇾ
右の集落の先に40年に開通した名阪国道が見える
中在家信号所は加太方からの25‰上り勾配区間の途中にあり、スイッチバック方式である。
列車交換のために加太方に引上線、柘植方に2本の発着線が設けられていた。
信号所の手前まで行くと、下り貨物との交換で引上線に待避していた上り臨時旅客列車が動き始めた。
平坦の引上線をバックして発着線に向かう。左下に本線がある。
D51牽引の上り臨時旅客
12時20分頃発車。柘植方の発着線から本線に向かう。引上線から信号所を展望した。
下り列車は中在家信号所を発車、あるいは通過して25‰の上り勾配を行き、数百m先の加太トンネルに入る。
柘植方から撮りたかったが、この時間帯は上りが続き、下り列車を待たずに断念。その後も撮影機会がなかった。
13時前、上り貨物が引上げ線で待避して下り湊町行335Dと交換。普通DCを通すのに大変な作業を強いていた。
D51牽引の上り貨物264ㇾ 引上線からバックして柘植方の発着線に向かう
発車して25‰下り勾配の本線に入る
この後、信号所を後にして大築堤に戻った。10分程歩くと上り荷物列車が下り勾配を駆け抜けていった。
D51-211[奈]牽引の上り荷物44レ
1968.10 加太・中在家信号所
昭和40年代前半の鉄道写真を再開しますが、残るは関西線の加太越えのみ、フイルム数本で終了します。
加太越え 昭和43年10月(その1)
加太越えは、鈴鹿山脈南端より南に位置する関西線の加太・柘植間を頂点とする峠越えである。
峠の加太トンネルは延長930m、前後に25‰勾配が連続し、蒸気機関車時代は同線の最大の難所であった。
撮影当時は奈良運転所、亀山、竜華機関区のD51、亀山機関区のC57、C58が往来していた。
加太・柘植間は8.9キロと長く、トンネルの加太方にスイッチバック方式の中在家信号所が設置されていた。
加太を出た下り列車は、やがて25‰の急勾配区間を行き同信号所手前でR300mの大築堤に差し掛かる。
ここでの展望は古くから鉄道雑誌で紹介され、後補機付の蒸気機関車の撮影ポイントとして知られていた。
D51は、撮影者がいない中央西線で専ら撮影していたが、中津川電化開業により撮影地が遠くなった。
それまでは他の撮影者がまず避けられない当地を敬遠してきたが、遅ればせながら出かけてみることにした。
実際に行ってみると、この頃は2、3人がいる程度であまり障害になることはなかった。
昭和43年10月27日、かくして初めて加太越えの撮影に行った。
名古屋から下り湊町行331Dで加太に9:39下車、交換待ちの上り貨物列車の発車を見届け、西に歩く。
目指すは大築堤。国道25号線大和街道を進み築堤入口まで約3キロ、結構距離がある。
1キロも行かないうちにドラフト音が聞こえ、先程、加太に停車していた下り荷物列車がやってきた。
重油併燃装置、集煙装置付のD51が、この先の峠に備えて加太川沿いの12‰勾配を加速していく。
D51牽引の下り荷物41レ
荷物列車の20分後に下り貨物列車が加太を発車する。大築堤の定番ポイントまでは間に合わなかった。
短い編成であるが、後補機付である。よい煙で大築堤前の25‰勾配を上ってきた。
D51牽引、後補機付の下り貨物783レ
振り向くと大築堤。初めて見る大築堤を上って行くD51の後姿はなかなかの迫力であった。
D51の後補機
先に進み、中在家信号所寄りから大築堤方面を見る。加太発10:56の下り普通気動車が来た。
キハ35系下り亀山発湊町行333D
しばらくして、C57の下り単機回送が大築堤を登ってきた。改良された機関士側の前面窓が目立つ。
何の回送か不明、全く予期していなかった。一つ得した気分で中在家信号所に向かった。
重油併燃装置付C57-121[亀]の下り単機回送
1968.10 加太・中在家信号所
紀勢線のディーゼル機関車DF50
関西線の旅客列車を専らC57が牽引していた頃、トンネル区間が多い紀勢線にはDF50が投入されていた。
名古屋から紀勢線に向かう列車は、多気から参宮線に入る一部の列車を除いて亀山で機関車をDF50に付替えた。
DF50は、昭和32年から38年にかけて138両が量産された電気式ディーゼル機関車である。
37年から長きに亘って量産される液体式ディーゼル機関車DD51が開発された後も、しばらく製造が続いた。
紀勢線のDF50はスルザー社のエンジンを搭載した基本番台の機で、いずれも亀山機関区に配属されていた。
40年7月、紀勢線の起点である亀山駅で初めて見るDF50を撮影した。
DD51の凸形に対しDF50は箱型の機関車で、名古屋近郊では見ることができない珍しい存在であった。
紀勢線下り亀山発和歌山市行133レを牽引する亀山機関区のDF50―14
1965.6 亀山駅
2年後の42年3月、松阪駅での写真。
上り天王寺発名古屋行924レを牽引するDF50ー53 下り岐阜発鳥羽行急行"いすず"1号と交換
1967.3 松阪駅
下り亀山発和歌山市行137レを牽引するDF50-30
当時、紀勢線、参宮線で見た蒸気機関車は、旅客列車を牽引するC57と貨物列車を牽引するD51であった。
この線区の蒸気機関車は、この日しか撮影の機会がなくD51の写真のみが残っていた。
ナメクジドームに重油併燃装置を付けていた奈良運転所のD51-65も見たが、撮り損なっていた。
下り貨物牽引の奈良運転所の集煙装置、重油併燃装置付戦時型ドームD51-1013
松阪到着の名松線普通気動車 折り返し名松線終点の伊勢奥津行 キハ20―75 通称バス窓のキハ20(1~103)
1967.3 松阪駅
関西線名古屋近郊のC57
昭和41年から44年の関西線名古屋近郊での旅客列車の写真。
名古屋・亀山間の普通列車を牽引していたのは名古屋機関区のC57で、ディーゼル機関車は投入されていなかった。
44年10月の無煙化後はDD51が牽引したが、写真は撮っていない。
C57が牽引する下り旅客列車 後方は近鉄名古屋線の架線で並走区間が多い
1966.5 関西線 長島・桑名(推定)
42、43年は、近鉄電車を主眼にして名古屋市西部を流れる庄内川下流の鉄橋の名古屋側に何度か行っていた。
当時、快速列車は姿を消していたが、名古屋発新宮行快速からの置換えで夜行長距離普通列車が運行されていた。
名古屋を15時過ぎに発車して紀勢線回りで天王寺に翌日5時の到着であった。
1等車を連結した下り天王寺行921レを牽引する重油併燃装置付C57-62
八田を出発した下り伊賀上野行321レを牽引するC57-16 後方は近鉄名古屋線
最後尾キハ20、前がキハ35系4連の上り普通気動車
1967.10 関西線 八田・蟹江
下り伊賀上野行321レ牽引のC57-83 大分運転所から転属し名古屋近郊では珍しい門鉄デフ装備
1968.1 関西線 八田・蟹江
下り天王寺行1等車連結921レ牽引のC57-14
1968.1 関西線 長島・桑名
下り旅客牽引のC57―83 門鉄デフをとくに狙ったわけではないが、度々出会った 赤ナンバープレートが反射
1968.4 関西線 八田・蟹江
下り亀山行227レ牽引のC57-83 左手は近鉄益生駅
1968.8 関西線 桑名・富田
無煙化まで後り僅かの44年9月、関西線最後のC57の撮影に弥富近辺に出かけた。
下り亀山行229レ牽引のC57-23 弥富を発車して木曽川橋梁に向かう
下り天王寺行921レ牽引のC57-30 かつての1等車は外されていた 後方に弥富駅構内の蒸気機関車の煙が見える
前方は木曽川橋梁 手前に関西線を跨いでいた近鉄旧名古屋線の橋桁跡、左に現名古屋線の木曽川橋梁が見える
1969.9 関西線 弥富・長島
名古屋駅関西線ホームのC57
昭和41年から43年の名古屋駅関西線ホームでの写真。
38年まで関西線で数両のC55が運用されていたが、残念ながら写真を撮り始める前のことであった。
C55形は10年から12年の62両の少数製造であり、2次形が流線形とされる等興味深い機関車であった。
38年の北陸線金沢電化で金沢機関区からC57が転入し、名古屋機関区のC55は北海道、九州に転属していた。
C57形は12年から戦後にかけて201両が製造され、主として全国の急行列車を牽引してきた機関車である。
名古屋機関区のC57は、44年10月の無煙化により大半は他の機関区に転属されることなく廃車された。
最初の写真は41年3月。1日に数本の客車列車が気動車化されずに残されていた時期であった。
3月のダイヤ改正では、1等車連結の鳥羽行快速がDC急行"いすず"に格上げされて客車列車が1本減っている。
当時の関西線名古屋・亀山間の普通列車の牽引は名古屋機関区のC57の担当であった。
金沢機関区からの転属組の形式入り旧ナンバープレートのC57-32 下り亀山行225レを牽引
1966.3 名古屋駅
42年9月の写真。旅客列車の入線から発車まで。
平坦区間が続く名古屋発車のシーンは迫力を欠くうえ後追いになるが、居合わせれば必ず撮影していた。
隣の中央線ホーㇺから旅客列車を牽引して出発するD51は、41年7月の瑞浪電化で先に姿を消していた。
下り亀山行229レを牽引するC57―32の入線
名古屋機関区の赤ナンバープレート
亀山に向けて発車
下り亀山行243レの出発待ち 重油併燃装置付のC57-102
1967.9 名古屋駅
42年10月、12月の写真。10月のダイヤ改正でも幸い蒸気機関車の運行本数が減ることはなかった。
名古屋機関区の看板機、戦後十数回お召し列車を牽引したとされるC57-139。重油併燃装置を装備していた。
現在、リニア・鉄道館に静態保存されている。
下り亀山行225レ牽引の重油併燃装置付C57-139
C57-30牽引で紀伊長島発上り922レの到着
1967.10 名古屋駅
下り亀山行225レ牽引の重油併燃装置付のC57-62
1967.10 名古屋駅
下り伊賀上野行321レ牽引のC57-32
発車シーン 冷え込む冬はそれなりに迫力があった
1967.12 名古屋駅
43年8月、早朝の名古屋駅。新幹線を入れて撮ってみたもののうまくいかず。
下り亀山行223レ牽引のC57(機番不明)
1968.8 名古屋駅