ヤンマ探索記

トンボの観察記録です。

タイトルはヤンマですが、トンボなら何でも撮ります。
勿論、ヤンマが優先です。

昭和40年代前半の鉄道写真(100・中央西線電化の記録㊴)

2016-03-31 | 昭和40年代の鉄道(中央線他)

中津川以北   鳥居峠旧線

中央西線電化の記録は、今回が最終回である。

昭和43年12月28日、藪原・奈良井間の続編。鳥居峠の奈良井側での撮影。
塩尻から延々と続く上り勾配を進んできた上り列車は、奈良井から最高標高の鳥居峠に向けて最後の急勾配を登る。

藪原側で撮影して藪原12:45発下り松本行827レでトンネルを越え、奈良井側の勾配で撮影して再び薮原側に戻る計画。
827レは奈良井で上り1802D急行"ちくま"1号と交換、待機していた上り貨物列車が十数分後に発車する。
約1.5キロ先の国道19号線の陸橋を目指して走った。まずは陸橋から見える豊口トンネル出口での撮影が目的である。

一息つく間もなくドラフト音の響きが高まり、トンネルに全神経を集中。見事な白煙とともにD51が飛び出した。

D51-430[木]牽引上り貨物6672レ






奈良井川を渡り、陸橋の下を抜けて冷たく光る川沿いに鳥居峠に向かう




枯野をゆっくり進み谷の彼方に姿を消した。ドラフト音が途絶えて、しばらくすると掠れた汽笛が聞こえてきた。



歩を進め鳥居トンネルの上まで辿り着くと、下り2801D急行"赤倉"が心地よいタイフォンを残して峠を下っていく。
奈良井で交換待ちで停車中の季節列車、上り急行"ちくま"2号が13時40分頃に発車する。
43年10月のダイヤ改正で不定期急行"彩雲"から名称変更された列車であるが、客車急行のまま運行されていた。

やがて、D51を先頭にDD51との協調運転で木曽路では珍しい長大編成の客車を牽いて峠を登ってきた。
年末多客期の12両編成のためD51の補機付であった。補機は米原から中津川機関区に転入後間もない139号機。

D51-139[中]、DD51-48[稲一]重連の上り6812レ急行"ちくま"2号






いつまでも全編成が画面に入りきらず、10両目まで


トンネル手前が大きな日陰になるので焦っていたのだが、全編成を捉えた時は間に合わなかった。



次の上り旅客列車は奈良井発車14:19。約30分の間があるので、奈良井川の川原に降りた。
晴れてはいるが、時折谷を渡る寒風が頬を刺す。透き通る深緑色の流れは速く、不気味な程の寂しさを感じさせた。
時間はゆっくり流れ、待ちくたびれた頃、冬枯れの川原の向こうにD51の白煙が見えた。

半戦時型煙室戸上部切欠きD51ー851[中]牽引の上り松本発名古屋行832レ


この時間帯は約1時間で上り列車ばかり3本が続く。旅客832レの後を追って重連の上り貨物が十数分後にくる。
風が吹き始めたので、煙で機関車が隠れないように川を渡って風上になる反対側の斜面から狙うことにした。
ドラフト音を響かせ、風に流されながらも迫力のある煙でD51重連がきた。上りも絶気はトンネルの中である。

D51-274[中]先頭の重連 上り貨物4652レ


上り貨物を追って上り2802D急行"赤倉"が続くが、奈良井15:36発の834Dに乗って藪原に戻るため先を急いだ。
国道の橋まで戻ってくると、交換待ちで藪原で長時間停車していた下り貨物列車が峠を下ってきた。
15時を過ぎたばかりというのに谷まで日が届かない。旧線のこの風景も見納め。最後の写真になった。

D51牽引の下り貨物691レ

1968.12 藪原・奈良井

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昭和40年代前半の鉄道写真(99・中央西線電化の記録㊳)

2016-03-26 | 昭和40年代の鉄道(中央線他)

中津川以北   鳥居峠の重連

昭和43年12月28日、藪原・奈良井間で撮影。
列車で移動して、鳥居峠の両側で上り勾配のD51を撮る計画。付近の山々が薄っすら雪化粧した頃であった。
3回目の鳥居峠、これが最後の撮影になった。今回は峠の薮原側、次回は奈良井側の写真を掲載する。

延長1673mの鳥居トンネルの抗口まで藪原側、奈良井側ともにほぼ等距離の2.5キロ前後で、藪原側が幾分長い。
双方とも20‰勾配、急曲線が連続するが、沿線の風情は大きく異なりそれぞれに趣があった。

中津川複線電化が開業した43年10月の大幅ダイヤ改正で、中央西線の運行状況も大きく変わった。
801D急行"きそ"2号に乗って名古屋から約2時間40分、藪原に10:18の到着。スキーシーズンの臨時停車であった。
特急"しなの"が運転を開始し、DC急行もスピードアップして木曽福島までの所要時間が10分短縮されていた。

峠に向かう道中は、翌年9月の新線開通を控えて複線化工事の最盛期にあり、先に行く程工事が進行していた。
街外れまで歩くと上り804D急行"きそ"2号が峠を下ってきた。宮ノ越で交換する下り特急”しなの”をここで待った。
工事の土盛りから藪原の街並みを展望、曇天の空から日が射した11時過ぎ、初撮影の特急が築堤を登ってきた。

キハ181系下り11D特急"しなの"


振り向いた先から峠に向けて複線化工事が本格化していた


あらかじめ計画していたポイントに辿り着くと、工事中で撮影不可能。断念して塩沢の谷を先に進んだ。
藪原から2キロ近く先に建設中の音無沢高架橋に到達した。急曲線を緩和した新複線はこの先新トンネルに向かう。
工事中の高架橋が入るのは好みでないが、時間切れでここで待った。後日見ると工事の様子が記録できたともいえる。

狙いは木曽福島から補機が付くD51重連牽引の下り貨物列車。11時45分過ぎ、藪原を通過する汽笛が聞こえる。
猛烈なドラフト音が谷に響き渡り、R300曲線を回り切った新雪の斜面から二筋の煙が姿を見せた。素晴らしい煙だ。

D51-862[木]、D51-792[中]の重連の下り貨物667レ






トンネルまで残すところ数百m、段々と速度が遅くなってくる。峠を目前にして最後の力闘が展開された。
先程まで寒さで震えていたシャッターを切る指が、今度は想像以上の大迫力に震える。
手前のケーブルは現像するまで気が付かず、後で大いに悔やんだが、他に立つ場所がなかったことも事実であった。





先頭の862号機は半戦時型煙室戸上部切欠きの変形ドームで長野工場式デフを装備


左側の新線と並走した後、右方向に分かれて切通しから鳥居トンネルに入る。トンネル内の上り勾配をしばらく行って絶気。





一旦引き上げて藪原に向かう途中、12時15分頃下り急行が坂を登ってきた。左側は新線の工事中である。

キハ91系下り803D急行"きそ"3号


この後、藪原12:45発下り松本行827レに乗車して鳥居峠を越え、峠の奈良井側で撮影した(次回掲載)。

奈良井発15:36の834Dで藪原に戻ってきた。約10分後、15:56に下り旅客が発車する。峠に向かい兎に角走った。
改めて撮影場所を探したが、工事の制約で結局は午前と同じ場所付近まで来た。やはりケーブルには気付いていない。

D51-266[中]牽引の下り長野行829レ


この先は工事現場と並走し、トンネル前は切通しを行くため撮影は困難


藪原の街並みまで戻った。旅客829レの通過待ちの下り貨物の藪原発車は16時10分頃、この日最後の撮影になる。
短い編成ながら200号機が喘ぎながら20‰を登ってきた。風が強いなかであったが、爆煙に満足して終了。
この頃は中央西線のD51全機が集煙装置を付けていた。臨時停車の16:35発上り806D急行"きそ"3号に乗って帰宅。

D51-200[中]牽引の下り貨物669レ



1968.12 藪原・奈良井

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昭和40年代前半の鉄道写真(98・中央西線電化の記録㊲)

2016-03-21 | 昭和40年代の鉄道(中央線他)

中津川以北  鳥居峠の残雪

藪原・奈良井間6.6キロの複線化は、鳥居トンネル藪原側坑口の手前から北側に複線トンネルを掘削して新線を建設した。
峠の奈良井側の急勾配、急曲線を解消しトンネルで街に直結。奈良井の約1キロ手前で旧線と合流した。
延長2157mの新トンネルは昭和44年夏に完成し、1673mの旧トンネルと旧線は廃止された。

奈良井側から旧線を辿ると、1キロ程で街並みから離れ、奈良井川に沿って左手にカーブして短い豊口トンネルを抜ける。
川を渡って左右にくねって1キロ以上進み、再び川を渡り鳥居トンネルに入る。20‰の上り勾配が約2.5キロ続いていた。

43年3月19日、原野・宮ノ越間から移動して、薮原・奈良井間、鳥居峠の奈良井側で撮影。
宮ノ越12:54発の松本行827レに乗り約20分で奈良井に到着。豊口トンネルの先で約半年ぶり2回目の鳥居峠を眺望した。
上り勾配を行く上り列車は後追いになるが、ここから見る風景は魅力があった。

先程、宮ノ越停車中に撮影した下り貨物列車がやってきた。残雪の斜面を背景にしてS字カーブを下ってくる。
既述したとおり、この時期の貨物列車のダイヤの記録がなく、列車番号及び運行状況が不明である。

D51ー902[木]牽引の下り貨物


国道を進み、奈良井で下り貨物と交換して13時45分頃にくる上り不定期急行"彩雲"を待つ。DD51単機の牽引であった。

DD51牽引の上り3812レ急行"彩雲" 7両編成で2両目に1等車を連結




上り急行"彩雲"と藪原で交換した下り2801D急行"赤倉"が峠を下ってくると、後はしばらく静寂の時間になる。
川原に降りて次の上り列車を待つ。奈良井発14:22の旅客列車が豊口トンネルを抜け黒煙を上げて20‰を登ってきた。

重油併燃装置、集煙装置付D51-245[中]牽引の上り松本発名古屋行830レ




いつまでも残る雪の壁、奈良井川に沿って峠を登っていく。



830レを奈良井で通過待ちして上り貨物列車が十数分後に発車する。国道をさらに先に進み撮影ポイントを探った。
少し気温が上がっていたのか、次のD51も黒煙できた。

この後、奈良井15:41発の明科からの上り842Dに乗車、中津川で途中下車してC12を撮影して帰った。

D51-430[木]牽引の上り貨物





1968.3 藪原・奈良井

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昭和40年代前半の鉄道写真(97・中央西線電化の記録㊱)

2016-03-19 | 昭和40年代の鉄道(中央線他)

中津川・塩尻間   真夏の鳥居峠

宮ノ越から藪原・奈良井と続く。いずれも旧中仙道の宿場町である。
藪原は木曽郡木祖村の中心地であり、高山への飛彈街道が中仙道から分岐する古くから交通の要衝であった。

奈良井駅は中央西線で標高が最も高い934m、藪原駅は924mにある。奈良井は平成の合併で塩尻市に編入された。
旧中仙道の最大の難所であった鳥居峠は木祖村と塩尻市の境界にあり、中央西線は鳥居トンネルで峠を越す。
奈良井から先は、木曽平沢・贄川・日出塩・洗馬と進み、約21キロで中央西線終着の塩尻に到達する。
なお、塩尻市の編入前の当時は奈良井から木曽十一宿の最北端の宿場の贄川までが楢川村であった。

奈良井以北の複線化は、43年に日出塩・洗馬間が完成、洗馬・塩尻間、贄川・日出塩間は50年代に完成した。
木曽平沢・贄川間の権現トンネルを複線構造で新設して付替えているが、奈良井から贄川間は複線化されなかった。
奈良井以北は撮影していないので、中央西線の電化の記録は鳥居峠までで終了する。

42年7月31日、薮原・奈良井間で撮影。
高校に進学後、興味を持っていた鳥居峠を訪れた。奈良井宿から旧中仙道沿いに峠に登って藪原宿に下ってきた。
木曽郡が未だ西筑摩郡と称されていた頃で5万分の1地図のみが頼りであった。列車の撮影は二の次である。

名古屋5:34発の長野行始発列車で奈良井に10:26到着。約5時間の長旅であった。この頃は随分時間を要していた。
中仙道を行く前に、列車で通り抜けた鳥居トンネルの坑口まで歩いた。この区間の複線化は次回以降記載する。

延長1673mの鳥居トンネルの奈良井側坑口 下りDC急行通過後で排気煙が残る


古びたレンガに鳥居隧道の銘版


道中、奈良井千軒と言われた宿場の街並みのはずれまで来ると新トンネル建設の工事現場が見えた。



44年の新トンネル完成により廃止された旧線は、鳥居トンネルを出ると奈良井川沿いに奈良井に向かっていた。
奈良井川は犀川、千曲川に合流、新潟県内で信濃川に名を変え日本海に至る。鳥居峠は木曽川、信濃川水系の分水嶺である。

鳥居トンネル上の旧国道19号線から奈良井方面を展望。

D51牽引の下り貨物 トンネルを出て奈良井川を渡り20‰を下っていく




キハ58系下り801D急行第1"しなの" 後部から


左側は国道19号線、中央は奈良井川


奈良井宿に引き返し古人の道を辿って標高1197mの峠を越えて、やっとのことで藪原側に下りてきた。
下り貨物が急勾配をきたが、築堤の下にいて撮影場所を選定できずに失敗。新トンネルを除いて複線化着工前であった。

D51牽引の下り貨物




藪原側も鳥居トンネルまで殆どが20‰の上り勾配である。結構歩いて、漸くよい撮影ポイントが見つかった。



下り列車のD51には時間が合わず、次のDC急行を照準にした。右手後方に藪原の街並みが展望できた。
前照灯を点灯したキハ58系がエンジン全開でゆっくり20‰を登ってくる。これがメインの写真になった。

キハ58系下り2801D急行"赤倉"


1967.7 藪原・奈良井

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昭和40年代前半の鉄道写真(96・中央西線電化の記録㉟)

2016-03-15 | 昭和40年代の鉄道(中央線他)

中津川以北   日義村

木曽福島から先、原野・宮ノ越・藪原と続く。宮ノ越、藪原は旧中仙道の宿場町である。
平成の合併で宮ノ越までが木曽町になったが、当時の原野、宮ノ越は日義村。振り返るにはこの地名がしっくりくる。
藪原は木曽町の合併に加わらなかった木祖村にある。木祖村は木曽川源流域にあり木曽の祖とされている。

木曽福島・原野間5.5キロの複線化は、3基のトンネルを掘削して上り線を建設、やや遅れて昭和45年に完成した。
宮ノ越・藪原間5.7キロは、村の境界にある山吹トンネルの北側に山吹山信号所を設置して工事が進められた。
同信号所・藪原間は41年、宮ノ越・同信号所間は43年に完成、各々1基のトンネルを掘削して下り線を建設した。

中間の原野・宮ノ越間2.8キロは、十二兼から倉本間と同様、複線化されず単線のまま今日に至っている。
明治時代、木曽福島に伸延した西線と宮ノ越が終点の東線を接続して中央本線が全通するまで残されていた区間である。

43年3月19日、原野・宮ノ越間で撮影。鳥居峠の奈良井側に向かう前、原野で下車して宮ノ腰まで歩いた。
なお、この時期の貨物ダイヤの記録がなく一部の列車番号及び運行状況が不明である。

名古屋5:42発の長野行始発列車で原野に9:54到着。最初の場所は不明確であるが、駅の木曽福島寄りのようである。
10時過ぎ、上り貨物が惰行で通過した。当時、次位の機関車は木曽福島機関区のデフ付C12の回送と思っていた。
改めて見てみると、どこから来たのかC11であった。

重油併燃装置、集煙装置付D51-249[中]牽引の上り貨物

1968.3 原野・木曽福島

原野に戻ると10:42発の上り気動車が停車していた。この列車は急行用車両で運用されていた。

キハ58系2連 上り塩尻発名古屋行840D

1968.3 原野駅

1キロ弱歩くと前方に宮ノ越宿に続く平野が展望できた。山が迫っていないので開放的であった。
11時になる頃、日溜まりの中を下りDC急行がやってきた。宮ノ越で交換して次に上り急行がくる。

キハ58系下り801D急行第1"しなの"




キハ58系上り804D急行第2"しなの"


この区間の上り勾配は13‰程度であるが、煙が一番期待できそうな場所を探した。
原野から1.5キロを超えた辺りのS字カーブで構える。本命の下り貨物は重連、手前まで待って撮影することにした。
11時半、曲線の先にD51が姿を見せた。投炭して絶好の黒煙を吐いているが、どこまで持つかが気がかりであった。

D51-119[木]、D51-793[木]の重連 下り貨物667レ




予定した位置で引き付けて撮ったが、本務機の煙に力がなく重連の迫力を欠いていた。





この区間は短いので余裕がある。ゆっくり歩いて正午前に宮ノ越付近に来た。あちらこちらの日陰に残雪が見られた。

キハ17の2連、下り明科行841D 原野発は11:51


12時20分頃、キハ91系の急行第2"しなの"が宮ノ越宿の街並みを見下ろして通過していった。
この日は大型タイフォンケースのキハ91ー1が先頭。91系は何度も撮ったが、先行試作車の先頭は初めてであった。

キハ91系下り803D急行第2"しなの"

1968.3  原野・宮ノ越

下り急行と交換待ちしていた上り貨物列車が宮ノ越を発車。

D51-787[木]牽引の上り貨物


不思議なことに、最後部に先程の下り貨物667レの重連の先頭であった119号機を連結していた。
宮ノ越、藪原のどちらかで解放され、回送のようであるが、運用は不明。トラブルが生じたのかもしれない。

D51-119[木]の回送


20分程経過した12時45分頃、木曽福島で上り貨物と交換した下り貨物列車が宮ノ越に到着した。

半戦時型カマボコドームD51-902[木]牽引の下り貨物 宮ノ越構内に進入


機関助士が石炭掻き寄せ作業


下り貨物の停車中、D51とDD51の重連で宮ノ越12:55発上り旅客列車が到着した。D51は回送と思われる。
この列車と交換して発車するDD51牽引の12:54発下り松本行827レに乗って奈良井に向かった。

D51-326[木]先頭にDD51重連の上り長野発名古屋行828レ

1968.3 宮ノ越駅

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