ヤンマ探索記

トンボの観察記録です。

タイトルはヤンマですが、トンボなら何でも撮ります。
勿論、ヤンマが優先です。

昭和40年代前半の鉄道写真(45・近鉄)

2015-03-19 | 昭和40年代の鉄道(近鉄)

<近鉄>エースカー

昭和36年、主要駅停車の乙特急増強用として10400系が登場。エースカーと呼称された。
ビスタカー貫通式と同じ前面形状であるが、非連接の20m車で停車駅の増加に対応するため客用扉が2ヵ所設置された。

モ10400の2両1編成が基本で大阪寄り奇数番車にパンタグラフ2基を設置、ク10500ともに各4両が製造された。
ク10500は増結用として1両あるいは2両を連結して運用され、ビスタカーの増結用としても使用されていた。

以下は40、41年撮影のエースカーの写真。

モ10400エースカー2連に後方が新エースカー3連の名古屋行乙特急

1965.6 桑名駅

増結のク10500の2連と後方モ10400の2連のエースカー上本町行乙特急

1966.3 大和八木駅 

新ビスタカーに増結されたク10500先頭の宇治山田行伊勢特急

1965.6  伊勢中川駅


<近鉄>新エースカー

38年、10400系の増備車として11400系が登場した。エースカーの改良形で新エースカーと称された。
本系で左右非対称の前面形状は姿を消し、冷房は集中方式から屋根上6基のユニットクーラーに変更された。

大阪寄りからク11500にモ11400の2連の3両編成が基本で、後者の奇数番車に2基のパンタグラフを設置。
一挙30両の製造後、40、44年に増備され、最終的にモ11400が30両、ク11500が15両となった。
44年製造車は制御付随車の3両で、12200系に準じたスタイルに変わりク11520形として区別されている。

新エースカー投入の38年に名阪間2時間13分運転を開始、国鉄特急の名古屋・大阪間の所要時間を1分短縮している。
近鉄には国鉄に対抗して名阪特急の所要時間短縮に相当拘ってきた歴史が見られ、遂にライバルを凌駕したことになる。
しかし、それも束の間。翌年に新幹線が開業して同じ土俵で戦えなくなったのは周知のとおりである。

新エースカーの登場で吊掛式駆動の特急車は置換えられ、40年の6431系を最後に姿を消すことになった。

以下は40年から42年撮影の新エースカーの写真。

左右非対称の前面形状が見られなくなったモ11400

1965.6 桑名駅

モ11400の4連の新エースカー名古屋行特急、後部から

1967.10 近鉄八田・伏屋

最後尾モ11400の新エースカー名古屋行特急

1967.3 松阪駅

新エースカーと40年の名古屋線沿線風景

1965.6 近鉄長島駅付近  

最後尾にク11500増結の4連新エースカー名古屋行特急

1966.3 伏屋・近鉄八田


<近鉄>スナックカー

42年、名阪特急の増発用にデザインを一新した車両、スナックカー12000系が登場した。
大出力180kwの主電動機を搭載、MT比1対1の編成にして新エースカーと同等の走行能力を備えていた。
大阪寄りからモ12000とク12100の2両1編成で、各10両が製造された。

新幹線開業によって国鉄と所要時間での対抗が非現実的になったことで、車内設備の充実を企図した車両である。
貫通式の幌にカバーを付け、前照灯を埋込式にしてグレードアップ感を高め、同時に特急マークの形状も変わった。
初めて回転式リクライニングシートを採用、この車両以降、近鉄特急の伝統であったシートラジオが廃止されている。
モ12000の運転台後方にスナックコーナーを設置して、車体にはスナックカーのロゴマークを付けていた。

名阪ノンストップ特急の乗客減により2連での運行が基本であり、2連の特急には一抹の寂しさを感じさせられた。
44年から大量製造される改良形12200系が12000系の技術を受継ぎ、その後の特急大増発に歴史を繋いだ。

以下は43年撮影のスナックカーの写真。殆ど撮影機会がなかった。

パンタグラフ1基のモ12000先頭の2連スナックカー上本町行ノンストップ特急

1968.2 近鉄長島・桑名

ク12100先頭の2連スナックカー名古屋行ノンストップ特急

1968 .8 伊勢朝日・益生

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昭和40年代前半の鉄道写真(44・近鉄)

2015-03-16 | 昭和40年代の鉄道(近鉄)

<近鉄>新ビスタカー

昭和34年12月、新ビスタカー10100系が営業運転を開始した。
名阪軌間統一後の目玉となる直通特急車として準備され、名古屋線標準軌化完成の翌月に早くもデビューしたのである。

大阪寄りからモ10100・サ10200・モ10300の3両2連接が1編成で、中間連接車が2階建で製造された。
4台の台車全てを電動にすることで、最高速度150km/h、33‰上り勾配を100Km/h以上で走行する能力を備えていた。
モ10100に2基のパンタグラフを設置。34、35年及び38年の3次に亘って18編成54両が量産されている。

編成には3パターンがあった。
A編成(01~05)は、大阪寄りが流線形で名古屋寄りは貫通式
B編成(06~10)は、大阪寄りが貫通式で名古屋寄りは流線形
C編成(11~18)は、両端が貫通式で、様々な組合せで運用された。( )内は改番後のもの。

旧ビスタカーから僅か1年で3両固定の設計に変更され、垢抜けたスタイルと特急表示板のデザインが目を引いた。
当時としては車内設備も正真正銘のデラックス車であり、登場後にいち早く乗車したい憧れの特急電車であった。
旧ビスタカーの特徴の4枚折戸は2枚折戸に変更されたが、近鉄特急伝統の公衆電話、シートラジオは受け継がれた。

写真は40年から43年にかけて撮影したもの。39年の新幹線開業後で名阪特急の乗客が激減した時期である。
したがって、当初基本であった6両編成での運行はまず見られず、3両編成の写真しかない。

流線形モ10100後部のA編成名古屋行特急

1968.2 桑名・近鉄長島

悲願の名阪直通運転といえども、36年3月の中川短絡線開通までは伊勢中川で停車して方向転換を余儀なくされた。
名実ともにノンストップ運転の開始は短絡線完成後である。当時は、名古屋・鶴橋間ノンストップを甲特急と称した。
甲特急の前面行先表示板は名阪であった。一方、主要駅停車の特急も設定され、乙特急と称していた。

流線形モ10100先頭のA編成上本町行名阪ノンストップ特急

1968.8 益生・伊勢朝日


1967.5 米野・黄金

流線形モ10300先頭のB編成の名古屋行伊勢特急


貫通式の前面は、客室からの展望のため車掌室側と中央窓が低く設置され、高運転台の窓と左右非対称の形状である。

上の写真の後部、貫通式モ10100

1967.3  松阪駅

先頭にエースカー3連増結のA編成名古屋行特急、後部から 

1967.3 伏屋・近鉄八田

42年12月に新装された名古屋駅新ホームにモ10300先頭のB編成到着

1968.2 名古屋駅

高床運転台、曲面ガラスの独特の流線形前頭部

1968.8 名古屋駅

増備最終の38年はC編成のみ2編成が製造された。1、2次車のA、B編成は各5編成で、C編成は8編成になった。

貫通式モ10100後部のC編成名古屋行名阪ノンストップ特急 右奥は関西線八田駅

1967.10 伏屋・近鉄八田

貫通式モ10100後部のC編成名古屋行特急

1965.6 桑名・近鉄長島

モ10300先頭のC編成名古屋行特急

1967.10 伏屋・近鉄八田

伊勢中川駅大阪方面ホームのモ10100先頭上本町行伊勢特急

1965.7 伊勢中川駅

伊勢中川駅は、名古屋線狭軌時代に大阪、伊勢の双方向にホーム上で相互乗換えする便宜が図られていた。

中央の名古屋線ホームのモ10300先頭名古屋行伊勢特急 かつての狭軌線のホーム

1965.7 伊勢中川駅

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昭和40年代前半の鉄道写真(43・ 近鉄)

2015-03-14 | 昭和40年代の鉄道(近鉄)

<近鉄>最後の吊掛駆動式特急電車 

昭和33年、旧ビスタカーのデビューに合わせ、当時は狭軌であった名古屋線用の特急車として6431系が登場した。
名古屋線の標準軌化が進行中であったために高性能車は投入されず、近鉄最後になる吊掛駆動車が新造された。

31年の四日市付近の路線変更により急曲線が解消されたことによる名古屋線としては初めての20m大形車であった。
シールドビームは採用せず、制御付随車の前照灯が集中式クーラーの屋根上ダクトに組込まれた独特の形状である。
モ6431形、ク6581形の2連、2編成のみが製造された。

投入時は、所期の目的の名阪連絡のため伊勢中川で標準軌の旧ビスタカーと接続するダイヤが組まれたようである。
34年の名古屋線改軌後は、名古屋からの伊勢特急として運用され、撮影した40年頃は4両1編成であった。

写真は40年7月の伊勢中川駅。先代の6421系特急はすでに引退後で、10月に一般車に格下げされる直前である。
6431系特急は、当時撮影が可能な特急電車のなかで旧ビスタカーと並ぶ最優先の存在であった。

ク6581先頭の宇治山田発名古屋行特急


2窓1組の側面窓が目新しく、座席は全席転換クロスシート


名古屋寄からク6581、モ6431、ク6582、モ6432の4両編成

1965.7 伊勢中川駅

近鉄名古屋駅は、13年、関西急行電鉄名古屋駅として開業した地下駅である。歴史を紐解くと名鉄新名古屋駅より古い。
42年12月、2面3線から4面5線に拡張、改装されているが、以前の駅はピンク色に塗られた壁が印象的であった。
当時は、特急発車前に椰子の実のメロディ―が流れてからブザーが鳴った。懐かしい光景が思い浮かぶ。

発車待ちの宇治山田行特急

1965.7 名古屋駅

以下、一般車に格下げ後の写真である。中央に両開扉を設け3扉、ロングシート化され、マルーンレッドに塗替えられた。
しばらくは冷房装置付のまま運用され、特急以外に冷房付車両がない時代において運よく乗れた人に喜ばれていた。

宇治山田行普通2連のク6581

1966.5 桑名駅

2灯シールドビーム化前のモ6431先頭の普通2連

1968.1 近鉄八田・伏屋


名古屋線の標準軌化工事とその最大の難関であった木曽三川の橋梁新設について記しておく。

35年に標準軌完成の計画で工事進捗の途上であった34年9月、超大型の伊勢湾台風が愛知、三重県を襲った。
とりわけ愛知県西部のゼロメートル地帯はじめとする水没による被害が甚大であり、近鉄沿線に多大な影響を及ぼした。

近鉄は復旧と改軌工事を同時に行うことを決断、34年11月中に標準軌化を一気に完成させたという伝説がある。
その実現は木曽三川の橋梁が幸い台風前に落成していたからこそであり、木曽川橋梁に至っては上陸の当日に落成した。

狭軌時代の木曽川橋梁及び揖斐・長良川橋梁は、明治27年に旧関西鉄道が建設した英国製の旧式の橋梁であった。
鉄道省から伊勢電気鉄道が払下げを受け、13年の桑名・名古屋間の開通時に関西急行電鉄が整備して使用を再開した。
その後、近鉄に引き継がれて標準軌化に伴う新橋梁建設まで単線で使用されていた歴史がある。

以下は旧橋梁が見られる写真。再利用が検討されたため42年まで解体されず、約7年間残っていた。

桑名側から関西線木曽川橋梁を望む 右は現近鉄線、左が廃線後の旧近鉄橋梁864m


桑名側から近鉄揖斐・長良川橋梁を望む 奥が廃線後の旧橋梁992m

1966.5

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昭和40年代前半の鉄道写真(42・ 近鉄)

2015-03-11 | 昭和40年代の鉄道(近鉄)

<近鉄>旧ビスタカー

昭和40年から44年に撮影した近鉄電車の記録を、<近鉄>として形式別に掲載する。

鉄道写真を始めた原点は、少年時代に一番魅力を感じていた近鉄特急を何としても撮りたかったことにある。
初回は、最優先で撮影したかった旧ビスタカー。撮影時はデビューしてから約10年が経過していた。

昭和33年、初代ビスタカー10000系が運行開始した。国鉄のビジネス特急こだまが登場した年である。
カルダン駆動方式、空気バネ台車、軽量構造の高性能車で、電車では世界初となる2階建車両を連結した。

大阪寄りからモ10001・02・ク03・サ04・ク05・モ06・07の7両固定で1編成のみの製造。
翌年の34年から量産される新ビスタカーの試作車であり、当時は旧ビスタカーと呼ばれていた。

2灯シールドビーム採用の流線形で高床運転台の先頭車は、日本の電車とは思えない独特のスタイルである。
オレンジとダークブルーのツートンカラーは、以後、近鉄特急車の塗色とされて歴史を重ねることになった。
当初の塗分けは側面窓回りがオレンジであったが、撮影時は新ビスタカーに合わせて塗替え後の姿である。

撮影当時は伊勢路号のマークをつけていた

1968.7 上本町駅

旧ビスタカーは、33年7月、上本町・宇治山田間2往復に投入されて運行を開始、46年に廃車された。
後述する名古屋線改軌後も同線では運行されず、名古屋在住の当時は伊勢中川の先まで行かないと出会えなかった。
容易に行くことはできず、初撮影は42年3月の松阪駅であった。

モ10001先頭の上本町行7両編成

1967.3 松阪駅

モ10001先頭の上本町行5両編成

1967.4 松阪駅

内蔵した空調装置で運転台上部が盛上がった形状、車体軽量化の一環で4枚折戸を採用
 

複層ガラスを使用した大型の固定窓、室内は回転式クロスシート

1967.3 松阪駅

基本7両固定編成ではあるが、乗客数によって2両を外した5両の短縮編成でも運行されていた。

最後尾が中間車ク10005の上本町行5両編成

1967.4 松阪駅

中間3両のク03・サ04・ク05は3両2連接で両端が2階建、中央扉のあるサ04に集中式冷房装置を搭載

1969.1 松阪駅

2階部分は屋根上にドームが突出した形状

1967.3 松阪駅

41年11月12日、大阪線河内国分駅で待避中の準急に上本町発宇治山田行特急が追突する痛ましい事故が発生した。
名古屋の夕刊のトップで大きく新聞報道され、報道写真を見て事故車が1編成のみの旧ビスタカーであることを知った。

念願の旧ビスタカーの写真を撮る前の出来事である。伊勢方面への先頭車モ10007の前面はこの事故で大破した。
したがって撮影時は、当時登場した18200系に似た貫通式に大幅改造後である。

改造後のモ10007が最後尾の上本町行7両編成

1967.3 松阪駅

モ07の4枚折戸は廃止


2基の冷房装置が取付けられた先頭車と次位車のダクト連結部

1968.7 上本町駅

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昭和40年代前半の鉄道写真(41)

2015-03-08 | 昭和40年代の鉄道(その他国鉄)

名古屋近郊のタンク機関車C11

昭和40年代前半、C11が名古屋近郊の樽見線、武豊線の貨物列車を牽引していた。

C11は支線区の旅客列車用として7年から22年にかけて製造された小型のタンク式蒸気機関車である。
タンク式では最多の381両が製造され、貨物、入換用にも使用された。

43年5月、大垣駅での写真。樽見線は47年に無煙化された。現在は第三セクターの樽見鉄道になっている。

大垣電車区所属のC11-154牽引の樽見線貨物列車が出発




大垣到着の樽見線普通気動車    時代を感じさせるキハ07を連結した2両編成

1968.5 大垣駅

41年10月、名古屋駅ホームでの写真。
武豊線の貨物列車は名古屋機関区のC11が牽引していたので、東海道線を単機回送するC11を時折見かけた。
武豊線の旅客列車は早くも33年に気動車化されていたが、同線の無煙化は45年であった。

武豊線用名古屋機関区のC11-219 



1966.10 名古屋駅

東海道線上りを行く武豊線の普通気動車 キハ35系2連の前方はキハ17

1965.10 東海道線 熱田・名古屋

42年3月、高山線の車窓から撮影した写真。当時、猪谷・富山間でC11が運行されていた。

富山機関区のC11-268 戦時設計の4次車(247~381)で角形のドームと砂箱

1967.3 高山線 猪谷・富山間(駅不詳)

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