『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

四季折々281  さっぽろ雪まつり3

2014-02-13 16:03:12 | まち歩き

大通公園2丁目には氷の広場が作られている。その中心はハートの宮殿。

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ハートの宮殿。ハートというよりアンデルセンの雪の女王の氷の宮殿のようだ。

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ハートの妖精たち。いまにも動きそう。

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ハートの妖精たち。

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寂しいひな人形。

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氷像の横でエレクトーンの演奏。

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氷の喫煙所。こんな寒い所でも煙草を吸いたいのだろうか。煙草の煙で氷が汚れる。

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読書感想114   天、共に在り

2014-02-13 15:19:55 | 時事・歴史書

 

読書感想114   天、共に在り<o:p></o:p>

 

        -アフガニスタン30年の闘いー<o:p></o:p>

 

著者      中村哲<o:p></o:p>

 

出身地     福岡県<o:p></o:p>

 

生年      1946<o:p></o:p>

 

受賞歴     マグサイサイ賞「平和と国際理解部門」、福岡アジア文化賞大賞、菊池寛賞など<o:p></o:p>

 

出版年     201310<o:p></o:p>

 

出版社     NHK出版<o:p></o:p>

 

本書内容    NHK20066月~7月に放送された「アフガニスタン・命の水を求めて」に大幅に加筆したもの<o:p></o:p>

 

感想<o:p></o:p>

 

 本書の内容を帯紙から抜粋すると下記のようになる。<o:p></o:p>

 

 1946年福岡県生まれ。医師・PMS(平和医療団・日本)<o:p></o:p>

 

院長。九州大学医学部卒業。日本国内の診療所勤務を経て、<o:p></o:p>

 

84年にパキスタンのペシャワールに赴任。以来、ハンセン<o:p></o:p>

 

病を中心とした貧困層の診療に携わる。86年よりアフガニ<o:p></o:p>

 

スタン難民のための医療チームを結成し、山岳無医地区で<o:p></o:p>

 

の診療を開始。91年よりアフガニスタン東部山岳地帯に3<o:p></o:p>

 

つの診療所を開設し、98年には基地病院PMSを設立。2000<o:p></o:p>

 

年からは診療活動と同時に、大旱魃に見舞われたアフガニ<o:p></o:p>

 

スタン国内の水源確保のために井戸掘削とカレーズ(地下<o:p></o:p>

 

水路)の復旧を行う。03年より09年にかけて全長25キロ<o:p></o:p>

 

メートルにも及ぶ灌漑用水路を建設。現在も砂嵐や洪水と<o:p></o:p>

 

闘いながら砂漠開拓を進める。<o:p></o:p>

 

 著者はハンセン病の患者の診療から、アフガニスタンの農業の再生こそが、アフガニスタン人を救う唯一の道と考えるようになり、「100の診療所よりも一本の用水路」の建設に向かったのである。全くの素人だった著者が用水路建設の参考にしたものが江戸から明治にかけての日本の治水技術であった。護岸工事では、物資のないなかで天然の素材を使って現地の人々にも修復しやすい蛇籠工と柳枝工を採用した。ワイヤーの中に石を入れて積み上げ、柳を籠の背面に多数植えるのである。また洪水を繰り返す大河クナール河からの取水には、暴れ川の筑後川の山田堰を参考に堰板方式を採用し、堰板によって取水量の調節をはかったのである。また、所々に沈砂池を作ることで、濁り水を澄んだ水に転換。用水路の水の30パーセントは用水路外に抜けて行きそれが緑の沃土を作る。2013年6月時点で用水路ぞいの植樹は75万本に達し、5千町歩が灌漑された。旱魃の故郷を捨てたアフガニスタンの人々が戻ってきて、水稲の作付面積も爆発的に増大しつつある。

 ペシャワールの会(PMSの活動を支援する目的で結成された)に寄せられた6億円の寄付金からこの用水路建設が始まった。しかし2010ODA(政府開発援助)との共同事業になることで、用水路事業は新たな段階に入った。将来の目標は16500町歩の耕地復活と65万人の農民の生活安定を目指している。<o:p></o:p>

 

 ここに至るまでの用水路建設に対するアフガニスタンの人々の献身的で必死な姿が印象的だ。砂漠の50℃を越える猛暑の中で熱射病で倒れる人が続出しながらも作業の手を休めない400人の作業員。工事のすべてにすぐさま熟練していく作業員。それが2008年に試験農場で働く日本人ワーカー、伊藤和也さんが誘拐殺害され、治安の悪化から20人ほどいた日本人ワーカーの撤収が決まった時の現地の人々の落胆ぶり。新しく再建される村に国際的には「タリバンの温床」と見なされ米軍の空爆の標的にされかねない、モスクとマサドラ(伝統的な教育設備)を建設した時、「これで俺達は自由になったんだ」という喜びの声。「パシュトゥンの掟」が支配し「目には目を、歯には歯を」の復讐法と客人歓待が生きるアフガニスタン。2011年に伊藤和也さんを誘拐殺害した武装グループは、宿泊していた村の住民の通報によって、米軍が攻撃して殺された。アフガニスタンらしい幕切れだ。<o:p></o:p>

 

 写真や図がたくさん掲載されている。護岸工事や取水堰、モスクやマサドラのなんたるかが分かるようになっている。この事業は著者の強い意志があってこそ可能になったことは確かだが、アフガニスタンの人々の強い生きたいという思いと情熱によって素晴しい成功を生み出したのだと思う。いつかアフガニスタン観光が可能になる日がきたら、この砂漠の中の用水路の岸辺を歩いてみたい。著者と比べてなんとヘタレな私か!<o:p></o:p>

 

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