読書感想115 依田勉三の生涯<o:p></o:p>
著者 松山善三<o:p></o:p>
生年 1925年<o:p></o:p>
出身地 神戸生まれの横浜育ち<o:p></o:p>
初出版 1979年<o:p></o:p>
再出版 2012年<o:p></o:p>
出版社 (株)ハースト婦人画報社<o:p></o:p>
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感想<o:p></o:p>
六花亭の銘菓は十勝土産というより北海道土産の定番になっている。その六花亭の銘菓の中に、一つ鍋という銘菓があった。そこには依田勉三の「開墾のはじめは豚と一つ鍋」という俳句が添えられていた。それが依田勉三の名前を知った初めだった。もう15年以上前のことだ。<o:p></o:p>
本書は、その依田勉三の生涯の中で、特に北海道の十勝原野に入植した3年間の苦闘を小説形式で描いている。<o:p></o:p>
依田勉三はペリーが黒船を率いて来航した1853年に生まれ、1925年(大正14年)に帯広で亡くなった。実家は伊豆で代々続く地主で、明治に入ってからは長兄が銀行を経営したり学校を創設したりする素封家だった。依田勉三は北海道を見て歩き、大草原が広がり、名も知らぬ草花で埋め尽くされる十勝原野に魅了される。そして長兄の支援を受けて晩成社を設立し、十勝原野の開拓に向かったのは1883年(明治16年)だった。資本金5万円の晩成社は15年で土地開墾耕作放牧を終え、独立自営の農家を育成するという趣旨の下に設立された。依田勉三は「開拓済民」を天職とした二宮尊徳に傾倒しており、自らも北海道の地でその志を果さんとした。<o:p></o:p>
しかし、北海道の現実は依田勉三の予想をはるかに超えるものだった。依田勉三の計算違いは初めからだった。まず札幌県庁が十勝原野の土地の払い下げを認めない。殿様バッタの大量発生地であり、農業に適さないというのだ。そして伊豆から共に入植する人数が少なく、13戸27人に過ぎず、篤農家の優秀な農民を二人しか同伴できない。現在の帯広の地で開墾を始めたが、十勝川河口の大津(現豊頃町)までの道路がない。十勝集冶監に送られてきた囚人の力で道ができるのは10年後である。鉄道は24年後である。1年目は糠蚊の大量発生、そして殿様バッタの大量襲来で作物が壊滅状態になる。原野の開墾は困難を極め、2年間で5町歩にも達しない。土地の払い下げも認められず、依田勉三のやり方に不満をもって離反者続出で、3年目には3戸しか残らない。そんな時長兄が晩成社の存続か解散かを決めるために視察にやってくる。<o:p></o:p>
勉三は開墾、牧畜、澱粉工場、亜麻工場、木工場、宅地造成、食肉販売から畜産会社、缶詰工場、乳業、ハム製造、椎茸栽培、養蚕、水田など、あらゆる事業を起こしたが、晩成社は勉三の死後莫大な負債を抱えて倒産した。出資者への配当も遂になく、すべての水田、畑地、牧場は、自作農への開放と借財の返済に充てられた。<o:p></o:p>
勉三は、死の間際、中風症に苦しみながら、「晩成社には何も残らなかった。…しかし、十勝野は…」と、最後の言葉を残して逝った。<o:p></o:p>
晩成社は倒産したが、今の十勝の発展は依田勉三に負うところが大きい。この土地を離れようという仲間の言葉にも札幌県庁の言葉にも耳を貸さず、十勝の豊かな沃土の可能性に賭けた勉三の先見の明は素晴しい。しかし道路が開通してから入植していたら、もう少し北海道の風土と作物を調べ、農耕馬を準備して入植していたらと思わざるをえない。無謀な入植だし、意地だけで頑張った感じだ。気骨のある明治の人、依田勉三は「開拓済民」の志を貫いた。今の人にはまねのできない筋を通した一生だ。
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