翻訳 朴ワンソの「裸木」66
231頁2行目~234頁
少しの悲しみも伴わないまま、純粋にただ泣いた果てに、私は柔らかい絨毯の上で意識が薄れて熟睡してしまった。
その後、私は母の病状を見守るよりは銀杏の木の下で多くの時間を過ごした。
どんなにこぼれても尽きる日がないように、豊富だった黄金色の衣装も、徐々に薄くなっていった。私は分厚い絨毯の上に横たわり、まばらな黄色い葉の間に青い空を心ゆくまで眺めた。私はその時間が好きだった。何よりも生きていることが、少しも気がねなく良かった。
その日以後、私は母をできるだけ避けた。母を見ると生きていることが申し訳なく、ひとりでに体が縮こまって、かろうじて母から避難するのが銀杏の木の下だった。我知らず銀杏の木の下で一日一日母に対する憎しみを育てていた。
少しでも母を、今の私が悲惨なぐらい、ただ悲惨にしてやりたかった。
〈お前までどうにかなって見なさい。お前のお母さんの身の上はどうなるの〉伯母がはっきりそういっただろう。母を他人が気の毒に感じるようにしてやらねば。息子なんていない、娘もいない気の毒な女性にしてやらなければ。
死にたい。死にたい。でも銀杏の木はあまりにもきれいに色づいて、空はどうしてあんなに青く、この庭の空気は泉の水のように澄んでいるのか。生きたい。死にたい。生きたい。死にたい。
ふいに戦争でももう一度襲ってきたらなあと思った。兄達が死んだ後も、私の人生があるということには耐えられても、私が死んだ後も他人の人生があるということには耐えられなかった。再び戦争が押し寄せてきたら、今の私は戦争によって助けられるのではないか?
こうして始まった私の戦争に対する渇望は、一日一日その熱を増していった。戦争が終わることなく繰り返されたなら。
しかし、戦争であれば、思い浮かべる赤い血と若い肉体の無残な破片、私はその部分は忘却しようと、首を狂ったように振って、落葉の上に寝転がった。私は毎日のようにこのふわふわした落葉の上で体を動かし、落葉は一日一日分厚く積もって私を柔らかく包んだ。
母は私の介護がなくても徐々に回復していくようだった。正確に言うと母の身体の機能が過去の習慣を取り戻し始めたのだ。
ふいに拭き掃除をして、ふいに舌音や歯茎音を出した。相変わらず、何の意味も込めないぼうっとした目をしたまま、簡単に尋ねた言葉に返事もした。母を始めて見た人であれば、ちょっと口数の少ない間抜けなだけの正常な老人と感じるほどだった。
本家のお使いの子供も帰って本家の家族の訪問も途絶えた。家の中の暮らしが再び母の所に戻ってきて、私は仕方なく常に母と目を合わせなければならなかった。その度に私は母のぼっとした目に恐怖と憎悪を同時に感じた。
私はぶつぶつ言い訳じみた声を出した。すぐにまた戦乱が起きるのだろうか、また戦乱が起きれば今度は生き残る人がいないのだろうか。私は、こうして自分が生きていることが心苦しく、浅ましい言い訳を増やしておかなければならなかった。
時には兄達の友達が立ち寄ることもあった。彼らは兄達の死が信じられないように、不器用な弔意を表して行った。実際彼らの年に友達の死に弔意を表すことに巧みな人がいたら異常だ。
私は、母のぼうっとした目から、そんな彼らの若さと生命を覆ってやりたかった。それで彼らが立ち寄ると、いつも言うことがあった。
「まだ戦乱が終わったのではないしね。たやすく終わらないって。私達もおそらく生き残ることはできないわよ」
こんな用心深い、少し怖気づいたような呟きも、度重なるに従って、だんだん自信と荒々しさを増していった。いつの間にか私は母のために始めた望みを、相当切実な自分自身の望みにしていった。
母の目に再びどんな思いも込められることはなかった。ぼうっとした目がただ死ねず生きているだけだと語っているように、生命を断てる人より一層確実に生きることを拒否していた。
破竹の勢いで統一と戦勝に終わるだろうと思われていた戦乱に、中共軍が加わった。連合軍の後退が再び始まった。ソウルは再び落ち着かなくなり、怒りに歯軋りしながら、避難の荷物を取りまとめた。再び戦争が頭の上に迫っていた。私が予言したとおり。
私は母のぼうっとした目が一層執拗に私を追いかけていると思った。その目がなすすべもなくじっと私にこの戦争の辛酸をなめるように強いるようだった。
私は母にわからないように避難の荷物をまとめてからほどいて、ほどいてはまたまとめた。それは避難をするかしないかより、はるかに複雑で切実な私のあがきの一部だった。
私はとうに、自分の葛藤を心ゆくまで放り出して、寝転べるふわふわした落葉の堆積を喪失していた。季節はもうすでに晩秋に差し掛かり、私の血の色の追憶を取り込む銀杏の木の葉は、くすんで色が落ちたまま、風に飛ばされ塀の下に汚らしいごみの堆積を作っていた。
私は毎日戦争が直ちに首筋を殴ってくるような恐怖と、戦争が行ったりきたりして、人々がたまらなくなると熱を帯びる風に引き裂かれながら、避難の荷物を包んだり解いたりした。
もうすでにこんな矛盾は母の呪詛も血の色の追憶のせいだけではなく、そのまま私のことだった。
私はもう血の色も、〈どうして女の子だけ生き残ったのか〉と言った母の嘆息も完全に忘却できなかったから。それは今では腐って行く落葉のことであり、私のことではなかった。
こうして私は根を喪失したまま、たくさんの矛盾だけを譲り受け、その矛盾が私を引き裂き私に一切を委ねていた。
あるとても寒い日、わずかの家族と避難の荷物が載せられた大型トラックの上に母と私はさながら避難の荷物のように無力に積みこまれた。本家では私達を避難に同行させることを義務と思い、私は勝てないふりで受け入れた。私達は釜山に梱包された荷物のように下ろされた。
本家の家族と混ざってにぎやかな生活が始まった。私は徐々に母を避けた。実際は、二人っきりで向き合うほどのひっそりした時間もない生活だったが、目と目があえば、しゃべりまくっていた言い訳の種を失ってしまうので、母がひとしお恐ろしく気がかりになった。
〈そろそろ戦乱がまた起こるって〉という私の言葉で、今度戦乱が起これば、私達は生き残るのか、私もすぐに死ぬだろうという予想だったが、戦乱を避けて逃げてきているので、どんな顔で母を見られるのだろうか。
始めの数日の間は英文がわからず、戸惑って従順だった母が意外にもしつこくソウルへ送ってくれ、家を空けておくことができないとせがみ始めた。ソウルが行けない土地であることを、誰も納得させられなかった。戦乱も中共軍も母には少しもたいしたことではなかった。母には片方の屋根が吹っ飛んだ古家だけがすべてだった。母はソウルの古家に執着して一日一日とやせ細っていった。
ソウルが失地回復されるや、チンイ兄さんの斡旋で私達はどすんどすんと空っぽのソウルにまず帰った。