読書感想 朴ワンソの「裸木」56
188頁2行目~192頁1行目
しかし私はその翌日も彼を待った。商売にはさほど気が入らないまま、いろいろな軍服の間に彼を探し出すこともできず待った。確かにくるはずだとわかっていた。彼は昨日ペーパーブックを置いていったのだ。私達は半分ぐらいもう一度会える口実を持っているのだ。
私は時々彼をもう一度会いたいと思いながら、一方では彼のなめるような飢えと渇きの混じった視線が、粘液質のねばねばした液体のように私の体の様々な部分にくっついているような不快さも感じた。
彼を回想することはこのように単純ではなくて、それだけ私の感情の処理も明確にできなかった。自分の感情の処理が明確にできない時に味わっているいらだちを、彼を待っている時にはわからなかった。
彼に対する期待は、私が味わったどんな期待とも違う粘液質のねばねばしたものだった。私もいつのまにか彼から汚染されていたのかもしれないのだ。
「シーバル」
絵描きの金さんがスカーフを一つにまとめて横へ詰め込むと伸びをした。彼は今日2枚スカーフを駄目にした。
「インソカ、どういうことだい? 何か食べられないものでも食べて出てきたのかい?」
「シーバル。朝から女房がついてなくてがみがみ言い続けるので、全く手の中に力が入らなくてね」
「俺も同じだ。明日、明後日は旧正月じゃないかい? そうなら一層勤勉に描いて雑煮も食べてかみさんにベルベットのスカート(チマ)でも仕立ててやらなきゃ」
銭さんの口ぶりが気難しくなった。私はぐっとオクヒドさんの空席を意識した。
彼は自分が画家であることを証明するために5人の子供を飢えさせてもいいというのか? 元旦に雑煮も作ってやれずに。そしてあの首の長い女性があのみすぼらしい軍服を脱いで、ベルベットではなくても少しだけまともな女性の衣装をひっかければ、どれほど引き立って見えることか、想像したことがあるのか? 彼があのように切実に追求しなければならないことは、一体全体何なのか? 彼の薄情さが嗚咽のように突き上げた。
私がそのべたべたしたヤンキーを待つ焦燥感もすべてオクヒドさんのせいだと感じられた。何かをしでかしたいということも、すべて彼のせいなのだ。彼の温かい視線が守ってくれれば、どんなにか私は善良になることもできるのだけど。彼はそれを拒んで自分だけのものを持とうとしている。彼に見せるためでも私は何かをしでかしてしまうだろう。
私は誰も受けとめるはずのない無分別な横車を押していた。
ジョーは最後まで来ないので、私はまだ彼が来てくれる口実になるはずのペーパーブックを抽斗の底深く閉まって退社した。
「お姉さん、ちょっと手伝って」
ミスキが後ろから私を呼んで立ちあがった。
「何?」
「ちょっと私と居酒屋に行ってくれない」
「この子は次々ととんでもないことを言うのね」
「お姉さん、私がまさかマッコリを飲ませると案じているの? ピンデトック(お好み焼きのようなもの)を何切れか買いましょう。純緑豆お焼きね」
「それがそんなに食べたいの?」
「ううん。お母さんが好きなのよ。最近重い風邪にかかってしまったので、てんで食事が摂れなくて、今日それでも買ってあげようかと思って。主人のおじさんが純緑豆に豚肉も十分に入れて焼くお店がわかっていたけれど、一人で行くのはちょっと怖くて」
「そうだね」
気持ちが和やかで、温かい息に彼女と一緒に私もピンデトックを買うような予感がした。母もピンデトックが好きだった。
台所のようなところで、決してつまみ食いをしない母が陰暦の12月の大晦日のころピンデトックを焼く時は、ピンデトックは熱々なうちに食べなければ、自分の味がでないのに、まず一番に焼いたものを前もって男に勧めることもせず、酢醤油につけて目をやや細く開けて、味見をした姿がありありと目に浮かんだ。
明洞にこんな路地があったかなと思うほどひっそりして狭い裏道を、ミスキが先頭で案内して行った。狭いけれど香ばしい匂いと騒音で活気を帯びていた。
「このお店よ、間違いなく」
ミスキがガラス戸もないみすぼらしい板切れの戸が取り付けてあるお店を指した。
戸は穏やかに開いた。その中は温かいが明るくない電灯は煙なのか湯気なのか、すっかり立ち込めて白っぽく曇って見えた。
男達が酒を飲む光景が気がかりでないことはなかったが、私達は意識的に酒飲みの方に目を向けず、まっすぐおかみさんの方に歩いて行った。大きい鉄鍋から自分の作品にでもなるピンデトックと黄色い脂肪の塊りが一度にじりじり焼けていた。大きな釜の蓋くらいの大きい鉄鍋だった。
民謡まで混ざった騒ぎ、飲食と酒と人々の濃い臭いで私はのぼせた。
「おばさん、温かいものをください。できるだけ焼き立てで」
ミスキが5切れを買うので、私も5切れつられて買った。私達は追われるように居酒屋を出て、ヒューとため息をついて向き合って笑った。
わりあいにものすごい経験でもしたように誇らしくさえあった。
歩く間ピンデトックに手を焼いて負担になった。私はそれを買ったことをことごとくミスキのせいにして癇癪を起した。私のこんな気配をわかるはずもない彼女は、オーバーを持ち上げると胸にピンデトックを抱えた。
「この子は。服に臭いがついて冷たい」
「大丈夫。ピンデトックは冷めればもちろん不味いんだって」
彼女と別れてしまっても、私は5切れのピンデトックに手を焼いていた。それは私の手の中でだんだん温かい感じを失っていった。
ある街角でついに私はオーバーを持ち上げて、ゆっくりとセーターまで引き上げて、それを私の上に載せてセーターとオーバーを直して両手で抱えた。
「あの娘のせいでつまらないものを買ってきて、この苦労だわ」
私はまだそれを買ったことをミスキのせいにしていた。しかし、家が近くなればなるほど、私は突飛な期待をしていた。母のぼんやりした目にひょっとすると感情がこもるようにできるかもという望みだった。
私は母を騒がしく呼びながら門をがたがた叩いた。胸が温かかった。まだ冷めないピンデトックのおかげだった。私は片手で母の手を掴んで、もう一方の手では膨らんだ胸を抱いて、いつもより母に体を密着させた。
「お母さん。何か匂わない? いい匂い、当てて、ふんふん」
「匂い?」
母は元気なく返事をして、乾いた木の枝のような手は決して私の手を取ろうとしなかった。
私は石段に立ち、母はかすかな電灯がぶらさがった台所へ入って行った。
「お母さん、ピンデトック」
私はだしぬけにそれを突き出した。
「冷める前に食べてください。冷めそうで胸に抱えてきたの」
今度こそ母の目つきに何か意味がこもらないかと期待しながら注視した。母は元気なく受け取って、習慣化した他のことを始めた。スープを温めて膳にさじと箸と食器を載せて。母の目は決して他の意味を表さなかった。死ねずに生きているだけだという頑強な意地以外には。私はピンデトックを買ったことを後悔した。胸に抱えて来たことも。
特に私が言った後の言葉、「冷めそうで胸に抱えてきたの」を後悔した。物であれば奪い取りたいほど、その言葉を返してほしかった。
- 続 -