職業作家として生活して、いつの間にか20年が過ぎた。その年の朴正煕の命日に当選通知を受け取って、2日目に学校に辞表を出しすぐに職業作家の道へ進んだから歳月が本当にたくさん流れたわけだ。でも物理的に20年の歳月だと言うことが、僕の意識では20余日ぐらいにしか感じられないのだ。小説を書き始めてから僕には時間が流れていなかったからだ。それだけではなく、すべてが包み込まれた時空に僕が留まっていたからだ。過去と現在と未来が共にある空間で僕は小説ではなく、僕自身を読んで書くことを繰り返している。文学が世の中の全部だと信じていた、溢れるばかりの情熱も盲信も捨てて、今では文学を一つの道具として受け入れている。文学はただ人と人生を耕すのに必要な1本の鍬と同じようなものだ。それに縛られて他の何も眼中になかった若い日の情熱を、今では穏やかに笑いながら振り返り、小説と友達のように暮らしている。無理に書こうとせず、自然に作りたいということが今では僕の執筆のやり方になったのだ。<o:p></o:p>
僕が初めて文筆家を目指そうと思ったのは小学校5年生の冬休みだった。母が肋膜炎で入院していた病院2階の手すりのところに立って、日が沈む西の方を眺めて漠然とそんなことを考えた。それから40年近くの歳月が流れる間、僕はただひとすじ「文」というテーマ一つを心に抱えて世の中を生きてきた。外の分野については無知で不足しているだけだが、それでも文を通して世間と宇宙の道理を悟ろうと依然として勤勉に努力している。僕自身の不足している点を認めて、永遠に控えめでありたいからだ。<o:p></o:p>
小説家としての僕の人生は大きく習作期と創作期に分けられる。小説家になりたいという熱い望みを抱いていた時期、僕は風の吹く世の中の片隅を転々として心細く絶望的な時間に苦しめられなければならなかった。しかし間もなく作家になって、望み通りひたすら文だけを書くことができる立場になってから、人生の風波はおのずから治まった。文学に対する虚像を取り去ったので、それを通して自分を見て、自分を通して世の中を見ることができた。文学は結局「自分から別の自分へ行く過程」ということがわかってしまったから、自分が選んだ文学が改めて素晴しいものだと満足した。人生の本当の意味は「別な自分」を発見することで、「他人」を発見することではないからだ。<o:p></o:p>
若い頃の痛手は実に値打ちがあり極めて貴重なものだ。内傷と内出血の経験がなかったら、文学はただ単に「自分」を救うための利己的な道具に転落してしまうだろう。青春は情熱で壮年は知恵で文学をするので、両者は相互補完の関係だ。それだけではなく、そのような相互補完性が作家の一身に具現されて体得されなければならない。それゆえにあせってはならず、死ぬ日まで手を休めてはならず、枯渇する日まで作家は宇宙的な探査を怠ってはならないのだ。自分が別の自分へ行く道、文学は人生と人生がつながる橋をかけることなので、永遠に断ち切れない橋なのだ。一つになるために、一つになることを目指して、僕は死ぬ日まで休まず橋を渡るだろう。<o:p></o:p>
- 完 ― <o:p></o:p>
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