五木寛之氏の「他力」をようやく読み終えた。それでは、他力が判ったかと問われれば、「否」と答えるしか無い。
この本のカバーに、
「他力とは、出口なき闇の時代にギラリと光る、日本史上もっとも深い思想であり、すさまじいパワー秘めた<生きる力>です。
もはや現在は個人の<自力>で脱出できるときではありません。
法然、親鸞、蓮如などの思想の核心をなす<他力>こそ、これまでの宗教の常識を超え、私たちの乾いた心を劇的に活性化する<魂のエネルギー>です。
この真の<他力>に触れたとき、人は自己と外界とが一変して見えるという衝撃をうけることでしょう。」
小生が、<他力>を理解できたなら、上記の凄まじいいパワーを実感出来たのだろうが、そうではないので、理解できていないということである。
仕方が無いので、小生なりにこの本からキーワードを書き出してみた。
しかし、とぎれとぎれの纏まりのないキーワードとなってしまったので、読者の皆さんにはその意味を御理解いただけそうにもない、このことをお詫びするものである。
A.三人の偉大な宗教家の教え
1)法然の教え=易行(いぎょう)往生=易行(いぎょう)念仏 ;
難行苦行をしなくても、念仏を唱えれば救われるという意味。最も大切な考えは「易行(いぎょう)」。易行念仏とは誰にでもできるやさしいこと。それが念仏であるという意味。
2)親鸞の教え=自然法爾(じねんほうに);
浄土真宗(じょうどしんしゅう)で、自力をすて、如来(にょらい)の絶対他力にまかせきること。人為を捨て、ありのままにまかせること。▽仏教語。「自然」はおのずからそうであること。「法爾」はそれ自身の法則にのっとって、そのようになっていること。
親鸞は「悪人正機(あくにんしょうき)」が有名ですが、五木氏はむしろ自然法爾 に重きををおいています。氏は、小説「親鸞」を書くにあたって、苦悩と遍歴の末に最後に「自然法爾(じねんほうに)」に至る大きな生涯と捉えて、35歳くらいまでを前半とし、後半は90歳までの親鸞の遍歴を描きたいと思っているのです、と言っていました。
3)蓮如の教え=他力本願;
(1 )《他力(阿弥陀仏)の本願の意》仏語。自らの修行の功徳によって悟りを得るのでなく、阿弥陀仏の本願によって救済されること。浄土教の言葉。
(2 )《誤用が定着したものか》俗に、自分の努力でするのではなく、他人がしてくれることに期待をかけること。人まかせ。・・・こちらでないことに注意下さい。
B.他力の声=「わがはからいにあらず」
→「なるようにしかならない」
→しかし、おのずと必ずなるべきようになるのだ」
この言葉・思想は、いかなるピンチに直面しても、究極は神や佛にお任せして、委ねるということが出来れば、ずっと楽に生きられるということである、と小生は解釈している。
C.変成男子;
変成男子(へんじょうなんし)あるいは女人変成(にょにんへんじょう)とは、古来、女子(女性)は成仏することか非常に難しいとされ、いったん男子(男性)に成ることで、成仏することができるようになるとした思想。・・・親鸞の思想と書いてあった。
D.気に入った言葉;
「ふたりで歓べば歓が二倍になる、ふたりで苦しめば苦しみが半分になる。」
E.しばしば登場した気になる言葉;
*他力の風
*無用の用・矛盾
F.白骨のお文;
浄土真宗本願寺八世蓮如が撰述した御文の5帖目第16通「白骨」(はっこつ)は、御文の中でも特に有名なものである。存覚の『存覚法語』を基に作られている。
この御文は宗派により呼び方が異なる。
本願寺派 - 「白骨の御文章(ごぶんしょう)」
大谷派 - 「白骨の御文(おふみ)」
興正派 - 「白骨の御勧章(ごかんしょう)」
この御文は浄土真宗の葬儀(灰葬 還骨)で拝読される(御文を用いない宗派では拝読されない。)。
大意 ;
今日・明日の事しか考えない人々の姿を見て考えると、人の生涯は儚いものであります。まるで幻のようなものです。今は元気でも、次の瞬間には死んでしまうかもしれない。死は、年齢を問いません。だから、その日暮らしの生活ではなくて、これからの生き方を考えてください。それには阿弥陀仏に深く帰依し、称名念仏する事を勧めます。
G.次回は.次に読みたい本について言及する予定である。
五木氏は、蓮如のついて3冊の本を書いておられるので、これらの書評を引用しようと思っている。
(こんな時には、インターネットが実に強力な助っ人になります。)