12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
無責任結構・ 中途半端・ちゃらんぽらん・ 出たとこ勝負、で参りましょう!

ユリウス・カエサル12

2008年12月31日 09時13分34秒 | Weblog

BC63年、キケロは12月末の任期末を向かえ「国家の父」と讃えられる賞賛と名声を浴びていた。

 功なり名をとげた人が就任する名誉職のメテルス・ピウスという最高神祇官がこの年なくなり、直ちに後任を決める必要があった。これにカエサルは挑んだのであるが、

輝かしい経歴の対立候補の一人は、執政官経験で凱旋式経験者であった、またもう一人は執政官経験者で院内総務とも言える元老院第一人者であった。

普通ならとても勝ち目のある勝負ではないが、さすがわれらのカエサル、友人の護民官ラビエヌスに「宗教祭事の最高責任者を元老院階級の独占から市民全体からの選ぶ」という法案を提出させ、可決させた。

 さらに、当選を確実にするため、次の当たり前ともいえる選挙運動を行い見事当選した。

1. 家庭訪問いわゆる日本では禁止されている戸別訪問
2. 有権者の通勤時の往または帰りに同行し勧誘
3. 影響力のある人を見定めて説得・勧誘する。

 野心満々のカエサルが、このような利権や権力と無縁の名誉職をなぜ狙ったのかその理由は、

1.宗教面での最高責任者それゆえ単独職
2.他の公職との兼任が可能
3.終身職
4.唯一の公邸が与えられる

元老院体制という集団指導方式にもはや統治能力はないと考えた彼は、それを打倒したのち樹立しようとする新体制には権力と共に権威も必要と考えた。

宗教もまた統治の重要な一要素になるとして、一つの目的のためだけでなにごともやらない男のカエサルはこの地位を手にしたのだった。

また、公邸を手にした彼は、フォロロマーノ中心にある質素な公邸に直ちに引越し、フォロロマーノに集う民衆への心理的効果と誰にでも開かれた政治家の家としても有効に活用した。 

そして彼はこの公邸に、暗殺される日まで住んだ。

謝辞:
読者の皆様には、駄文にもかかわらずご愛読いただきありがとうございました。
来年も引き続きお付き合いくださるようお願い申し上げます。

それでは、よいお年をお迎えください。


終の住み処

2008年12月30日 08時41分38秒 | Weblog

 先日NHKラジオで「終の住み処を考えよ」という話があった。

人は、ぽっくりと逝けば万々歳だが、そうでない場合もある、元気で思考力や判断力が確かなうちに、将来のことを考え、年金の範囲内で自分の身を預ける場所を探しておけというのである。

男性の多くは山の神様より早く“お先に”ができる関係で、あまり真剣に考える必要性はないのかも知れないが、山の神様の方は通常かなり長く生きる関係で、かなりこの件が重要となる人も多いと思っている。

現在のように核家族化が進行すると、子供たちに面倒を見てもらえる環境にない場合も多く発生するだろう。こうなると、公的であれ私的であれ、***ホームなるもののお世話になることも選択肢の一つである。

 小生はすでに寡夫であり他人事ではない。避けて通れない問題のひとつである。

 したがって、来年は、本件の調査・研究をはじめようと思い、まずは図書、福祉関連の公的機関、インターネットや近郊のそれと思える施設を見学するなどしてみようと思っている。

対象とするのは次のものだろうと思っている。読者の中には、すでに肉親などを介護されている方もおられよくご承知の方もいらっしゃることだろう。

 * 老人福祉法の制度関係
o 老人福祉施設 老人デイサービスセンター、老人短期入所施設、
養護老人ホーム、特別養護老人ホーム、軽費老人ホーム(ケアハウス)、
老人福祉センター、老人介護支援センター

o 訪問介護
o 認知症対応型共同生活介護(グループホーム)
o 日常生活用品の給付または貸与

* 老人保健施設:
主として病院退院後家庭への復帰を目指す中間施設として制度化された。略して「老健」といわれる。

 参考:
2000年度には介護保険制度が発足し、老人介護は公的社会保険によって行うこととなった。

この背景には、核家族化により要介護老人を嫁ひとりが世話をしなければいけない状況や、独居高齢者で介護する親族が近隣にいないなど、家族や親族の介護力が低下し、寝たきり老人発生の一因ともなっていたこと。

介護力の低下と福祉サービスの量の貧困は、自宅で介護できない高齢者を介護目的で医療機関に入院させる社会的入院の原因となり、医療費の増加や高齢者の自立を遠ざける結果となっていたことがある。


ユリウス・カエサル11

2008年12月29日 09時18分36秒 | Weblog

 日本では生活支援・景気振興対策として、今年度末一人当たり?万円を国家が支給しようとしている。それで今回は、少し脱線して、ローマのユニークな制度だった「パンとサーカス(Panem et circenses)」を取り上げた。

BC5世紀頃に王政を倒し勝ち取ったローマの共和政は、本来は都市国家規模に適した制度だった。その上五百年を経て元老院による共和政は制度疲労(マンネンリ化と元老院議員たちの怠惰)も起こしていた。

 カエサルの頃には、ローマ帝国(厳密には共和国だが)は、地中海全域と北アフリカ・小アジア・ドナウ・ライン流域にまでの広大な地域を治め始めていた。

都市国家の統治に適した元老院共和政は、意思決定に時間を要し・元老院議員自身の利益が優先され必要な改革は停滞し、広大な帝国の政治に問題が発生していた。

ドイツの歴史家モムゼンは「ローマが生んだ唯一の創造的天才」とカエサルを評しているように、この優れた天才は、共和政から帝政にと改革を先導したのだった。

 ご承知のようにカエサルは不幸にして暗殺者の手にかかるのであるが、その前に遺言をしたため、18歳のオクタビアヌス(後の、ローマ初代皇帝アウグストウス)を自分の後継者に指名していた。

カエサル死後十数年にも及ぶローマ内戦の後、オクタビアヌスは33歳のときアントニウスとクレオパトラの軍を破り、ローマ初代皇帝アウグストウスとして新生ローマをスタートしたのであった。
(実質的に帝政を確立したのは、このアウグストウスであった)

カエサルの基本方針は「クレメンティア(寛容)」であり、アウグストウスのそれは「パスク(平和)」であった。この初代皇帝から「パスク・ロマーナ(ローマによる平和)」を目指した。

皇帝の責務の第一は、安全と食の保証であった。
「パンとサーカス(Panem et circenses)」は、後世の人たちがローマを批判するときに使用する常套句である。

ローマは食を国家から保証され働く必要がなく、国家提供の祭りや競技・闘技などの催し物で遊んで暮らしたという非難である。

 仮に親子五人家族{夫・妻・長男(10歳以上)・長女(10歳以上)・次男(10歳未満)}の場合、女と10歳未満の男の子は対象外なので、国から無償支給される小麦は、夫と長男の二人分、月に60kgとなる。

すなわち五人家族で一日あたり2kg約4000キロカロリーが支給された勘定である。少なくとも餓死しない最低限であったろう。二千年の昔に集団的な餓死が起きたという記録がないことから、有効に機能していたのであろう。

サーカスと呼ばれる民を楽しませる催し物や小麦の無償支給は、大切な有権者対策でもあったのだった。ローマでは、皇帝といえどもひとたび人気を失うと殺されるのが通例だったので、たとえ後世の歴史家たちに「パンとサーカス」と揶揄されようとも実に大切なことだった。

小麦の無料給付と祝祭日の催し物無料入場券は、受給者自らが出頭し、貧しい人たちと共に長い行列に並び、知り合いや知人たちの蔑視を浴びるという恥ずかしい目にあったり、

長い時間を無駄にするなどという幾つかの障害を設け、本当に必要とする人たちにのみ無料で小麦が届くよう、当局は妙案を持ち込み国家の財政均衡も図られたのであった。

日本での現金支給では、辞退の人がどの程度出るのか大変興味を持っているのである。
(しかし、小生は貧しい年金生活者である、決して辞退などするつもりはない)


ユリウス・カエサル10

2008年12月28日 10時04分56秒 | Weblog

 30歳で政界キャリアーの第一歩である会計検査官就任を果たしたときのカエサルの借金は、1300タレント(11万人以上の兵士を丸1年雇える)にものぼっていた。

それゆえ前出の50タレントという海賊への身代金などさしたるものでもなかったのだろう。

 このときは政界キャリアーを始めたばかりで、借金は選挙運動費でもなければ人気取りの剣闘士試合の主催費や街道の修理費でもなく、

以前書いたように、ローマ有数の読書量を支えた本の購入費やおしゃれや友人との交際費さらには愛人たちへのプレゼント代と塩野七生女史が書いている。

スペイン属州に会計検査官として1年派遣されたカエサルは、「ヘラクレスの二本の柱」と呼ばれていたジブラルタル海峡に近いガデスと呼ばれる町で神殿内に安置されていたアレクサンダー大王の像を見て

「アレクサンドロスが世界を制覇した歳になったのに自分は何ひとつやっていないではないか」と自己反省をしたであった。

スペインでの会計検査官を勤め上げると、帰国後すぐに自動的に元老院の議席が与えられ、元老院議員の一員にはなった。

カエサルより6歳年上のポンペイウスはすでに政界キャリアー最高位の執政官を経験し、最高の栄誉である凱旋式を二度も挙行していた。

同じく6歳年上のキケロも三年前、政治の中心であるフォロ・ローマノを見事な勝訴で沸かしローマ一という弁護士の名声を獲得していた。

共和政末期のローマ史の主人公たる3人のうちの2人はすでにひのき舞台に上がっていた。

しかし、カエサルは、スペインからの帰国後も自己反省を忘れたかのように、相変わらず借金続きで、プレイボーイの名声のみが高くなるままで、彼がひのき舞台に登場するにはまだしばらく時を必要とした。


爺さん出動す

2008年12月27日 13時27分44秒 | Weblog

主人と自分と孫一人(双子のもう一人のみがせき程度)が、風邪で寝込んでしまって動けないからすぐ来てくれという電話が月曜日の午後9時半頃長女から来た。39度を超える高熱だという。

こんなわけで、火曜日の早朝から、長女の家に緊急出動した。 いつかあるとは思っていたが、長女結婚後9年目での初めてのハプニングとなった。

核家族では、主人と主婦が倒れるとどうにもならないのである。 核家族化の大きな問題点であるが、主人と主婦が同時に寝込むという変事の発生確率はそれほど高いものではないためだろう、このような事態に至ったときの公的なセイフティネットなるものを思いつかない。

したがって、必然的に身内が応援する以外にないようである。

他人の家は勝手が判らない、何をするにも時間がかかる、それでも日常主夫業で鍛えている小生かいがいしく働いた。その結果26日には、主人を除いてほぼ回復、年末の混雑も気になるので早めに帰宅した。

 こんなわけでしばらくブログを休みました。
道中、車窓から撮影した米原・京都の写真です。


車止めました

2008年12月22日 07時48分37秒 | Weblog

「(いくら検査しても断定できるデータが出てこない・・・)重症筋無力症ではないかもしれない、単なる老化かもしれない」と医者の言うのが最新の状況である。

このため依然として病名が定まらず、従ってなんらの治療もなされず、経過観察のみの状態が続いている。 

症状は、8・9月頃最悪の状態であったが、現在は静止している物を視野の中央部付近で1.5m以内の物をはっきり見ることができる日が多くなっている。
(片目で見るための眼帯は不要になり、パソコンにはほとんど困らなくなった)

特に困るのは足下がよく見えないので、段差を踏外す危険性には手を焼いているのが現状である。

また、歩行や乗り物など自分自身や対象物が移動する場合には、やはり全てが激しく二重に見えてしまう状態が続いている。

6月から運転不能状態が続いているので、ついに車のバッテリーは上がってしまった。嫌気が差したので、ついに車をスクラップにして1週間が経過したのである。

筋力維持のため晴天の日の散歩は欠かさず、生活用品の買出しにもおぼつかない足取りながら徒歩である、息子や娘の休日には車に便乗して遠方での買い物を行っているので、スローテンポながら生活は支障なく回っている。

人様より15年くらい早く外出が不自由になったという現実を受け入れざるを得ない毎日である。

ここ数ヶ月の通院は、バス・電車などを利用しているが、時間だけはたっぷりあるため、車では見えなかったり味わえなかったりした外出の楽しみがあることに気がついた。

まあこれも自分の運命と割り切って付き合っていかねばならないと思い始めている。


ユリウス・カエサル9

2008年12月21日 07時17分46秒 | Weblog

 今回は若きカエサル最大の危機の元になった、独裁やスッラとの関係について書く。

ルキウス・コルネリュウス・スッラは、名門中の名門コルネリュウスの血をひく、言動に明確で悪評に強く世間の評判を気にしなかった男であった。

スッラは、一切の寛容を持たない氷のような厳しい性格だったようであるが、それ以外の点では実にカエサルと似通ったところの多い人物だったと言われている。

BC83年当時、スッラ55歳、カエサル17歳であった。

元老院体制を維持しようと懸命なスッラは、4700名という膨大な数の政敵の処罰者名簿を作成し、完璧を期し激しい民衆派一掃作戦を展開、殺戮を行った。

この名簿の中にカエサルも含まれていたのは、伯父がスッラの政敵民衆派の有力者だったからであった。

まだ19歳と若いからという周囲の助命運動もあって、しぶしぶ同意したスッラは、カエサルとその妻の離縁を助命の条件にしたのだった。その理由は、カエサルの妻がキンナというスッラに敵対する民衆派有力者の娘だったからであった。

カエサルは、まずローマから少し離れた田舎に逃れ、それでも危険なのでギリシャを経て小アジアまで逃れ、そこで軍隊に入隊した。

22歳のとき、スッラが死去し当面の危機は去ったと考えローマに帰還し弁護士を開業した。ところが、弁護士として法廷に立つと、スッラの命令(妻との離婚)を拒否した若者であることが表面化し、再度国外に逃亡せざるをえなくなった。これが前回の、留学の動機であった。

ロードス島に留学中に、伯父のアウレリュス・コッタ死んでその空席を埋めるようにカエサルが任命されたのが、神祇官で、このため急遽ローマに帰国した。

さらに27歳になったカエサルは、さらに高級将校にあたる大隊長に立候補し当選した。これ以降ゆっくりと着実に出世をはたし、31歳になってようやく会計検査官に当選している。ついにカエサルも「名誉あるキャリア」の第一歩を歩み始めたのであった。

 (注)ローマでは、会計検査官に始まり執政官にいたる国家の要職はすべて「無給」であった。無給でも名誉の方を大切にしたローマ人は実に偉い民族だと思うのだが、読者の皆さんは如何お考えだろうか。

また、多くの役職は、選挙による方法で選ばれていた。選挙に勝つためには投票する人の人気を得なくてはならない、このためにいったいカエサルはいかなることをしていたのか大変気になるのである。


ユリウス・カエサル8

2008年12月19日 08時25分10秒 | Weblog

 

気候も穏やかな地中海世界で一・二を競う気候の「バラの花咲く島」という意味のロードス島と名づけられたこの島は天然の良港も有し、西にクレタ島、東にキプロス島を控えシリア・パレスチナ・エジプトへの通商路に位置する。

通商立国ゆえ地中海の覇者ローマの安全保障下に入り、見返りにローマの不得手な海軍を提供した。こうして信頼できる同盟者として、ローマの指導者予備軍の勉学のための最高学府としても機能した。

キケロはアテネに留学し、カエサルの暗殺者となったブルータスもアテネに続いてロードス島でも学んでいた。

何事にもよらず愛しはしてものめりこむ男ではなかったカエサルは、ここに1年ほど留学を続けた。 彼の留学が時々中断されたのは、小船で数時間の距離にある小アジアでことが起きるたびに、私兵を組織しておっとり刀で馳せ参じたためであった。

少し話を戻して、24歳のカエサルは、身の安全のためローマから国外脱出の必要に迫られた。そしてこのロードス島への留学となったのであった。

 道中キリキア海賊という獰猛な海賊に捕らわれ身代金を要求された。カエサルは20タレント(4300人の兵士を1年雇える金額)を要求されたが、豪胆かつ自己顕示欲の強い彼は大笑いして「お前たちは誰を捕まえたか知らないのだ」と言い自ら50タレントに値上げした。

残忍さで有名なこの海賊に対し、身の安全と金策(借金)の可能性の両方を天秤にかけ、ぎりぎりの線が50タレントとはじいたのであった。これはカエサルの生涯の金銭哲学とも言えるもので、金を使うとき必ず両天秤にかけたのであった。

身代金を抱えて従者が戻るまでの38日間、眠りたいときに眠り、したいと思うことをし、海賊たちがうるさく騒げばうるさいと叱り、海賊たちの武術訓練や娯楽に参加し、ボディーガードに囲まれた重要人物然として過ごした。

身代金と引き換えに自由になった途端に近くの町で船と人を集め、海賊達を捕虜にし、海賊の財宝を奪った、おそらく50タレントはちゃんと取り返したのであった。そして海賊たちは、全員が絞首刑になった。その後、何事も無かったようにロードス島での学生生活を始めた。


ウォッシュレット

2008年12月18日 06時43分06秒 | Weblog

日本にも優れた発明が沢山あるが、日頃有難く思っている発明品のひとつに「ウォッシュレット」がある。

今春はひざの手術で、また先日は重症筋無力症の検査で二度も入院する羽目になった。最近の病院はランクが下の病院でない限りトイレは全てウォッシュレットである。

着座式のトイレは西洋からの輸入技術だろうが、ウォッシュレットの発明は日本人による偉大な発明だと思っている。これで計り知れないほど快適な生活ができるようになった。

現在、国内で困っているのは、多くの公共施設のトイレやランクの低い宿屋であるが、これらも改善されるのは時間の問題であろう。しかし、乗り物など洗浄水の補給が難しい列車・船・飛行機などは将来どうなるのだろうか、何とか早期に改善してくれるとよいのだが。

しかし、この大発明に残念なことがひとつある、なぜ残念かと云えば、日本以外全く普及していないからである。着座式のトイレを発明した西洋人がなぜウォッシュレットを実用化しないのか不思議なのである。

そこでそのなぜを考えてみたところ、幾つかのそれらしいことに気がついた。

1. 日本はヨーロッパの2倍くらい降水量がある。(水が豊富)
2. 水道の水は、生で飲めるほど清浄である。(細菌がいない)
3. 快適性に関する考え方の違い。

この個人的な推量があたっているかどうか判断つかないが、あたらずとも遠からずのように思っている。

 あまり皆さんはおっしゃらないが、旅先で非常に困ることのひとつにトイレの問題がある。世の中には、小生と同じようなことを考えた人がいる。トラベル・ウォシュレット(旅行用の携帯品)これも大発明である。

そして、ある人のこの製品の使用後の感想である。

「今住んでいる所が賃貸の為ウォシュレットがないので、携帯のウォシュレットがあったらいいなと思い購入しました。
値段が安かったので、期待はずれでも諦めがつくかなと思っていました、でも使用してみて期待以上で、通常のウォシュレットと差がないくらい水の出が良かったです。・・・」

小生は、はたとひらめいた、寝たきり人の介護用品としてもうまく使えば有効ではないだろうかと・・・。

追記;
昨日は定休日でもないのに休刊したのは、パソコンの不調が原因でした。まだ万全ではないのですが、どうにかuploadできるまでに回復したので休刊日ですが書きました。


ユリウス・カエサル7

2008年12月16日 07時46分59秒 | Weblog


小生もそうであったが、「暦」とカエサルとは、いったいどんな取り合わせかといぶかしく思われる読者もおられるだろう。

ローマの大陰暦は紀元前七世紀につくられていた。月の満ち欠けに応じた1年の日数が355日のものだった。このためカエサルの頃には、暦と実際の季節が三ヶ月もずれてしまっていた。

カエサルは、エジプト人の天文学者とギリシャの数学者に暦をつくらせた。この暦は1年が365日と6時間の太陽暦だった。そして余りの6時間には、4年毎のうるう年をとりいれていた。この暦は「ユリウス暦」と呼ばれた。

AC1582年法皇グレゴリウス13世によってグレゴリウス暦がつくられ現在に至っている。この暦は、365日と5時間48分46秒が1年である。ユリウス暦と較べると、1年で12分弱の誤差である。

但し、幾ら正確だとはいえ、カエサルらしさくユリウス暦を国際暦とはしたが、他民族には強制しなかった。すなわち、他民族には自国の旧来からの暦とユリウス暦との併用を求めた。




アルザスの伝統的なコスチューム

2008年12月15日 07時58分30秒 | Weblog


 Bas-Rhin(低地ライン)地方の地図と観光地
http://www.france-voyage.com/en/

そして、1947年創業以来、伝統的なコスチュームの製造・修理を行っているBas-Rhin(低地ライン)地方唯一の店の写真。
http://picasaweb.google.fr/shehrazad/TraditonalCostumsFromAlsace
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これらの衣装は、農村部の人達のものであろう、女性店主の説明では、中流及び上流階級の人達は、伝統的な衣装を着ないためストラスブルグには伝統的なコスチュームはないのだそうである。 伝統的な衣装を着た女性の場合、赤色のスカート着用の人はカソリックで、それ以外の色のスカートの人はプロテスタントだとのこと。 夏になると、地方の村々では伝統的なダンスが行われる。とても楽しそうに踊っているが、何故かこのダンスは、小中学校で習ったフォークダンスを思い出させた。

http://www.tourisme-alsace.com/en/alsace-regional-identity/costumes-alsace.html

http://fr.youtube.com/watch?v=WJ0mlGm9Ngs&feature=related

 


ユリウス・カエサル6

2008年12月14日 07時32分50秒 | Weblog

 一級の弁護士で哲学好きで政治好きのローマ第一級の知識人・マスコミ(世論を左右した)人・元老院の実力者であったキケロと政敵カエサル間の往復文書を見てみよう。両人とも最高の文筆家であった関係で敵同士ながら、手紙は頻繁に交換していた。

キケロの手紙
<なんという違いだ、敵を許すカエサルと、味方を見捨てるポンペイウス。>

 カエサルよりキケロへ
<私をよく理解してくれている貴方の言うことだから、わたしの振舞はあらゆる意味で残忍性が見られないというあなたの言は信用されてしかるべきだろう。

あのように振舞ったこと自体ですでにわたしは満足しているが、あなたまでがそれに賛意を寄せてくれるとは、満足を越えて喜びを感じる。

わたしが自由にした人々が再びわたしに剣を向けることになろうとしても、そのようなことに心をわずらわせたくない。何ものにも増してわたしが自分自身に課しているのは、自の考えに忠実に生きることである。だから、他の人々にも、そうあって当然と思っている>

特に、元老院側(共和政側)との内乱では、同じローマ人同士ということもあり、内戦で勝利しても同胞を捕虜や奴隷にせず直ちに自由にしたのであった。これら自由にした人達の中に「ブルータスお前もか!」のブルータスもいた。

(注1) カエサルの8年間のガリア遠征で英国南部やライン河とドナウ川以南のヨーロッパがローマの覇権の及ぶ範囲となった、またこれまでの長い間に覇権の及ぶ範囲が拡大し、東はチグリス川西や北アフリカとじつに広大な支配圏を持つ時代になっていた。

このため、一部の有力者(元老院議員)による共和政(とはいっても議員は、民衆の選挙による洗礼は受けていない)が、制度疲労を起こし的確に政治を遂行出来なくなっていた。

この現状を憂慮したカエサルは、後に帝政と呼ばれるようになる政治システムを引っさげて、議会と対立していた。

 (注2) 当時の国法では、軍隊によるクーデターを防止するためルビコン川以南のローマ直轄領には軍隊が越境することを禁じていた。 

帝政に制度を変革しようとするカエサルを丸腰にしようと元老院側は国法を盾に、カエサルのみのローマへの帰還を命じたが、これに反しカエサルは自分の軍団に、「賽は投げられた」の演説とともにルビコン川を越えローマを目指し進軍を始めた。

当然軍隊を持たないローマの筆頭元老院議員のポンペイウスもその他の議員達も、そろってギリシャ方面に逃走した。 このときのポンペイウスの自己保身第一と見えた逃げ方が、盟友キケロには気に入らなかったのだった。


チボリ

2008年12月13日 09時05分23秒 | Weblog

 

定期検診のため倉敷の病院へ行ったついでに、倉敷駅から今月で閉園するチボリ公園を遠望した。

日没直前のためもあり、一段とさびしい光景であった。

 鳴り物入りの第三セクターとやらいう責任体制の不明確な組織による失敗例である。

既に、公園の遊戯設備の売却先が決まったとのこと、この公園が市民達に有効に活かされることを祈るのみである。


ユリウス・カエサル5

2008年12月12日 08時51分06秒 | Weblog

「来た・見た・勝った」、「賽は投げられた」、「ブルータスお前もか!」という有名な言葉は皆さんご存知で、カエサルのコピーライターとしてのすばらしい才能に驚かされるのである。

有名なアメリカ煙草にマールボロというのがある。
このケースの表と裏に「VENI、VIDI、VICI」(ヴェニ、ヴィディ、ヴィチ)=来た・見た・勝った、と書いてある。

カエサルの手紙は、箇条書きで要件を単刀直入に判り易く書いたものが多く、もともと文章が上手で簡潔な手紙を書くことが出来たのであったろう、殆どの手紙は数行とか半ページくらいだと言われている。

短い手紙ということが、沢山の手紙を書き送った大きな要因であったろうが、カエサルは多筆家だった。

カエサルのように短く鋭く要点を伝えれたらなんといいことかと思うのである。よって、本日は、これにて終了。


脳と記憶

2008年12月10日 07時19分19秒 | Weblog
(これはかなり以前の原稿で、現在は全ての教室を欠席中である)

ここ数年は、いろいろな教室で女性と共に学ぶことが多く、自然と女性と自分を比較する機会が多くなった。言い換えると、男性と女性の違いを感じる機会が多くなったのである。

先日ある民放TVで「女性の感情的な記憶は大脳皮質に蓄えられ、男性の感情的な記憶は海馬の近くの小脳に蓄えられる」と説明していた。

大脳の記憶は、大量且つ長時間の記憶が可能なのに対して、小脳での記憶は容量が少なく短時間しか保持できないというのである。

言われてみると、嬉しかったこと、辛かったこと、悲しかったことなどの感情の記憶に関係することは、小生の場合一段と少ないのである。

もともと記憶力が弱い為であろうと思っていたのだが、男女の体の本質的な構造にも差があるのだと教えられ驚いたのである。

しかし、記憶が無くなる事は、いたって便利なのである。
嬉しかったことを失うのは損なのかも知れないが、辛かった事や悲しかった事を忘れられるのは大変な得ではないかと思っている。

言わば、記憶における麻酔効果があるともいえるのである、これからも、都合の悪いことは、どんどん忘れたいものである。

ひょっとすると、「君の名は」の名せりふ「忘却とは忘れ去ることなり」と書いた作者も同じ考えだったのかもしれない。