12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
無責任結構・ 中途半端・ちゃらんぽらん・ 出たとこ勝負、で参りましょう!

久々の外出

2008年04月30日 05時06分55秒 | Weblog

 29日は、左膝の手術後初めて、事実上3月以来初めての外出となった。
(これまでは、通院やせいぜい近くのスーパーマーケットに食材を買いに出たのみだった)

今年初め頃、中村画伯の遺作展でお目にかかった「ケイコ」さんからご案内いただいていた、「海の見える午後のコンサート」に駅東創庫(えきひがしそうこ)へ出かけた。

このコンサートは「NPO法人スマイルネット」主催。久方ぶりに、このNPO法人の世話役でもあるS爺さんや太極拳のTさん御両名にもお目にかかることも出来た。

ギター演奏は市内のT鉄工所の社長さん、ボーカルは「ケイコ」さん。

    

聴衆は約40名、小さな部屋に立ち見が出来るほど。 こじんまりとしたコンサートの良さは、なんといっても、演者と聴衆の一体感が強いことにある。

    

皆さん異口同音に賞賛したのが、「ケイコ」さんの歌唱力であった。
真実、素人離れしているのであった。

パパラッチになるか、ファンクラブを結成して追っかけになろうかと、血迷うものが出そうな雰囲気だった。

「NPO法人スマイルネット」は味なことを主催するものである。


吉行 和子(よしゆき かずこ)

2008年04月29日 06時30分42秒 | Weblog

 Wikipediaによれば、日本の女優、エッセイスト、俳人とあった。
父は作家の吉行エイスケ、母は日本初の美容師の吉行あぐり。
兄は作家の吉行淳之介、妹は詩人の吉行理恵。

私生活では結婚・離婚を経験、子供はなし。女優の岸田今日子、冨士眞奈美と親しく、しばしば3人で座談会やテレビに出演。2000年には共著『わたしはだれ?』を出したとあった。

何故、彼女のことを調べたかというと、先日ラジオで対談があり、彼女が20年来の俳人であることを知り、また、その席での彼女の句を聞いて、興味を覚えたからである。

生涯に 一度跳ねたし 雪兎      吉行和子
この句が、ラジオ対談のとき披露された句である。

 更に、NHK「俳句王国」で調べると、吉行さんと富士さん二人がゲストのときの句が見つかった。(H16年4月開催)

草餅を まるめ乙女ら 無口なり     吉行和子
異国へと 送る恋文 花曇        吉行和子

子を置いて 行けずいくとせ 蓬餅   冨士眞奈美
釣人の 大欠伸して 花の湾       冨士眞奈美

それではと、先年亡くなられた岸田さんについても調べた。
 
岸田 今日子(きしだ きょうこ、1930年4月29日 - 2006年12月17日)は、日本の女優、声優、童話作家。 自由学園高校卒業。
父は劇作家で文学座創設者の岸田國士(くにお)、母は岸田秋子。

姉に詩人で童話作家の岸田衿子、従弟に俳優の岸田森がいる。
俳優の仲谷昇は元夫。

俳優・声優であることは承知していたが、童話作家とは知らなかった、しかし、決して不思議な気がしない、当然のように思えたのである。

H16年2月7日と14日の2回、俳句王国のゲスト出演されていたが、その当時は作者の名前を秘していたので(この2ヶ月後から、作者の名前が公表され始めた)、句のみしか書いてなかった。

下の句から、岸田さんの句を選べようかと試みているが、いまだ彼女の句と言い切れる状態には至っていない。

このときの兼題は、「如月・きさらぎ」。

きさらぎの海峡渡る破目となる
顔あげて歩くきさらぎ老いるまじ

如月やギリシアの神の物語   ・・・この句のような気がするが何の根拠も無い。

きさらぎの夜を刻みゆく靴の音
如月の光忌中の札を射る

きさらぎの植物園は紙である
きさらぎの懺悔室より大男

きさらぎを登りつめたる滑車かな

当たってるような気がするようでもあり、そうでないようでもある。

読者の中で、ご存知の方が居られたら、岸田さんの句を教えていただきたいものである。


口ひげ

2008年04月28日 07時47分36秒 | Weblog

現代日本の人達の中に口ひげ族が散見される。よく似合った人もいれば、なんとなく偉そうに見える人もいて、人それぞれに狙ったキャラクターを強調しており、それなりに口ひげの効果を発揮している感がある。

中世のヴェネツィア人は、口ひげを生やしていた。その理由は、地中海貿易によって海洋通商を盛んに行ったヴェネツィア人は、アラブ人やトルコ人等のイスラム教徒の同性愛者から身を守るためだったと言う。

(このことは現代日本にも生きているようで、中近東へ出張する人達の多くは、口ひげ族である)

金融業や手工業が盛んだった中世フィレンツェの男性は、青・中年期においては、口ひげを生やしていなかったのである。

彼らは、主なる商売の相手先が、北西ヨーロッパのキリスト教国だったことで、上記のイスラム教の同性愛者から身を守る必要が無かったこともその一因であるが、シーザの時代(古代ローマ時代)では、口ひげなしが当たり前だった、その伝統を踏襲していたのであろう。

こんなことが理由なのかどうか判らないが、現在のイタリア人達も、殆ど口ひげをしていなかったのである。

小生のイタリア人識別方法は、黒髪・黒目であることと口ひげをしていないことを条件としたのであった。
(この確かさには何の根拠も無いのだが・・・)

口ひげといえば思い浮かぶのが、チャップリンである。 チャップリンとヒトラーとの間にはいくつかの共通点があり、チャップリンは1889年4月16日生まれなのに対し、ヒトラーは1889年4月20日とわずかに4日違いである。

 またトレードマークが口ひげであり、チャップリン自身ヒトラーの口ひげは自分のオリジナルキャラのチャーリーを下品にしたようだというイメージを持っていた。

また、ヒトラーは政治キャリアの初期において、映画界におけるチャップリンの人気に目をつけていたとする意見もある。

“チャーリー”のキャラクターとヒトラーの類似はたびたび語られるところである。つまり、自らの知名度を上げるために、チャップリンと同じ四角い口ひげを生やしていた、というのである。

これなどは、口ひげによるイメージチェンジをうまく効果的に利用した代表的例だと思うのである。


おしゃれ

2008年04月27日 09時15分52秒 | Weblog

 入院中、俳句のお仲間のtamanobori氏から借用した「男たちへ」塩野七生(しおのななみ)著・文春文庫を読んだ、そして「おしゃれな男」についてのエッセイより引用する。

著者は、おしゃれの観点から男性を4種類に分類していた。
(こういう視点で分類し考察する優れた能力があることが、彼女の人気の根源であろう)

1. おしゃれと一目でわかるおしゃれな男

2. おしゃれとわからないおしゃれな男
(小生は本当のおしゃれが判らないので、この種の男性を識別できない)
これは更に二つに分類されていた。
2-a.その他大勢と同じではいやな男

2-b.その他大勢と同じでよい男

3. 面倒が嫌いでおしゃれをしない男

4. 天然記念物(真のバンカラのことだろうか?)

それなりに真剣に理解に勤めたのであるが、あまりよく判ったような気がしなかったので、小生なりの解釈で周囲を見回してみた。

どうも小生の周囲には、大変失礼なのであるが、3番の人ばかりのような気がする。奥さんに着る物の選択をお任せして、与えられるままに着ているような人たちばかりに思えるのである。

イタリアの男性は、概しておしゃれが上手だと聞いたので、出来るだけおしゃれな男性をカメラに収めようとしたのだが、観光スポットには、現地の人はあまり出没しないのである。

目に付くのは、観光客らしき、イタリア以外のヨーロッパ人だった。(こちらは概して無骨でおしゃれとは思えない人が多かった)

    

そんなわけで、あまり模範的なイタリアのおしゃれ男を撮影できなかったが、強いて幾枚か選んでみた。

a.なんと言ってもゴンドラの船頭さんに勝るものはないかもしれない。

    

b.ローマ時代の騎士の衣装、これもよいものである。

    

c.路上画家達のセンス、さすがである。

    

                                   

d.アウトレットモールでであった伊達男

       

読者の皆さんの「おしゃれ識別力」はいかがなものであろうか。吾こそは「おしゃれ男」と自認する方が居られたら、是非ともご指南頂きたいものである。

追記:
小生が、お目にかかる女性の大半は「おしゃれと一目でわかるおしゃれな女」に該当するような気がする。女性はこうでなくてはならないのである。


仮面

2008年04月26日 07時27分52秒 | Weblog

  

2月から3月頃に2~3週間にわたって続くヴェネツィアのカーニバルは、豪華な仮面と扮装で有名である。 カーニバル(謝肉祭)は、肉食が禁じられる四旬節(復活祭前の40日間)を迎える前に祝うのである。

  

このカーニバルと切り離せないのが、仮想のためのコスチュームと仮面である。

中世の人々は、このような仮面やコスチュームを用いて仮装すれば、身分や貧富の差、更には、異邦人ですら、周りの目を気にせず自由に祭りに参加し楽しめたのであった。

自己の制約から解き放たれて、カーニバルの期間、自由を謳歌することが出来たのである。

現代では身分制度は存在しないが、自己からの自由を得るための仮装も時には必要なのではないだろうか。 髪を染め、化粧をして、そしてきれいな衣装を纏うなどが、変身の手段である。

これもまた、ガイドさんからの受け売りであるが、本来のイタリア人は、黒い瞳と黒い髪の人種なのだそうである。しかし、多くのイタリア女性は金髪に憧れるのだそうである。

時々金髪のイタリア人女性を見かけたが、それらは全て染めたものだと言う。 それはそれでよいのである、自己から解き放たれて、自由奔放な自分に変身するのも、人生に彩を添えるのであろうから。

お土産に一つ気に入った仮面を買ってくればよかった、この文を書いていて思ったのである。

  


おしゃれ

2008年04月25日 05時49分27秒 | Weblog

 イタリア人はおしゃれだ、とガイドさんが説明してくれた。
小生のヨーロッパ旅行はたったの二度目で、他国と比較するだけの知識はない、またファッションにも全くの音痴である。

前回のスイス・ドイツなどに較べると、ガイドさんの洗脳のせいか、何とはなしにおしゃれなような気がしたが、さしたる確証はないのである。それで、ガイドさんの言うことの受け売りをしてみた。

その第一は、春の暖かい日でも高価な毛皮や毛織のコートを着て外出することなのである。最高の贅沢を平素から心掛けるとでも言うのであろう。

たんすに仕舞い込んでいるより遥かに有効で気持ちを豊かにしてくれるのであろうから、大いに真似るべきことだと思われた。

   ルイビトンの前の可愛らしい子犬を連れた方、なんとも優雅な有閑マダムのように思えた。 

   白い毛皮の女性、なぜか大変急いでいたので、優雅さには欠けた。

   黒い毛織コートを着た新聞片手の方、なんとなく寂しそうな感じがした。

   二人連れの方、ゆったりと買い物をしていたが。 年配の女性は、毛皮がよく似合っている。

春で少しくらい暖かくても着ればよいではないかと思った。

  

しかし、小生にとって今回一番印象的だったのは、ミラノの画廊にいたこの女性である。実に絵になるのである。絵になる人は、別に毛皮を着ていなくても、絵になるのである。

   そして、旅行中気が付いたのが、足元のブーツである。この写真は、イタリア在住のガイドさんの足元である。

3名の日本人ガイドさんにお目にかかったが、全員スカートにブーツだった。皆さんとてもブーツがよく似合っていた。

ブーツには、スカートである。そのためなのだろうか、日本に比較してスカート姿が多かったように思えた。これが一段と脚線美を強調するのである。これもよいものである。

若い人たちの高価な毛皮姿は皆無だったが、反面ブーツ姿は多く見られたのであった。

イタリアでは、パンツと言うのかジーンズと言うのか、ズボン姿は日本ほど多くは無かった。これもよかった。


道連れ

2008年04月23日 06時59分03秒 | Weblog

最近では旅する人(外出する人と言ってもよいだろうが)の殆どは、必ずと言ってもよいほどカメラやカメラ付き携帯電話を携えているのであるが、小生も同様である。

 ここ数年小生にとって特別な出来事としては、この道連れに変化が起きたことである。

三年くらい前から、手帳と歳時記が増え、更に昨年夏以降電子辞書(歳時記と当然ながら漢字辞書用として)が増えたのであった。これは旅先で俳句を詠むときの必需品だからである。

続いて一昨年から、ついに鉛筆とスケッチブックが増えたのである。以前は写真を撮っておけば何とかなるかと思っていた水墨画は、結局は現地でのスケッチなくしてはどうにもならないことを思い知らされて以降である。

差してたる荷物になるものではないので、持ち運びでは大した負担ではないが、これらの道連れには困ったことに他人に嫌われることがある。

どちらの道連れも働き始めると最低でも1時間とかなり時間が掛かるのである、こんな訳で人様の道連れにご迷惑をかけるため、自然と単独行動にならざるを得なくなってしまったのである。

吟行や絵画教室のスケッチ旅行と各種の団体旅行への単独参加以外には、グループで行動する機会を失ったようである。 こんなわけで今後は益々単独行動が増えてきそうである。


カメラ棚卸し

2008年04月22日 07時09分20秒 | Weblog

 同窓会ブログ記事の中心的な話題の一つは、当然ながら学生時代のことである。

克明な日記を書き直して掲載してくれる友人が居るが、小生の場合には、その当時の記念になるものが非常に少ない。何度にも渡る転勤と転居のため自分の多くの物を整理してしまったからである。

少ないながらも学生時代の思い出になる物としてカメラがある。 思い立って、棚卸しをしてみた。

コニカ・リコー・オリンパス・キャノン(2)・ミノルタ(2)・ソニーのデジカメの計8台も出てきた。自分で購入したもの以外に、家内の嫁入り道具・弟から貰った物なども含まれている。

 記憶が定かでないが、左から古い順に並べたつもりである。左上段二つ目のオリンパスのハーフサイズカメラを学生時代に購入した記憶は鮮明である。(ハーフサイズとは、35mmカメラの一こまを半分ずつ使用することである)

この頃、山登りには軽くて枚数が2倍撮れるということで山岳部部長水力学教授のW先生に勧められ購入した、そして山に連れて行って貰う度に多用した。当時、多くの実験を伴う研究室には暗室が設備されていた。しばしば、この暗室を借用して、現像焼付けを自分で行ったものであった。

古いアルバムを探してみたが、山の写真がほとんど、残念ながら同窓生を写した記憶はあまり無い。 いずれの山の写真も決して上手とは思わないが、小生にとっては当時のことを思い出ださせる捨てがたいものである。

         

そろそろ時候もよくなってきた、足が治ったらボツボツ低い山に登りに行こうかと思っている。


天の加護

2008年04月21日 02時59分15秒 | Weblog

ラジオで日本初の民間航空機パイロットを引退された方のインタビューがあった。

終戦後、米軍から日本の民間航空路線の開始許可が出て民間航空パイロット養成の最初の教官を努め、その後日航の機長で退職された方である。

謙遜も交えてあったのだろうが「臆病・慎重・不器用と天の加護」により自分の人生が全うできたと話して居られた。その方の話しぶりからも、その人柄は「臆病・慎重・不器用と天の加護」を実践された謹厳実直な方と思われた。

 翻って小生は、不器用は自認するものの「臆病・慎重」を忘れていたようであった。

   

写真は小生が足を踏み外した場所である。何の変哲も無い古代ポンペイの道である。 両サイドが歩道であろう少し高くなった部分があり、中央部が車道(馬車や荷車用)となっていた。

この歩道と車道の段差をカメラに夢中になって、一瞬踏み外しただけなのである。単にストンと左足が空を踏み着地しただけで転倒などは全くしていなかったのであった。 僅かこれだけのことで半月板が砕けたのであった。

ストレッチ体操と太極拳ですこぶる膝の調子は快調であった、これが思い上がりだったと反省している。

今回の怪我は、今後「臆病・慎重」を忘れないようにとの天の啓示・加護だと思っている。


半月板手術

2008年04月20日 06時47分33秒 | Weblog

左膝半月板手術(内側)の実際について少し書いておきます。
(見苦しい写真なので、ご興味の無い向きは読み飛ばしてください)

医者からは、確定診断を兼ねたものが今回の関節鏡手術だと言われました。

(MRIで事前検査はありましたが、実際に内視鏡で見てから最終的な処置を決めるので、患者もモニターを見ながら医師の相談に応じてくれと言われたが、手術中、説明は少しあったが、相談ではなかった)

    

1.手術前に名前の刺青と言っても、サインペンですが。(患者の確認は大変厳重でした)

    

2.写真4は、健全な半月板の状態。(小生の左膝外側の半月板は正常でした)

 

3.写真1と2は、かなり痛んだ内側の半月板の状態。薄いカーテンのように見えるものは、繊維質の半月板がむしれて漂っているもの。    

写真ではよく見えないが、上下の骨の間にちぎれた半月板の一部が噛み込んでいた。これらを除去したのである。

    

4.写真3は、手術終了の状態。 実手術時間は、約45分、麻酔の時間を加えると1時間半くらいでした。手術の内容により、この時間は大きく変わるとのこと。

    

写真5は、手術直後のギブス状にぐるぐる巻きの状態。これでは松葉杖でも動くのにも難渋した。

     

写真6は、翌日ギブス状の物を取り除き、関節に溜まった液を取り除いた後の状態。
下の二つの絆創膏が、手術時に開けた二つの小さな穴に貼ったもの、
上の一つは関節から注射器で関節に溜まった液を抽出した痕に貼った物。

小さな穴は一針ずつ縫ってある、抜糸(25日実施予定)までこの状態。

手術での苦痛と言えば、麻酔でした。背骨に下半身用の麻酔注射をすると、長時間の正座をしたときのように痺れてきます、また、麻酔が覚めるときもある程度痺れた感じがしました。これが一番不快なものでした。

痛みの管理はすばらしく、殆ど痛くて困るということはありませんでした。

術後直ぐに感じたのは、関節に物が噛み込んだゴキゴキという不愉快な音と動きが無くなったことでした。

関節の腫れと痛みが、何時ごろ無くなるのか、今後の推移を待つ必要があります。早く楽に動かせるようになって欲しいと思っています。

最終報告は、治療終了と医者に言われて以降に「どんなになったか」を報告します。

以下に、インターネットで公開されている半月板関係の記事の抜粋を参考に記しおきます。ご興味のある方はどうぞ。

参考;
1.半月板は大腿骨と脛骨(けいこつ)の間に存在し、大腿から受ける荷重を分散して衝撃を吸収する作用(ショックを吸収する作用)と膝関節の安定性や円滑な運動をもたらす役割を担っています。

2.半月板損傷の原因は、若年者ではスポーツ外傷によって発生することが多く、高齢者では半月板の変性(老化)を基盤として特に誘因なく発生します。中には、ちょっとしたケガ(捻挫や打撲など)で発生することもあります。(小生の場合には、二十数センチの段差を踏み外したのが原因でした)

3.診断は各種の誘発テスト(Mc Murrayテストなど)にて症状の再現性(膝の痛みや引っかかり現象)の有無をチェックします。さらに、詳細な情報を得るためには補助的診断法として関節造影やMRIが必要となります。

 最近ではMRIの診断率は飛躍的に向上し、非侵襲的である事より、非常に有益な検査法と考えられます。しかし、確定診断には関節鏡が必要となります。

4.半月板損傷は、形態的に縦断裂、横断裂、水平断裂、変性断裂の4つに分類されます。一般的に、内側半月板損傷例では縦断裂が多く、外側半月損傷例では横断裂と水平断裂を多く認めます。
(小生の場合には、内側半月板の縦・横・水平断裂だった)

5.治療は保存的治療(手術しない方法)と手術的治療に分かれます。保存的治療は損傷範囲の小さい辺縁部断裂の症例が対象となり、ギプス固定や装具療法などが行われます。

リハビリテーションとしては大腿四頭筋やハムストリングスのストレッチングや筋力強化訓練を指導します。

<半月板損傷の原因>
半月板は膝をひねる時に傷むことがよくあります。テニスのスウィングやサッカーのキックの際に痛めたり、日常生活ではこたつから立ち上がるときや階段を降りる時にもいためることがあります。また、前十字靭帯の不全により、半月板の損傷を生じることも多く見られます。

<半月板を痛めた時の症状>
半月板が傷むと膝の内部の表面はスムーズでなくなり、このために痛みやひっかかりが生じたり、また、水(関節液)がたまったりします。また、これをそのままにしておくと半月板以外の構造物(軟骨など)をも傷めて、さらに深刻な状態になります。

上記のような症状がいつまでも続く場合には、精査を行い手術が必要な場合があります。  

また、半月板は、膝の内側と外側にあり、どちらの半月板が損傷しているかによって痛む場所がちがいます。

<半月板損傷の治療法>
現在、損傷した半月板の治療には2つの方法が行われています。

1.半月板切除・・・・傷んだ部分を切り取り、形を整えます。

2.半月板縫合・・・・断裂部を縫い合わせます。

どちらの治療法を選ぶかは、じっさい損傷の状況を確認してからになります。

 半月はクッションの役割をしているため、可能な限り温存しておくことが望ましいとされています。しかし、半月板は血行が乏しい組織であることから、損傷の形態もしくは場所によって治療方法が決定されます。

 一般的には半月板の周辺部は他の部位に比べて縫合にて治癒する可能性が比較的高いとされています。

半月を縫合するには、通常の関節鏡の手術創に加えて別に手術が必要である事に加えて、部分切除に比べてリハビリも長くかかる。縫合して治癒する可能性が高いと思われる場合には、縫合術を選択し、可能性が低い場合には、部分切除を選択されます。

しかし、半月板の治癒に影響を与える因子は他にもありますので、様様な状況を考慮して最終決定がなされます。

<手術による傷>
1.半月板切除なら、関節鏡を使って非常にちいさな切開で可能です。(膝頭上部に2箇所に半径1cmほどのバッテンの傷のみ)

2.半月板縫合なら、1.の2箇所の傷のほかに、縫合のために別に1箇所切開することが必要になります。


退院

2008年04月19日 10時24分49秒 | Weblog

 小生の左膝半月板手術について少し書いておきます。14日入院・15日手術・16日退院の予定でいましたが、結局18日まで入院しました。

今回「退院可能」の意味がようやく判りました。

すなわち退院可能とは「入院して行う医学的な処置が必要なくなった」事を意味するもので、患者として自由に日常生活が可能となるという意味からすると多少異なるように思いました。

 医術的な処置は確かに16日で終了したのですが、自宅での日常生活に松葉杖が必要な状態では不便なので、二日間入院を延長しました。

家内が存命であれば16日の退院は可能だったでしょうが、独りで食事の準備・トイレなどを松葉杖で行うのは不可能ではないにしろかなり困難と感じたからした。

今日は19日ですので、溜まった洗濯を二回行い食事も自分で準備しています。 左足なので、自動車の運転は自由にでき、入退院全ては、独りで車を運転しました。

松葉杖は借りて帰りましたが、買い物などの外出時の比較的長い距離の歩行以外には使う予定はありません。

25日が抜糸の日です。それまでには、膝の腫れや手術時切り開いた2箇所の小さな穴1cmくらいのものの傷の痛みが無くなるのだろうと思っています。

今回印象的だったことを少し。

その1:右腕に消えにくいサインペンで、小生の氏名を書き込まれたことと、重要な処置のとき必ず氏名を発声させて個人の確認を厳格に実施したこと。
(患者の取り違い事故防止なのでしょうが、小生にはとても面倒でした)

その2:手術前日、「美空ひばり」の曲をリクエストしました。これは手術中BGMとして聞くためでした。実際に楽しんで聞けるのだろうかと危惧したのですが、意外に気持ちを落ち着かせてくれて、手術前半は結構楽しんだのでした。

 その3:手術中モニターを見ながら医師と相談しながら手術すると聞かされて、そんな気持ちのゆとりがあるものだろうかと半信半疑でしたが、こちらも意外や意外、まるで他人がプレイしているゲームをそばで見ている感じで、手術後半は美空ひばりの歌も忘れて、見とれていました。

その4:術後2時間くらいで麻酔が抜け足を動かせるようになり、できるだけ歩けと言われトイレも極力自分で松葉杖でと思いましたが、手術日の夜はギブス状にぐるぐる巻きの状態でうまく膝が曲がらず、その夜は看護師と車椅子のお世話になりました。

翌日昼、ギブス状の包帯を取り除き、2箇所の絆創膏のみになると、確かに松葉杖で歩けました。(家族の補助があれば、十分自宅での療養は可能だと思いました)

その5:病院食を初めて見た瞬間、なんと質素な和食なのかと驚愕と感嘆でしたが、以降段々慣れて数少ない楽しみとなりました。とても健康的な魚中心の和食でした。この食事に飽きる前に退院できたのはラッキーでした。
(我が家の食事のカロリー制限と野菜中心の献立に変更する必要を感じたのでした)

その6:6人部屋には、大きな鋼塊に大腿骨を押しつぶされた旋盤工の美男独身男性がいました。性格もいいのでしょう、入れ替わり立ち代り話に来る若い美人看護師の人気者で、始終若い人達の楽しそうな会話を楽しめました。

 ここまではとてもよかったのですが、高齢者の小生には、通りいっぺんの職務上の会話のみしかしてくれませんでした。ここでもまたまた歳を感じさせられたのでした。
(この格差が一番不快な出来事でした)

次回は、モニターの写真や入院中撮影したものなどを参考に、半月板の治療について書いてみる予定です。

身近に半月板でお悩みの方が居られたら、参考にしていただきたいと思います。


短歌

2008年04月13日 07時49分09秒 | Weblog

ご近所の短歌を学んでいる方から、歌集「空に向って」 岡本眞一著を借りて読んだ。

あとがきによると「シャープに入社し、技術畑で38年過ごし、学業も仕事も理工系中心だったが、定年後は文系中心で生きてみようと考え、その一つの候補として短歌を選んだ」とあった。

まさに小生の「水墨画」や「源氏物語講座」や「俳句」選定と全く同じ動機なのである。 ひょっとすると、大抵の人たちが、この著者や小生と同じ考えになっているのかも知れないと思い始めた。

彼の歌つくりの目標は、「一首でも多く自分らしい歌を詠む」ということだという。 この点については、全くこの種の目標を持たないままに学んできた小生は遥かに劣っているのである。

当分の間彼と同じ目標にすることも含めて、俳句を詠む目標をそろそろ決めなくてはならないようである。

追記:
明日より、左ひざの半月板手術のため入院します。17日よりブログ再開の予定です。

小生の周囲にも、膝の悪い人が沢山見られます、これらの方々のに参考になればと、退院したら、体験談を書きたいと思っています。


ゴンドラ遊覧

2008年04月12日 07時36分04秒 | Weblog

   

 ヴェネチアのなんと言っても一番の興味はゴンドラ遊覧。

数百万本の松の杭をラグーナと呼ばれる浅瀬に打ち込んで街が建設されていると聞いた。外敵から身を守るためとはいえ大変な工事だったことであろう。

    

サン・マルコ広場から徒歩で10分程度、沢山立ち並ぶ中世を思わせる建物やお店屋さんの道を抜けると、サン・モイゼ教会の前のちょっとした広場に出る。

その広場の前に架かる小橋を越え,ゴンドラの乗船場に着くと、沢山の観光客が、順番を待っていた。

ビデオ撮影では、ゆっくりと移動してくれる船が最適な乗り物である。カメラマンはじっとカメラを固定しておくと、勝手に船が移動し、さまざまな景色を写すことが出来るからである。

今回は、新婚さん一組と単身赴任七夕夫婦とご一緒した。最後に乗船したので、客席の最前列後ろ向きの独り席が割り当てられた。この席は、前方には最前列、後方を見ると小生以外の乗客と船頭さんの全てが撮影できる最適な席であった。

  

横縞の服が船頭さんの制服だという、採用基準にイケメン審査でもあるのだろうか、いずれも美男で洒落た船頭さんが多い、まことに陽気でおしゃべりである、船頭同士で声を掛け合いながら陽気に遊覧させてくれた。

サービス精神も満点、歌もあり口笛もあり、ゆーらゆらゆらとのんびり数十分の遊覧を楽しんだ。この日は、韓国からの観光客と沢山すれ違った。もう数年すると中国の観光客とすれ違う機会も増えるのであろう。

細い運河から、大運河と呼称される運河に出てUターンし、乗船場近くで下船すると言うコースとなっていた。

 

街は細い運河で細かく分割されていたがその割りに橋の数が少ないのである。迷路のような細い道で一度迷子になると、元の場所に戻るのが非常に難しいだろうと思った。 この日の散策は、同じ道を往きそして帰るというコースを取らざるを得なかった。

<!-- ゴンドラ遊覧 -->

 


中村草田男

2008年04月11日 06時56分27秒 | Weblog

 降る雪や明治は遠くなりにけり

万人に知られている句であろう。この句を久しぶりに聞く機会があったので、俳句のことを書いてみた。

作者は、中村草田男(なかむら くさたお)、明治34年(1901年)7月24日 - 昭和58年(1983年)8月5日)、本名・清一郎(せいいちろう)。 今の季節に合うのは次の句である。

 * 夕桜 城の石崖 裾濃なる

もう少し経つと次の句の季節になる。

* 萬緑の中や吾子の歯生え初むる

萬緑(または万緑)という季語は草田男が初めて用いた。 そして、夏が過ぎると、次の句の季節になる。

 * 一度訪ひ 二度訪ふ波や きりぎりす

四季の移ろいを、判りやすく詠んである。

参考:
現代俳句の中心的存在として、昭和21年(1946年)月刊俳誌『萬緑(ばんりょく)』を主宰した。1963年と1975年には、それぞれ同人や会員の作品を収録した『萬緑合同句集』『萬緑合同句集2』が発行した。

 虚子の守旧派としてのスタイルを継承しつつ俳句の現代化を推進。加藤楸邨、石田波郷らと共に人の内面心理を詠むことを追求し人間探求派と称せられた。昭和35年(1960年)に現代俳句協会幹事長、翌昭和36年(1961年)俳人協会を設立し初代会長に就任した。


ナポリを見て死ね

2008年04月09日 08時31分59秒 | Weblog

  
                  サンタルチア港

  

あるブログに、次のように悪口が書いてあった。多少気になったが、そこはへそ曲がりの小生のこと、こんなことを聞いたら、なおさら行かずにはおれなくなった。

“ 観光ガイドブックなんかに必ず書いてある「ナポリを見て死ね」というフレーズは、 18-19世紀にヨーロッパ(英仏独)でグランドツアー、つまり貴族の 子弟が見聞を広め教養を磨くために、自らの文化的オリジンたるイタリアやギリシャを訪れるという大旅行が流行った当時に広まったもの。

フランス・ブルボン家の統治下で南イタリア最大の都市として、ヨーロッパでも指折りの芸術・文化の中心地だったと、ものの本には書いてあります。 

では、現在のナポリは、というと、当時の残滓こそ感じられるものの、正直言って、見なきゃ死ねないほど素晴らしい都市ではありません。観光資源の保存状態は決して良くないし、治安もイタリアの都市の中では最低ランク。

困ったことに、スリやひったくりは日常茶飯事で、ヨーロッパの観光都市の中でもかなりやばい部類に入るといっていいでしょう。

イタリア人の間でも、ナポリに行く時は貴重品を一切持たず身に付けず、盗まれても諦めのつくものだけ持って、なるべく地味で目立たない格好をして行くように、と言われるほどで、海外旅行の初級者にはちょっとお勧めできないです。“

  
             卵城にて

  

ナポリ・ポンペイは、オプショナル・ツアー、10名が催行の下限人員数、参加者11名でようやく開催になり、一台のバスを借り切り状態で行われた。

これに参加しない人は「ローマ1日フリータイム」、こちらも捨てがたいのであったが、広く浅くを第一に、ナポリ・ポンペイを選んだ。

ローマから約200km南に位置する、南部イタリアの入り口である。午前7時出発、午後9時ホテル着となったが、それでも移動に多くの時間を必要とするため、カプリ島・ソレントなどには行けなかった。

イタリアは、何度か訪れたい国との思いは間違いなく強まった。
次回は、地域を絞って、仔細に見物したいと思い始めた。