12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
無責任結構・ 中途半端・ちゃらんぽらん・ 出たとこ勝負、で参りましょう!

スタンプラリー

2007年07月31日 09時28分26秒 | Weblog

先達さんに聞きそびれてしまったので「納経帳・納経軸・白衣などに押印する御朱印の意味」調べてみた。

ブログの記事を引用する。

その1:ある人が「お遍路は高級なスタンプラリーだ」と言っているのを耳にしたことがあります。確かに1カ寺300円×88ヶ所=26400円の費用がかかりますが、ただ各お寺のスタンプを集めて廻っている訳ではありません。

納経とはもともとお寺に写経を奉納した証にそのお寺ごとの御朱印を頂くものでした。今ではお経を読経して納経とするような形になってきていますが(本格的に回られる方は写経を納められています)形は変わっても般若心経のありがたさや弘法大師 空海への想いはいつまでたっても不変のものです。

その2:仏教の場合、写経などの行為によって、帰依をしめす。参拝し、写経して、その経を納めた証として、納経帳へ記す。現代では、もっと簡略化し、経を納める行為の代わりに、「参拝」した証として、納経帳へ朱印と本尊名を記していただくようになった。

その3:「参拝した時に、書き写した経文を納め、自分や家族の無事息災を祈願した。その証に寺の宝印を頂いていた」 これが、御朱印の由来だそうです。 現代では参拝記念という感じになっているようです。

その4:御朱印の意味は、四十五番 岩屋寺で貰った紙に、「あなたご自身が心を込めてご本尊に納められたお経を、確かにお取り次ぎさせていただきます、との住職の受け取り証印です。」と書かれてあった。

したがって、お参りの前に貰ってはいけません。一人で何冊も貰ってはいけません。

なるほど、写経を収めた領収印、それで「納経・・」という呼び方をするのかと判ったのである。

 これまで我流のお参りを続けていたのだが、このたび初めて、先達付きのバスツアーに参加した。

先達は、山門を入る前に入山の挨拶をし、山門を出る前にまた辞去の挨拶をせよというのである。
我流の悲しさ、山門を出てから辞去の挨拶をしていた。

 これからお参りをしようとする人に一言アドバイス。

初回は少なくとも、先達付きバスツアーなどが作法を学ぶ上で便利であろうと思う、ご一考されたい。


痛快

2007年07月30日 08時20分35秒 | Weblog

“痛快(名・形動);胸がすっとして、非常に愉快に感じる・こと(さま)。 “
というのが、インターネット辞書の解説である。

“ 「痛快」という漢字は、「痛(いたい)」という字と、「快(こころよい)」という字に分解される。
「快い痛み」という意味だともとれるのである。

“脚腰が狂い、筋肉が萎縮し、血流にとどこおりがあり老化があると、体操のとき痛いのである。力を抜いて、軽く痛む(痛快)程度に屈伸すれば、終わった後、身体は軽くなり気分も爽快になる。“

これをもって、「痛快」と言うと書いてある。(「決定版 真向法」より)

幾人もの生徒さんが、同じ経験をしているのである。この種の人は、体操を継続していくように思える。

上達すると、この「痛快」を感じなくなるのであろうか、先生にお聞きしてみたところ以下のようなご返事を頂いた。

 “痛快は何年真向法をしても終わることはありません。人間生きている以上、休めば後退するし本気ですれば前進する。気楽にしてるように見える本部の先生でも同じ事だと思います。

真向法は奥が深いとよく言われます。その奥の奥を極めた人はいないのではないかと思います。どれだけ奥を極めれるか楽しみに精進しています。“


刀匠

2007年07月28日 07時48分00秒 | Weblog

 TV版「こころの時代  技とこころを伝える」より

刀匠 河内国平氏 65歳が、語ってくれたことを、抜書きしてみる。

*日本刀は、鉄の芸術品・世界に比類なき刀剣

*鑑賞の三つのポイント
1:形・姿: 姿で時代が判る
2.地金・鉄: 刃紋の外の黒い部分で、鉄の産地が判る
3.刃紋: 焼入れ部の模様である。これで作者が判る

岡山には、備前長船に刀剣美術館があり、刀剣の鑑賞の立地には恵まれている。

これらを楽しめるようになるには、何年かかるのだろうか、次の機会に、長船の美術館を覗いてみようという気になった。

* 「炭切り三年  向こう槌五年 沸かし一生」と云う。

「炭切り」は、燃料の木炭を適切な大きさに切断する作業。多量に消費するゆえ、大きさのそろった粒に、早く・無駄なく切断できなくてはならない。

 「向こう槌」は、師匠の手鎚(てづち)に合わせて大鎚を打つこと。

 「沸かす」とは、鉄が赤熱し熔ける少し前の温度の状態、鍛造に丁度よい温度に加熱できるようになることである。
(鉄の種類・産地によって、微妙にその温度が異なるのである)

*刀を作ると、良いものと悪いものが少しと、殆んどは、その刀匠の平均的な出来になる。

この平均のどこに合格基準を引いて、世に出すレベルとするかが、名工といわれるかそうでないかの境目であるという。

*氏が、弟子を採るときの、唯一の条件は、「カラスの頭が白いと言っても、ウンと言えるか?」である。

全てについて、「師匠の言うことに従え」という意味である。

* 職人は、真似から始めればよい、何が何でも師匠の言う通りにせよ、ということである。
しかし、人間は判らんという。才能に恵まれていると思っても駄目になる弟子が多い、どうしようもない弟子が、大きく成長する、どうも判らんと云う。

*「辛抱と努力が出来る素質」があれば、それが才能だと云う。
 「三日 三月 三年」が、辛抱の節目であると言う、まさにその通りであろう。

小生も「三づくし」を信じている人間である、この点が、最も共感できた。


NaHCO3

2007年07月27日 05時20分29秒 | Weblog

こんなサイトを見つけた。
“ LOHAS (ローハス /ロハス)とは Lifestyles of Health and Sustainability の頭文字をとった略語で
「健康と地球環境」意識の高いライフスタイルを指しています。

 地球環境に負荷を掛けない視点からの経済活動、生活文化の選択が迫られています。
新しい価値観とライフスタイルを持つロハス ピープル が増えています。 “

 ふくらし粉=重曹=NaHCO3 に、特に興味を持った。

1. 安全な物質: 体内や海水中に含まれている、弱アルカリ性の物質。
2. 汚れ   : 殆んどが、酸性。それ故、アルカリで中和すると、多くのものが、水溶性に変化する。
3. 油汚れ  : 特に適しているようである。

4. 思いがけない使用法: 大匙1杯を浴槽に入れると、温泉気分。
5. 酢    : 重曹掃除のリンスには、酢がうまく合うようである。

 台所のタイルを、掃除してみた。確かによく落ちた。
家庭用洗剤より、よく落ちるような気がした。

食用ではなくて、工業用の安いものを購入して使用したので、口に入るような部分には、使用していない。

色々なことを、考える人がいるものである。

(注)ご興味があれば、重曹で検索するとよい。
専門家よる信頼のおける用法などが分かるであろう。


「しい」と「しむ」

2007年07月26日 07時37分03秒 | Weblog

 NHK TV「知るを楽しむ 人生の歩き方」より
ノーベル賞受賞者 小柴昌俊先生の人生の歩みが、放送された。

「何の得になるか」ではなくて、「知りたいという興味」ですることが、基礎科学であるという。

「国立大学の行政法人化」(企業化)は、基礎的な学問を衰退させるという危機感から、先生は、2003年「平成基礎科学財団」を設立された。

ノーベル賞副賞3500万円とイスラエルのウルフ賞副賞500万円、加えて、著書の印税などで、合計4000万円+αを寄付し、残りは、寄付により設立された財団である。

 「国民一人1円の寄付」を、先生はお願いしている。

幾つかの県からは、人口数に応じた金額が寄付されていた。
(岡山県も、この寄付をしていた)

ユニークな寄付の一例として、
あるご夫婦から、H16年度分として、1円x2人=2円の寄付と、二人分x10万年分として20万円、合計200,002円の寄付の例を挙げられた。

 この財団の活動の一つに、「楽しむ科学教室」を主宰されている。

「楽しい科学教室」ではない、「楽しむ科学教室」である。

 「楽しい」と「楽しむ」とでは、大きく異なる。

この教室は、既に全国三十三箇所で、日本一流の科学者を招き、科学に興味のある高校生に対して開かれている。

ただし、この教室に出席できるには、次のような二つの条件がある。

 その1:高校生
その2:自己の意思による、やる気のある参加者
(先生が引率して参加する生徒たちは、参加をお断りするのだそうである)

特に二番目の条件が有効なのであろう、どの参加生徒のまなざしにも真剣な輝きを感じた。
(この講義の記録DVDは、希望する学校に限り無料で配布されている)

また、科学の教育に貢献した方々には「小柴昌俊科学教育賞」を設立し、表彰しているのである。

「草の根の理科教室の主婦グループ」や「ドクター・ナダレンジャー」(雪崩研究者が雪崩について、判りやすい教室を開いている)他2件が、表彰されていた。

先生のような人がいることは、昨今の殺伐とした風潮から開放してくれるような、清涼感があった。

お元気で、ご活躍をされることを、祈るものである。


モンキーバナナ

2007年07月25日 05時52分59秒 | Weblog

 You Tube に Error Report を送信したら、返事が来た。

”Hi there,   Thank you for taking the time to send us your error report. The monkeys appreciate them almost as much as bananas, and so do the engineers--it helps them find problems on our site. ”

この文を、yahooの翻訳ソフトで日本語にすると、

” 我々にあなたのエラー報告を送る時間をとってくれてありがとう。猿はバナナと同じくらいほとんど非常に彼らを評価して、そして、エンジニアに役立ちます-それは彼らが問題を我々のサイトで発見するのを援助します。”

無料の翻訳ソフトが、ここまで翻訳するとは、ほとほと感心の限りである。

しかし、小生には、一言引っかかるのである。
サルにバナナという例えは、本当に感謝を意味しているのであろうか?

詰まらんエラー報告をしてきて、サルにバナナ程度の有難味であると言っているようにも取れるのだが・・・。

こんな感謝の言葉を、ネイティブ達は、使っているのだろうか?

英語に長じている我が同窓生よ、貴兄は、次のいずれと解釈されるであろうか?

その1:正式な感謝の念を表している。
その2:あまりにつまらない回答だったので、おちょくっている。
その3:その他(???)ご意見を伺いたいのである。

とメールした。

その返事

Hi there はヤーほどの意味で、thereは特に意味はなく親しみを込めて言う時にアメリカ人がよく使う慣用句です。

本文は機械翻訳と同じですが「エラーレポートを送っていただきありがとう。猿がバナナを貰った時のように当社のエンジニアも喜んでいます。今後のサイトの改善に大いに役立つと思います。」 と言ったところでしょうか。

 take time to send us は英語特有の丁寧な表現です。

自社のエンジニアを猿に見立てて表現していますが、日本語に翻訳する時は、猿とバナナは省略した方がよいでしょう。

猿を引き合いに出すのは別に相手を軽んじているわけではなく、アメリカ人らしい表現で、イギリス人は使いません。

私が担当しているアメリカ系会社のホームページに次のような表現が使われてました。

 "ToughMet is the 900-lb Gorilla of Bearing Materials"
タフメッとというベアリング材料の強靭さをアピールした言い回しですが、「900ポンドのゴリラ」というのが強いことを示す比喩的表現になるそうです。

イギリス人もその意味を知らなかったのでアメリカ人はよほど猿が好きなのか?

従って、貴兄の質問に対する回答は「その1」です。 と返事が来た。

 友人の英語力に感嘆するとともに、小生の疑念も氷解した。

あとがき:
小生の英語は、この程度なのである。

よく出てくる例え話でもあり実話でもあるが。

「米国人の主人が、犬に話しかける、犬は直ちに言われたとおり行動する」

「けれど、日本人の客には何のことか判らない」

こんな場面に登場する、日本人の客程度の英語力にしか過ぎないのである。


未草(ひつじぐさ)

2007年07月24日 06時02分57秒 | Weblog

「睡蓮」は、ハスに似た花が夕方には閉じるさまを
「睡る(ねむる)蓮(はす)」に見立てたもの。

未(ひつじ)の刻(午後二時)ころからつぼみはじめるとも言われて
未草(ひつじぐさ)の名もある。 と歳時記に書いてある。

   「 睡蓮の 一花のために 水に寄る 」   桂 信子  

清楚な美しさに惹かれる人が多いのである。

   「 亡き人の みな座りたる 未草 」    伊澤 孝子

小生の思いは、この句のようなものである。

 深山公園の睡蓮も見ごろです。
近郊の方は、どうぞお出かけください。


メールの不安

2007年07月22日 06時13分17秒 | Weblog

俳句の会は、「若」先生の代になって、メールが時々来るようになった。
それまでの連絡手段は、電話とFaxと郵便であった。

我々のグループは、比較的パソコン普及度が高いようである。約半数近い人に、メール連絡が出来るのである。

先日も先生からメールが来た。これに関して、関係者に小生からもメールを送信した。

あるメールが届いた、発信者は、現代風のローマ字3文字、聴いたことも無い名前なのであった。

最近少なくなってきたが、相変わらずHメールが来る。
このときは大抵カタカナかローマ字かで送信者名が記載されている。

またまた、このHメールかと、習慣的に内容も見ないで「送信者禁止」設定をした。

虫が知らせるというのか、どうも妙に気になったので、「削除」を開け内容を閲覧した。

なんと句会の方からであった。 初めてこの方から返事メールが届いたのである。
(お嬢さんか誰かと兼用のパソコンででもあるのだろう、全く心当たりの無い名前となっていた)

 危ないところであった、大変失礼をするところであった。
急ぎ、ご返事とお詫びも兼ねて、梅雨晴れ間に撮影した睡蓮の写真と動画を添付してメールした。

これ以外に、メールを読まずに「削除」したり、「送信者禁止」にしていることがなければよいが、と心配になった。

追記;
小生は、メールの件名欄に、「 ***件名*** from 小生の氏名 」と書いて、送信している。

この理由は、相手に小生から送られたものであることを、認識してもらおうとの配慮である。

(送信者欄に送り主の名は表示されるので無駄かも知れないが、二重にしているのである)

先日、同窓生に5通のメールをした。彼はそのとき海外旅行中であった。

帰国後、1200通のメールにまぎれて、この5件はジャンクメールとして、全て削除されたのであった。

二重の配慮もあまり効果が無いのである。
困ったことである。


カンバン方式

2007年07月21日 06時39分33秒 | Weblog

 このたびの震災で、自動車メーカが、ことごとく休業に追い込まれた。

「カンバン方式 = 在庫圧縮 or 在庫ゼロ = 部品不足で休業」

 のパターンとなった。

自動車メーカが、一つの部品で休業すると、その他の部品を生産するメーカも、引き取り先の無い部品を抱えたくないので、連鎖的に休業する可能性がある。

 カンバン方式は、受注生産品製作の会社にいたので、簡単な勉強をしたのみだった。
詳しいことは良く判らないのである。

無駄を省くとは、このように教えられた記憶がある。

 鉄の棒を丸く削る作業とする。

1. 材料の鉄を探して持ってくる
2. それを機械に取り付ける
3. 刃物の位置を合わせる

4. 削る
5. 寸法を調べる
6. また削る
7. また寸法を調べる(満足な寸法になるまで、5-6-7を繰り返すそして、丁度よい寸法となると)

8. 機械からおろす
9. 次の場所に移動する

4と6とが実際に削っている時間である。

これは全時間の通常2・3割に相当する。

残りに、7・8割の時間は、「段取り」と呼ばれる補助作業なのである。

我々は、この残りの「段取り」と呼ばれる時間を如何に少なくするか、工夫するように躾けられたのであった。

おそらく、大量生産会社では、0.1秒・0.1円の単位で、改善を進めているのであろうと想像する。

 これが「改善」と呼ばれ、今は「カンバン方式」とともに世界共通語になっている。

今回の休業問題も、優れた人が、更なる改善をし、近い将来解決してくれるものと期待している。

 

追記:
小生は、家事では、極力非能率となるように、段取り時間などを不必要に長くしている。

例えば、一度で運べるものを、意図的に数回に分けて運ぶなどである。

その目的は、屋内での歩行距離を少しでも多くしようということである。

そんな歳になってしまったと、苦笑いをしながら・・・。

 


忘れたくない日本人の愛唱歌

2007年07月20日 06時33分44秒 | Weblog

 NHKラジオ番組より
司会は、須磨 佳津江さん、ゲストは、五木寛之氏。

 おそらく、発案は、五木氏であろうと想像した。

「忘れたくない」とは、主流ではないが、その当時流行った二番手の歌という意味であった。

放送された幾つかを列記すると、次のようであった。

左が一番手の歌(こちらは現在でも放送されることが多い)、
右が五木氏の選んだ「忘れたくない」方の歌である。
(こちらは殆んど聞くことが無くなったもの)

1. 青い山脈 → 山のかなたに
2. 別れのブルース → 君忘れじのブルース (淡谷のり子)
3. 異国の丘 → ハバロフスク小唄

4. りんご追分 → 津軽のふるさと (美空ひばり)
5. あこがれのハワイ航路 → あいたかったぜ (岡春夫)
6. 有楽町であいましょう → 西銀座駅前 (フランク永井)

7. 北帰行 → 惜別の歌 (小林旭)以下略

「五木寛之が語る“忘れたくない”日本人の愛唱歌」というのが、正式な番組名だった。

梁塵秘抄(りょうじんひしょう)は、平安時代末期に編まれた歌謡集。
今様歌謡の集成。
編者は後白河法皇。治承年間(1180年前後)の作。

後白河法皇は少年のときより、今様と呼ばれる歌謡を好んだ。
歌の上手を召して多くの歌謡を知ったが、死後それらが伝わらなくなることを惜しみ、書き留めて本にした。

また、歌謡の歴史などについて、別に口伝集十巻を残した。
書名の「梁塵」は、名人の歌で梁の塵も動いたという故事より、すぐれた歌のこと。

五木氏は、現代版「梁塵秘抄」を思いついたようである。

ナツメロといわれメジャーな名曲は、ときどきマスコミに取り上げられ放送されることがあるので、忘れ去られることが少ないが、二番目以降の隠れたナツメロの名曲は、時代とともに、忘れられつつある。

二番目以降の名曲もやはりそれなりにすばらしく、埋もれるにはもったいないものが多い、それですばらしい曲を沢山集めて、後世に残そうと意図しているように思えた。

 次の二曲のみは、YouTubeで見つけることが出来た。

 ご興味のある向きは、次に曲名をクリックしてください。

津軽のふるさと (美空ひばり)
北帰行 (小林旭)


空気

2007年07月19日 07時23分59秒 | Weblog

自動車は、ガソリン等の燃料で動くと思っている人が多いのであるが、本当のところは、空気の力で動いているのである。

燃料が燃焼すると、高温を発生する、この発生した高温は、空気を過熱し膨張させ動力を生じるのである。

このような原理であるので、空気の役目は、ひとつには燃料を燃やすための酸素の供給源であり、

それ以上に大切なのは、膨張して動力を発生する媒体なのである。

 燃料すなわち熱源(ガソリンのような液体燃料・LPGのような気体燃料・石炭・木材のような固形燃料あるいは原子力・太陽熱)は、高温を発生させるものであれば成立つものであるが、

媒体は、無尽蔵にどこででも簡単に手に入るものでないと動力として成立しにくいのである。

一般的に、媒体には空気と水とが多用されている理由である。

人の世では、お金の力でさまざまな活動がなされている、しかし、お金だけでは、何も生み出さないのである。

 即ち、お金が燃料であり、人や機械などが媒体のような役割分担をしているのである。

お金という燃料が、人や機械という媒体を動かし、いろいろなものを生み出しているのである。

最近、奉仕をする人達の話をよく聞くのであるが、この種の人達の燃料は、お金ではなくて、善意である。

 このような種類の燃料で動く人達が、意外に多いのに驚かされているのである。

 

(注)
仕事が、夏休みになりましたので、
8月いっぱいまで、木曜日にも掲載する予定。


例年にくらべ

2007年07月18日 07時39分25秒 | Weblog

例年にくらべ、毛虫が少ない・蚊が少ない・蟻が少ない総じて虫類を目にすることが少ない。

また、子トカゲの数も一段と少なかった。

さらに、花類も、例年ほど盛んな感じがしない。

何かが例年と違うような気がする。

椿だけは、例年通り咲いた、そして珍しいことに大きな実をつけた。

めったに実をつけないのだが、一つだけ初めて見るくらい大きな実である。

直径4cmほどもある。

 花は、あでやかに美しく咲くのだが、その目的は、実を結ぶために咲くのである。

本来は、人に見せるために咲くのではない、実を結びそれをこぼして子孫を増やすための手段としているはずである。

椿は、本来の役目を果たしているような気がした。


気になった一文

2007年07月17日 07時31分15秒 | Weblog

「TVを見ながらするような、いいかげんな精神ですることにあまり意味はない・・・」おおよそこんな趣旨だった。

あれー、ひょっとすると真向法のことではないだろうか、と思った。

どこで読んだのか記憶は曖昧である、著者は五木氏であったように記憶している。

それ以来、氏が何でこんなことを言うのかと、妙にひっかかっていた。

先日から、五木寛之氏著「他力」を読み始めたら、次のような文に出くわした。

“②「できないものはできない」と思う”よりの抜粋。

 「私は努力型の人間ではありません。

むしろ、その反対の、かなりいいかげんなタイプです。」「したほうが絶対にいいことが自分でわかっていても、それに取りかかることができない。

真向法も、ウオーキングも、三日と続きませんでした。・・・」・ 「だめのものはだめ、できないものはできない。

個人の努力も善意も、むくわれないときはむくわれない。

いや、むしろその方が多いのが人間の世界である。と、心の底でひそかに思っているのです。」

「正直者がばかをみるのは当たり前だ、と信じこんでいればこそ、・・・」"

 (ご両親は、どちらも几帳面な師範学校出の教師。

したがって、遺伝的には大変几帳面な性格ではなかろうかと思うのですが、
しかし、戦時中の悲惨な経験が、氏の性格・考え方を変えたようである。

 「何年も髪を洗わない」「医者にかからない」などと、奇行もいえる行動で有名なのであるが、このように独自の考え方を持っており、それが氏を著名な作家にしたようである。)

真向法のようにTVを見ながらでもよい“ちゃらんぽらんな”体操などは、効果があるはずがないと思われたのであろう。

それ故、氏の言葉で言う「他力の風」が吹かなかったため、「氏のやる気」が湧いてこなかったようである。

錆びついた身体を、ほぐすのに精神集中も精神統一も必要ないのである。

ただ、楽しく・無理なく・少しずつ、動かしていけばよいのである。

何の理屈も必要ないのである。

正しく継続して動かせばよいのである。

五木先生が、考え直してくれるといいのだが・・・。
彼の性格からすると、その望みは薄い。


八万時間

2007年07月16日 07時03分14秒 | Weblog

 ラジオで家事をしながら聞いたので、
「八万時間」という言葉以外は正確には聞き取れなかった。

仕方がないので、自分で創ることにした。

1年=24時間 x 365日=8760時間

睡眠・休養を1/3とし、家事など生活のための時間を1/3とする、
残りの自由になる時間は、2920時間となる。

八万時間を2920時間で割ると、27.4年になる。

60歳に27.4年を加算すると、87.4歳となる。

女性なら十分に生存可能である年齢である。

即ち、27.4年という、自由な歳月を、有意義に過ごせということと理解した。

既に、5年が経過している、
それ故残り22.4年となる。

それにしても、まだずいぶんある計算になる。

さてさて、何をどうすべきか・・・、
これが問題である。