孫とともにアンパンマン・トロッコ列車を体験しての帰り道、琴平から高松まで琴平電鉄に乗った。おそらく半世紀ぶりくらいの乗車であった。
白地に100周年を記念する文字がくっきりと鮮やかなシンプルポスターが車内に掲げてあった。
緑鮮やかな田園の中をゴトゴト走る電車には、扇風機と冷房が併用で丁度電車の窓を開放しているかのような涼しさが懐かしかった。
なんとも庶民的なのどかな電車の旅となった。
孫とともにアンパンマン・トロッコ列車を体験しての帰り道、琴平から高松まで琴平電鉄に乗った。おそらく半世紀ぶりくらいの乗車であった。
白地に100周年を記念する文字がくっきりと鮮やかなシンプルポスターが車内に掲げてあった。
緑鮮やかな田園の中をゴトゴト走る電車には、扇風機と冷房が併用で丁度電車の窓を開放しているかのような涼しさが懐かしかった。
なんとも庶民的なのどかな電車の旅となった。
あるサイトからの引用である。実に立派なことが書いてあった。これを実行にむけてリードできる人は、いったい誰なのだろうか?
“3月は全国民が、焦燥感やイライラ感などのフラストレーションに苛まれた月だった。そして、4月は神経質な感覚の時期から長期戦やむなしのムードに変わり、神経質な性急さは影をひそめ、諦めと達観とが共存する状態に至り、気持ちに安定感が出てきた。」
日本がある日突然巨大な試練に遭遇した。心ある人は、この試練は日本の再生・新生のために天が与えた試練だと感じたではないだろうか。
いよいよ復興に向けて各界での活動がスタートしてきた。未だ明確な方向性は見えてこないが、「ご破算で願いましては・・・」とあるごとく、大変な災厄をばねにして、「新生日本」・「出直しJapan」なる計画の立案がなされることを期待している。
平成爛熟という歴史のアクを一掃し、省エネ・省資源・環境改善・そして活力ある心豊かな社会の再構築に向けて進みたいものである。今は、世界の先鞭としてこれからの日本が歩む道が、注目されることになる。
各界のリーダや政治家たちに要望するのは、姑息な私利私欲ではなくて、大所高所に立った理想の社会建設に向けた崇高な精神のもとで社会をリードしてもらいたのである。我々は、明確な納得のいく将来像を示してもらえば、眼前の多少の我慢には耐えられる国民である。“
まさに名言である。(“まさに”とは大嫌いな居座り首相の口癖だが、しょうがないので使っておく)
それに引き替え、国会や東電は、実にだらしがない。こんなことで日本の再生・復興ができるのか、「日本を駄目にしないでくれ」とイライラが募る毎日である。
これからは、ブラジル・インドネシア・韓国・インド・中国・ロシアの新興六カ国が世界の経済成長の主要な原動力になるだろうと新聞に書いてあった。
さらに、2025年頃になると、ドルが単独の準備通貨でなくなり、ユーロ・人民元(中国の通貨)の三準備通貨体制になるだろうともあった。
これまでの歴史を眺めると、栄枯盛衰は常のことで、短ければ四分の一世紀位で滅亡する国家もあれば、ローマ帝国でも五世紀位でその栄光ある歴史に幕を閉じた。常に、歴史は動いているのである。
こんなことに触発されて、流通通貨よりもっと庶民に身近な、流通言語ということに素人なり考えてみた。
日本語による国内の情報伝達は、当然ながら完成の域である。翻って、日本と世界との間の情報交換は、英語中心となっているのも厳然たる事実である。
コンピュータによる自動翻訳が普及し始めており、時折恩恵に浴している身である。有料版の実力は知る由もないが、無料版翻訳ではまだまだ手放しで信頼できるレベルとは程遠いと言わねばならない。
統計によると、巨大な人口がひしめくのは中国とインドであるが、いずれも言語体系として世界を支配するようなものではないと思われる。(中国語は、漢字という極めて厄介な文字を使用しており、これが単純な英語と比べて競争力に乏しいだろうことは容易に考えつく。また、インドは、公用語の一つに英語を採用しているので、英語圏と見做せば良いと思っている。)
そういう事情をみると、世界の共通語は英語となり。多数の言語間の意思疎通は、それほど遠くない未来に、コンピュータによる自動翻訳(機械翻訳)が広く採用されそうな気がしている、そうなればずいぶんと地球が狭くなりそうである。(ただし、翻訳精度がある程度向上することが、条件だが・・・。)
「安全」「ムダ省き」「ほどほど」といったキーワードに加えて、「抑えめ消費」に毎日の生活を縛られている方は多いのではないだろうか
不要不急の購入を手控えて、レジャーは近場で楽しむ。安全・安心志向は一段と鮮明に――。東日本大震災をきっかけに、日々の消費行動を見直す人が増えた、と報じられている。
「大震災は、日本人のおごった心を正常にするよいきっかけだ。」と識者の多くが心に抱いているが、被災者のことを慮って明言を避けているのであろう、と小生は考えている。
今回の大震災は、被災者には誠にお気の毒なことであるが、日本人全体にとっては、浪費は美徳に代表されるような恐れ多い考え方を刷新せよと天の神が諭していると思えてならないのである。
一人ひとりが、本質に立ち返って考え直す絶好の機会である。
追記;
NHKの朝ドラ「おひさま」に出てくる、背筋のピンと伸びた人達が、素晴らしく思えるのである。
好むと好まざるとにかかわらず、自動翻訳あるいは機械翻訳という機能にお世話になっている。
小生の個人的な感触にすぎないが、フランス語->英語の自動翻訳の精度はかなり高そう(意味の通じる文章となっている)で、反面フランス語->日本語では意味不明の文章となることが殆どで実用性がないと思えるのである。
それでWikiを覗いてみた、それによれば、
「言語はそれぞれ孤立して存在するものではなく、多かれ少なかれ互いに影響しあって存在する。特に共通の歴史が長い場合、文法や語彙に共通性、あるいは共通の起源を多く持つことがある。そのような場合、極端に言えば単語を置き換えるだけでもある程度のレベルの翻訳が可能であるから、機械翻訳もより容易い。」という記述がある。
さらには、
「日本語からの翻訳の場合、実用のレベルにあるのは日韓自動翻訳である。日本語と韓国語は膠着語であるという文法的共通性や、漢語からの借用語もあり、自動翻訳の精度は文体にもよるが普通80%~90%である。」とあった。
先日、Google翻訳を用いて、日本語->韓国語に翻訳したものを韓国人の先生に添削して貰ったところ、韓国語の助詞の部分に誤りが数箇所あったが、結構意味が通じる翻訳にはなっていたようだった。(この時は、日本を作文するときにできるだけ翻訳しやすいような文章とする注意を払ったが・・・。)
更に、WIKIによると、
「日本語の場合助詞や同音異義語が多数存在するために形態素解析の段階で翻訳に困難をきたす。ゆえに一般に英日翻訳に比べて日英翻訳の能力は低い段階にある 。
英語の語学力のない人が英訳を行い出来上がった英文の評価が出来ない場合、英訳した文を日本語に再変換してみて日本語で意味が通るかどうか確認してみると良い。」とあった。
外国語をチェックする能力がない小生のような場合には、日-英、そして英-日と逆変換をして、翻訳内容のテェックをするのも一つの方法のようであるが、うまく翻訳できていない場合、どうするかの問題が残ってしまうのである。
今年はどうした訳か、蝉の声を聞く機会が少ない。いまだ、たくましい蝉の声、騒がしい蝉の声には程遠いのである。
それでもいよいよ蝉の時到来なのだろう、ご近所のお庭で蝉が脱皮を始めた。珍しい光景なので写真を撮影した。
蝉の句の定番は、何と言っても;
閑 かさや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉
今年は、こんな光景をまだ見ていない。
おびただしき蝉の穴ある地の乾き 斎藤道子
それでも、またこんなになるのだろう;
心頭を滅却しても蝉時雨 野中亮介
日々物忘れに困っている。また、バスを使う頻度が高くなり発車時刻を覚えられず大判の時刻表を持ち歩いているが、実に面倒である。加えて韓国語の単語が覚えられない悩みも大きい。
そこで、あれこれ記憶術なるものを調べ始めたが、大半は売らんカナの宣伝広告サイトが大半でこれといった情報に行き当たることは難しかった。
信用ができそうで、費用もかからずなんとか実行できそうなものを2つ見つけた。
1.ためしてガッテン「記憶脳を刺激する!最新科学ワザ」 2009年10月28日放送。ACCの活性化と情報のイメージ化である。これは以前に実行しようとして、結局放置したというか、いつの間にか忘れてしまった方法である。再度、練習を始めようと思った。
http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20091028.html
2.単語の覚え方
YouTubeの中の数ある記憶術から、堅実というか常識的というかもっともだと思える「単語の覚えかた」を見つけた。面倒であるが地道な方法である、辛抱して訓練しようと考えている。
果たして、これらの成果やいかにである。
補足;ためしてガッテンにこんな物もあった。記憶術と同じ原理である。
脳元気!ラクラク速読術 2010年04月07日放送
http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20100407.html
もともと記憶力は良くない方だったが、アラ古希ともなると、自慢にはならないが「今聴いたことは右から左へ、一気に素通りする」ようになった。
それが主因で韓国語の単語が一向に覚えられない。まさに四苦八苦の状態である。
読売新聞7月22日付けの17面(教育コラム・学ぼう)に、
「記憶法 ⑮ リアルな連想を磨く」という記事が載った。「宮口式記憶術」である。 こんな記事が連載されていたのである。
遡って調べると、 “2011/6/17から、読売新聞 朝刊(全国版)の17面(教育コラム・学ぼう)に、宮口先生のインタービュー記事が掲載されています。本日は、記憶術を確立したきっかけ、記憶術の思いです。来週も掲載されます。ぜひ、ご一読を!”とあった。 おしいことに、この連載記事を読み落としたのであった。
22日の新聞から引用すると;
1. 人間は忘れる生き物ではなく、単に思い出せなくなる生き物。
2. 思い出すきっかけは、すなわちイメージ化である。
3. 言葉を見た瞬間に、連想するイメージを思い描く。15秒以内にイメージ化が出来るようになる訓練をすると良い。
なんとしても、沢山の単語を覚えたいのである。記号のようなハングル文字をどうイメージ化すれば良いのか?これが無理なら、発音だけでもイメージ化出来ないか?等考え始めたのである。 何かの答えに行き着けば良いのであるが・・・。
こんなビデオもあったので、こちらも研究してみた。
宇野・高松間のフェリーも、様々な影響を受けフェリー会社は半減し、その上便数も半減した。しかも、残っている各社の今後の存続にも厳しいものがある。
自民党政権時代に景気刺激や地域活性化を狙って始まった高速道路の1千円乗り放題に端を発し、さらに人気取り手段で民主党に引き継がれ無料化などと騒がれた。
しかし、現実には「マニフェストの高速無料化はすでに“有名無実化” 高速料金迷走、観光地に深刻ダメージ 鉄道やフェリー業界からは恨み節」と報じられる始末である。政策立案能力の欠如を証明した。
大金を投入し四国への大橋を3本も作った政権が悪いのか、あるいは高速道路料金を引き下げた政党が悪いのか、これからは自分自身でしっかりと評価し、次期選挙にはとんでもない政策でダマされないように厳しい姿勢で望む必要があると思っている。
「総スカンの大合唱でやめろと言って、ただの独りをやめさせられないというおかしな制度も不思議なのだが、政策を失敗しても責任を取らなくて良いという制度がまかり通っているのも不思議である。」
これを改め、国民に損害や不利益を与えた政党や政治家はそれなりの責任や懲罰を受ける信賞必罰制度を作れないものだろうか?
国民に多大の迷惑をかけたにも関わらず、知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいる政治家が大手を振っている。これを改める勇気と実行力のある政治家が出てこないものだろうか。
造船会社に長年勤めていた関係で船と馴染みがある。しかし、船酔いには決して強い方ではない。若い頃時々試運転に乗船しては、何度か船酔いに苦しんだ。
他方、個人的には船好きでもある。次のような珍しい企画を知った。
“ 国際フェリーで海外旅行 「下関 <―> 韓国光陽市」 光陽フェリー就航記念特別企画!” という観光案内に目が釘付けになった。
夏休み限定2本、残りは8月26日出発分のみという、急ぎ予約したのが6月中だった。
韓国語講座に参加して1ヶ月目である。8月の出発までには約2ヶ月の勉強期間があった。
最低限の到達目標は、ハングル表記の地名や行き先、看板などがどうにか読めるようになることである。将来の一人旅に備えて、ハングル語の地図が読め、地名表示が分かり、切符や乗り物の行先表示などがどうにか分かるようになること、である。
今回はその予行演習として、1987年にソウルで購入した畳一枚ほどもある観光地図(日本語・英語併記版 1983年7月発行、3000ウオン)を頼りにして、日本語表記により地図上に観光経路をひいた。
そして訪問予定地それぞれの座標を確認しておき、続いてGoogle MAP上のハングル地名からそれらを探し出して詳細な所在地を確認するという作業を行った。
これは、小生がハングル地図をどの程度読める能力があるかという、テストであった。
(現地1日目)光陽(광양カンヤン)―>南原(남원ナムウオン)―>淳昌(순창スンチャン)―>潭陽(담양タンミャン)―>光州(광주クワンジュ)泊―>
(現地2日目)光州(광주クワンジュ)―>和順(화순ファスン)―>宝城(보성プソン)―>順天(순천スンチョン)―>光陽(광양カンヤン)
わずかこれだけの作業に2時間もかかった。現時点では、小学1年生がたどたどしく平仮名を読んでいるのと大差ないのである。
これでは旅が円滑には進まない。さらなる勉強が必要であると認識した。七十の手習いの道遙かである。
先日、芝居会場からの帰り道近くにあった旭川の中洲をしげしげと見た。位置関係は、地図の上側(北側)から見た。地図によると平行に二つの中洲が有ることが分かる。写真は、右上に斜めに掛かっている橋から撮影した。
両岸を結ぶ橋よりも低い位置に中洲同士を結ぶ橋が掛かっている事から中洲の高さは両岸の堤防の高さより低いことは明らかである。洪水のおそれは、堤防の外より遥かに高いと思われる。
様々な事情があったのだろうが、中洲に住宅が建設され人達が住んでいる様子が見えた。既に、何十年もの間無事に過ごされているのだろう。
他人がとやかく言うことでもないのだろうが、気になった。
この度の台風も無事だったようで何よりである。
新しいカメラの試し撮りを兼ねて英国庭園に出かけた。真夏日のためだろう、客が少なかったので、絶好の撮影タイミングであった。
花が少ない時期でカラフルな撮影は無理だが、きれいな緑の撮影ができた。
やはりファインダーが無いカメラは、老眼の高齢者には難物であり、また明るい屋外で見えにくいモニターで確認しタッチパネル操作をすることにも、かなりの困難さを実感した。娘のファインダーが付いている少し古いカメラと交換してもらうことが必須だと改めて思った。
この新型カメラの「手ブレ防止」の性能には驚いた、そして画質にも満足している。AVCHDのDATAは予想通りで、重いなと感じたが、先日RAMを8GBまでUPしたので快調な編集作業が出来た。
ここの年間パスポート代金は1000円である。しかし、65歳以上は入園料100円なので、年間10回入園でとんとんである。
県内にはバラ園や植物園が何箇所かある。これらを順繰りに回っていると、この英国庭園に年間10回以上訪れることは無理だと思えた。
様子見を決め込んで、年間パスポートの購入を見合わせることにした。
久しぶりに、岡山市民劇場425回例会「静かな落日広津家三代」(劇団民藝)と題する樫山文枝さんが出演する芝居を見た。樫山さん人気の高さを証明するように、超満員だった。
平日だったので当然観客は高齢者の女性が中心である。いつも思うのだが、女性は、必ず誰かを誘い連れ立っての参加するのが通例である。この種の習性は、お互いに高めあったり啓発し合ったりと実に素晴らしい習性であると思っている。
反面男性の場合には、独立独歩が習性のようで、相互啓発や相互協力ということが結構難しいようで、高年齢となると孤独となる宿命にあるようだ。
話し変わって、文化的な楽しみであるが、地方都市に住んでいるので、なかなかこれといったチャンス恵まれることが少ない。特に高名な芝居グループが登場することは稀である。次は何時の日に再び芝居見物が出来るか定かではない。
途中利用した市電の吊り広告に県立美術館で有名な日本画の展覧会が開かれるとあった。早速、「ことぶきパス」の出番である。近いうちに時間を作って見物に出かける予定である。
携帯電話の家族間無料と同じように、物珍しい間ではタダだと思ってせっせと通話するが、慣れてしまうと結局必要なとき以外には電話することもなくなるように、ことぶきパスも珍しさが先立つ時期はせっせと出かけるが、慣れると結局必要最小限になりそうな予感がある。
このビデオでどんな列車かようやく分かった。
電力問題や、食品の放射能汚染問題など、関東ではゆっくり夏休みもできそうにないだろう。それで今年の夏休みの計画は、孫の原発疎開最優先としたのである。
爺いさんは、子供が好きそうなことを探してみた。
その第一番目に取り上げたのが、「瀬戸大橋線アンパンマン・トロッコ列車」である。岡山駅から琴平まで約2時間の列車の旅である。
実のところ中身はよく判っているわけではない。単に名前に釣られて切符を予約したのである。琴平からの帰りはJRとするか、風情のある琴電とするか、孫に選択させ高松からフェリーで帰れば、列車と船とバス等あれこれ乗り物が楽しめそうである。
切符を購入するために久しぶりに宇野駅に行くと、立派な観光案内所が新設されていた。これは特に直島観光を目玉としているようだった。今後の発展を祈るのである。
いよいよ本論である、びっくりしたのが駅の窓口が、連続して開いてはいないことなのである。ある時間開いて、次のある時間閉じ、また開くということを1日中繰り返しているのである。
予め窓口が開いてる時間帯を調べた上で出かけないと数十分とか運が悪ければ1時間位待たされるのである。
JRにはJRの事情があるのだろうが、客にとっては実に厄介な事になったと思った。(当然小生も数十分の待ち時間を他所で過ごすはめになった。)
「俳句は、一度で詠み切り完成しています。一切推敲はしません。」とは、俳句の先生の作風である。仮に一発完成型と呼んでおこう。これには、「一度限りで二度目は無い」とばかり、精神を集中することが必須の技である。
先代の俳句の先生は、推敲する句を自宅の柱に短冊にして掲げ、朝な夕な暫くの間推敲を重ねるという作風だった。これを推敲型と呼んでおこう。
一発完成型と推敲型との二つの流儀が世の中にあるのだ。しかし、一発完成型は少数派で、主流は推敲型だと今でも思っている。
話し変わって、水墨画教室では、下書き、試し描き、本描きとしている。そして、これまでは本描きを数枚描くのが通例である。しかし、殆どの場合、最終的に完成品として残るのが、最初の1枚目の本描きである。
この現象は、先生はもとより、古参のお弟子さん達も押しなべて同じ見解である。
皆さんが「二枚目以降は欲が出て、綺麗に描こう、あそこをこうしようなど、色々な思いが錯綜し、かえって筆の走りを悪くしてしまい、絵に生命力というか力のない作品になってしまう。」と言っている。
最近ようやく小生もこのようなことが理解出来始めたので、今年の春から本描きを1枚に限定することにした。そして、これは成功だったと思ったので、今後も続けることにした。
話を戻す、俳句も同様に7月の句会分から、推敲しないで出句することを始めた。あとから手直しが出来ないという気持ちで詠む事は、それなりの緊張感のある詠み方が出来たし、その上不思議なことに達成感と爽快感があり、やり残しがあるのではという残余感から解放された。とにかく、すっきりした感覚が良かったので、ひき続いて継続することにした。
あとからの手直しを前提に句を詠むということは、中途半端な出来で良いという甘えた気持ちが先行し、「詠み切った」という達成感や爽快感が得られないことに気がついた。
小生の生き方全般について、改めなければならないことだと思った。「一度限りで二度目無し」と、短期間に集中して物事を完了させる生き方は、後戻りできない身であるアラ古希いは、残り少ない人生を有効に生きる方策ではないだろうか思っているのである。今後ともうまくいけばよいのにと思っている。
また、小生のようにあれこれ沢山の事に手を出していると、必然的に時間不足をきたしている。
この時間不足を少しでも解消できる有力な手段が、この短期一点集中型処理方法である。遅きに失したり、古希にしてようやく気が付いたのである。